指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

園井啓介について

2006年09月30日 | 映画
園井啓介は、劇団青俳からテレビの『事件記者』で人気になり、映画界に入った。
彼は、今見てもなかなか上手い二枚目だが、1973年突然引退した。
理由は、株売買で2億円以上の利益を上げていたのに無申告で、脱税で所得税1億2千万円を徴収され、執行猶予付きの懲役刑を受けたからだ。

現在では、脱税はともかく株で利益をあげることは、むしろ賞賛されるだろうが、当時は役者が株で儲けるなどけしからん、という世論だったのだ。
確かに、悲劇の主人公が実は大金持ちというのは見ていてシラケルだろうが。

1932年生まれ、菅原文太、宍戸錠らとは同世代なので、引退しなければまだまだ活躍できただろう。
ただ、1970年代後半以降、日本映画界では二枚目は生き難い状況になったので、どう活躍できたかは、疑問だが。

オリックス・中村勝広監督解任

2006年09月29日 | 野球
最下位指定の楽天に迫られ、逆転されそうな成績だったから当然だが、本来この人は監督になる人間ではなかったような気がする。
阪神の監督を6年も務めたが(最長なのだそうだが、会社のイエス・マンだったからだろう)、最高の成績は92年の2位だけである。
後は最下位と4位ばかり。

なぜ、オリックスの監督になったのかは、不明だったが、手軽で報酬も安かったからだろう。
次は外人らしいが、その際打撃コーチの新井昌広だけはクビにしてほしくない。
彼は、イチローを育てた最高の打撃コーチである。

昔、2,000本安打を打って、見事「名球会」に入らされるときインタビューされ、
そのユニフォームを嫌々着せられ、
「こんなものを着るの・・・」
「恥ずかしいなあ」と言っていたのが忘れられない。
実にものの分かっている冷静な人間なのだ。

アイバ・戸栗氏死去

2006年09月29日 | 音楽
アイバ・戸栗とは(正確にはアイバ・戸栗・ダキノ)、”東京ローズ”である。
東京ローズとは、言うまでもなく太平洋戦争中、日本軍がアメリカ向けに放送していた謀略放送「ゼロ・アワー」の女性アナウンサーの愛称。
本当は7人いたと言われているが、調査の結果戸栗氏だけが探し出され、逮捕、裁判にかけられ懲役刑に服した。

実は、この「ゼロ・アワー」がどうようなものだったか、日本側には資料はほとんどないが、アメリカには全部ある。
アメリカは、この放送を傍受し、すべて録音していたのだ。
このこと一つをとってもアメリカと日本の国力と資料調査に対する姿勢の格差を感じる。

そして、この録音は、ドキュメンタリー・レコードで有名なレディオラからレコード『TOKYO ROSE』(MRー1076)として出されている。
そこには、番組の録音の他、戦後の逮捕時のインタビュー、映画化されたときの主題歌等が収められている。

実際の番組はニュースの他、リクエストによる(一体誰がリクエストしたのか)レコードなど、現在のラジオDJと同じ。
音楽はレコードが多かったようだが、中には実演もあり、森山良子の父親森山久、かまやつひろしの父ティーブ・やまやつなどの二世ミュージシャンの演奏もあった。
当時、日本国内はジャズの実演は完全禁止だったが、皮肉なことに軍の謀略放送ではジャズが演奏されていた。
両面の写真も映画化のときの主演女優の写真と日本軍の謀略ビラ等で、大変貴重なものだが、写真ができずここにコピーできないのが残念。

誰が安倍内閣を希求していたのか

2006年09月28日 | 政治
先日、あるパーティに行くと、元々は竹中氏もいた某政府系金融機関のご出身で、今は地方のゼネコンにいる方に会った。

「景気はどうですか」と聞くと
「全く駄目」で、
「じっと小泉内閣の退陣を待っている」のだそうだ。

小泉構造改革で、最も大きなものは、
実は「ゼネコン国家・日本」を崩壊させたことである。
これを安倍内閣は、どうするのだろうか。
私には元に戻すように思える。

ヒルマン監督は偉い

2006年09月27日 | 野球
以前、ここでも書いたが、パ・リーグのレギュラー・シーズン優勝の日本ハムのヒルマン監督は大したものだと思う。

バレンタインとは正反対の大変地味な監督だが、手腕は確かである。
さらに、コーチも投手の佐藤義則など、良いのが沢山いる。

なによりヒルマンが素晴らしいのは、近い将来の日ハムの監督は、チーム生え抜きの名遊撃手、現在はヘッド・コーチの白井一幸に決まっているのに、何も文句を言わず、淡々と監督を努めている人間性にある。
ヒルマン監督に乾杯!

