指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「無智が栄えたためしはない」

2015年10月30日 | 演劇

「無智が栄えたためしはない」とは、誰の言葉だったっけ。

このところ、下のような低劣なコメントが来る。どうやら、国勢調査のことを書いたことを言っているらしいが、その記事のどこにも具体的な地名、人名、家族等は書かれていないのに、どうして守秘義務違反になるのだろうか。この場合、守秘義務違反になるのは、対象の人間を特定できる情報を漏らした時であるが、第一に私も、その人間の名前、住所はもう憶えていないのだから、情報を漏えいしたくてもできないのだ。信じがたいことだが、世の中には変な人がいるものだと改めて思った次第である。

 

  Unknown (ドロボー指田)2015-10-29 20:36:04指田がぐたぐた抜かしても、公務員守秘義務違反なのは変わらない。

  地方公務員法 第34条 第1項 「職員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も、また、同様とする。」と定められてい 

  る。違反者は最高1年の懲役又は最高3万円の罰金に処せられる。

 

 

ご参考までに国勢調査での体験の記事も付けておく。

国勢調査票を出す

2015年10月16日 | 政治

地域の方から国勢調査の調査票をいただいたので、先日国あてに出しておく。

国勢調査については、区役所にいた時に、調査表の回収を何度もしたことがある。

要は、出さない家庭を訪問して、提出をお願いするのだが、いろいろなことがある。

明らかに在宅なのに、居留守を使う人も結構多い。

                                        

 

 

一番すごかったのは、ある区の公団住宅の部屋に行った時で、扉には「なんとか会」の表札が掛かっている。

公団住宅で普通は出来ないと思うが、中で大型犬が大声で吠えている。

出てきたのは中年の男で、中では若い女性の姿も見えた。

「ともかく出してください」とお願いして一緒に行った女性係長と共に

「これは普通じゃないな」とすぐに去った。


図書館の貸出は、出版不況の原因ではない

2015年10月29日 | 

全国図書館大会で、出版社の代表から、「図書館の貸出が出版不況の原因であり、新刊本の貸出猶予制を求める」との声があったそうだ。

                                      

 

いまだにこんな泣き言を言っているのかと思ってしまうが、以下の四つの点で間違っている。

1 そもそも、日本人が、本や雑誌を買って読むようになったのは、そう古いことではなく、大体196年代からのことで、それまでは皆貸本屋から借りるか、友人同士で廻し読みしていた。

2 出版物の売れ行き不振の大きな原因は、以前は本、雑誌、週刊誌等をタダで置いてあった食堂、喫茶店、飲食店などの減少が大きな要素である。

  今どきの喫茶店、ファミ・レス、飲食店には本や雑誌、新聞はまず置いていない。それが、若者をスマ・フォでの情報収集にさらに掻き立てている。

3 新刊本の一定期間の貸出猶予は、映画や音楽の新公開時の、ビデオ、DVD、CD等の貸出猶予制からきていると思う。

 だが、映像や音楽のように、発売されたら短期間で収益を確保するものと、本、雑誌は本質的に異なるはずである。それとも、本も、映像のようにより「消費財」的性格のメディアにしようというのだろうか。

4 さらに、欧州の一部で行われている公的補助「公貸権」についても、欧州と日本では全く文化的事情が異なることを無視している。欧州では、一般的に文化、芸術は共通の基盤がある。だから、ドイツの人間がフランスの交響楽団の演奏を聴くこともでき、イギリスの演劇をイタリアの観客が見ることも可能だ。だから、欧州各国は、自国文化や芸術の保護のために様々な施策、公的補助も行っている。

だが、極東にあることと日本語という障壁に守られて、日本の文化が他の国、例えば韓国や中国に席捲されるようなことがあるだろうか。

絶対にあり得ず、「公貸権」は無用の論議であるというほかはない。


「映画『あにいもうと』の昭和史」をします

2015年10月29日 | 映画

11月18日、水曜日の午後2時から、野毛の横浜市中央図書館(5階会議室)で、「映画『あにいもうと』の昭和史」をします。

昭和10年に発表された室生犀星の小説『あにいもうと』は、昭和11年木村荘十二監督、戦後の昭和28年に成瀬己喜男監督、そして昭和51年に今井正監督で作られ、いずれも時代をよく反映した名作になっています。

