裸祭の映像は、いろいろあるだろうが、その参加者のレポートというのはまずないと思う。
だが、それがある。
映画評論家で、日本映画の紹介にご尽力された、ドナルド・リチー氏である。
彼は、都内三多摩の裸祭に友人と参加して、その時のことを書いていて、彼の著作集に載っている。
それによると、次第に興奮していく様子がきわめて細かく書かれている。
興味のある方は、お読みいただきたい。
裸祭の映像は、いろいろあるだろうが、その参加者のレポートというのはまずないと思う。
だが、それがある。
映画評論家で、日本映画の紹介にご尽力された、ドナルド・リチー氏である。
彼は、都内三多摩の裸祭に友人と参加して、その時のことを書いていて、彼の著作集に載っている。
それによると、次第に興奮していく様子がきわめて細かく書かれている。
興味のある方は、お読みいただきたい。
岩手県の蘇民祭の裸祭部分が来年で中止されるそうだ。
昔、前田憲二監督は、記録映画『土俗の乱声』で、中部地方の裸祭について、「この裸の男が玉を奪い合うのは、1個の卵子に向かって無数の精子が戦い、卵を射ることの象徴のようだ」と言っていた。
たしかに、あの乱闘は、精子の運動のようにも見える。
昔の人が、精子と卵子のことを知っていたとは思えないが、なんらかの象徴性を込めたようにも思える。
『土俗の乱声』は、キネカ大森で見たと思うが、なかなか面白い作品だった。
真言宗の全面的な協力をえて東映が、1984年に作った空海の伝記映画。当時、さんざ予告編を見たが、はじめて本編を見た。
これは、はじめは空海に勝新太郎がキャステイングされていて、勝新と真言側との会合が開かれた。
その席で、勝は、
「空海は、唐に留学して多数の文献を持ってきたが、中には仏典だけでなく、エロ本もあったはずだ。
だから、俺はマスをかいて、ビンビュン精液を飛ばしてやる・・・」
これに真言側は、度肝を抜かれ、勝新には、ご辞退をいただき、北大路欣也に代わったのだそうだ。
もちろん、北大路は悪くないが、まじめすぎて、破天荒さがないのは、残念なところだ。
幼いころから、優秀さゆえに讃岐から、都(奈良)の大学に来ていた真魚は、本当の学問の意味はなにかと自問し、讃岐に戻ってくる。
それから、全国を修行に自ら彷徨するが、都の桓武天皇が、遣唐使を派遣すると知って、応募する。
その4隻の船の内の1隻には、後にライバルとなる最澄も乗っていた。
最澄も、当時最新の教えだった密教を学びたいとの意思があった。
空海の乗った船には、橘逸勢(石橋蓮司)もいて、彼は出世のために志願したのだが、空海は、本物の密教を学ぶために行ったのだ。
だが、ちっぽけな遣唐使船は、大風に遭って翻弄され、4隻の内、2隻は難破してしまう。
だが、運よく空海の乗った船は、大漂流して南に流されるが、なんとか中国に着く。
そして、、都の長安を目指して行くが、すでに最澄は、長安で密教を学んでいると聞いて、空愕然とするが、空海は、逆に自分こそ、本当の密教を学ぶと決意する。
長安で、彼は、まず梵語を学び、すぐに習得してしまうほど、空海は語学の天才だった。
全体の語りは、空海の叔父の役の森繫久彌のナレーションで進行してゆくので、大変分かりやすくできている。
ついに、密教の祖にじかに合うことができ、本当の教えを受けることができる。
この辺は、アニメなどを使って解説されるが、凡夫の私には、本当には理解できないところだ。
本来は、20年いるべき留学生を、2年で切り上げて空海は、日本に戻る。
西郷輝彦の嵯峨天皇から、そのことを問われるが、空海は、
「密教で、日本を救いたいのだ」と断言し、天皇の信頼を得る。
それは、宗教者というよりも、デマゴーグに近いが、彼が天才であることは間違いない。
そこに最澄の加藤剛が来て、密教の教えを懇願するが、空海は最後までは教えない。
ここは、秀才と天才の対決で、大変に興味深い。
空海は、故郷に戻り、水害を防ぐために、人造湖を作るが、嫌がる農民等を鼓舞し、昼夜兼行で土木工事を完成させてしまう。
まさに天才であり、イタリアのレオナルド・ダ・ビンチみたいな人間だったと言えるだろう。
音楽が、ツトム・ヤマシタで、ここはやはり伊福部先生の重厚さがほしいところだった。
空海の同船には、橘逸勢の石橋蓮司なども乗っていて、か
昔、BSの予告編特集で、司会の篠田正浩が、松竹と大映の母物映画を比較していた。
大映のは「演歌調」だが、松竹の木下恵介の『日本の悲劇』は、「母と子は絶対に和解できないこと」を描いていた、と言っていた。
