指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

井上梅次 カツカレー説

2012年03月31日 | 映画
昔、大学に入学したとき、驚いたものの一つが「カツカレー」というものの存在だった。
いくら美味しいからと言って、そこまでやることはないだろうと思った。
身も蓋もない気がした。

BSで井上梅次監督の『銀座っ子物語』を見て、「井上梅次はカツカレーのようなものだ」と思った。
いくら面白くなるからと言って、ここまでやることはないだろうという感じなのだ。

話は、銀座の呉服屋中村鴈治郎の三人の息子、川崎敬三、川口浩、本郷功次郎が、それぞれレスリング、アメリカン・フット・ボール、ボクシングの選手でスポーツマン。
だが、鴈治郎は関西の出で、銀座に来て一代で呉服屋を作ったと言うことなので、それを銀座っ子と言って良いのだろうかという疑問はあるが。

その3人が、ホテルの社長の娘で秘書の若尾文子に惚れてしまう。
だが、最後は川崎敬三は若尾文子と、川口浩は野添ひとみと、そして本郷功次郎は江波杏子と結ばれることになり、東洋紡に勤めている川口浩が家の呉服屋を継ぐことになる。
なんとも予定調和的な世界である。

何か見ていて、結局馬鹿にされたような気分になる。
井上梅次の映画は、上手く出来ているが、いつもこちらが馬鹿にされているような気分になる。
なにも、そこまでやらなくてもと思うのである。
井上梅次の映画は、面白いけれど、それ以上の評価できないという感じなのである。
「この程度でお前たちは満足だろう」と言われている気がしてくる。

この作品は、川崎敬三が体育協会職員で、若尾がホテルの女性でと、共に東京オリンピックの対策で奮闘することがテーマとなっている。
大映の社長の永田雅一が、親友でオリンピック担当大臣だった河野一郎に頼まれて、東京オリンピックの広報宣伝の一環として作ったものだと思う。
いずれにしても適当な作品だと言うしかない。
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『修羅雪姫』

2012年03月30日 | 映画
1971年に日活が、ポルノに転向した後、藤田敏八が梶芽衣子を主演にして作った、まさに劇画ムービー。
まさに劇画チックに筋が展開し、血が流され、斬られた片腕が飛ぶ。
昔見ていると思っていたら、これではなく二作目の『修羅雪姫 恨み怨歌』だった。

話は、不幸な生まれの女の梶芽衣子が、母親(これが当時、藤田と一緒だった赤座美代子で笑える)や村人の復讐に、犯人たちを次々と殺すもの。
最後は、鹿鳴館の舞踏会で、岡田英治を、実は彼の息子の、黒岩涙香を思わせる反体制的ジャーナリスト黒沢年男と共同して殺す。
すると、岡田の娘の中田喜子に梶は刺されて、雪の中に倒れる。
そして、微笑んで終わり。
藤田作品としては、大したものではない。
映画『八月の濡れた砂』のように、白けてクールな抒情性がその本質で、怨念とか恨みとかいったものに一番遠いのが藤田敏八なのだから。

梶芽衣子は、もともとは吉永小百合似でデビューしたように大変な美人である。
だが、今ひとつ作品に恵まれていないと思う。
この『修羅雪姫』や『さそり』は、本当に彼女にふさわしい役なのかと思う。
私が見た範囲では、『野良猫ロック』は別として、深作欣次の『仁義なき戦い 広島死闘篇』の不幸な女は、良かった。
原節子が、『めし』などの成瀬巳喜男作品で普通の女性を演じてよかったように、普通の主婦を演じればよかったのではないかと私は思うが。
それに近いのは、増村保造の原田美枝子主演の映画『大地の子守唄』での、原田を助ける田舎の女の役だったと思う。
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『日本無責任時代』

2012年03月27日 | 映画
見るのは、多分3回目だが、やはり圧倒的に面白い。
植木等のアクションが最高である。
先日、戸井十月が書いた『植木等伝』を読んだ。
巷間言われているように、植木等は、本当に真面目な人で、無責任とは正反対の男だった。
だが、その彼が現すアクション、両手を挙げて「おーッ」と叫ぶのや、片足を挙げてステップして歩むのなど、それは無限の解放感と楽しさがある。
その痛快さは、アメリカのミュージカルで、アステアやジーン・ケリーのダンスが、引力に逆らってまるで飛び出てしまうのではないかと思うような痛快さに似たものがある。