それぞれの作品の一部を上映しながら、映画の裏に隠された時代と社会を考えます。特に、肉体労働の変遷と、男女関係の変化についても考えてみます。

平日の昼間ですが、ご都合のつく方は、ぜひおいで下さい。入場無料です。

申し込み等はありませんので、直接当日会場においで下さい。

開場は1時30分で、入館は1階の図書館通用口からエレベーターで5階にお上がりください。

 

                                    

 

                       


『オィデイプス』

2015年10月28日 | 演劇

いつも書いていることだが、私は海外から来た芝居は、基本的に見ることにしている。日本の演劇はきわめて閉鎖的だが、外国のものを見ることで、相対化できるからである。

今回の公演は、ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場である。スタンカというと、昔南海、今のソフトバンクにいた巨人のような投手を思い出す。

この人は、傑作な投手で、1961年の日本シリーズで南海が巨人と対戦した時、9回に杉浦のリリーフで出て、2死から南海の選手が2度エラーし、さらに打者が宮本の時、2ストライクからど真ん中のボールを「ボール」と主審に判定されて激怒したことがあった。

そして、南海は巨人に負けたのだが、当時の審判の判定は、きわめて巨人に有利なものが多く、「長嶋ボール、王ボール」と言われたものである。

 

                                                 

 

そのスタンカ投手とスタンカ劇場がどういう関係かは知らないが、芝居は大変に良いものだった。

話は、よく知られたギリシャ悲劇『オィデイプス』で、日本ではギリシャ悲劇というと、大抵は荘重に演じるが、ここでは大変激情的に演じられていた。

この辺の民族的気質は、1980年代末の東欧の民主革命の中で、ビロード革命と言われて平和的に移行したチェコなどとは正反対に、独裁者チャウシェスクを殺害したという、民族的気質からきているものだろうか。

筋は、国中に疫病が蔓延し、その原因を探る中で、王オィデイプスの悲劇的な出自が明らかにされるものである。

王に、後暗い過去があるというと、見ていてついチャウシェスクのことを思い出してしまう。

彼は信じがたい独裁者で、ルーマニアを大国にするために「産めよ、増やせよ」政策を推進し、出産を奨励した。

それだけなら良いが、貧弱な医療体制で行ったので、注射針の使い廻しなどは、常識で、そのためにエイズも蔓延させてしまったのだそうだ。

横浜市は、なぜかルーマニアの港湾都市コンスタンツアと姉妹都市で、1990年に代表団が来浜したことがあった。

県がやった「国際音楽祭」に参加するために来たのだが、通訳の方に聞くと、彼らは毎日寝ないでテレビを見ているとのことだった。

当時、ルーマニアでは停電が普通で、夜は町も電気がろくに点いていないのに、日本、「横浜の電気の明るさはなんだ」と驚いているのとのことだった。

さて、劇に戻ると、ギリシャ悲劇のコーラスはなく、普通の市民が主人公たちを囲むというものだった。

全体に役者のレベルは非常に高く、日本の俳優で叶うのはそういないのではと思うほどだった。

サッカーや野球の例をあげるまでもなく、外国人を何らかの方法で、日本の演劇界にも入れていくことが必要だと思われた。

東京芸術劇場

 


高橋由伸は

2015年10月27日 | 野球

巨人の監督が高橋由伸外野手に決まった。いつも偉そうな原辰徳には、誰もついてこなくなっていたので当然だが、本当は2,3年後で、その間は川相の「中継ぎ」監督の次の予定だったと思う。

それがすぐに高橋になったのは、阪神が金本、横浜もラミレスと人気のあるスター選手が監督になったことの結果だろう。

やはり巨人は、人気を保持しなくてはいけないわけで、選手からすぐに監督というのは、長嶋の例にあるように危険もあり、その分、高橋は大変だが仕方ないのだろう。

個人的には、嫌いな選手の多い巨人の選手の中では、高橋は好きな方で、理由は嫌味がないからである。

昔ある区役所にいたとき、慶応大学で同級生だったという女性がいた。

彼女曰く

「なんかぼーつとした男だった」とのことだが、せこいところはなく、伸び伸びとしているのは育ちの性だろう。

                            

 

