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指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

日航社長は片岡千恵蔵の息子

2012年09月30日 | その他
土曜日の午前中、BSを見ていたら、日本航空の特集で、植木社長が出て、話していた。
彼は、時代劇の大スター片岡千恵蔵の三男なのである。
千恵蔵には3人の男の子と娘が一人いて、長男は、浄瑠璃の『重の井子別れ』の映画化である『暴れん坊街道』で父親と共演したのを、小学生の頃、母親と一緒に見たことがあるが、彼はその後やめたらしい。

三男も初め子役をやったようだがすぐにやめパイロットから地上勤務になり、現在は社長で、よく見ると当然だが片岡千恵蔵によく似ている。
思うのは、サイレント末期からトーキーへの時代、日本の映画界にも、阪妻をはじめ、市川右太衛門、嵐寛寿郎、入江たか子など、大スターのスター・プロが沢山あった。
だが、それらは皆トーキーへの移行の中で潰れて行った。

その中にあって、主役の片岡千恵蔵のみではなく、監督に山中貞雄、稲垣浩、伊丹万作らの優秀な人材を揃え、多くの秀作を作り、スタープロで最後まで残ったのが千恵蔵のプロダクション、俗称千恵プロだった。
意外にも千恵蔵には、経営の才能があったのだろう。
彼の欠点は、女に弱いことだったそうで、日航植木社長にも女には十分に気をつけてもらいたいと思う。
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『天地明察』

2012年09月30日 | 映画
江戸時代初期に、日本独自の暦を作った岡田准一が演じる安井算哲の苦労話で、少し長いが良くできている。
当時日本で使われていた暦は、800年前の唐時代のもので、日・月蝕などが、暦と実際の事象との違いがひどくなっていて、庶民の生活にも影響が出ていた。
安井は、碁打ち、当時から言わばプロの棋士がいて、彼らは武士に教えたり、天覧試合で生計を立てていた。
彼は、本因坊とも戦う高段者だった。
だが実は空の星を見るのと、算術が好きで、寺社に奉納された和算の設問を解くのが趣味の変わった男。
その和算の相手が関孝和で、市川猿之助が非常に上手い。
この碁と和算の件が長くて、肝心の正しい暦を作るために、会津藩主保品正之の松本幸四郎から命じられて、岸部一徳や笹野高史らと日本全土の測天の旅に出るまでに1時間かかり、この辺が少しもたもたしている。

旅の歩き方が、予告編で岸部一徳が奇妙に足を高く上げて歩いている。
当時の日本人は、左右交互に手と足を出すのではなく、手と足を左右同時に出す、「ナンバ」という歩き方だったので、変だなと思っていた。
ところが、これは万歩計のような木製の「測歩計」を腰に付け歩いた距離を図るためにやっていることだった。
なるほど。 

測量から実際に暦を作る段になると、山崎闇斎(白井晃、好演)が出てくる。
山崎の名は、神道家と記憶していたが、暦術は、陰陽道や神道とも深く関係があったのだ。
算哲や闇斎の長年の苦労で、日本に合った正しい暦ができるが、暦の変更は天皇の専権で、そこには公家が介在していて、様々に妨害してくる。
暦が天皇のもので、公家が実験を握り、それを暦として紙に刷って作る経師屋が大変な利権だったことは、溝口健二が映画化した『近松物語』、近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』で有名だろう。
本来、農耕神である日本の天皇は、農業に最も影響のある暦は、その所掌する業務の最も重要なものの一つだったのである。

どちらが正しい暦なのか、勝負として、従来のものと算哲らが作った暦を並べて競うことが公開の場で行われ、算哲らは正しく日食を予測して賭けに勝つ。
こうした勝負事、賭けは江戸時代に大変盛んに行われたもので、香道でも賭け香が行われたそうで、ついには幕府によって禁止されたそうである。

その後、安井算哲らの歴は、貞享歴として正式に採用され、彼はその名を渋川春海と改めて、幕府の初代の天文方になる。
江戸時代が、いかに文化の高い、成熟した社会であったかがよくわかる秀作である。

ただし、初めの方で、岡田准一らが食事をするが、誰もきちんと箸を持てないのには驚いた。
まあそうんなものだろう、この世代の連中は。
途中では、岡田は仕方がないのか、握り飯ばかり食べ、箸を持つシーンがなくなっている。
また、結婚する妻役の宮崎あおいが、着物で帯揚げをしていないので、「これは」と思って調べると、帯揚げは江戸末期から始まったもので、この時代はしなかったとのこと。
どうでも良いが、この作品もアカデミー賞に出されると、宮崎あおいは、実に変な顔の女優と思われるだろうね、欧米人に。
東宝シネマズ上大岡
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『フェイシング・アリ』