話は、多くのところで語られているので繰り返さないが、この植木等主演、クレージー・キャッツ出演の作品は、団令子、中島そのみ、重山規子主演の『お姉ちゃんシリーズ』の世界を借りていて、この時期まではクレージーよりも、まだお姉ちゃんトリオの方が有名だったわけだ。
監督の古澤憲吾は、逸話の多い人物だが、渡辺邦男の弟子なので、映画の作り方はきわめてきちんとしていて、観客サービスをよく心得ている。
クレージーや芸者が歌と踊りを披露するシーンがあるが、本当は狭いお座敷でやっているのに、そこは東宝の大ステージを一杯に使って撮影している。
こういう場面は、観客、特に地方のお客さんにエンターテイメントを届ける箇所なので、全くの嘘だが、それで良いのである。

最後、太平洋酒をクビになった植木等が、由利徹に代わって北海商事の社長になり、峰健二と藤山陽子が、結婚の披露をするのは、今はない磯子の横浜プリンス・ホテルである。
野外の庭園の下は、根岸湾の海がまだあり、丁度埋め立て工事が始まった時だった。
横浜プリンス・ホテルの場所は、元は結核になり転地療養になった東伏見宮の別邸で、それを戦後西武が買収し、ゴルフ場を附設していた。
その頃のことは、渋谷実監督で、先日亡くなった淡島千景が主演した『てんやわんや』で、戦災孤児の収容施設として使用されていた。
1960年代初めに、ホテルが建てられ、庭園が整備された。
プールもあり、それについては、神代辰巳監督の『青春の蹉跌』の冒頭のシーンで、萩原健一が、ローラー・スケートを履いて掃除をしていた。
1989年に、ホテル棟が建て替えられ、その年の横浜博覧会では多数の宿泊客が来て、さらに横浜ベイブリッジができ、本牧側に下りると、その先にあるホテルは、ここしかなかったので、大繁盛した。
だが、みなとみらいなど、横浜のホテルの整備が進んだので、客が減り、最後は中学の修学旅行生まで泊めていた。

現在では、かつての東伏見邸を除き、全部壊され、大型マンションが整備中である。
世の変遷は実に激しいものである。
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『なにもいらない 山頭火と放哉』

2012年03月26日 | 演劇
劇団俳小の『なにもいらない 山頭火と放哉』を見る。
大変評価に困る劇である。
種田山頭火は、今ではラーメン・チェーン名にまで有名になった俳人だが、生前はただの乞食俳人だった。
尾崎放哉も同じようなもので、一高・東大だったのに、身を持ち崩し、全国を放浪して生きることになる。
共通するのは酒と自由律俳句、ただし生前は一度も会ったことがないらしい。
山頭火は、結構芝居や映像化されており、渥美清も演じたくて、早坂暁がシナリオを書いたが、渥美の体の不調でクランクインできなかったらしい。全国をテキ屋として放浪する車寅次郎と山頭火は、家を持たないという点では同じかもしれない。

劇団俳小公演の作・演出は、『人は見た目が9割』の著作もある竹内一郎。
前回の彼の劇が「とても面白かった」と聞いたので、期待して池袋のシアター・グリーンに行く。
ここでは、大学4年のとき、大隈講堂がロック・アウトされていたので、三好十郎作の名作『冒した者』をやり、そのとき同学年生の演出家を助けて舞台監督をした。
その後、1980年代には劇団離風霊船の『赤い鳥逃げた』を見たこともある。
30年ぶりくらいに行くと、位置も少し変わっていて、小さなプレハブ小屋程度だったのが、大きなビルになり、三つの劇場がある。

山頭火の斉藤真と放哉の勝山了介が、山頭火が晩年を過ごした松山の「一草庵」で夢の中で交流する幻想的なドラマが第一幕。
そして、終わるとこの二人と松山の女性新聞記者役の旺なつきの三人が頭を下げるので、「あれっ」と思う。
一幕は、これで終了。

この三人は、一幕で終りで、二幕目は、この「一草庵」に、東京から社員旅行に来た、IT企業の若者たちの話である。
ここは、端的に言えば、劇ではなく、竹内先生の山頭火についての新書版の著作のようなものだった。
どこにも生きた人物はいず、生の議論が交差するだけなのである。
何度も叫びたくなった、「どこにもドラマがない!」と。
そして、なにもなくても生きられる、という少しも面白くない結論になってしまう。
中小企業の社長としての斉藤真さんのご苦労がよく分かる芝居だった。
池袋シアター・グリーン