バッターとしては天才的で、ホームランの時の、ダウンスイングで球に当てるタイミングとその角度は本当に素晴らしい。

ただ、打者としては、監督が首都大学リーグ出身の原辰徳だったのが不幸で、東京六大学リーグ出身の選手が嫌いな原のために、巨人の4番を務めたのは非常に少なかった。

それは、仁志も同じで、首都大学リーグ出身の原は、やはり早稲田出身の仁志が大嫌いで、最後は横浜に出してしまい、そのために二塁手に困ることになる。

天才は、他人には、自分の才能をうまく伝えられないことが多く、かつて阪神の天才打者の藤田平も監督になったが、成績は全く振るわず、1年で首になってしまった。

その意味では、落合が中日の監督で成功したのは、きわめて珍しいことなのである。

藤田平のように自己の才能をうまく生かせることなく、チームを去ることがないことを祈りたい。


神奈川新聞に書評が出た

2015年10月26日 | 映画

『小津安二郎の悔恨』の書評が、『レコードコレクターズ』の安田謙一さんに続き、神奈川新聞の日曜日の書評欄に出た。

                    

 

(服)となっているので、服部宏さんだろう。そして、『東京物語』の原節子の異性の存在と『風の中の雌鶏』の解釈が驚きと書かれていた。

原節子が演じた平山紀子については、すでに書いたので、『風の中の雌鶏』について書く。

これは1946年に中国から帰国した小津安二郎が1947年に作った戦後2本目の作品である。

筋は、夫佐野周二が戦争に出征してまだ戻って来ない時、子供の病気のため、売春(実際は相手の不能でやっていないのだが)を妻の田中絹代がしてしまう。

それをつい夫に言ってしまうと、佐野は妻を許すことができない。

最後、夫への許しを懇願した妻を、夫は振り払うようにしたため、田中の妻は、二階の階段から転げ落ちてしまう。

このシーンは、アクロバットの女性を使って撮影されたそうだが、その時佐野は、すぐに田中を助けには行かず、じっと考え込んでいる。

これを今上映して、若い女性に聞くと、「すぐに助けに階段を下りて行かないのは、ひどい男だ」と言われるそうだ。

たしかにその通りだが、この作品で小津が描きたかったのは、「妻の不貞を夫が許せるか」ではないのだ。

それは、「この妻に行ったような残虐行為を、俺たちは戦場で行ってきたのではないのか」という小津の戦争体験への強い反省なのである。

 

 


霊能者は、特定できるのだろうか

2015年10月22日 | 横浜

先日、国勢調査での経験について次のように書いた。

するとある人から、「公務員の守秘義務違反だ」とのコメントが来た。

一体私の記事のどこに、特定の人間、団体、地域などの個人の秘密を特定できる情報が書かれているのだろうか。

公務員の守秘義務違反にもいろいろなカースがあるが、この場合は、特定の個人、団体、地域などが分かるように書いた時である。

それとも、世にいる超能力の霊能者は、この程度の情報でも正確に個人を特定で生きるのだろうか、とうてい信じられないことである。

   

 一番すごかったのは、ある区の公団住宅の部屋に行った時で、扉には「なんとか会」の表札が掛かっている。

 公団住宅で普通は出来ないと思うが、中で大型犬が大声で吠えている。

 出てきたのは中年の男で、中では若い女性の姿も見えた。

 「ともかく出してください」とお願いして一緒に行った女性係長と共に

 「これは普通じゃないな」とすぐに去った。

 

ともかく信じがたいことである。

いずれにしても守秘義務違反をまったく分かっていないことがよくわかった。


日活ロマンポルノの源流は今村昌平であることを再確認した

2015年10月22日 | 演劇

一昨日、新文芸座では『銭ゲバ』と同時に西村昭五郎監督のデビュー作『競輪上人行状記』も見た。多分、3回目で、前に見たときに次のように書いた。

東中野のポレポレで「小沢昭一特集」をやっているので、見に行く。
これも昔見ていてかなり面白かった記憶があるが、上映されることが少ない。
何しろブラック・ユーモアと言うか、その中身が凄いのだから。
死んだ犬を焼き鳥屋に下ろして稼いでいるので「犬寺」と言われている小沢昭一の実家、実の父娘との近親相姦、知的障害者の少年など。
第一に、舞台となる東京都江東区大島地区は、在日朝鮮人等が多くいたエリアであり、東京でも最も貧困な地域の一つである。
絶対にテレビでは、放映できない映画であり、そのために映画館でも余り上映されないのだろう。
だが、話はとても面白い。
寺の「葬式坊主」生活を嫌って中学の教員をしていた小沢昭一は、長兄、さらに父親の死によって寺を継ぐことになる。
偶然松戸でやった競輪で大穴を当てたことから競輪にのめり込み、寺の本堂改築の寄付金まで遣ってしまう。
最後、寺の土地もヤクザに取られそうになるが、これが最後と突っ込んだ川崎競輪場での30万円で大穴が当たり、すべての借りを返す。同じレースですべてをすってしまい服毒自殺する女が渡辺美佐子。
だが、小沢は結局、住職にはならず、教え子の伊藤アイ子と共に、東京から逃げるように東北に去って行く。
5年後、小沢の義兄で、宗派の幹部に出世していく高橋昌也は、田舎で僧呂姿の小沢と偶然再会する。
どこか、田舎の寺の住職にでもなったのか、と思わせるが、本当は・・・。
これは書かない。
大爆笑の結末。
伊藤アイ子は、少女歌手で『忘れないわ』のヒットがあり、上手い歌手だったが、大スターにはなれなかった。
その後、ロマンポルノ時代になり、多数の作品を量産した西村昭五郎(確か最多本数のはず)の監督デビュー作だが、ブラックユーモアが堀久作社長の逆鱗に触れ、2年間干されることになる。
原作者で、後にキック・ボクシングの解説で有名になる寺内大吉が最後のシーンに特別出演している。
脚本は今村昌平と大西信行。