2012年09月28日 | ボクシング
アリとは、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンに3回なったモハメッド・アリのことで、彼と対戦した歴代ボクサーの証言と記録映像であり、ボクシング好きにはたまらない映画である。
私たち、日本のボクシング愛好家が、最初にヘビー級の世界戦を見たのは、スエーデンのヨハンソンと米国のパターソンとの対戦で、これは何度かベルトが行き来したはずだ。
その後、無敵の黒人ボクサー、ソニー・リストンが現れ、以後は黒人ボクサーの時代になる。
その象徴が、アリで、当時はカシアス・クレイと言い、日本でもあやかってカシアス・内藤がいた。
アリは、今はパーキンソンで話せないので、対戦したボクサーのインタビューになる。
ジョージ・フォアマン、ジョー・フレイザー、ラリー・ホームズ、さらにアリが最初にタイトルを取った相手の英国の白人アーニー・テレルなど。
彼らは全てアリを賞賛している。
その理由は、アリはクリンチワークなども使ったが、決して反則ではなく、本質的にはきれいなボクシングだったからだろう。
学生時代に習った白鳥先生によれば、「昔、大学の竜後藤と言われた後藤秀夫の時代では、クリンチのとき相手から、次の回で倒れろ、そうしないと殺すからな」などと脅かされたものだったそうだが、アリはそんなことは言わなかったのだろう。

昔、フライ級の世界王者になったこともある海老原博幸が、誰かとアリの世界戦を見に行き、レポートしたのをテレビで見たことがある。
海老原は、「アリはボクサーではなく、しゃべり屋だ」と言っていた。
そうした口撃も含めて、アリは相手を挑発していたのだろう。
これを見て驚いたのは、フレイザーやフォアマンなど、力任せのファイターだと思っていた彼らが、冷静で客観的に試合を分析、記憶していることで、そうでなければチャンピオンになれないと思った。
よく知られているようにアリは、ずっとパーキンソン病である。
パーキンソン病は、昭和天皇がそうであったことで分かるように、大変真面目で勤勉な男の人がかかりやすい病気なのだそうだ。
横浜ニューテアトル
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空洞化している自民党の地方組織

2012年09月27日 | 政治
自民党の総裁選挙は、安倍晋三元首相が当選する結果になった。
「昔の名前で出ています」
は、歌謡曲の世界だが、美しい国日本はどうなったのだろうか。

谷垣禎一前総裁が立候補を辞退したのには驚いたが、結局今の自民党には、かつてあった「良質な保守」というものは、もうほとんどなくなったように思う。
横浜市会の歴代の議長を見ても、自民党にも様々な議員がいたが、議長になる議員は、やり手だが少々クセがある議員ではなく、むしろ大人しくて目立たないが良識的で、言わば功なり遂げたような人が、自民党議員団の中で自然に選出されて他の党派からも認められて議長になってきた。
それなりに自浄作用がよく効いていたように思う。

それは、言わば儒学の「徳治主義」のようなもので、上に立つ者が、優れた徳を持っているとき、初めて世は治まり、上手くいくという考えであり、政治家の能力は二の次としたものである。
これが現代に正しいかどうかはわからない。
だが、今度の自民党の5人の総裁選候補の徳が高いとは、私には見えない。

要は、小泉純一郎が推し進めた「自民党をぶっ壊す!」路線が、ほとんど成就してしまった結果のように思える。
5人はすべて小さな政府、反福祉国家論者である。
だが、不思議なことに、安倍晋三がTPPには反対なように、それぞれ結構首尾一貫していない。
領土、領海問題のような愛国主義のみを声高に叫ぶのは、威勢は良いが、カラ元気のように見える。

かつて日本社会党には、「左翼バネ」というのがあり、危機になるとより左よりの路線をとった。
今回の自民党の総裁選挙劇は、「右翼バネ」が効いた結果のように思える。
小泉政権の力によって、従来は自民党の地域の支持組織だった農協をはじめ、医師会、ゼネコン、郵政(特定郵便局)等は、ほとんど地域で組織を失っている。
この間の自公連立政権の期間、その穴埋めをしてきたのが、地域の創価学会・公明党である。
自民党に詳しい人に聞くと、多くの地域では、「今はむしろ組合を基盤とする民主党の方が組織はきちんとしていて運動は活発で、自民党は各議員の個人的後援会のみになっている」そうである。
かつて、日本社会党から新自由クラブ、日本新党、さらに新進党、そして民主党の選挙は、「無党派の風頼み」と言われた。
だが、小泉構造改革の結果、抵抗勢力を切り捨てて、自民党は無党派層にまで手を伸ばしたが、同時に「風頼み」になっているとのことである。