『女王蜂』

2012年03月26日 | 映画
長い間、いろいろな映画を見てきたが、これほど展開がよく分からない映画も珍しい。
市川崑監督、石坂浩二主演の金田一耕助シリーズも4作目で、元旅芸人の三木のり平と草笛光子夫妻をはじめ、田舎駐在警官の伴淳三郎、さらにいつもの加藤武の「あっ、分かった!」のルーティン・ギャグなどは面白いが、全体としての話がよくつかめない。
さらに、高峰三枝子、岸恵子、司葉子と歴代の犯人役が出てくるので、最後まで犯人の目星がつかない。
主人公は、これがデビュー作の中井貴惠で、彼女をめぐる男たちが次々に死ぬので、中井貴惠を「女王蜂」と言うが、彼女は女王蜂というには柄が弱い。
むしろ、堂々たる貫禄の高峰三枝子が、本当の女王蜂のように画面全体を支配している。

なぜ話がよくわからないのかと思い、市川崑の『市川崑の映画たち』を読んでみると、それもそのはず、市川崑自身が、横溝正史の原作がよくわからなかったとのこと。
その上、東宝での次回作『火の鳥』のシナリオの準備で忙しく、相当の部分を協力監督の松林宗惠に撮ってもらったのだそうだ。
だから、部分的には画面やカッティングは面白いところもあるが、全体の通り方がよく分からないのだろう。
1978年と随分と昔の映画で、亡くなられた武内享などの脇役が出ている。

このシリーズで一番良い出来は、やはり二作目の映画『悪魔の手毬唄』だと私は思う。
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『有楽町0番地』

2012年03月24日 | 映画
1958年、有楽町の外堀が埋め立てられ、フードセンターと高速道路が出来た時、ここでは宮城区と中心区とされているが、それを千代田、中央のどちらの区に編入するかを題材とした作品。
ほとんど笑えない喜劇だが、二つの注目されることがある。
一つは、監督が『涙』『伊豆の踊り子』等の真面目な作品の多い川津義郎であること。さらに、脚本と共に、詩人役として、後に『砂の女』などの作品を監督する勅使河原宏が出て、下手だが、それなりの芝居をしていることだった。
勅使河原が、役者として映画に出ているとは知らなかった。

筋は、フードセンターのお菓子屋のレジ打ちをしている美女の起こす物語だが、これが瞳麗子なので、美人と言われても申し訳ないが、そうかあ、と言うしかない。
彼女は、勅使河原を初め誰にでも好かれるので、フード・センター地下にクラブを開いた藤間紫の店にスカウトされる。
当初は閑古鳥が泣いていた店が、急に繁盛し、彼女は三国一郎が司会するテレビ番組にまで引っ張り出される。
そこではテレビ局の内部がいい加減なことが描かれるが、この辺はテレビへの映画人の蔑視がある。
この年は、11億人と日本映画の観客数が史上最高で、テレビなど問題にしていなかったのだから。
最後、区域編入がどうなったかはよく分からないが、実際は中央区に入れられたようだ。

この外堀の埋め立ては、当時話題だったもので、日活では今村昌平監督で『西銀座駅前』を作っている。
かなりとぼけた喜劇で、この方がはるかに面白かった記憶がある。
その他、瞳麗子を誘惑しようとする財界人が千田是也で、料亭に連れ込むが、そこに闖入して目茶苦茶にする売春反対のおばさんが、岸輝子というお笑い。当時、二人は正真正銘の夫婦だったのだから。
衛星劇場

左右歌合戦 『たそがれ酒場』

2012年03月22日 | 映画
この映画を前に見たのは、今はない大井武蔵野劇場だった。
今回、BSで見て、左翼、右翼、さらにクラシックの歌合戦であることが大変興味深かった。

東京の場末の駅近くにあるらしい大衆酒場、そこには小ステージもあり、店の専属のピアニスト、歌手、さらに女給、客の飛び入り等が次々に歌う。
まず、店が開く前に、ピアニストの指導で男性歌手が、『野薔薇』を堂々と練習している。この二人は、当時現役のクラシックの音楽家だったようだ。