 

                    

 脚本に今村昌平が参加していることに現わされるように、この西村昭五郎は、今村昌平の影響を強く受けていると思う。

1971年に日活がロマンポルノを始めた時、1作目は西村昭五郎監督の作品『団地妻・昼下がりの情事』だった。

私は、西村昭五郎の他、曽根中生、小沼勝と言い、今村昌平と鈴木清順の存在が日活ロマンポルノを生んだと考えている。

ほぼ同時期に東映もニューポルノを始めたが、結局続かなかった。それは東映に今村昌平や鈴木清順のような、性的アナーキズムを内に秘めた先達監督がいなかったからだと思う。


『銭ゲバ』  「金で買えないものはない!」

2015年10月21日 | 映画

新文芸座の加藤武追悼特集、初めて見る映画で、日活を辞めたスタッフらで作られた近代放映という会社で製作され東宝で公開されたもの。

それは、テレビ映画も作ったがすぐに潰れて、映画作品はこれだけのようだ。

                                                     

 

原作は、ジョージ・秋山の漫画で大ヒットしていて、映画も始りは快調で、唐十郎が演じる主人公蒲郡風太郎が金に取り付かれて悪行を重ねていくのは面白い。

車のあたり屋行為から大邸宅に入り込む会社社長は曾我廼家明蝶で、娘は緑魔子と横山リエ、さらに横山によく似ていて殺し屋の左とん平の恋人が誰かと思うと鈴木いずみと、当時のアングラスターが出ている。社長の運転手も岸田森で、彼も当時はアングラ劇の人間だった。

だが、風太郎が、社長を殺して自分が社長になるあたりからテンポが落ちてくる。加藤はそのころに出てくる風太郎の本当に父で、田舎の土方だが、彼も殺されてしまう。

風太郎を追うのが、退職刑事の信欣三で、この辺は多分、日活とのつながりだろうが、彼は適役である。

最後、海辺で風太郎の気が変になっていくことを示唆して終わる。要は監督の和田嘉訓の限界だろう。

和田は、多くの先輩を押しのけて20代で映画『自動車泥棒』で監督デビューしたが、、まったく駄目だった。その後、ドリフターズ映画専門になり、それも上手くいかなくなると東宝をやめソニーに行って、もう亡くなれたとのこと。

この映画に一つ意味があるとすれば、風太郎が言う台詞の「金で買えないものはない!」である。

以前、村上なんとかやホリエモンがさんざ言った台詞の原点がここにあった。

 


『私が最も尊敬する外交官』 佐藤優・吉野文六(講談社)

2015年10月20日 | 政治

ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六とサブタイトルされているが、私は吉野氏に一度だけお会いしたことがある。

2代前の横浜市長高秀秀信氏の時で、「横浜でサミットができるか」調査するために、サミットの担当もされたことのある吉野文六氏のご意見を伺いに行ったのである。

当時は、元西ドイツ大使のご経歴を生かして、トヨタの欧州戦略を担当する調査研究部門の長をされていて、九段のトヨタ本社の最上階におられた。

ご意見は「勿論可能」とのことだった。

ともかく一度お会いしただけで、ご立派な方だと感じられたが、この本を読んでもそれは一層深まった。

                         

 