世論調査では、自民が1位なので、自民、公明、維新の会あたりの連立政権になる、との予測だが、そう簡単になるだろうか。
今は大人しくしている「国民の生活が第一」の小沢一郎が、黙ってこのまま自民党政権の返り咲きを許すことはないと私は思う。
奇しくもこの日、彼の政治資金規制法違反の控訴審が、たった1日で結審してしまった。
結果は決まっている。
この次は、小沢一郎の動きが一番の注目である。
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『行き止まりの挽歌 ブレイクアウト』

2012年09月27日 | 映画
日活が、ロマンポルノを中止し、ロッポニカとして再出発したときの作品の一つだが、ヒットしなかったもの。
話は、新宿のはぐれ者刑事の藤竜也の活躍を描くもので、コンビの若者は村上弘明、課長の成田三樹夫は懐かしい。まだ生きていたのだ。
ロック・グループのグルーピーで、殺人犯の少女が、石野陽子で、まったく魅力がないのが大きな欠陥の一つ。
全体に、藤竜也はアクションを含めて魅力的だが、ともかく暗い。
当たらなかったのは当然である。

中では、途中で暴走族に追われるシーンがあり、そこは横浜の東高島埠頭だった。
ここは、桜木町から新興埠頭に行く、今は遊歩道になっている「ウィンナー」と同じ、はしけ荷役の屋根付きの岸壁だった。
勿論、鉄道が引かれており、主にバルクカーゴの荷役をやっていたが、1960年代中頃からは使用が低下して、半ば遊休状態だった。
中では、川村毅がやっていた第三エロチカが、その水面等を使って大げさだけで中身のない芝居をやったこともある。
今は、もうないので、その意味では貴重な映像である。

見た映画館は、ヒューマントラストシネマ有楽町で、ここはイトーシアというビルの中である。
ここには、昔有楽シネマという小さな映画館があったが、このトラストシネマはテアトルが経営しているとのことなので、有楽シネマもテアトル系だったのか。
ATG作品も、封切りではなかったが1980年代の最後まで上映していたし、また市川雷蔵の『陸軍中野学校』なども見たことがあるが、確かにニュース映画は、東宝系の「朝日ニュース」だった。

この前に見た『弾丸ランナー』は、どこが良いのか不明な作品で、ひどい駄作だった。
こんなものをなぜ「日活100年特集」の1本に入れたのか実に不思議。
日活のナムコ時代の代表作なのだろうか。
ヒューマントラストシネマ有楽町
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『ボクの四谷怪談』

2012年09月26日 | 演劇
幕開き、めちゃめちゃな感じで多くの役者が登場したので、「これはいいぞ」と思う。
実は、脚本が橋本治なので、昔彼が書いたサイケ歌舞伎『月食』という駄作ミュージカルを見たことがあり、宮本亜門の演出だったので仕方がないとは思ったが、これはどうかなと心配だったのだ。
話は、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の世界を借りたものだが、登場人物はすべて1970年代的になっている。
田宮伊右衛門は、なんとなく生きている半失業者で、浅草の路上でカラ傘を売っている。
そこに娘のお梅に引っ張られてベルボトム・ジーンズのラジオの人気DJの伊藤喜衛門が来る。
この辺の感じは、藤田敏八の映画『妹』みたいだな、と思う。
1幕目は、筋売りなので次第に退屈になり、終わりの方は寝てしまった。

だが、二幕目の伊右衛門浪宅でのお岩の「これが私の顔かいな」と第二のお岩のワーグナーの「ワルキューレ」をバックにした「愛」、さらに隠亡堀での伊右衛門、直助、与茂七らが合唱するバカバカしさはには興奮した。
三角屋敷で、お袖と直助が実は、兄妹で、当時の言葉で言えば畜生道に落ちてしまう、世の不条理。
まるで世の中の奥底を覗き込んだようなリアルさがあるが、彼らをガス爆発で殺してしまうのは、勧善懲悪にしたくない橋本の企みである。
近親相姦のどこが悪いという、反道徳性。

