今朝は、寒くて目がさめたが、寒の入りだそうだ。
昔、フジテレビで『お笑いタッグマッチ』があり、司会の春風亭柳昇が言ったのが、
この句だった。
バカバカしいが、いつもこの時期に思い出す。
今朝は、寒くて目がさめたが、寒の入りだそうだ。
昔、フジテレビで『お笑いタッグマッチ』があり、司会の春風亭柳昇が言ったのが、
この句だった。
バカバカしいが、いつもこの時期に思い出す。
白木みのるが、2年前に亡くなっていたことが分かったそうだ。85か86だったようだ。
2010年7月の北島三郎の簡保ホールでの公演で、白木らを見て、次のように書いた。
中身は、歌手芝居の常道で、1部は芝居で、2部が歌謡ショー。芝居は『幡随院長兵衛』だが、相当にいい加減な脚本。北島の他、星由里子、目黒祐樹、今井健二、船戸順、沢竜二、白木万理、あるいは白木みのる、人見明等も出るが、各自がワン・シーンくらいにしか出ず、およそドラマがない。唯一の劇は、北島・星夫妻の娘水町レイコ(北島の実娘)が、実は沢竜二の娘で、沢が返してくれと言いにくるところと、水野の部下の武闘派の今井らが目黒に反旗を翻すところだが、どちらも伏線がないので、ただ唐突なだけに終わる。完璧に、その場しのぎの「団子の串刺し」脚本なのだ。大体、幡随院長兵衛の話は、男伊達の彼に対して、つっころばしの優さ男白井権八とのホモ的とも言える関係に、旗本の悪役水野十郎佐衛門が絡んでくるもので、白井権八がいないので、幡随院と水野の対立だけで劇に少しも膨らみが出てこない。
芸能活動の他、不動産事業をやっていたとのことで、非常に賢明な方だったと思う。
ご冥福を祈りたい。
「ひばり、チエミ、いずみ」の三人娘の映画で、最初に見たのは東宝の『ジャンケン娘』で、池上映画劇場だったと思う。
この頃、一番好きだったのは、いずみで、彼女が一番ダサくないと思っていたからだ。
だが、その後、三人娘の歌等を聞いて、まったく変わった。
歌も演技もひばりが最高で、芸人の娘のチエミも凄いが、いずみはほとんど素人だと。
それも、そのはず、雪村いずみは、家庭の事情からいきなり素人から歌手になった女性なのだ。
彼女の父・朝比奈愛三氏は、戦前に慶応大学を出た人で、他の大学の学生たちとハワイアン・バンドをやっていた方だった。私は、彼らのレコードを持っている。
戦後は、通信社にいたが、特異の英語を生かしてGHQと連絡するなど活躍されていたが、家庭の事情で自殺してしまい、母親は映画会社を作っていたが、それも駄目になったしまう。
そこで、いずみが歌手になったというのだ。
だから、彼女には、西欧的な雰囲気はあるが、実力はほとんどない歌手だったのだ。
1950年代は、東宝の若手女優としての方が良い仕事を残しているようだ。
1970年代に、日生劇場での『ウエストサイド物語』を見たことがあるが、劇団四季の若手に混じってかなり違和感のあるできだった。
そこには、劇団四季の連中の他、元日劇の立川真理なども出ていて、彼女たちくらいしか、歌って踊れる女優はいなかったのだ。
今とは、相当に芸能界の事情は違っていたのだと言える。
現在では、AKBをはじめ多くのタレントは、歌って踊れることが最低の条件であり、訓練もで来ているようだ。
雪村いずみで、特筆すべきは、彼女は、創価学会員であり、おそらく一番早い方の芸能人だと思う。
さんざ批判した映画『外濠殺人事件』だが、一つだけ興味深い、貴重な映像があった。
それは、城山順子が働く場所で、浅草の民謡酒場の「おばこ」である。
その名の通り、酒場の中の舞台で、東北民謡の一座がいて、歌っているのだ。
この時期は、まだ民謡が盛んで、また1960年は、東京オリンピクックの直前で、道路や地下鉄工事で、出稼ぎの人も多かったので、こうした故郷の民謡を聞かせる店があったのだと思う。
また、明治以降、日本の芸能で一番の人気だったのは、実は浪花節と民謡だった。
それが、1960年代末に演歌に代わる。演歌は伝統音楽ではなく、この時期に出来た新しい音楽なのである。
そのことは、三波春夫、村田英雄の二人が元は浪花節語りで、同様に三橋美智也が、同様に民謡歌手だったことでも明かだろう。
1968年に見た映画のノートを見ていたら、前年の1967年に実演というのがあった。
1967年9月4日で、蓮沼ヒカリ座 実演とあった。
内容については何もないが、5,6人のストリップ団が来て実演をやったのだと思う。
ここは、通常は300円くらいだったが、この時は2000円くらいだったと思うが、満員だった。
そして、ご丁寧なことに幕間にコントのトリオが出ていたことである。
当時は、ストリップと言っても極めて低い露出度で、今のビーチバレー以下の重装備だった。
翌年になると、大映の作品を沢山見ているので、結構普通の映画をやっていたのだなと思った。
桜木町のシネマ歌舞伎で、玉・孝コンビの『桜姫東文章』を見る。
上の部で、下は来週見るので、中身についてはその時書く。
最後、流浪の身になった玉三郎の姫様が、赤児を抱えて海岸淵をいく。
これは、日本映画で大ヒットした「母もの」だなと思う。
東映にいた深作欣二は、助監督時代、さんざ母ものの「浪曲映画」をやったそうだ。
「これは、非常に楽でいいの、母と娘がさんざ苦労して、海岸淵を歩いたり離れたりするだけで、人避けなどがいらないのよ」
