日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。
日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。
だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。
日本にも興味深い人間はいた。
陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。
満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。
この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。
日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。
だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。
日本にも興味深い人間はいた。
陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。
満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。
この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、
1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。
1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、
「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、
驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、
「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。
その度胸には、大変に驚いたものだ。
正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。
当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたのだ。
その後、すべてがPC化されたので、今はこんなことはできないのだろうが。
ともかく荒木田さんの度胸には驚いたものだ。
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。
このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。
昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。
私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。
大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。
戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。
1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。
そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。
さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。
ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。
赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。
また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。
主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。
監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。
意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる人である。
放送大学の野崎先生の映画の解説は素晴らしかったが、この赤木映画は、ご存じないようなので、ここに書いておく。
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。
浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。
それも大映京都の時代劇である。
市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。
当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。
本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。
花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。
この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。
そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。
ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。
さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。
人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。
だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。
人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。
実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。
もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。
そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。
その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。
唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。
懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。
それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。
パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。
そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。
店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。
私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。
この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。
朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。
だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。
朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。
その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。
そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。
そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるようになる。
大滝詠一などの、ニューミュージックのアーチストへの貢献が大きかったが、それは大滝らが、朝妻氏と同様に、アメリカのポピュラー音楽に大きな影響を受けてきた同根性があったからだろうと思う。
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。
彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。
彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。
こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。
「なかそね、みき君はどうしているかね」
秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」
「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」
後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。