最後、伊右衛門は、お岩に向かって「お前はだれだ」と聞く、
お岩は答える。
「それはお前だ」と。
これは少しシラケた。
1970年代の自分探しだったのか。
確かに、1960年代中頃から1970年代は、自分探しの時代で、それは最後オウム真理教に行き着くのである。

さて、これはあまりにも1970年代的だな、と思い高価なパンフを買うと、この戯曲は、1976年に橋本治が書いたものだという。
だから、「のど自慢」の場面で、「布団屋の息子はバカ息子で、飛行機で自殺した」という歌が出てきたのだ。
これは1976年3月に、当時ロッキード裁判で問題にとなっていた児玉誉士夫の邸宅にセスナ機で飛び込み自殺した、日活の俳優前野霜一郎のことなのだから。
前野は、都内の布団屋の息子で、子役から日活に入り、ニューアクション時代の「野良猫ロック」シリーズでは脇役で出ていた。
その彼が、なぜか児玉誉士夫邸宅に飛行機で飛び込んだのである。

久しぶりの蜷川幸雄の快作に一つだけ文句を言えば、音楽がテープなことで、もし生バンドの演奏だったら、この劇の感動は、3割以上も上がったに違いなく、再演の時は、是非生バンドのライブにして欲しいものである。
シアター・コクーン

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『ボブ・マーリー』

2012年09月25日 | 音楽
世界中のポピュラー音楽を愛好する私だが、シャンソンとレゲエには興味がない。
だが、ボブ・マーリーだけは唯一の例外で、レコードも持っている。
彼にはどこか悲痛な哀愁が感じられるからである。
今回、この伝記映画を見て、その理由がよく分かった。

この映画で初めて知ったが、彼は、妙な言い方になるが純粋な黒人ではなく、ジャマイカにいた英国の大富豪とジャマイカ女性との間に生まれた混血だったのだ。
ブラジルで言えばムラート、アメリカのニューオリンズでは、クリオールである。
ブラジル音楽に詳しい人なら、ムラート音楽の中心に哀愁があることはよく知っているだろう。
ボブ・マーリーにも、どこか悲痛な哀愁のような叫びがあり、そこが一種能天気な他のレゲエ歌手との違いを生んでいると思う。

今から20年以上前に、ナイジェリアのキング・サニー・アデと共に、ジミー・クリフがやってきて、読売ランドでフェステイバルをやった。
クリフの公演は、それなりのものだったが、なんとも腰の軽いもので、底抜けの明るさには感動できるものはなかった。
その点、ボブ・マリーは違う感じがする。
ラスタファりへの傾倒も、彼の混血というアイデンティティの不安から来るものだと思えば、納得できる。

キリストの再来であるジャーとされた、エチオピアのハイラシラシエ皇帝の来訪、ボブによるジャマイカの二大政党である人民国民党PNPとジャマイカ労働党JLPのそれぞれの党首の、コンサート会場での握手など、大変な熱狂の貴重な映像も多数入っている。
1971年4月彼は、ガンで死んでしまう。
今はこうしたカリスマは、世界中のどこにもないだろう。
角川シネマ有楽町

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新・東京宝塚劇場に初めて行った

2012年09月23日 | 演劇
次女が、就活で見に行けなくなったので、代わりに宝塚花組公演を見に行く。
『サン・テクジュペリ』と『コンガ!』

考えてみれば、2001年に改築された東京宝塚劇場に入るのは、初めて。
1970年代は、よく来たもので、まだ真帆志ぶきが専科にいて、鳳蘭、安奈淳、汀夏子、麻美れい、榛名由梨、大滝子、退団後参議院議員になった松あきら(来年引退する)などが各組のトップだった。
『ベルサイユのバラ』も全部見た。
その後、大地真央時代にも来たが、その頃から来ていない。

劇場は、以前に比べて随分横長になっている。
改築前は、となりにあった映画館スカラ座を地下に入れ、その分敷地を広げている(前のビルにあったみゆき座も同時に入れている)。
大変に横長の劇場だが、1階だけで約千席はある。
これは、宝塚市の宝塚大劇場と同じサイズの舞台にすることが大きかったのだと思う。
セットの他、照明やミザンセーヌ(舞台で役者が立つ位置)を同じにできるので、舞台構成上は大変都合が良いからである。