店が開くと常連の小杉勇、多々良純らがやってくるが、その後様々な連中が来て、飲み、食い、騒いで帰る。
当時の世相がよくわかるように作られている。
元軍人の東野英治郎と部下だった加東大介の再会、退職する大学教授らしいのと教え子の一団、丹波哲郎のヤクザ者など。
中盤では、ストリッパーの津島恵子のダンス(と言っても今から見れば実に大人しいもので、これに比べれば今のフィギュア・スケートはまるでヌード・ダンスだ)と、元夫からの刃傷沙汰もある。
また、ピアニストは戦前は、有名な音楽家で、彼を裏切り妻も奪った歌劇団の代表高田稔も偶然に来て、男性歌手の『カルメン』の歌を聞き、歌劇団に誘う。
女給の野添ひとみは、丹波哲郎から手を切ってくれた宇津井健に大阪行きを誘われる。
小杉勇は、戦時中に戦意高揚絵画を描いたことを恥じて、筆を折ってパチンコで生計を立てているが、これは監督の内田吐夢の心情だろう。
内田本人は、戦争協力映画は作っていないが、彼らの世代の気持ちとして、戦争を起こし、敗北したことに大いに責任を感じていて、彼や元従軍記者だった江川宇礼夫らは、「これからは若い人の時代だ」と言わせている。
だが、この頃彼らは、せいぜい50代で、今で見れば到底老人とは言えないのだが。
だが、彼らの反省と羞恥は、実は無意味だった。
なぜなら、この時代からすぐに石原兄弟が主導する「太陽族」の消費社会に日本は入ってしまい、戦争への反省など忘れてしまうのだから。

何よりも、ここで興味深いのは、その店で歌われる歌である。
左翼学生たちは、ぬやまひろしの『若者よ!』のレコードを掛けて皆で斉唱する。
東野英治郎と加東大介は、「万朶の桜」の『歩兵の本領』を歌うと、窓の外からも同曲が聞こえてきて二人は大感激する。
だが、それは「聞け万国の労働者」の『メーデーの歌』であり、これは同じ元歌からできているのだから同じに聞こえるのだが、ここは大いに笑えた。

さて、全体にここで展開される音楽は、軍歌、労働歌、そしてせいぜいドイツ風のクラシック歌曲である。
この辺が、当時の映画人の音楽のレベルだった。
アメリカのジャズ、ポピュラー・ソングは勿論、ドビッシーなどのフランス近代音楽もない。
監督の内田吐夢、さらに言えば『八月の狂詩曲』で時代錯誤の『野バラ』を使った黒澤明の音楽的素養は、大体このレベルだった。
あえて言うなら、小学校唱歌の水準である。
当時、日本の映画監督で最高のミュージック・ラバーと言われた松竹の大庭秀雄で、やっとモーツアルトだったのだから。
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役者を信じられない演出家 長塚圭史

2012年03月21日 | 演劇
渋谷のシアター・コクーンでテネシー・ウィリアムズ作の『ガラスの動物園』を見た。
今更言うまでもない、現代劇の名作で、今回は主人公のローラは深津絵里、弟で語り手でもあるトムは瑛太、母親のアマンダは立石涼子、トムの会社の同僚で、かつてはハイ・スクールの英雄で、ローラの憧れの男だったのは、鈴木浩介である。

深津絵里のローラは、これ以上ないだろうと思われる適役で、現在で見れば彼女は典型的なパニック障害である。
実際、ウィリアムズの姉は精神分裂病になって病院に入院し、最後はロボトミー手術をされて人格を喪失してしまう。このことは、ウィリアムズの心に長く残り、これが彼の贖罪意識の根底になったのである。
母親の立石は、少々日本的おばさん過ぎるが、悪くない。
瑛太のトムも以前、『怪談牡丹灯篭』での萩原新三郎から見れば、随分と上手くなり、一応見られる水準になっていた。
ジムの鈴木浩介は、もっと声に魅力が欲しいところだが、普通のできである。
だが、総てを壊しているのが、ダンサーの存在で、重要なシーンで劇を批評したり、見つめたりしている。

数年前の長塚圭史が演出した『タンゴ』では、彼自身が舞台に登場してきてウロウロするので不愉快だったが、これも全く同じだった。
これは、何を意味するのだろうか。
私が見るところ、長塚は役者を信じられない演出家だと思う。
だから、自ら、あるいは異なる方法で舞台に意見を加えるのである。
こんなことが許されるのだろうか。
長い目で見れば許されないと思う。

映画界で見れば、日活に中平康という監督がいて、大映の増村保造と並び称された。
だが、中平と増村には根本的な相違があった。増村は、若尾文子、渥美マリ、緑魔子らに徹底的な演技を要求し、そこに自分の思いを込めた。
だが、今日中平の『密会』などの文芸作品を見ると、彼はどこにも思い入れていないことが分かる。
監督が役者を、そしてその世界を信じていなくて、一体見るものは何を信じたら良いのだろうか。
長塚圭史君が、中平康の歩んだようにならないことを期待したい。
シアター・コクーン