『西洋鏡』

2006年09月27日 | 映画
『西洋鏡』とは、中国で活動写真のこと。20世紀のはじめ、フィルムを持って中国に来て映写したイギリス人レイモンドと助手、友人の中国人リュウとの話。
有名なルミェール兄弟のフィルムの、庭園での水撒きや駅に来る蒸気機関車など、映画初期の貴重な映像も多数。

北京の大写真店の使用人のリュウは、偶然見た活動写真に心惹かれ、手伝う内に助手になってしまい、写真店をクビになる。
写真店は有名な店で、京劇の大俳優を撮っているが、中には西太后の記念撮影もする。
その席で、リュウらは映画を上映し、西太后からも誉められるが、火事を起しレイモンドは国外追放になる。

6ヵ月後、レイモンドからリュウに中国での撮影フィルムが送られてくる。
彼はそれを上映し、大成功をおさめる。
中国での映画初期の歴史であり、どこまでが史実に忠実なのかは不明だが大変興味深い。
活動写真に一喜一憂する中国人が面白い。
見て分かるのは、映画は、本質的に「動く写真だ」ということであり、「見世物だ」ということである。

さらに、興味深いのは、リュウが店をクビになったとき、リュウに向かいレイモンドが「お前はすでに他の中国人とは違う」と言うこと。
映画によって、他の世界の文化や人間を知った者は、すでに伝統的な人間ではないのだ。

昔、松竹映画で『活弁物語』というサイレントからトーキーに移行するときの、伴淳三郎ら弁士たちの作品を見たことがあるが、それを思い出した。
衛星放送

『人間革命』上映希望

2006年09月26日 | 映画
丹波哲郎が亡くなられた。『砂の器』か『暗殺』『組織暴力』『解散式』あたりが代表作だろう。
追悼特集では、この際創価学会のスポンサー映画『人間革命』シリーズを上映してほしい。

この映画は、政治的な関係かほとんど上映されず、ビデオもない(学会員には内々に販売しているようだ)。
私は、続編は見たが、第一部は見ていないので、追悼上映の際は、この「演説映画」を是非上映してもらいたいと思っている。

『あの橋の畔で・完結編』

2006年09月25日 | 映画
盗作騒動が解決し、残るは桑野の離婚問題。
当初、離婚に絶対応じなかった穂積も弁護士佐藤慶の説得と金に窮したことから、示談で済まそうとする。その交渉の中で穂積は佐藤を傷つけ逃走する。
中山千夏のお爺さんを探しに再び、北海道に行く二人。桑野はそこで穂積を見る。
穂積はタクシー運転手となっていて過去を反省し、離婚届けに判を押す。
晴れて桑野と園井は結婚し、鵠沼に幸福な家庭を持つが、桑野を病魔が襲う。
脳腫瘍である。
一度は手術で回復するが、2年後再発し、桑野は急死してしまう。

どこまで行ってもハッピーエンドにならないのがメロドラマの宿命だが、ここでも同じ。

そして、このドラマの本当の核心は、貧乏人の美人桑野と金持ちの嫌な奴穂積の結婚という階級差の悲劇である。また、同じ貧乏人の園井と桑野が好き同士でありながら、上手く結婚できない貧困故の悲劇でもある。

林芙美子同様、アナーキスト詩人だった菊田一夫には「階級的意識」が色濃くあった。
だが、次第にその意味は薄れて行く。それは、当時池田内閣の所得倍増計画下の経済の高度成長で急速に豊かになり、相対的に貧困や階級差がなくなっていったからである。
貧困、封建制、戦争等の愛への障害のないところでは、メロドラマは成立しにくいのである。
最後に残るのは、難病になる。
近年の『世界の中心で愛を叫ぶ』等がすべて「難病もの」であるのは偶然ではない。
川崎市民ミュージアム

『あの橋の畔で・第三部』

2006年09月25日 | 映画
第三部は、園井は海外協力の仕事でカンボジアに行き、桑野は高峰三枝子が社長の東京日産で働くと、別々で始る。
だが、桑野は高峰のお供でタイに出張し、プノンペン在の園井とアンコール・ワットでわずか数時間再会する。
園井は、またしても現地会社の社長山村聡の娘入江美樹に惚れられてしまう。
入江は、当時人気のファッション・モデル。後に小沢征璽と結婚し、小沢征悦らの母になる。
入江の出演作は少なく、勅使河原宏の『他人の顔』くらいで、珍しい。桑野と入江が並んで歩くと、桑野は当時の女優では群を抜いてスタイルが良かったが、さすがに入江にはかなわない。