演目は、作家で飛行家だったサン・テクジュペリを主人公としたもので、勿論花組トップスターの蘭寿とむの主演。
脚本は、例によってやたらに幻想的シーンに強引にしてしまうもので、隣の若い女性は、幕間中に友人に筋を聞いていたほど、意外にもわかりにくいもので、その意味では単純な話なのにスッキリしていない。
だが、主演の蘭寿とむは、踊りが大変軽くて良かった。
昔で言えば、安奈淳のような感じである。
相手役の蘭野はなは、その名前のように娘役にしては蘭寿とむと似た感じだが、途中で星の王子様の少年役を演じたところは良かった。

ショーの『コンガ!』は、その名のとおりキューバの楽器コンガに象徴されるトロピカルな情景の作品で、ダンスは素晴らしいが、音楽的センスが1950年代に止まっている。
確かに1950年代は、ロック時代が来るまで、ラテンは全盛時代で、世界中の人気音楽だったが、そこでラテンが止まっているわけではない。
ボサノバはもちろん、サルサもあり、レゲエやランバタも出てこないのはどうしたものなのか。

今のラテン・アメリカでは、サルサが全盛だと言ってよいのに、いつまでも1950年代のラテンはあんまりである。
この辺は、音楽も外部の人間を使わない宝塚の弊害である。
ラテンの基である、西アフリカ、ザイールやコンゴのリンガラをやれとは言わないが。

久しぶりに宝塚を見て、この歌劇団の大げさである種特別な演技をはじめキンキラキンの衣装、美術は、まさに関西趣味であり、武智鉄二流に言えば、庶民のエネルギーの表現であり、それは歌舞伎と同じであることを再確認した。
東京宝塚劇場
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『阿修羅判官』

2012年09月22日 | 映画
1951年、大映で作られた大河内伝次郎主演の大岡越前もので、監督は森一生、共演は長谷川一夫、入江たか子、長谷川裕見子らである。
若き日の大岡越前の大河内伝次郎は、ヤクザの仲間にいて、情婦の入江たか子もいて、家からは見放されていた。

10年後、江戸南町奉行となった大岡越前は、もちろんきちんとした妻を迎えている。
長谷川一夫は、将軍徳川吉宗である。
その頃、江戸の町に5人組の盗賊団が暗躍する。
黒装束のうち、「2人の者の走り方が変だな」と思うと、それは盗賊になった入江たか子と長谷川裕見子の母娘で、勿論大岡越前の子である。
盗賊団が逮捕され、お白州で、入江たか子、長谷川裕見子母娘が、大岡越前の大河内伝次郎のお取り調べを受ける。
これって、泉鏡花原作の『滝の白糸』ですね。
溝口健二の映画『滝の白糸』で、水芸人で、殺人罪で捕まり、裁判長岡田時彦の裁きを受けるのも、入江たか子だった。
脚本は、新藤兼人なので、「時代劇で『滝の白糸』をやろう」との発想で作られたのかもしれない。
この時、長谷川一夫は、ほとんど撮影現場に来ず、また監督の森一生とは初めてだったらしいが、なぜか森は、長谷川のお気に召したらしく、この後、長谷川の当たり役の銭形平次シリーズの監督に何度も起用されることになる。
森一生の効率的で、しかも画面がきちんとしている撮影法に感心したのだと思う。
何しろ、森という人は、いわゆる「中抜き」撮影の際に、シーンを超えても出来たという人だったというのだから信じがたい。
チャンネルNECO

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『恋や恋なすな恋』

2012年09月21日 | 映画
1962年に東映京都で作られた、内田吐夢監督作品。
脚本は依田義賢で、(大映)となっていて、この頃は脚本家も専属制で、川島雄三の『幕末太陽伝』も、松竹の山内久の変名の田中敏夫になっている。

主演は、大川橋蔵と嵯峨三智子で、嵯峨三智子は、楓とその双子の妹葛の葉、さらに白狐が化けた葛の葉の三役を演じる。
尤もどれも嵯峨三智子で、演じ分けはないが。
話は、歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』の「葛の葉」、あるいは舞踊の「保名」の、阿部保名と葛の葉の悲恋物語である。
元は、『小栗判官』や『刈萱』、『山椒大夫』などと同じ、説教である。

平安時代の中期頃、天変地異が起き、月に白い虹がかかる。
天文博士の加茂(宇佐美淳也)は、天皇への上奏の途中、後妻の日高澄子の企みで、殺されてしまう。
日高澄子は、弟子の一人の道満(天野新士)と出来ていて、宇佐美の養女で嵯峨三智子の楓と、彼女と恋仲の阿部保名の大川橋蔵を陥れようとしている。
楓は、拷問で死に、保名も都から逃げて、信田村に行く。