勝新太郎の自在さをなぜ生かせなかったのか

2012年03月21日 | 映画
先週の土曜日は、雨で寒くて外に出る気がせず、家で勝新の『兵隊やくざ』を見ていた。
多分、40年ぶりくらいに見たが、やはり面白く、勝新太郎の肉体の弾け方がすごい。
アクション・シーンでのそれは、まるでジャズのように運動が飛躍し、増大していくのである。
まさに天性の役者、アドリブ・アーチストである。

春日太一の『天才 勝新太郎』(文春新書)には、大映が倒産して以後、彼が勝プロダクションの映画やテレビで苦闘して行く経緯が詳述されている。
そこで窺える勝新は、つねに新しい、その場で浮かんだ即興的なアイディアに唯一のリアリティを感じ、それのために製作スケジュール等を無視し、結果的に赤字を抱えてしまうものとなっている。
だが、この気持ちは実によくわかる気がする。
演技の中で、その場に生まれ出てきたような即興的な感興を得て、芝居をしている時の嬉しさ、感動は多分なにものにも代えがたいものに違いない。それは、かの野田秀樹の芝居の高揚するときの時めきを知っている人なら、容易に分かるに違いない。
だが、それを映画の中で、あらかじめ用意し、あるいは撮影のさなかで行うことは、極めて難しいことである。

勝新はしばしば言っていたそうだが、その「神が降りてくる瞬間」など、そうやすやすと得られるはずもないのだから。
だが、野田秀樹の芝居に見られるように、演劇では可能だし、少なくとも日々、そうした感動を得るように演じ、見せることはできるはずだ、少なくとも勝新太郎くらいの役者になれば。
だから、私が考える勝新の上手な使い方、出演法は、こうだ。

映画やテレビの製作をメインにし、そこでは勝のワガママは極力抑えてスケジュールどおりの作品を作り、経済的基盤とする。
それだけやっていると、勝の創造意欲がなくなるので、年に数ヶ月舞台の仕事を入れ、そこでは勝の創造的演技術で勝の意欲を満たさせる。
芝居なら、毎日違った心持ちで芝居に望むことができ、役者は日々新鮮な気分で演技せざるを得ないからである。
こう考えると、結局勝新太郎は、本来舞台の役者だったということになる。
元々、彼は歌舞伎の長唄の家の生まれ、御簾内の人だったのだから。

岡本坦氏、死去

2012年03月19日 | 横浜
先週末の神奈川新聞に、横浜市の元助役の岡本坦(おかもと あきら)氏が、3月5日に亡くなられていたことが出ていた、73歳。
「鉄人・岡本」と言われ、財政局、都市計画局、総務局、教育委員会等で活躍され、初代の青葉区長になり、そして横浜市助役として高秀秀信市長に仕えられた。
助役の後は、パシフィコ横浜、横浜港埠頭公社、さらに帆船日本丸等の諸団体でも、長としてご尽力された。

私とは、パシフィコ横浜が株式会社横浜国際会議場として設立された時、岡本坦さんは総務部長で、私は営業部係長で出向し、大変お世話になった。と言うか、いつも怒られてばかりいた。

だが、大変に度量が大きい方であり、私が企画課係長で、1991年夏のパシフィコ横浜の「オープニング・イベント」として、ワールド・ミュージックのフェスティバルである「ウォーマッド」を企画した時、
「俺にはよく分からないけど、指田さんが良いと言っていうなら認めるから、立派にやってくれ!」と快くゴー・サインを出してくれた。
その後、ウォーマッド横浜として、私の後任で今はこども青少年局長の鯉渕真也さんが、多くの方のご理解を得ながら1991年夏に実現してくれた。

岡本さんは、酒、タバコ、麻雀の「専門家」であり、おじさん趣味そのもののように見えたが、実はジャズにもご造詣が深かったのである。
野毛にダウン・ビートというジャズ喫茶がある。
岡本さんは、若い頃、そこで働いていたことがあると日頃言っていた。
一度野毛で飲んだ帰りに連れて行って貰ったことがあり、「これは本当だ」と驚いたものだった。
彼は、静岡の富士宮の奥の高校を出て横浜市に就職し、親戚の人がやっていた店のダウン・ビートでアルバイトで、大学に通いながら働いていたようだ。