園井の建築の盗作騒動があり、それを仕掛けた業界ゴロ小池朝雄による桑野へのストーカー行為があり、相変わらず中山千夏の演技には笑わせられる。
その他、穂積の父北竜二が急死して一家が没落し、沢村貞子が宗教に走ったり、小池の別れた妻岸田今日子が出てきたりで、実にめまぐるしく楽しい。
最後は、園井の盗作疑惑も晴れ、二人が能登半島の岬で将来を誓うところで終わる。
この部だけ、タイトルで島倉千代子の同名曲『あの橋のたもとで』が流れる。
川崎市民ミュージアム

『あの橋の畔で』

2006年09月24日 | 映画
菊田一夫原作、桑野みゆき、園井啓介主演のメロドラマ。テレビが元で、松竹で映画化され大ヒットし第4部まで作られた。

許婚の桑野・園井が、周囲の様々な妨害とすれ違いで一緒になれず、桑野は金持ちの息子穂積隆信と結婚させられる。
学生の二人が集う場で歌われるのが『雪山賛歌』で、スキーも。
スキーと言えば、トニー・ザイラーで、松竹は彼を招聘して作った映画もあった。

園井を慕う看護士に左幸子、建築家の園井と心中する酌婦に渡辺美佐子、穂積の愛人秘書岩崎加根子、その他千之赫子、浅茅しのぶ、宇治みさ子など大変贅沢な配役。
その他、社長の石黒達也、姑の沢村貞子、義兄の南原宏次など、悪役も豊富で楽しい。
傷心の園井が行くのが北海道夕張市で、当時最盛期で、人口も10万を越えていたらしいが、今や1万人であるのだから、「倒産」するのも当然なのか、

園井が記憶喪失となり、北海道からの上京に付いてくるのが、天才子役中山千夏で実に上手い。
園井に付いて左が来ると、「どうして世話する女の人が出てくるの」中山の台詞には、笑った。

脚本は野村芳太郎監督と山田洋次。撮影川又昂、音楽古関祐二。
「あの橋の」とは、勿論数寄屋橋のことで、ちょうどこの頃、川が埋立てられ菊田一夫書の碑が建てられた。ここに二人は手を置き、結婚を誓う。
すなわち、『君の名は』と『愛染かつら』を混ぜたような話だが、第二部では桑野の別居、離婚裁判劇が中心。

園井は、本来どうしようもない二枚目役だが、こういう役を照れずに堂々と演じられるのは凄い。小林旭に匹敵する。

第三部は、確か「哀愁のアンコールワット」という副題があったはずで、今日これから川崎市民ミュージアムに見に行く。

梶本隆夫死す

2006年09月24日 | 野球
阪急の大投手だった梶本隆夫が死んだ。長身の左投手で、高校から入団し開幕投手を務め、そのシーズン20勝したが、南海の宅和がなんと26勝も挙げたため新人王は逃したそうだ。

昭和30年代、阪急の投手と言えば米田、梶本で、二人は常に20勝以上だった。

ただ、ここ一番には弱く、後に阪急が日本シリーズに出るようになっても、すでに下り坂だったが、巨人には大変弱く、特に長島にはいつもカモにされていた。

867登板は、米田哲也、金田正一に次ぎ第3位である。

極めて人の良い人だったらしく、阪急の上田監督が、日本シリーズでの大杉のホームランの判定をめぐり長時間猛抗議し、その事態の責任をとって辞任した後、監督となった。
だが、阪急の成績は振るわず2年で辞任し、また上田に監督を戻した。


映画はすでに70年だった

2006年09月23日 | 著作権
昨日、著作権者が権利期間の延長を要望した。このことを前に書いたとき、映画も含めていたが、映画はすでに2004年の法改正で50年から70年に延長されていた。
権利期間を延ばせば、著作者の利益になり、それが創造の活性化を促すなどの根拠はない。

私がここで何度も書いているように、著作物は前の著作物から影響やヒントを得て作られている。
特に大衆文化、芸術はそうだ。手塚治虫の影響を受けていない漫画家がいるだろうか。
ヤクザ映画も、よく考えれば総て『忠臣蔵』であり、笠原和夫さんは自作『総長賭博』は、ギリシャ悲劇を元にしたと書いている。また、東映専務の牧野光雄からは、「曾我廼家劇と黙阿弥を読め」と言われたそうだ。

