指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

ショパンと「よさこい節」との差異

2013年02月28日 | 音楽

木下恵介の喜劇『お嬢さん乾杯』は、一応名作とされている映画であるが、私はあまり好きになれない作品である。

佐野周二の自動車修理工場主と没落しつつある上流家族の長女原節子との見合いから始まる物語で、その言動や文化的差異を笑う喜劇である。

二人の文化の違いの象徴として、音楽があり、原節子はピアノを弾き、バレー公演に誘う。

踊っている貝谷八百子バレー団は、『レ・シルフィード』で、流れている音楽はショパンの『幻想即興曲』である。

この曲は、SPレコードを佐野が買ってきてバーで掛けるなど、何度か使われる。

それに対して、佐野周二が、原節子の誕生日で披露するのは、彼の故郷土佐の「よさこい節」の独唱であるが、結構上手いのだ。

また、佐野はボクシング(拳闘と言っているが)が好きで、試合を二人で見に行くなど、彼は粗野な男とされている。

だが、本来佐野周二は、知的で温厚な二枚目なので、乱暴な感じは受けず、その意味ではミス・キャストのように見える。

さらに、彼の子分が佐田啓二で、彼も不良少年上がりのようだが、これも適役とは思えない。

もっとも、戦後は日本映画界に男優が不足していたので、少ない役者がどのような役でも演じなければいけなかったのだが。

さて、ショパンと「よさこい節」は、文化的差異性を示すようなものだろうか。

本来、文化、芸術に上下や差別はないはずで、クラシックが上で、民謡などの民俗音楽が下ということはない。

第一、19世紀以降のクラシックは、マーラーやドビッシー、バルトークに代表されるように、何らかの形で民族的、あるいは民俗的音楽を取り込んでいる。

それは、「高校野球が神聖で、プロ野球が不純」といった昔々の議論と同じである。

戦前、戦後は、プロ野球は、職業野球と呼ばれ、スポーツではなく、見世物とされていたようだ。

 

つい最近知ったのだが、野球にも天皇杯は下賜されており、それは東京六大学の優勝校であり、また全国軟式野球大会の優勝者にも授与されている。

つまり天皇、すなわち国が認める野球は、アマチュア野球であり、プロ野球ではないのである。

 

松竹大船撮影所を代表するインテリ監督の大庭秀雄は、「木下君には、技術はあるけど、教養はない」とある雑誌で言っていた。

それは、木下には映画を面白く見せるテクニックはあるが、小学校唱歌の多用に見られるように彼には音楽的教養はない、との意味だそうだ。

そして、大庭秀雄は、大のクラシック愛好家だったらしいが、このあたりが松竹大船撮影所の「教養の限界」のように思える。

「よさこい節」を主題歌とした小林旭主演の『南国土佐を後にして』が、新生日活で大ヒットするのは、この役15年後の1959年のことである。

 

 


大塚和

2013年02月27日 | 映画

先日、このサイトの『石合戦』でも触れたプロデューサーの大塚和氏は、日本でも少ない独立的映画プロデューサーだった。

昨日見た、『お嬢さん乾杯』でも銀座の街頭の看板に「映画世界社」があったが、大塚氏は映画世界社が出していた「映画ファン」の編集長だった。

そこから宇野重吉に請われて1951年に民芸映画社に入り、さらに民芸と日活が提携したので、膨大な数の日活映画を製作した。

先日の『石合戦』のように日活配給作品の後、1956年の『姉さんの嫁入り』という斎藤武市監督作品が最初だが、そのほか日活時代の今村昌平の作品、

中平康監督の『才女気質』などの文芸作品のほとんどが、大塚和製作なのである。

そうした文芸作品のみではなく、吉永小百合・浜田光夫の大ヒット作『泥だらけの純情』、『キューポラのある町』、さらに神代辰巳の『かぶりつき人生』、

蔵原惟繕の『愛の渇き』、『非行少年・陽の出の叫び』、日活最後の藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』も彼のものなのである。