パシフィコ横浜の総務部長の時、ほぼ毎日4時半すぎになると部長席の電話がなる。
某課長からのもので、麻雀のお誘いである。
よく毎日続くものだと思ったが、そこが鉄人である。
翌日には、社内会議で、これも論客であった若竹馨部長、佐久間健治部長らと、高木文雄社長の前で論戦を戦わせるのであった。

数年前に脳梗塞になり、ときどき言語不明瞭になる時があり、その頃から公職を減らされていった。
今回の記事に病名は書かれていなかったが、肺がんとのこと。
やはりタバコは良くない。
来月下旬には、お別れ会が行われるそうだ。
横浜市に多大なご功績のあった鉄人のご冥福を心からお祈りする。

二村定一は、戦後なぜ凋落したのか

2012年03月19日 | 音楽
先々週の土曜日の10日、毛利眞人さんが二村定一の評伝『砂漠に日が落ちて』を出され、それを記念したレコード・イベントが「ぐらもくらぶ」で行われた。

そこでは、第一部として佐久間毅(鉄仮面)の『夢の人魚』から、『行進曲ニュウヨーク』(内海一郎)、『南へ、南へ』(天野喜久代)、『アラビアの唄』黒田進(楠木繁夫)、『ニューヨークの囁き』(佐藤緋奈子)、さらには井上喜久子の『嘆きの天使』まで、昭和初期のジャズ歌手のSPが掛けられた。
第二部では、二村定一の『アラビアの唄』以下の名曲が掛けられた。
この1部、2部を通し、当時のマイナーなレコード会社にも多数いたジャズ歌手を聞いて、あらためて感じたのは、やはり戦前のジャズ歌手の中では、二村定一と天野喜久代が圧倒的に上手いことがよく分かった。

毛利眞人さんの本はまだ読んでいないが、今回の毛利さんの本に関連し、ぐらもくらぶから出された二村定一のマイナーな作品を集めたCD『二村定一 街のSOS』を早速購入し聞いてみた。
このCDの中では、ルンバ・アレンジの『浅草おけさ』が一番面白かったが、全体に二村定一の歌唱法の特徴がよく出ているように思えた。
昔、阿佐田哲也さんは、二村を最初に聞いた時、「じだらく」という言葉を感じたそうだ。
そして、「この人の将来はどうなるのか」と子供ながらも心配したそうである。
確かに二村定一の歌い方の特徴は、その投げやりな自暴自棄さにある。
まさに阿佐田哲也さんが、幼心に感じた「自堕落」そのものである。

当時は戦前、戦中の次第に戦争体制に向い、エロ、グロ、ナンセンスの享楽的な芸能へ圧迫も次第に進行しつつあった。
二村定一の曲は、そうした享楽的なものの象徴であり、だからそれを聞くことは、時代の傾向への一種消極的な抵抗の意味を持っていたと思われる。抵抗というのが大げさなら、韜晦というべきだろうか。
ところが、昭和20年8月に戦争が終わり、時代と社会が一変する。
だが、これ以降、飲酒等から来る声の衰えもあったが、二村は、次第に時代から取り残されていく。
なぜだろうか、本来自由な時代になったのに、二村定一は、かつてのような輝きを失ってしまったのか。

戦後の社会的風潮をどのようにとらえるかはいろいろな見方があるだろうが、今から見れば問題はあったとしても、その主調は、新しい日本を作ろうとの健康な、建設的なものだったと思う。
そこでは、二村定一のような後ろ向きの歌は、歓迎されず、それが彼の凋落の原因だったのではないかと思う。
彼の最大のライバルである榎本健一は、二村定一とは対象的に、本質的に健康であり、子供にも親しまれる底抜けの明るさがあった。
だから、エノケンは、結構長く戦後の芸能界に生き残ったのだと思う。

『栄光への5,000キロ』

2012年03月17日 | 映画
石原裕次郎が、日活から独立して作った作品の一つ。
長期アフリカ・ロケした2時間を超える大作で、国内では松竹映配で公開されたが、あまりヒットしなかったようだ。だが、本格的カーレース映画としては、多分日本最初で、最高の一本だろう。
石原裕次郎、浅丘ルリ子主演で、監督蔵原惟繕、そして車とくれば、傑作『憎いあンちくしょう』を思い出すだろう。
事実脚本も同じ山田信夫で、よく似ている。それには及ばないが、上出来の映画である。
欧州で活躍しているレーサーの裕次郎に、日産からアフリカ、ケニアのサファリ・ラリーへの参加のオファがある。
日産の担当役員は、三船敏郎、技術者は仲代達矢、チームの責任者は伊丹十三とこれも適役。