そこで、双子の妹の葛の葉に会うと、この間の災厄で気が狂ってしまった保名は、葛の葉を楓だと信じ込む。
その村に、東宮(河原崎長一郎)が世継ぎを得るには狐の生き血が必要とのお告げから、日高澄子の手下の山本麟一を頭領とする狐狩り武者が来て、白狐が傷つけられるが、保名に助けられる。
この狐の老夫婦は、薄田研二と毛利菊子という配役はさすがである。
その他も明石潮、小沢栄太郎、月形龍之介、柳永二郎など、渋いが豪華な配役は、監督内田吐夢の力である。

最後、阿部保名は、無実が証明され罪状も晴れるが、信田村に残り、狐の嵯峨三智子と結ばれることを示唆して終わる。
これには、「あれっ」と思った。
歌舞伎や文楽では、保名は葛の葉と別れ、
「恋しくばたずねきてみよ 」の有名な歌を残すと記憶しているが、そこは変えている。
多分、これは監督の内田吐夢の願望からだと思われる。
「葛の葉」の、保名と狐の別れは、明らかに被差別の身分差別を表しているはずだ。
今でも、結婚差別など、差別意識は現存する。
こうした差別への否定の思いを込めて、監督の内田吐夢は、保名を狐の葛の葉と共に、信田村に残すことにしたのではないかと思う。
『飢餓海峡』の主人公犬飼太吉にしても、差別を描き続けた内田吐夢らしい「葛の葉」だと思った。

それにしても、大川橋蔵は、悲恋が似合う役者である。
この共演で、彼は嵯峨三智子と恋仲になってしまい、まさに「恋や恋、なすな恋」になってしまったとは、まさに役者らしいできごとというべきだろう。
新文芸坐
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『あなたへ』

2012年09月19日 | 映画
富山刑務所で、嘱託の技官をやっていた高倉健が、リンパ癌で死んだ妻田中裕子が「故郷の平戸の海に自分の骨を散骨して欲しい」と遺言したので、富山から平戸に行く話だが、要はそれだけ。

刑務所に慰問歌手として来ていた田中裕子と高倉健が結ばれる件と、田中裕子が慰問歌唱の中で、獄中の受刑者と密かに通信をしていたというのも説明が不足でよくわからない。
昔、歌謡曲に、ムード歌謡というのがあったが、これはムード映画で、中身は観客が想像しろ、というとんでもない偉そうな作品である。
私は健さんは大好きだが、この映画は好きになれない。

ビートたけしから大滝秀治、浅野忠信、佐藤浩市、余紀美子、原田美枝子、長塚京三、綾瀬はるかなどの豪華キャストだが、なんともドラマが薄い。
唯一意味があるとすれば、草薙剛と田中裕子の演技だろう。
草薙の演技はいつもながら自然で、まさに天才である。

草薙と佐藤が演じ、高倉健も、草薙の柔らかな図々しさについ巻き込まれて手伝ってしまう、デパート、スーパーでの実演販売の会社は、「北海道の本社での「イカめし弁当」販売よりも、こうした店頭での実演販売の方が多い」と草薙が言う。
これは実際にそうで、デパートやスーパーでのイベントでの販売の他、各地の展示場で行われる展示イベント、こうしたところへの出店のみで営業している会社は実際に結構ある。
これは、一種の無店舗販売で、店舗の家賃、売り子の人件費、その他余計な費用がかからないので、結構儲かるもののようだ。

昔、港湾局にいたとき、山下町の産業貿易センターの1階の展示ホールに港湾関係のブースを出すことになり、そのときに関係者から聞いたことなので、もう30年くらい前のことである。
当時からそうした連中は多数いて、まるでテキ屋のように日本中を歩いているとのことだった。

田中裕子は、いつもの自分勝手な間ではなく、相手役に合わせた間で台詞を言っている。
これは、田中が年をとった性なのか、あるいは高倉健さんに遠慮したためなのか。

いきなり、田中裕子が竹田城で歌を歌うので、「大分の竹田に行ったのか」と思ったが、これは兵庫の竹田というところなのだそうだ。
そんなところ、知っていました?
東宝シネマズ上大岡
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『See You  海へ』

2012年09月19日 | 映画
脚本の倉本聡は好きになれないので、見ていなかったが、正解だった。
前にも書いたが、私は車にまったく興味がないので、いくらカー・レースの映像が続いても興奮できない。