日活が不振になってからは、11人の監督、製作者らと「えるふプロダクション」を作り、熊井啓監督で『地の群れ』をATGと提携して作った。

山本薩夫監督の大作『戦争と人間』も彼のものであり、黒木和雄監督の『祭りの準備』、長谷川和彦の『青春の殺人者』もそうである。

最後は、熊井啓の『海と毒薬』だったが、これは私は見ていない。

日活のプロデューサーというとすぐに水の江滝子となるが、私は大塚と、小林旭の「渡り鳥シリーズ」から、吉永小百合の大ヒット作『愛と死を見つめて』、

さらに末期にはお色気モノでロマンポルノの先駆『秘帳・女浮世草子』まで作った児井英生と大塚和が、その多様性を作り出していたのではないかと思う。

1990年に75歳で亡くなられている。

因みに、大塚和は、おおつか かのうである。

 


『アカシアの雨がやむとき』

2013年02月26日 | 映画

この映画は、1963年『雨の中に消えて』と『非行少女』の後少しして公開された。

中学の同級生で、日活をよく見ていた男に聞くと「あまり面白くなかった」とのことだったので、その時は見なくて正解だったと納得した。

どことなくポスターの絵柄が古臭いような気がしていたからである。

今回、初めて見て、古臭いなと思った。

 

霧につつまれた湖で、会社員の庄司永建が騒いでいる。

日活お馴染みのボート屋のオヤジの山田禅二と駆けつけてきた警官の河上信夫さん。

一方、湖の岸辺でボートの中に倒れているレインコートの女性浅丘ルリ子を画家の高橋英樹が発見して救う。

浅丘ルリ子は、モデルで、写真家とボートに出て、襲われそうになり、男は湖に落ち、彼女だけが助かったのである。

なんとも古臭い話、まるで鶴屋南北の戯曲みたいではないか。

週刊誌等で、写真家の男との心中未遂事件にされてルリ子は、クラブを追われ、会社との契約も失う。

高橋英樹は、新進画家で、彼には友人で作曲家の葉山良二がいて、彼はクラブでピアノを弾いていて、そこで歌う歌手が西田佐知子。

一時は、葉山とルリ子が知り合って愛し合うようになるが、最後は元に戻る。

ともかく、古いのである。

これは戦後の日活映画ではなく、大映であり、監督の吉村廉、脚本の棚田吾郎も元は大映のスタッフだった。

ただ、特筆すべきは撮影の姫田真佐久で、諸処に凝った画面を作り出していたのは、さすがだった。

ラストは、勿論「アカシアの雨がやむとき」が流れる。

浅丘ルリ子が病弱な母親と住んでいるのが佃島で、実際の渡しの船内からのショットは珍しい。

また、浅丘ルリ子が一時期働こうとするダンサーたちのリーダーが千代郁子とは懐かしい。

彼女は、蔵原惟繕の名作で、ジャズへの日本人の誤解の集大成のごとき『狂熱の季節』以外に見たことはないので。

その後、浅丘ルリ子が引っ越す、長い木の橋があるロケ場所はどこだろうか、門前仲町の先あたりのように思えるが。

 

併映は、木下惠介監督の名作で、私には面白くない『お嬢さん乾杯』だが、スタンダードをビスタサイズで上映するという乱暴な上映だったのは驚いた。

銀座シネパトス


『人斬り』

2013年02月26日 | 映画

人斬りとは、人斬り以蔵として恐れられた土佐の岡田以蔵のことで、もうひとり薩摩の人斬り田中新兵衛も出てくる。

以蔵を演じるのは勝新太郎、新兵衛は三島由紀夫であり、その他坂本龍馬は石原裕次郎、1969年に大映で公開されたヒット作。

スターは、この3人で、他は武市半平太の仲代達矢、その知的な部下が下元勉、土佐藩士で以蔵に同情的な若者に山本圭など、新劇役者が多い。

下元が大きな役をメジャーな映画で演じるのは珍しく、独立プロでは山本薩夫監督の『武器なき闘い』で主人公の山本宣治を演じているが。

土佐で極貧の武士だった以蔵は、武市に見出され、京都で人斬りで名を上げる。

映画の冒頭で、吉田東洋の辰巳柳太郎を暗殺するシーンの殺陣がさすがに凄い。

辰巳は、普通の演技もうまい役者だったが、殺陣は特にすごく、本当に力が入っているように見える。

薩摩や長州に遅れて京都に上京した土佐藩は、過剰なテロと武市の権謀術数で名を上げていくが、次第に以蔵は余計者になってくる。

それは、薩摩藩の田中新兵衛も同じで、三島由紀夫は武市の謀略で所司代に捕まり、その取り調べの最中に自決してしまう。

この1年後に、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で自決してしまうのだが、こときは誰もそうは思えなかったそうだ。