信州に生まれ、東大法学部を出て外務省に入られるが、その前に1938年の「日米学生会議」に参加されていたことが注目される。

宮澤喜一元総理が参加したことで有名な日米学生会議だが、そこで吉野氏は、米国の経済力の大きさを認識される。

ドイツに派遣されたのは、すでにナチス・ドイツ時代で、駐独大使は大島浩である。

彼の戦争終結時の専横ぶりもひどいが、1941年に松岡洋介外務大臣がドイツで三国同盟を締結した後に、ソ連に行き、日ソ中立条約を締結する時、大島が反対だったというのが大変に興味深い。

これは、ナチスの首脳に食い込んでいた大島は、いずれドイツがソ連を攻撃することを知っていたからであろうと吉野氏と佐藤優は想像している。

また、かのゾルゲ事件のリヒアルト・ゾルゲは、二重スパイだったろうとしているのも、さすがである。

一般に言って優秀なスパイは、常に二重スパイなのであるが、ゾルゲもそうだったのである。

戦後の外務省のキャリア官僚たちの様々な人間模様も非常に面白い。

そして、外務省条約局長時代の沖縄返還交渉と密約。

裁判の席で、密約をきちんと認められたのは、日本の政治、外交史に残る大変立派な行為だったと思う。

国家公務員として、大変に見事な生き方だったと言える。


川ごとに文化ができていたことが分かった

2015年10月18日 | 横浜

昨日は、風邪ひいていたのだが、河北直治さんが主催する「引地川を下る」イベントに参加する。

引地川は、大和市に発して、南下し、相模湾河口近くで大きく右に迂回して江の島の手前で海に注ぐ川である。

相模川と境川の中間にあり、あまり知られていないが、それなりに特徴のある歴史が残されている。

                         

 

小田急江ノ島線の六会日大駅(むつあいにちだいえき)に集合し、そこからはコミニュテイーバスで、西に向かう。

住宅が点在するが、コンビニがないのは、若者の下宿屋アパートが少ないせいだろう。

まずは、石川丸山谷戸(いしかわまるやまやと)、自然の谷戸が残されていて、ボランティアによる田んぼもある。

日本で水田が始まったのは、こうした河川の比較的上流部の谷戸であることがわかる。先日の茨城の洪水のように大きな河川は大規模な土木工事が必要なので、江戸時代中期くらいまで開発されなかったものなのである。初夏には蛍も飛ぶとのこと。

私の母の実家は鶴見の矢向で、1950年代初頭は、田植えごろには田んぼに蛍が飛んでいたものだが。

そこから引地川を渡って佐波神社に行く。この佐波の表記もいろいろあるようだが、要は周囲よりも高くて、いざというときには避難場所にもなる地に神社が作られたようだ。

広大な大庭遊水地の縁には、熊野神社があった。ここは、大庭城が攻められて時には、堰をせき止めて一帯を水浸しにして敵から守った堰があったところとのこと。

その関守の将の名が、吉田将監と言うのが面白い。

かつて声帯模写の名人桜井長一郎の十八番に、月形龍之介野「将監悔悛の情なきか」というのがあるが、将監というのは悪人の名の象徴なのだろうか。

ここの神社はあまり立派なものではなかったが、本当に昔の自然の神社と池で、大変に趣があった。

この辺から先は藤沢の市街地になり、メルシャンの工場の前の大衆食堂で全員で昼食。チャーハンを食べたがなんと590円とは驚いた。

案内の伊東さんのお話では、下流は時代によって流れが非常に変化しているようで、直に相模湾に注いでいた時もあるらしい。

だが、相模湾には西から廻ってくる海流の流れがあり、自然と川の向きは右に蛇行して現在の形になったとのこと。

江の島の西海岸に出ると富士山が見えた。

かなりの数のサーファーがいたが、どうやら彼らも高齢化しているとのこと。

伊東さんは、スノーボードをやっておられたとのことで、そのスノーボードが始めは邪険にしていたスキー連盟に取り込まれたいきさつなどについてお聞きする。

この日は、花火大会もあり、夕方はまばらだった人間は開始の6時にはほぼ満員になる。江の島の花火は、昔は7月だったが、数年前から10月になったとのこと。

花火を夏のものと思うのは日本だけで、海外では正月にやるのも多く、これはこれでよいと思う。

歩いて鵠沼駅まで行き、藤沢で伊東さん、河北さんと飲むが、どこの店も一杯だった。

この相模の平野には、相模川、引地川、境川があり、それぞれに固有の文化と歴史を持っていた。

それは、以前鶴見良行が、東南アジアをフィールドワークして、東南アジア、特にフィリピンやインドネシアでは川ごとに文化や政治、経済が形成されていたと書いたことに似ていると思った。川が近代以前は最大のルートだったからである。