この1959年の獅子文六原作の映画『広い天』は、一種の「母物」で、1945年、東京に住んでいた井川邦子と息子新太郎が離れ離れになり、本当は父親山内明の故郷の広島に息子だけ疎開させるものだった。
息子は、真藤孝行という子役で、当時松竹の映画に多数出ているが、江木俊夫みたいでかわいい子で、台詞が非常に良い。
だが、空襲で列車が止まり、乗客が避難するときに、新太郎は、疎開先の住所の紙を失くしくしてしまう。
仕方なく、偶然に前の座席にいた伊藤雄之助が、自分の四国の故郷に、新太郎を連れて行ってくれる。
四国の田舎の農家で、伊藤の兄の松本克平たちからは、いじめに近い扱いを新太郎は受ける。
伊藤は、本当は売れない彫刻家だが、木彫りで新太郎の姿を掘り、戦後東京の展覧会に出すと高い評価を受ける。
また、戦争から戻ってきた新太郎の父の山内明は、新聞記者で、彫刻の写真を家に持ち帰って井川に見せると、彼女は、すぐに新太郎だと直感して探す。
だが、その頃、新太郎は、四国から大阪への闇船に乗せられているというすれ違いが起きるが、伊藤の直感で、彼は美術館に来ているはずだとのことで、上野の美術館に伊藤雄之助、井川邦子、山内明が来て、再会のハッピーエンド。
かなりひねった母物だと思うが、実はこの映画のチーフ助監督は、篠田正浩だった。
彼は、当時の常で、予告編を担当したが、ラストシーンに、ベートーベンの『第九』の「歓喜のコーラス」を流し、試写では、大船撮影所中を『第九』が響いたのだそうだ。
衛星劇場
朝刊の広告に、東京工芸大学100年が出ていた。
小西六写真写真専門学校で始まった同大も、100年を迎えたのだ。
多くのアーチストが出ていると思うが、第一は、木下恵介だと思う。
当時から学歴偏重だった松竹では、大卒が条件だったので、木下も、入学して学歴としたのだ。
そして、彼は演出ではなく、撮影を担当していた。
その後、戦時中に映画『花咲く港』で監督デビューする。
戦後は、大活躍で、あの黒澤明の『七人の侍』よりも、『二十四の瞳』と『女の園』の方が上だったのだ、キネマ旬報のベストテンでは。
黒澤は、3位だったのだ。
私は、『二十四の瞳』は苦手な方になるが、『女の園』はすごいと思われ、これは大島渚の『日本の夜と霧』につながるものだと思う。
そして、木下恵介は、表現としては、かの小津安二郎につながるものだとも思う。
今日、黒澤明に比べて木下恵介は、忘れられた存在になっているようだが、私は大きく評価している人間の一人である。
『コミック雑誌なんていらない!』を見るが、1987年のこれは、実にバブル時代の東京の記録だなと思う。
女性たちのファッション、麻布あたりのカフェやレストランなど。
その意味では、貴重な記録だろうと思った。
1986年の映画、公開時に見たが、その時よりも面白かった。
内田裕也が演じるのは、テレビの芸能レポーターで、その名が木滑というのが笑える。
モデルにしているのは、梨本勝で、芸能レポーターをしているが、神田正輝と松田聖子への突撃取材で、石原プロの苦情から芸能番組をはずされ、風俗レポートに廻され、夜の新宿の歓楽街のレポートが一番面白く、実際に売れっ子ホスト役として郷ひろみが出て来て、その前で片岡鶴太郎が、郷の物真似で歌う皮肉。
同じマンションにいた殿山泰司や、内田の体を買った女性が、高額の純金商品で破産して自殺したこと等から、豊田商事を取材する。
当初テレビの人間は、取材に非協力的だったが、大阪で騒ぎが起きそうだとなると、手のひら返しで、内田を突撃取材に派遣する。
永野社長のマンションに行くと、ビート・たけしらの二人組が現れて、窓を壊して部屋に押し入り、社長を刺殺してしまう。ついに内田は部屋に突入し、二人と格闘の末、刺されてしまう。
生き残った内田に、テレビ局等がインタビューするが、
「日本人には言わないよ」でエンド。
麻生祐未がまだ若くてかわいかった。
朝日の夕刊に、旧根岸競馬場の馬見所等について特集されていた。
それは、それで良いが、この辺に「横浜市大病院が整備される計画もある」と書かれていた。
実に、余計なことである。
私の知る限り、このエリアに横浜市の所有地は、まつたくないはずであり、いったいどうやってそこに病院を建てるのだろうか。
このエリアは、ほとんどが国有地であり、それを取得するのは大変な作業と費用がいる。
また、あの高台に、患者と家族、医療従事者が、日々どうやって登るのだろうか。