監督が五社英雄、撮影が森田冨士郎なので、画面は華麗でメリハリが効いている。

音楽は佐藤勝で、これも大作にふさわしい単純なメロデイーである。

女性は、ほぼ祇園の下層の娼婦の倍賞美津子のみで、勝新とのシーンも激しいが、セックスはなく今見るとただのアクションである。

最後は、哀れなテロリストであるが、今見ると、市川雷蔵なきあと、大映で一人で頑張っていて、しかし勝プロダクションもテレビではうまくいかず、

大麻騒動等で見捨てられて行った勝新のことのようにも見える。

勝新はまさしく適役だが、やはりまだ若々しい。

日本映画専門チャンネル

 

 


『石合戦』

2013年02月25日 | 映画

浜田光夫の初出演作品としてしか意味はないだろうが、製作の形態を考えるとかなり興味深い。

製作は、民芸映画社の大塚和と富士映画社の山梨稔になっている。

大塚は、日活さらにフリーで名作を多数作ったプロデューサーだが、山梨は新東宝最後の社長であり、この頃は、富士映画社の責任者だったのだろう。

富士映画社は、戦前は東京発声映画スタジオで、東宝グループに統合されてからは、東宝第二撮影所で、大蔵貢の手で富士映画にされていた。

そこで、推測すれば民芸が俳優や旧左翼独立プロ系のスタッフを出し、富士映画がスタジオを提供して作り、日活で公開したのがこの映画なのだろう。

原作は、上司小剣で、夏休みの子供たちのことを描くものである。

上司は、実家が神社だったそうだが、主人公の浜田光夫(光曠)の父の小沢栄太郎(栄)は、由緒ある神社の神主だが、ひどい貧乏世帯。

母の山田五十鈴は、やさしいく「立派な神職になれ」としか言わないが、父は戦後の神社の地位の没落のことで手が一杯で、浜田のことなど無関心。

父親代わりのように、浜田や子供のことを心配して親身につくすのは、先生の内藤武敏。

彼は東大卒なのに小学教師で、板敷の橋を土建屋で県会議員の嵯峨善兵衛が渡っていた時、内藤担任の子供たちが彼にいたずらして川に落としてしまう。

すると嵯峨は怒り狂って、「あいつは赤だ、首にしろ!」と市長や教育委員などを脅す。

この辺は、レッドパージで大映をクビになった若杉光夫の、大映社長永田雅一への思いが込められているようにも見える。

もちろん、クビにはならないが、心臓病で大阪の病院に入院した山田は、病院には長くいられないとして勝手に退院してしまう。

多分、神職には健康保険がなかったためで、国民皆保険の国民健康保険ができるのは、1960年代である。

そして、山田は死んでしまう。

最後は、対立していた村の子供たちも仲直りし、浜田光夫は強い子になってハッピーエンド。

多分、児童映画として、学校、地域等でも上映されたのだろう、当時はそうした公共上映が多かったのである。

チャンネルNECO

 


『ロメオとジュリエット』

2013年02月24日 | 演劇

40年以上も芝居を見ているが、劇が始まるまでの会場案内等がいい加減だった集団で、ろくな劇にあったことはない。

新宿梁山泊の初めてのシェークスピア劇もそうだった。

中野の満天星というマンションの地下なので、チラシの案内図を持ち、地下鉄中井駅を出てすぐの交番で聞く。

だが、ここは新宿区で管轄違いでよく知らないようだった。途中でわからなくなり、八百屋で聞き、やっとマンションに着く。

この間、どこにも表示も案内板もない。

さらに、マンションの玄関にも会場の案内がない。

普通の劇団では、そのあたりで出店を出しているものだが。

いろいろ探し、階段脇のトイレに入ると、そこにいたおじさん(劇団とは無関係な方)に、「この下ですよ」と、教えてもらう。

 