ルリ子は、裕次郎の恋人だが、ファッション・デザイナーであり、フランス人デザイナーのアラン・キュイニーとも恋愛関係にある。
もう一つのエマニエル・リバとその恋人のフランス人レーサーのジャン・クロード・ドルドーとの関係も対置される。
サファリ・ラリーでのレースは、勿論本物のレーサーによる部分もあるが、裕次郎はドライブが好きだったのだろう、彼もかなり運転している。
浅丘ルリ子は、この頃は小林旭と別れて、蔵原惟繕とも恋愛関係にあったが、実はずっと石原裕次郎が好きだった。
林真理子の『RUIKO』によれば、このアフリカ・ロケの時、ルリ子は長い間の思いを遂げようとしたが、遠まわしに裕次郎に拒否されてできなかった。
裕次郎は、勿論ルリ子の心を十分に分かっていただろうが、映画製作の総責任者として、そんなことはできなかったのだ。
先日読んだ女優吉行和子の本によれば、彼女は日活の『あいつと私』、さらに日本テレビの『太陽に吠えろ』で裕次郎と共演した。
そして、裕次郎について、「誰に対しても優しく、気配りがある、こんなに素晴らしい、良い人がいるだろうかと思った」と書いている。
多分、本当だろう。
あの粗野な言動の石原慎太郎とは、正反対の人間性の豊かな男で、監督の今村昌平も「好感を持っていた」と書いている。
だから、裕次郎の周りには、多くの人が集まり石原プロモーションもできたのである。
だが、兄の石原慎太郎は、中川一郎が自殺した後、「青嵐会」を受け継いだが、すぐに誰もいなくなってしまった。
そういう自分勝手な人間なのである、東京都知事は。

浅丘ルリ子が本当にきれいで生き生きとし、撮影の金宇満司のアフリカの自然の情景が美しく、黛敏郎のスケールの大きな音楽が素晴らしい。
NHK・BS

吉本隆明、死去

2012年03月16日 | その他
思想家の吉本隆明が死んだ、87歳。
どのような立場をとるにせよ、戦後の日本社会で最大の影響を与えた思想家であると評価せざるを得ないのは間違いないだろう。

私が、吉本を知ったのは多分高校2年で、思想家ではなく、荒地派の詩人としてであった。
当時の孤独な少年の心に大変合った抒情的な詩人としてである。
その後、彼が戦闘的な思想家であることを知って驚いたが、新刊が出ればまず間違いなくすぐに買って読んできた。

だが、約15年近く前の『アフリカ的段階について』を読み、「もう吉本を読む必要もないな」と思った。
そこで彼が描くアフリカは、現在のアフリカではなく、昔のアフリカに思えたからだ。
1980年代末のワールド・ミュージック以降、現在のアフリカの文化や社会を、ポピュラー音楽を通じて実際に想像している我々のアフリカ像の方が実像に近いに違いないと思えたからである。

吉本に大きな影響を与えた人間に、劇作家の三好十郎がいたことを書いておく。
それは、NHKの『三好十郎特集』で自ら言っていたが、吉本は若い頃、三好十郎の「非共産党マルクス主義」の立場に大きなヒントを得たそうだ。
非共産党左翼でも良いが、今から見れば随分と滑稽だが、「反体制的立場が、日本共産党以外にありうるのだ」というのは戦前、戦後の日本で、実は到底思いつかない「目からウロコ」の発想で、大変重大なことだったのである。

その上で、例えば大島渚の映画、早稲田小劇場の鈴木忠志の劇、あるいは昨年亡くなられた音楽評論家の中村とうようさんの評論活動もあったと私は思うのである。
一口にして言えば、自分それぞれの立場で、芸術文化活動はやってよく、日本共産党のごとき「司令部」のご指示によってやるようなものではないという当たり前ことである。
私にも多大な影響を与えてくれた思想家、詩人の死去に心からのご冥福を祈る。