今は、103系統というバスが、つづら折りの坂を上下する状況である。
新交通も無理なので、できるとすればケーブルカーくらいだ。
病院行きのケーブルカーというのは、私は聞いたことがない。
まことに非常識な考えであり、新聞記事だと思う。
前に書いた国有転貸については、少しだけ苦い思い出がある。
それは、港営課に来て1年後の春、課長に言われて、新興ふ頭等の家賃、つまり転貸料を値上げしようと各社に通告した。
金額は大したものではなかったはずだが、すぐに某倉庫会社の社長に呼び出された。
行くと非常に怒っていて、「こんなのひどい、いきなり言ってくるなんてなんて奴だ」
それで、「お前は、いつ港営課に来たんだ」と聞くので、
「去年です」というと、
「俺は、戦後ずっとこれをやっているんだ!」とのお答えで驚いた。
私は、戦後の1948年の生まれなんだから。
結局、戻って課長に報告して了解を取り、値上げ料を少し低くして、なんとか了解してもらった。
この間、彼ら新興ふ頭の倉庫会社の社長の間を行き来して思ったのは、
「この人たちは、元は戦前の国営の倉庫の関係者で、戦後国営ではなくなったので、自分たちで会社を作って払い下げを受け、以後管理運営しているのではないかとのことだった。
詳しいことは知らないが、たぶんそうだろうと今も思っているのである。
山田太一が亡くなられて、訃報に木下恵介に師事したと書かれていて、それは嘘ではないが、中にはかなり「変な作品」もあったようだ。
それは、泉京子さんを主人公とする『禁断の砂』シリーズで、山田は、篠田昌浩らと共に、水中撮影班の助監督として、伊勢志摩の海に潜り、海女の股座目掛ける撮影に従事していた。
どのような映画かと言えば、次のとおりである。
昭和30年代、「海女女優」として有名だった泉京子の主演映画。共演は、大木実、褌姿が珍しい美少年石浜朗、泉と対立する悪役が瞳麗子。子供を亡くして気が狂った女に桂木洋子、大木の親が飯田蝶子と坂本武と、かなり豪華な配役。監督は松竹には少ないアクション専門の堀内真直。
音楽は『水戸黄門』の木下忠司。当時すでに「バナナ・ボート」がヒットしていたので、カリプソ調の歌が歌われ、泉らが村祭りで踊るのが、笑いをこらえるのが大変だった。日本映画史上、黒澤明の『隠し砦の三悪人』の火祭りの舞踏シーンと並ぶ珍場面だろう。どちらも、日劇、松竹というダンシング・チームを持っていたので、できた。原作は房総にいた近藤啓太郎で、真面目な小説らしいが、ここでは泉の海女姿、衣が濡れて乳房が見えたり、踊りや乱闘で裾がはだけてパンツが見えるところが最大の売物。今見ると、どうということのない映像だが、邦画メジャーで見られるのは珍しかったので、大ヒットし4本も作られた。出来としては、筋に飛躍や破綻のない新東宝映画という感じだろう。本来、際物なのに真面目に作っているのが実におかしい。脚本とチーフ助監督が今や小説家の高橋治。篠田正浩や山田太一も助監督で、困難な水中撮影を担当したらしい。彼らは「清く正しい松竹女性映画」の破綻を密かに感じていたそうだ。 川崎市民ミュージアム
松竹にはふさわしくない「性的映画」だったが、ヒットしたので、4本も作られたのである。
海女映画は、結構あり、新東宝も作っていたし、後の日活ロマンポルノでも、藤浦敦監督で何本も製作されたのだ。
なにも、テレビの『あまちゃん』が、始めではないのである。
1982年1月の、クラッシュの東京公演は、非常に感動的で、今も開幕のとき、『荒野の用心棒』のテーマが流れて来た時の場内の大歓声を憶えている。今はなき、新宿の東京厚生年金会館ホールである。
この年は、イギリス、アメリカのバンドが多数来て、ザ・プリテンダーズやトーキング・ヘッヅなどがあった。
国内でもいいものが多数あり、郵貯会館での勝新太郎コンサートでは、「郵便貯金なんて俺にふさわしくない、不渡り手形ホールならぴったり」と笑わせてくれた。
『与那国の歌と踊り』を国立小劇場で見て、「沖縄は日本じゃない、むしろ中国文化だ」と思わせたのも、この年で、11月には民音の主催で『服部メロディ・イン・ジャズ』があり、『ミュージック・マガジン』に「なんて軽いステップなんだ」と書いた。
後に、演出の瀬川昌久にお会いして、このときのことを話すと、大変に喜んでいただいた。
1970年代後半、イギリス全体で、人種差別運動が盛り上がっていて、それはナショナル・フロントの組織化されていて、黒人などの団体やコンサートで衝突がおきていた。