150年前の江戸末も、次第に進む資本主義と近代化の中で、庶民の中でも没落していく者が多数出て、さまざまな悲劇が生まれたのだと思う。
浪花節や講談でも、こうした悲劇があり、それが母ものになったのだろうか。
ある区で福祉課長をやっいる時、ケースワーカーが聞いてきた。
「課長、梅坊主って知っていますか」
「もちろん、明治期の大スターの芸人だ」
「その孫という人が、来て生活が苦しいので・・・」
豊年齊梅坊主は、大変なスターで、沢山のレコードを吹き込んでいる。
1903年の「ガイズバーク・レコーディング」にも吹き込んでいる。
この人は、寄席にも出たとは思うが、主に街頭で阿呆陀羅経を歌っていたそうだ。
その意味では、若者にあるストリートミュージシャンだったとも言えるだろう。
12月は、『忠臣蔵』の季節で、それに因んで桜木町の横浜にぎわい座で、『ポカスカ忠臣蔵』が行なわれた。
感想は、ポカスカジャンって、こんなに面白い連中だったのか、である。
と言っても、前は3人だったのが、一人抜けて2人になっていた。
いろいろな演目があったが、この夜のメインは、『洋楽忠臣蔵』で、忠臣蔵を洋楽のアーチストに当て嵌めて語り、歌うという趣向。
吉良は、ミック・ジャガーで、浅野はボブ・ディラン、大石はエルビス・プレスリーという配役。
松の廊下での顛末を、浅野ボブ・ディランが、『風に吹かれて』や『ライク・ア・ローリングストーン』で語り、歌うという抱腹絶倒の仕儀。
大石のプレスリーというのは、役が違うのではないかと思ったが、赤穂城での評議に入るところでチョンなので、これはOKだった。
彼らの芸は、今や絶滅危惧種と言われる「ボーイズ芸」で、現在ではもう誰もしなくなっているものだけに、非常に貴重である。
ボーイズ芸は、私は、あきれたボーイズに始まる、戦前、戦中の時期が最高で、戦後は衰退したと思ってきた。
戦後は、むしろハナ肇とクレイジー・キャッツやザ・ドリフターズのような本格的な音楽グループに移行したと考えてきた。
だが、この二人の音楽的素養も相当なもので、まだまだ可能性があるのだな、と思わせてくれた一夜だった。
ゲストは、春風亭昇太
12月は、『忠臣蔵』の季節で、横浜シネマリンで映画と浪曲で忠臣蔵を楽しむ企画が行なわれた。
映画は、1957年12月の松竹京都の『暁の陣太鼓・忠臣蔵』で、主演の森美樹は堀部安兵衛を演じる。
対するのが俵星玄蕃の近衛十四郎で、浪曲では安兵衛ではなく、杉野十平次だが、森には無理な役なので、安兵衛になったのだろう。
新発田藩の藩士だった安兵衛は、藩主を打ち負かしてしまい首で、江戸に出てきて浪人生活を送っている。
惚れているのは、髪結いの嵯峨三智子で、実際この頃二人は愛人関係だったはずだ。
高田馬場の決闘で有名になり、各藩から召し抱えの依頼が来るが、赤穂藩の堀部家の聟になる。
そして、吉良家への討ち入り。
それを助ける俵星玄蕃の見事な槍捌き。
大石内蔵助は、歌舞伎の市川寿海で、この人は市川雷蔵の養父で有名だが、出ている映画は少ないので貴重。
雷蔵によく似た小柄な役者で、台詞が良いので有名だったが、ここでは大した台詞はなし。
休憩後は、玉川奈々福で、曲師は沢村豊子さんで『俵星玄蕃』。
ここでは、堀部安兵衛ではなく、杉野十平次の蕎麦屋との知合いになっている。
12月は、以前は『忠臣蔵』がテレビでも放映されていたものだが。
横浜シネマリン
ルーキー新一と言って知っていのは、60代以上の人だろう。
関西の喜劇ドラマで人気だった芸人の一人で、特に「イヤーンイヤーン」のギャグは有名だった。
澤田がディレックターを務めた『てなもんや三度笠』で、レギュラー並みにゲスト出演していたのだから、人気はあった。
元は、テレビの『漫才教室』出身で、漫才をやっていたが、その面白さから単独の芸人になり、吉本興業からの独立と劇団の結成も、テレビは当初は好意的だったようだ。
だが、劇団の女優の風呂場を民間の会社社長が覗いたことを脅したことから、世間の目は逆転してしまう。
そして、おさだまりの転落劇になる。
作家浅田哲也によれば、
「飲む、打つ、買うの三道楽の内、一番悪いのは打つで、なぜなら買うと飲むには肉体的限界があるが、打つには肉体的限界がないからだ」そうだが、ルーキーは、打つにのめり込んでしまう。
それも、仲間内との賭博が多かったそうだが、それでも借金が増えれば、借金取りに追われるようになってしまう。
そして、自分の劇団や他者の劇団への出演も次第に、地方公演が主になる。地方なら借金取りが来ないからだと言うのはすごい。
たまに、大阪や東京での公演に出ると、その名を知って借金取りが来たというのだから本当に困ったものだ。
そして、朝から酒を飲むようになり、完全にアルコール依存症になってしまう。
最後は、名古屋、そして大阪のバーの二階に住み、夜は店で芸を披露して客から金をもらっていたという。
1980年3月守口市で死ぬ、44歳だった。
関西のお笑いの本質は、本音を言うところで、かなり下品で身も蓋もないところだが、彼はまさにそうだったと思う。
そうしたところ、「建前ではなく、すべて本音だ」とするのは、橋下徹以下の日本維新の会にも通じるものがあると私は思うのだ。