『パーマ屋スミレ』

2012年03月14日 | 演劇
「新劇滅んで井上ひさしが残った」だったが、その「井上ひさしも死んだが、新国立劇場がある」と言うべきだろう。

鄭義信の新作『パーマ屋スミレ』は、前作の『焼肉ドラゴン』に続き、在日の人々を描くもの。
前作が大阪の伊丹空港付近だったのに対し、今回は、その新滑走路建設にも加わったと言われる九州の炭鉱で働いていた在日の話である。
北九州の三池炭鉱に働く、アリラン峠近くに住む連中、それを中年になった主人公が回想して訪れる。
例によって、最下層の貧困の中、中心は女たちで、根岸季衣、南果歩、星野園美ら。
ある夏祭りの夜、炭鉱で爆発が起き、男たちは、救出に駆けつける。
だが、そのために彼らは、炭酸ガス中毒になってしまう。
それは、まるで脳梗塞のようで、身体のマヒ、記憶喪失、感情失禁等になる。

こう書くと、悲劇的世界のようだが、全体は極めて喜劇的で、生の感情が激突する大騒ぎの劇である。
平田オリザ以下の連中とは対局の世界がうれしい。芝居はこうじゃなくちゃいけない。
平田や岡田利規らの退屈以外のなにものでもない劇を喜ぶ連中の気がしれない。

ともかく、役者が溌剌としているのが良いが、特に松重豊は格好よく、久保酎吉はいい加減な組合支部長を好演。
今井正の映画『ここに泉あり』の適当な楽団マネージャーの小林桂樹を思い出した。
いつもながら久米大作の音楽が泣かせる。
一つだけ、この秀作に疑問を呈しておく。
この劇や、映画『フラ・ガール』などの昔の炭鉱町を舞台とした作品は、そこを常に貧困な場所としている。
だが、九州の炭鉱町に育った友人の話では、彼は先生の息子だったが、町の産業は石炭の炭鉱だった。
石炭会社には、当時からスーパーや映画館があり、そこの学校には立派なプールもあり、いつも羨ましく思っていたそうだ。
戦後すぐから、1960年代の石油へのエネルギー転換が行われるまでは、石炭産業は日本の最重要産業であり、給料、待遇も他の産業よりも良かったのである。
そのことを見落とすと、歴史への大きな誤解を生むことになると私は思う。
新国立劇場

『花つみ日記』

2012年03月12日 | 映画
午前中、京浜急行が信号故障で電車が遅れ、開場ぎりぎりに着くと、『チョコレートと兵隊』は全席売り切れとのこと。
お目当てだったのだが、仕方ないので、『花つみ日記』を見ることにして神保町で時間を潰す。
レコード社に行くと、1970年代に出たLP『漫談・ボーイズ全員集合』が、戦前、戦後共大変きれいな状態の2枚組みがあるので、買う。
何しろ、戦前篇には、染井三郎、国井紫香、井口静波、山野一郎らの活弁、「あのね、おっさん」の高瀬実乗まで入っているのだから貴重盤である。

1939年の映画『花つみ日記』は、世界中でかつて日本のみにあった「女学生文化」という不思議なものをよく現している作品である。
原作は、勿論吉屋信子、監督は石田民三、主演は高峰秀子で、蘆原邦子が特別出演の他、清水美佐子や、後に加藤治子となる御舟京子などが出ている。
制作は、青柳信雄で、市川崑と毛利正樹が助監督の東宝京都作品。

大阪の女学校に、東京から清水が転校してきて、高峰秀子とすぐに仲良しになる。
そして、二人を初め生徒たちが皆憧れているのが、蘆原邦子の歌が上手な先生である。
蘆原邦子は、当時では異例の男らしさで大人気だったが、確かにナヨナヨとしたところの全くない、きりっとした姿である。
今で言えば、天海祐希のような感じだろう。
彼女は、これも少女趣味の総本山中原淳一と結婚して引退し、戦後はテレビのホームドラマでは上品な母親を演じていた。

高峰と清水は、「天国でも一緒よ」と誓い合うが、些細なことから仲違いし、「絶交」し、高峰は女学校を中退して、家業の置屋から舞妓に出てしまう。
この絶交というのが、戦前の女学生文化である。

だが、清水の兄が、出征し、彼に千人針を高峰が作って上げたことから、二人はまた仲直りする。
大阪の戎橋だろうか、その上で高峰らが千人針を求めるところは、ビルの屋上からの隠撮になっているのが当時の撮影としては珍しい。
吉屋信子の女学生趣味や、日本国民すべてのアイドルだった高峰秀子も、巧みに戦意高揚映画に取り込まれて行った作品である。
この時の出征は、勿論まだ日中戦争であり、太平洋戦争ではなく、どことなくのんびりした余裕が感じられるが。
神保町シアター