さらに、エリック・クラプトンやロッド・スチュアートが、「差別発言」を公然としていて、ロック・パンク勢は、危機感を持っていた。
「黒人音楽から、自分の音楽を得ているのに、どうしたことだ」
そして、ロック・アゲインスト・レイシズムの運動が始まる。
当初、500人程度と予測したコンサートは、8万人の参加で大成功する。
翌年の総選挙で、ナショナル・フロントは大敗北する。
そして、今年、彼らが危惧していたように、イギリスの首相が、インド系の人間になった。
もっとも、彼は大富豪であり、反人種差別主義かどうかは知らないが。
シナリオライターの山田太一が亡くなられた。言うまでもなく、松竹大船の助監督だったが、やめて主にテレビで脚本を書いていたが、劇でも良いものが沢山あった。以下は、私が見たものの1本である。
山田太一、向田邦子、倉本聰の3人が、テレビの代表的シナリオライターとされた時代があったが、私は山田太一が一番好きで、倉本は大嫌いだった。向田邦子は、苦手だった。
1950年の松竹映画、監督は大庭秀雄で、主演は佐分利信、木暮美千代、そして津島恵子である。
原作は、大佛次郎で、外国にいて行方不明となっていた父親の佐分利が、戦後の日本で娘の津島恵子と再会する話であり、当時戦争で行方知らずになった家族が沢山いたことを反映した物語だといえる。
かなり長い間、NHKでは『訪ね人の時間』という「・・・という人を知りませんか」と放送していたものだ。
話としては、かなり上流に属する人間の再会話で、これを庶民化したのが、『君の名は』だとも言えるだろう。これは、大佛と菊田一夫との差でもある。
これを見て面白いのは、出てくる男は、みな卑怯なことで、戦時中に憲兵だった三井公次は、戦後は新聞記者になって進歩派に属している。
津島恵子の母親の三宅邦子が再婚した相手は、大学教授の山村聰だが、選挙に出るために、津島と佐分利の再会がスキャンダルにならないかだけを心配している。
木暮美千代の周りにいるのが学生の岩井半四郎で、軽薄なアプレゲールにされている。
この映画で正義とされているのは、孤独な人の佐分利信と木暮美千代だけなのだ。
この後、日活で、吉永小百合と森雅之、高峰三枝子で再映画化されて見たが、なんともピント来ない作品だった。監督の西河克己も上手くいかなかったと言っている。
衛星劇場
瑞穂ふ頭、ノースドックの米軍施設の機能が恒久化しているのが問題との議論がある。
私は、これに組みしない。
ここはほとんどが国有地であり、もともと国の埋立事業だったので、日本国がどう使うかは、国の意思だ。
だから、これを「横浜市に返還せよ」と言っても無理だろう。
しかも、コンテナ化が進んだ今日、ここの港湾としての使用は価値がないと思う。
だから、むしろ逆転の発想で、「ここは諦めますから、他の国有地を下さい」と交渉するのも手だと思う。
第一の例は、旧横浜市役所の前の、横浜公園である。
「あれが」と思われるだろうが、ハマスタのあそこは、全部国有地なのだ。
だから、ここを瑞穂ふ頭の代わりとして、横浜市の土地にしてください、ということは有効だと思う。
そうすれば、横浜公園全体をボールパークとすることもできると思うのだ。
やることはいろいろあるはずだ。
今の山中市長に、そうした発想はあるのでしょうかね。
山下ふ頭再開発を考えるにあたり、重要なことは、過去の横浜の近代で行われたことを検証することだと思う。
まず、幕末の開港のとき、攘夷派等の排外主義者から、外国人を守るために、吉田橋に関を設け、海側を関内地区とし、「関内、関外地区」を区分して、無事に開港を進めた。
そして、次第に日本全体が、排外主義から逃れて、明治の文明開化になり、横浜市と港は大発展した。
だが、1923年9月に起きた関東大震災は、横浜と港を壊滅させた。
このとき、横浜市というか、主に経済界だと思うが、その対応は優れたもので、大桟橋、新興ふ頭等の、国が行った復興事業に、25%も、横浜市として負担をしたのだ。
だから、国も、これをきちんと認めていて、今でも大さん橋、新興地区は、「国有転貸」という特別な制度で管理されている。
これは、同地区全部を、運輸省からいったん横浜市に貸し、その後に各民間企業に貸すという転貸制度なのだ。
これで、実は横浜市は、私が担当していたときでも、年間5000万円くらいの差益を上げていて、これは国も公認のことだった。
今後、山下ふ頭再開発についても、先人たちがやったことを参考にすればよいのではというのが、私の考えであるが、皆さんのご意見をいただきたい。