今更ロメオとジュリエットの恋物語について言う必要はないだろう。

私も、蜷川幸雄が日生劇場で最初に演出した市川染五郎(現松本幸四郎)と中野良子とのも見ている。

その後、帝国劇場で野口五郎と藤真利子が主演したのもあった。

後者は、尾藤イサオらも出た「ミュージカル」だったが、『ロメオとジュリエット』ではなく、次第に『ウエストサイド物語』に見えてくるのがおかしかった。

さて、今回のはどうかといえば、かつて小林旭が「無意識過剰」と言われたことに倣えば、「無神経過」というべきだった。

ほとんどの役者に役作りは存在せず、各自が勝手に演じているだけ。

そして、音楽、ロックが1970年代のものでひどく古臭く、劇とまったく合っていなかった。

役者では、ロメオの申大樹は凛々しくて良かった。

だが、ジュリエットの傅田圭菜は、実祭はいくつなのか知らないが、16歳の処女に見えるだろうか。

申し訳ないが、まるで水商売の年増女だった。

昔、新派で水谷八重子(先代)と中村吉右衛門の『金色夜叉』を明治座で見たことがあるが、当時70以上だった八重子は、きちんと10代の娘に見えた。

現在では、ともかく役者の地を出すこと以外に演技の表現方法がないので、このような古典に対するとどうにもならなくなってしまうのである。

映画のオリビア・ハッセーとは言わないが、もう少し瑞々しい女優はいなかったのだろうか。

意外にも自然で面白かったのが、神父のマシュー・クロスビーで、彼のたどたどしい日本語の台詞はユーモアがあり救いだった。

唯一の収穫は、東京の新宿や中野にも下町的な住宅地があり、風呂屋まであることを知ったことだった。

芝居砦・満天星


光本幸子、死去

2013年02月23日 | 映画

女優だった光本幸子が死んだ、69歳。

光本と言えば、渥美清の『男はつらいよ』の初代マドンナとして有名だろう。

山田洋次は、役者のキャスティングの上手い人だが、この初代の光本のマドンナは実に良かった。

いつものほほんとして、ニコニコと寅次郎を見ている。

バカな男だが、実に愛すべきだなという視線は、森川信と同じで独特のものだった。

こういうなにもしていないような演技は結構難しいものであり、相当に良い女優だったが、新派で花柳らから学んだ演技方法だろう。

 

新聞の訃報には、「水谷八重子に師事し」とあるが私が聞いた話は少し違う。

彼女は、京塚昌子らと同じで、花柳章太郎に近く、彼が死に、新派が水谷八重子劇団になるとともに、居づらくなり新派を出たというのが真相らしい。

その後、明治座の役員と結婚されて引退した。

『男はつらいよ』には、さらに2回出ていた。

日本映画史に残る女優のご冥福をお祈りする。

 

 


八千草薫と矢代静一

2013年02月22日 | 演劇

テレビを見ていると八千草薫が健康関係のCMに出ている。

1931年生まれだから、今年で81歳になっているが、とてもそうは見えない、異常な若さである。

昔なら、80と言えば腰の曲がった、杖をつくおばあさんだった。

誠に日本の長寿化はすごい。

さて、八千草を見ると、いつも劇作家矢代静一のことを思い出す。

『絵姿女房』『黒の悲劇』『北斎漫画』等の傑作戯曲を書いた劇作家で、女優毬谷友子と文学座の矢代朝子の父親である。

二人の娘は、矢代と女優の山本和子(木下恵介の『女の園』での上級生)との間の子だが、実は矢代静一は、八千草薫と付き合っていたことがあった。

以前、読んだ彼の評論集にはっきりと書いてあった。

そのきっかけは忘れたが、八千草は、かなり文学志向の強い女性で、その点でも八代と上手くあったのだろうが。

八代は真剣に結婚まで考えていたらしいが、その頃ちょうど八千草が宝塚から東宝の若手大スターになる。

スターとして出世してゆくこの時に、結婚はダメということで、八千草の家族から反対されて上手くいかなかったようだ。

その代わり、山本和子との間に、矢代朝子と、極めて類まれな女優毬谷友子が生まれたのだからよしとすべきだろう。

因みに、今や矢代もそうだが、山本和子も比較的早く亡くなっていて、残されているのは、美人姉妹のみである。

 