パリ・ダカール・ラリーに参加する高倉健以下、三菱自動車チームの話で、ロード・ムービーである。
そこに、高倉といしだあゆみ、さらにフィリップ・ルロアとの奇妙な三角関係、またレースに参加した人気タレントの大橋吾郎を追いかけてくる女性歌手桜田淳子の竹井夕子のストーリーが絡むというものであるが、少しも面白くない。

唯一笑ったのが、桜田淳子の竹井夕子が隠れて逃げてきたことが分かり、チームの若者が大騒ぎしていると、高倉健が、
「竹井夕子って誰だ」と聞くところだけ。
長い間、欧州にいた高倉は、日本の芸能界を知らないのだ。

監督の蔵原惟繕のロード・ムービーには、大傑作の石原裕次郎と浅丘ルリ子の『憎いあンちょくしょう』、さらにまあまあだったサファリ・ラリーを舞台にした『栄光の5,000キロ』もあるが、これらはどちらも主人公の石原裕次郎自身がドライバーなので、物語にドラマがある。
だが。ここでの健さんは、ドライバーではなく、レース車を援助する後方のメカニックなので、ドラマは一向に盛り上がらない。

桜田淳子がいきなりラリー現場に現れるのも不思議で、ビザはおろかパスポートも持たずに来たらしいのだから、すごい。
最後、いしだあゆみの車が爆発してしまうのも説明がない。
適当にムードで理解しろというのだろうか、倉本大先生。

ダカールで、桜田淳子と大橋吾郎が愛に結ばれ、マスコミからインタビュされる。
これは『憎いあンちょくしょう』のラストシーンを思い出すが、少しも感動的ではない。
蔵原惟繕監督作品は、嫌な言葉だが、ある瞬間突然「めくるめくような興奮」が来て、異常に盛り上がるところが最高なのだが、この映画にはどこにもなかった。
唯一の価値があるとすれば、桜田淳子の美しさで、完璧である。
統一協会によって結婚引退したのは、誠に残念なことであったことを再確認した。
日本映画専門チャンネル
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『ビーズ・イン・アフリカ』

2012年09月18日 | その他
葉山の県近代美術館で、『ビーズ・イン・アフリカ』展が開催されているというので、見に行く。
基本的に、鎌倉や逗子、葉山と言ったところは嫌いなので、普通は行かないようにしている。
理由は、「文化的」で偉そうにしているからである。
勿論、町に責任はないが、そこに住んでいる人間が、「自分たちは文化的で偉いんだ」と思っているように見えるからである。
それは、もちろん蒲田という非文化、低俗性の極みのすぐ近くの大田区池上に育った私の僻みだが。

葉山館でやっているので、仕方がないので、新逗子まで京急で行き、バスに乗る。
逗子の海岸を抜けて行く。
逗子海岸、日蔭茶屋、葉山マリーナ、森戸海岸など、どれもよく聞き、映画等でも見たところ。



『ビーズ・イン・アフリカ』は、日頃、ビーズなどにまったく興味がない私だが、見に行ってとても良かった。
カメルーン、スワジランド、ナイジェリア、ズールー、ソマリア等のビーズによるネックレス、ブレスレット、人形、帽子、椅子などが多数展示されていた。
そして、驚いたことに、その素材もダチョウの卵などから、ガラス、琥珀、さらには鉄と様々で、その使途も王様の権威を示すものから、庶民の装身具まで、実に多様なのだ。
ただ、結婚や成人など、通過儀礼に関係するものが多いのが興味深い。
しかし、アフリカに他国から持ち込まれたビーズの替りの輸出品に奴隷があったと言うのは、少々心が痛むが。

確かに、電気的照明や人工的な色彩彩色のカラフルさに慣れている私たちではわからないが、ビーズをつないだ色と形の美しさは、極上のものだっただと思う。
ビーズによる世界的な交易のネットワークが古代からあったとは初めて知った。
10月21日まで開催されているので、少々遠いが興味のある方は是非。
神奈川県立近代美術館葉山館
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『僕はエルサレムのことを話しているのだ』

2012年09月16日 | 演劇
東京演劇アンサンブルが、今回アーノルド・ウェスカーの三部作の内、『大麦入のチキンスープ』と『僕はエルサレムのことを話しているのだ』を上演し、後者を見た。
この2本の間に『根っこ』、ルーツがあり、この劇について、ウェスカーは、小津安二郎の『東京物語』の緩いテンポが作品に大きなヒントを与えたと言っているのは、有名だろう。