日本には、昔から短歌の「本歌取り」という技法、作法がある。
歌舞伎も多くは、先行芸能や様々な話を入れ込んで作られている。
それは、「時代と世界」という考えで、先行作品を取り入れることは当然の作劇法になっている。
優れた作品ほど、多くの先行作を取り入れており、全くオリジナルな作品など本来ありえない。
そう考えれば、いたずらに制作者の権利を保護することはおかしいのである。
先行作品への尊敬を示す上でも、作者の権利は無闇に強化されるべきではないと思う。

架空実況放送

2006年09月23日 | テレビ
先日、日本テレビで『小泉純一郎首相を知っているか』が放送された。小泉・安部政権へのごますり番組だが、これは「架空実況放送」だと思った。
「架空実況放送」とは、昔NHKラジオがやっていたもの。
関が原とか壇ノ浦など、歴史的事件を実況中継する。
「こちらは、壇ノ浦です、天気は・・・」などと放送する。
今良くある再現ドラマの先駆である。
なかなか面白い番組だったが、これを企画・制作したのは、西沢実さんで、NHK退職後は、日大芸術学部で教えたそうだ。
現在もご健在らしい。

大矢氏監督内定

2006年09月22日 | 野球
横浜べイスターズの来期の監督に大矢明彦氏が内定したそうだ。
牛島はやや意外だったが、大矢は順当だろう。
1997年には、当時全盛だった野村ヤクルトと最後まで優勝を争ったのに、クビにしたのは大間違いだった。

横浜、大洋は、その前にも須藤監督の後を受けた江尻が好成績を挙げたにもかかわらず辞めさせ、後任に近藤明仁を持ってきて失敗した。
これは、早稲田出身者の中の年功序列だったようだ。

その後、江尻は広岡達朗によってロッテの監督になったが、伊良部、小宮山、ヒルマンらが去った後では、どうにもやりようがなく成績不振で1年でクビになる。
その後任は、また近藤で、またしても成績は最低だった。

近藤は、監督、ヘッド・コーチは良くないようだ。
コーチなら務まると思ったが、今年の原巨人でのヘッド・コーチも失敗だった。この辺は、わがご贔屓の広岡親分の目も狂っているのか。

横浜は、最下位だが選手は村田、多村、吉村と大型打者も揃っていて悪くない。
投手陣が整備されれば大変面白い存在である。
大矢氏に大いに期待したい。

『野良猫ロック・暴走集団71』

2006年09月21日 | 映画
藤田敏八は好きで、大体見ていたが、これは見ていなかった。
傑作だった。
71と言っても、1970年12月最終週で、1971年正月映画。
最初に、DとNが組み合わさったダイニチ映配のマーク。当時、大映と日活は共同配給機構・ダイニチ映配を作っていた。

新宿西口にたむろするフーテン族から地井武夫が拉致され、改心するよう伊豆の実家に連れて行かれる。西口もまだ道路が出来た程度で何もなし。
原田芳雄、藤竜也、梶芽衣子、夏夕介、久万里由香らが、地井を取り戻しに伊豆に行く。
地井の親父・稲葉義男は町長で、配下には事務屋の戸浦六宏、さらに黒皮ジャンにオートバイ野郎の郷映冶、前野霜一郎(ロッキード事件の際、児玉良夫邸に飛行機で突っ込み自死した)らがいる。

最後、地井もフーテン側に寝返り、町長側と廃鉱跡のウエスタン遊園地でのダイナマイトと銃による戦いになり、フーテンは全滅する。
そのアナーキーな雰囲気は、反体制運動の興隆を反映しており、銃撃戦の破滅は、1年後の連合赤軍による「浅間山荘事件」を先取りしている。
その意味で、藤田の時代感覚は大変鋭い。

この自己破壊衝動は、次の『八月の濡れた砂』、さらに『赤い鳥、逃げた?』で一層明確になる。
また、自己破壊的な衝動の激しさに反し、その表現は音楽に象徴されるように「少女趣味的」に抒情的である。
この矛盾が藤田の魅力である。
だから、見ているとひどく取り留めなく、一体何を描いているのか不明で、ムード的に流されていると、突然激しいアクションになる。

この作品の半年後、藤田は最後の映画『八月の濡れた砂』を撮り、日活は制作を中止し、数ヵ月後ロマン・ポルノとして再開される。
フィルム・センター