『喜劇・爬虫類』

2013年02月21日 | 映画

渡辺祐介の作品は結構見ていて、そうひどくはないが、特に感動を憶えた記憶もない。

もっとも彼は、普通に面白い娯楽映画を作っているのであり、感動作なんてまっぴらと思っていただろうが。

松竹大船では、同じ新東宝出の瀬川昌治と並んで、城戸四郎社長のお気に入りであり、二人共多くの作品を監督している。

城戸四郎が東大が好きな性もあるだろうが、作品の出来がよく、それなりにヒットしていたからだろう。

 

さて、この喜劇は、渥美清、西村晃、大坂志郎、さらに森下哲夫の男4人が、アメリカ人ストリッパーを看板に北陸の田舎を廻るドサ・ストリップ一座の話。

渥美のヌードに合わせてしゃべる口上が傑作で、出身がハーバードやカルフォルニア、ペンシルバニア等の口から出任せ。

温泉場で、古馴染の風紀係刑事伴淳三郎の顔を立てたためにヌード禁止になり、たちまち舞台は閑古鳥になる。

そこに、小沢昭一が突如現れ、彼女はベトナムに行っている米兵の妻のアルバイトであることがわかる。

ここからは、渥美以下日本人のアメリカへの複雑な思いが炸裂し、彼女は基地に戻り、代わりに大阪のずべ公賀川雪絵をダンサーにして再出発する。

脚本の田坂啓や監督の渡辺、さらには昭和20年8月を敗戦で迎えた渥美清、大坂志郎、西村晃らにもある、ある種の反米意識だろう。

名著『戦後史の正体』も孫崎享にも見せたいような内容である。

 

併映の『スクラップ集団』は、筑豊から屎尿処理業を追われた渥美清、大阪でケースワーカーを辞めた露口茂、横浜での紙拾いから釜ヶ崎に来た小沢昭一らが、元医者の三木のり平と会う。

彼らは、この世のスクラップの処理、再利用が重要とのことで合意し、会社を作り、大成功する。

だが、独裁的な三木のり平のやり方に反発から、失敗に終わるというもの。

巨匠田坂具隆の遺作としては、やや物足りないが、原爆で体が不自由だったので、これ以後各社から企画が来ても田坂は、監督しなかったそうだ。

原作野坂昭如で、発想は面白いが途中で失速気味になるのが通例で、最後まで首尾一貫したのは、今村昌平の『人類学入門・エロ事師たち』くらいか。

新文芸坐

 


ドナルド・リチー氏、死去

2013年02月21日 | 映画

アメリカ人の映画評論家ドナルド・リチー氏が亡くなられた、88歳。

彼は、戦後来日し、米軍の新聞で映画の紹介、批評を担当し、特に日本映画のアメリカへの紹介に大変なご功績があった。

私が、最初に驚いたのは、彼の『黒澤明の映画』を読んだ時で、佐藤忠男の『黒澤明の世界』と共に、黒澤明についての極めて早い時期の評論集だった。

リチー氏の本は、黒澤の作品の内容、表現等をきわめて正確かつ精密に分析したもので、当時の日本の映画評論のスタイルにはないものだった。

実は、私は今「黒澤明論」の出版を準備しているのだが、それを書く上で一番参考になったのが、リチー氏と佐藤忠男さんの黒澤明論だった。

今や世界中で、黒澤明をはじめ、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男等の日本の映画監督が賞賛され、研究されてる。

その端緒を開かれたのは、間違いなくドナルド・リチー氏である。

 