伊東さん、河北さんのご案内で引地川を堪能できたが、やはり「何事にも先達はあらまほしきことなり」である。

 


『どたんば』は土壇場で

2015年10月17日 | 映画

志村喬特集でフィルムセンターに行くが、満員の可能性とのことで並ばされる。

「こんなことは珍しいなあ」と思いつつ待つが、3時に「満席になりました」との宣告。

5人前で終了だったので、まさに土壇場で駄目になる。

後ろの方には川本三郎氏もいたが、約30人ほどが入れず。

フィルムセンターに収蔵されたので、いずれどこかがやるだろうと思い横浜に戻る。


国勢調査票を出す

2015年10月16日 | 政治

地域の方から国勢調査の調査票をいただいたので、先日国あてに出しておく。

国勢調査については、区役所にいた時に、調査表の回収を何度もしたことがある。

要は、出さない家庭を訪問して、提出をお願いするのだが、いろいろなことがある。

明らかに在宅なのに、居留守を使う人も結構多い。

                                        

 

 

一番すごかったのは、ある区の公団住宅の部屋に行った時で、扉には「なんとか会」の表札が掛かっている。

公団住宅で普通は出来ないと思うが、中で大型犬が大声で吠えている。

出てきたのは中年の男で、中では若い女性の姿も見えた。

「ともかく出してください」とお願いして一緒に行った女性係長と共に

「これは普通じゃないな」とすぐに去った。

 


新馬場だったら、もっと簡単だった

2015年10月15日 | 東京

昨日の夜中、京浜急行の北品川駅で、車掌が駅に取り残され、電車は出てしまい、車掌は国道を走って新馬場で追いついたとの記事が出ていた。

だが、この新馬場も、昔だったら、もっと楽に着いたのである。

 

                             

というのも、この新馬場(しんばんば)駅は、北馬場(きたばんば)と南馬場(みなみばんば)駅を一緒にしてできたもので、前は別々の駅だった。

だが、非常に近い駅で、どちらからも駅が見えたもので、「世の中にこんなに近い駅もないだろう」と思ったものである。

 

京浜急行の駅名はユニークなものが多く、この北、南馬場駅もそうだったが、青物横丁、梅屋敷、雑色(ぞうしき)などが今でもある。

弘明寺も、知らない人は読めないもので、昔「こうみょうじ」と言う人がいて驚いたが、もちろん「ぐみょうじ」である。

 


平山紀子は、どういう女性だろうか

2015年10月14日 | 映画

平山紀子など、知らないというかもしれないが、小津安二郎の名作『東京物語』で、原節子が演じた、戦死した二男の嫁である。

昌二郎は戦争で死に、彼女は一人で同潤会アパートに住んでいる。笠智衆、東山千栄子夫妻は、上京して実の子の山村聰や杉村春子らの家では、邪険に扱われた後、原節子のアパートで一番の安すらぎをえる。

東山は言う、「あんたが一番よくしてくれた。本当にいい人だ」と。

                 

 

だが、平山紀子には、男がいるのではないか、と教えてくれたのは、同じ学生劇団にいた先輩の山本さんだった。彼は、俳優としての経験から、原節子の演技の裏には、何かがあると気づいたのだろうが、1970年代のことである。

確かに、東山と原節子会話を注意深く読んでみると、原は、現在の自分についてかなり曖昧に答え、東山に再婚を勧められると「もう結婚しない」と言い、

「それで良い」と言い、「それじゃあんまり、のう・・・年取ったら」と東山に聞かれると、

「年取らないことにしてますから」と答えている。

ここで想像できるのは、恐らく妻子ある男性と付き合っているだろうということだ。

その証拠に、隣の三谷幸子の部屋に原は、酒などを借りに行くが、どこか慣れた感じなのである。当時は、日常生活品の貸し借りはよくあったが、酒の貸し借りはそうはなかったように思う。これは、ちょくちょく男が原の部屋に来ていたことを現わすものではないだろうか。

最後、尾道で東山が死に、笠智衆が「あんたが一番よくしてくれた」と東山の感謝の言を伝えた時、原は言う、

「お母さまには本当のことが言えなかったんです」

本当は、恋人がいることを言えなかったのだが、それは結婚以外の男女関係を想像できない地方人の東山と、それ以外の男女関係のある都市の人間との差である。

坂口安吾は戦後すぐに次のように書いた。

 

 若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

 

それが現実であり、人間なのである。