さて、この『僕はエルサレムのことを話しているのだ』は、1946年夏、イギリスの総選挙で、労働党がチャーチルの保守党に勝った時から始まり、1959年に保守党に敗れるまでの、イギリスの下層階級のインテリであるディブとアダのシモンズ夫妻のことを描いている。
戦時中は、従軍してインドに行き、戻ってきて工場に勤めたが、その搾取される労働が嫌になり、ディブは、田舎のノーフォークに行き、そこで初めは農場の労働、それがうまくいかなくなっては、手作り家具の仕事をして、あたかもウィリアム・モリスが提唱した理想の生活をしようとする。
もちろん、それはうまく行かず、最後はロンドンのアパートの部屋で注文仕事をすることになる。
ここには、様々な問題、課題があり、それを一口には言えない。

ウェスカーは、1960年代は、日本でも行き詰った社会主義リアリズムに代わる希望の劇作家のようにみなされた時代がある。
私が所属していた学生劇団は、私が入学する数年前に『大麦入のチキンスープ』と『僕はエルサレムのことを話しているのだ』を上演していて、1966年の春には、つまり私が入学した時には、『根っこ』をやったのだが、その時はまだ映画研究会にいて、演劇研究会には入っていなかったので、見ていないが、ともかく当時ウェスカーは、一番人気のある劇作家だった。

後の黒テント、佐藤信、津野海太郎、山元清太らの演劇センターは、明らかにウェスカーたちのイギリスでの演劇運動(演劇運動と政治運動の協同)を意識して模倣しようとしたところがある。
もちろん、成功しなかったが。

数年前に、蜷川幸雄がシアター・コクーンで、まるで男版の宝塚のようにして、ウェスカーの『キッチン』を上演したことがある。
結構面白くて、これでやっと政治的見方ではなくて、きちんとウェスカーを評価できる時代が来たと思った。
だが、今回のようにきわめて政治的メッセージ劇のように演出されては、時代は逆に戻ってしまったのか、としか思えなかった。
そして、この3部作を通じての主役であり、多分ウェスカーも精神のよりどころとしてのは、ユダヤ人の母親サラ・カーンだとあらためて思った。
ブレヒトの芝居小屋
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編み物のできない女優

2012年09月16日 | 演劇
練馬の武蔵関までに行き、東京演劇アンサンブルの『僕はエルサレムのことを話しているんだ』を見た。
かつて劇団三期会といい、新劇の中堅劇団だったこの集団は、本郷淳、塚本信夫らの地味だがなかなか良い役者がいた。
調べてみると、愛川欽也も初期にはいたようだ。
今では、溝口健二の映画『赤線地帯』等に出ている入江洋祐だけが創立以来のメンバーとして残っているようだ。

劇は、なつかしいイギリスの劇作家アーノルド・ウェスカーの三部作の1本で、内容については別に書くが、中で主人公たちの叔母さんで、組合のオルグ(こういう職業が英米にはあり、彼らは専門的に組合を組織し、運動を行うことを仕事にしている)をやっている女性が、会話をしながら、毛糸の編み物をしている。
だが、この若い女優は、編み物ができないらしく、どう見ても適当に両指と編み棒を動かしているだけだった。
この世代では、家庭科でも編み物を習わなかったのだろうか。
私は、一応中学で習った。
もちろん、今やれと言われてもすぐにはできないが。

編み物については、先日書いた中山千夏の本に面白いことが書いてある。
それは、彼女が成沢昌茂監督の名作『裸体』に出たときのことである。
故郷の浦安に戻った主人公の嵯峨三智子が、町のタバコ屋で、タバコを買ってふかしながら、自分のことを語るシーンだそうだ。
もちろん、私は見ているが、すっかり忘れていたが。



そのタバコ屋の店番の娘が中山千夏で、彼女は編み物をしているが、嵯峨の言葉に、その手を止めて嵯峨を見上げるというものだったそうだ。
だが、中山は編み物の裏編みができず手が止まってしまった。
すると嵯峨三智子は、
「あら、この子、裏編みができないわ」と言って直ぐにやってくれたそうだ。
1960年代は、かの大女優山田五十鈴の娘の嵯峨三智子ですら、編み物ができたのだ。
毛糸のセーターから靴下まで、普通の人は、自分で編んだ物を使っていたので、編み物は必修の家庭の仕事だった。
だが、今やなんでもスーパーで安価に物が手に入るとき、編み物も不要なものになったのだろう。
コメント (5)
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