また、佐藤忠男さんによれば、リチー氏は、特に日本の「庶民映画」が大好きで、これは世界的にも独自なものだと言っておられたとのことだ。

確かに、戦前からの松竹、東宝、大映等で多数作られた都市の中流から下層の市民の日常生活を題材とした映画は、世界的にも希なジャンルだろう。

似たものといえば、イタリアのネオリアリズム作品やイギリスのリアリズム映画くらいしかないかもしれない。

ともかく、異国の地で、その国の文化を紹介するというのは、その文化全体への大きな愛がなければできることではないだろう。

こういう人にこそ、本当は国民栄誉賞をあげるべきではないだろうか。

訃報で珍しいのは、喪主が友人となっていることであろう。

彼は独身だったので当然なのだろうが。

以前、石川好の本で、アメリカ人でアジア等の文化に惹かれる人には、心の優しい人が多いと書かれていたが、やはりそうなのだろうか。

ご冥福をお祈りしたい。


『渡り鳥故郷に帰る』

2013年02月21日 | 映画

1959年の『南国土佐を後にして』のヒットから始まった小林旭の「渡り鳥シリーズ」は、1962年までのたった3年間に9本作られた。

そして、この内8本は、小林旭と浅丘ルリ子の共演、監督は斎藤武市だった。

だが、1962年8月に「番外編」として作られたのが、この『渡り鳥故郷に帰る』だった。

注目されるのは、主人公は、小林旭だが、相手役はルリ子ではなく、笹森礼子、監督も牛原陽一で、脚本も山崎厳ではなく、下飯坂菊馬であることだ。

この旭・ルリ子の「渡り鳥シリーズ」が、1962年の春に中断してしまったのは、勿論マンネリから来る観客動員もあったろうが、旭とルリ子の破局であろう。

この頃、小林旭は、雑誌の対談で知り合った美空ひばりに惚れられ、付き合い始めていたからである。

そして、1962年11月に美空ひばりと小林旭は、結婚する。

これについては、いろいろな見方ができるだろうが、要はそれくらい小林旭の魅力と人気がすごく、天下の大歌手美空ひばりまで虜にしたということだろう。

この旭とルリ子の恋仲の破局は、「渡り鳥シリーズ」の終了になった。

だが、それは、石原裕次郎と浅丘ルリ子、蔵原惟繕監督の大傑作『憎いあンちくしょう』を頂点とする裕次郎・ルリ子の傑作3部作を生み出すことになる。

その意味では、二人の恋の破局は、日本映画史に残る大きな意義があったことになる。

 

高松(『南国土佐を後にして』を考慮し四国)に戻った旭は、組長の娘南田洋子と建築会社社長小高雄二との婚礼の夜に、組長が事故死したことを知る。

彼は、桂小金治のガソリンスタンドで働きつつ、次第に事件の裏、全貌を知る。

新興ヤクザ安倍徹に事故死させられたことが分かり、弟分の平田大三郎らがやられて、我慢に我慢を重ねていた小林旭は、安倍のところに殴り込む。

最後は、国道フェリーに乗って小林旭は、四国を去ってゆく。

 

作品としては、前8作とかなり違う。斎藤武市作品の明るさ、単純さはなく、かなり暗く真面目な感じである。

これは、監督の牛原陽一の資質であり、脚本の下飯坂菊馬と合わせ、大映的である。

また、このストーリーは、後の東映や日活、大映で多数作られたヤクザ映画のプロトタイプでもある。

笹森礼子は、浅丘ルリ子に似ているがやはり少々違う。

また、善玉の組の代貸で、実は安倍たちの手先になっていた、癖のある役者が出ていて誰かと思っていたが、元青年座代表でもあった森塚敏だった。

また、同じく青年座の初井言榮も着物姿で出ていた。

東中野ポレポレ

 

 


初めて全部を見た 『大幹部・無頼』

2013年02月20日 | 映画

1968年の初頭に公開され、渡哲也主演としては、初めて大ヒットの「無頼」シリーズ二作目は、舛田俊雄のチーフ助監督だった小沢啓一のデビュー作。

この作品は、公開当時に小林旭主演で、ブラジルを舞台にした映画『赤道を駆ける男』と一緒に見ている。

だが、この『大幹部・無頼』で渡哲也は、弘前駅で会い、苦境を助けた踊り子の芦川いづみが、横浜の娼館で娼婦になって再会する。

当時から芦川いづみのファンだったので、

「芦川いづみになんてひどいことをするのだ!」と思い、憤然として高田馬場日活を出たので、残りは初めて見たのだ。

もっとも、ラストの下水道での死闘の後、バレーボールのコートに渡哲也が逃げ込んできた死ぬシーンはどっこの特番で見たことがあったが。

 

昭和30年代の話で、戸籍なし生年月日不明の藤田五郎は、ヤクザになり、鑑別所の先輩で惨殺された待田京介の女の松尾嘉代の故郷弘前に行く。

その弘前駅、実際は湯田中温泉周辺で撮影したそうだが、ドサ周りの踊子一座がヤクザに温泉ストリップに連れて行かれるところに遭遇して助ける。

松尾嘉代は病気、結核だろうが、寺で寝込んでいて、そこの娘の松原智恵子と会い、渡哲也は、荷役作業員として働く。

そこのヤクザといざこざになり、事務所に行くと、知り合いだった内田良平に再会し、「何かあったらハマに来い」と言われる。

そして、横浜で、内田良平の組と山内明が組長のヤクザとの争いに巻き込まれて行く。

内田良平は、出身がもともと新劇の劇団新演劇研究所なので声が大変良いことに改めて感心した。

山内の代貸が二谷英明で、彼も渡の知り合いで、「先輩」と呼ぶ。

この先輩というのは日活的で、東映ヤクザ映画なら、兄貴と呼ぶところだろう。

東映のタテ社会関係に対して日活的平等主義である。

横浜の娼館(窓から海が見えるので本牧のチャブ屋だそうだ)、そこで娼婦に身を落とした芦川いづみに再会する。

彼には、渡を自分の兄を殺した敵と狙う田中邦衛がいて、彼は自己の罪を償うためか木像を彫っている。

 

最後は、内田の組と山内の組みとの出入りになり、待ち伏せ攻撃した内田が勝つ。

そして、「借りは返した」と内田と別れた渡だが、弟分の岡崎二朗を殺された怒りから、山内の葬式に行った内田たちを襲撃する。

 

丘を下る坂道から都電の車庫、路地、そして下水道、暗渠と内田良平、深江章喜らと渡哲也の死闘は続く。

トークショーでの小沢監督の話では、全員に破傷風の予防注射をしてアクションを撮影したそうだが、場所は中野近くの神田川だそうだ。

大変すごいアクションで、本当によく演じている。

ラストシーンは、女子高生のバレーボールの練習の前で渡が死ぬのだが、どう見ても女子高生ではなく、ママさんバレーにしか見えなかった。

二谷英明の妻で真屋順子が出ていたがm、日活では珍しい。

東中野ポレポレ

 

 


『妖星ゴラス』

2013年02月19日 | 映画

ロシアに落ちた隕石の被害が話題で、あの程度の大きさの隕石ですら大変な影響を与えるのには驚く。

さて、隕石ではないが、惑星が地球に接近するので、地球そのものを動かしてしまうという映画があった。

1961年の東宝の映画『妖星ゴラス』である。

これを最初に見たのは、新丸子の映画館で、東宝の特撮映画特集の4本立てだった。

朝の10時頃から、8時頃まで見ていたと思う。

中学3年生くらいの時で、よく見たものである。

映画『妖星ゴラス』は、妖星が接近し、爆発するのを防ぐため、ついに地球連合は、極地にジェット噴射基地を作り、地球を移動させてしまうのである。

そのことによって、地球全土に洪水などが起きるが、それが映画のクライマックスなので、特撮映画としては、ややカタルシスに欠けた印象だった。

ただ、この時期の東宝の特撮映画の発想、アイディアはなかなかすごいなと思うのである。

 


『ゆがんだ月』

2013年02月17日 | 映画

監督の松尾昭典は結構良いと思ったのは、後にベストセラー作家となる森村桂原作、吉永小百合主演の『私、違っているかしら』を見た時だった。

早稲田の映画研究会の1年上の宮島さんにそのことを言うと、かなり怪訝な顔をされたが。

その後、松尾作品では、『夜霧の慕情』『二人の世界』『泣かせるぜ』などのムード・アクション作品も、とても優れたもので後期日活の優秀監督の一人だと思う。

その他、高橋英樹の人気シリーズ『男の紋章』も彼の手によるもので、舛田利雄と並び、多彩な才能のある監督だったと思う。

その中でも一番得意なのが、サスペンスもので、これには『人間狩り』があり、この1959年の『ゆがんだ月』もサスペンスものである。

 

神戸で暴力団の手下の高原駿雄がピストルで殺され、その現場に三下の長門裕之は目撃していた。

真犯人は、兄貴分の梅野泰靖で、高原が組をやめようとしたからだった。

自分が可愛い長門は、組長三島雅夫らの言うことに従ってるが、高原の葬儀のとき、東京から妹の芦川いづみが神戸に来た時、彼女に真実を話してしまう。

そして、彼は東京に逃げてくる。

新聞記者が大坂志郎で、神戸で長門の面倒を見ていたが、東京には同じ記者の兄がいて、そこを頼って行く。大坂志郎は二役で演じるのがおかしい。

長門は、新宿のバーにバーテンで働くが、そこには神戸で同棲していた女の南田洋子も追いかけてくる。

それは良いが、ある日突然、「お前を殺しに来た」と凄味のある神山繁が長門の前に現れる。

この時期、神山は殺し屋役が多く、三島由紀夫主演、増村保造監督の『空っ風野郎』でも三島を殺す殺し屋は、彼である。

そして、この新宿のバーなどの女をめぐって麻薬タバコを吸わせて中毒患者にして、香港に売り飛ばす連中が暴かれる。

勿論、長門と大坂らの活躍で事件は解決される。

長門は、芦川が住んでいる千住あたりの貧困な長屋に行くと、彼女の許婚で赤木圭一郎に紹介される。

千住の長屋は実景らしく、この時期はまだ戦前からのような木賃住宅が密集した地域があったのだ。

また、その近くに長いレンガ塀の道が出てくるが、これは、石原裕次郎と浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、浅丘ルリ子が住んでいる町の路地として出てきたものと同じだと思う。

サスペンス映画の佳作で、撮影は姫田真佐久だったのは、さすが。

組長の三島雅夫はじめ、手下の梅野泰靖、麻薬売人の下元勉、殺し屋神山繁と全部悪人は、俳優座、民芸、文学座の新劇役者なのがおかしい。

阿佐ヶ谷ラピュタ

 


抜け殻のような戦後の山本嘉次郎作品 『愛の歴史』

2013年02月17日 | 映画

1955年、山本嘉次郎監督、鶴田浩二、司葉子主演のメロドラマで、当時松竹が大ヒットさせていた『君の名は』から明らかに発想された映画。

原作は、田村泰次郎で、婦人雑誌に連載されたものとのこと。

羽田空港に、香港からギャングの鶴田浩二が来て、富田仲次郎らの日本の連中に迎えられるが、鶴田は実はある女性を探しに来た。

 

戦地の中国で、鶴田の兵士と看護婦の司が、敵陣近くに包囲されて取り残される。

もう死ぬしかないと二人で共に自決しようとした時、日本の戦闘機が飛来し、同僚の藤田進も来て、二人は助かるが、その後バラバラになっていた。

鶴田は、残った中国で海賊の一味に入れられ、そこから香港のギャングになっていたが、これは鶴田の台詞で語られるだけ。

 

孤児の司葉子は、叔父で政治家の御橋公の家に居候し、病身を療養していた。

司も鶴田の帰還を待っていたが、なかなか戻って来ないので諦めて、政略結婚で、土建屋の息子藤木悠といやいやながら結婚する。

鶴田が司葉子のいる家や、藤木との新婚旅行の宿泊先で出会ったり、すれ違ったりする典型的なメロドラマ。

携帯電話があれば、すべて解決することばかり。

最後、鶴田は、自分たちの金を、倒産しかかっていた藤木悠の会社の再建のために役立ててくれと、司にあげ、ギャング一味と共に逮捕される。

 

自分の罪、つまり司葉子の純潔を奪った償いに1億円を司葉子に与えるのは、山本嘉次郎の贖罪意識の反映のように見える。

山本嘉次郎は、戦時中は『ハワイ・マレー沖開戦』『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』等の戦意高揚映画を作り、大ヒットさせていたのだから。

だが、いかにもいい加減であり、場内はしばしば爆笑が起こった。

東宝に、このようなセンチメンタルなメロドラマは似合わないのである。

そして、一番良くないのは、山本嘉次郎以下のスタッフが、メロドラマを作ることを一生懸命にやっていず、適当に作っているように見えることである。

松竹大船の、大庭秀雄以下のスタッフは、少なくとも『君の名は』の第一部は、真剣に作っていた。

円谷英二作の東京大空襲の特撮もすごい迫力である。

 

やはり、戦後の山本嘉次郎は、抜け殻のようなもので、それに対して戦時中の戦意高揚映画には、本気で作っていたように思う。

 司葉子が、療養している高原のサナトリウムの町の警察官で天津敏が出ていた。

鶴田浩二と手錠で手を繋いで、道を二人で歩くのだが、この二人は後に東映のヤクザ映画で、善玉のヤクザと悪玉の新興ヤクザで敵同士となる。

阿佐ヶ谷ラピュタ