指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『秋深き』

2008年12月31日 | 映画
今年最後に見た映画だが、大変良かった。
主演が佐藤江梨子と八嶋智人で、二人のキャラクターをよく生かした、これ以上の適役はないのではと思わせる。
原作は、豊田四郎の映画『夫婦善哉』で有名な織田作之助で、『秋深き』と『競馬』だそうだ。
脚本西岡琢也、監督池田敏春。

中学の理科の真面目な教師・八嶋が、北新地のクラブ・ホステスの佐藤に惚れ、プロポーズする。
実家仏壇屋の商売物の位牌を差出し、「一緒に仏壇に並べましょう」と言うのだから笑えるが、佐藤は快諾する。
意外にも佐藤が家庭的で、二人は幸福な新婚生活になる。
だが、それは佐藤の乳がんで壊れる。

そして、八嶋は、園田競馬場で背中に大きな刀傷を持つヤクザ佐藤浩市と知り合う。
入院するが、佐藤江梨子はがんの手術を拒否する。それに応えて、八嶋は全財産をつぎ込み、ありとあらゆる療法・薬を買い、佐藤に試す。
乳がんの手術を拒否する理由が不明だが、佐藤江梨子の綺麗な乳房を切らないためと言われれば納得できる。
最後、佐藤江梨子は死んで、八嶋も後を追おうとするが、江梨子が事前にしていた策で、八嶋は死なずに済む。
勿論、佐藤浩市は、佐藤江梨子の昔の男であったことも明かされる。

イギリス流の風俗喜劇を目指していた織田作之助なので、最後はすべて円満に解決されると思っていたら、その通りになる。
佐藤江梨子の女性としての可愛さに惚れる映画である。
こんなにいい女優だとは知らなかった。本当に驚いた。海老蔵は、別れたことを後悔しているに違いない。
横浜黄金町、シネマ・ベティ。

『私は砂の器になりたい』

2008年12月31日 | 映画
港南台のシネ・サロンで、中居正広、仲間由紀恵主演の『私は貝になりたい』を見る。ここは、昔は駅前のスーパーのビルの中にあり、小さくてビデオ上映だったが、場所が隣のビルに移って上映もフィルムになっていた。
客は、私のほか、初めは70代の女性2人連れだけで、「やはりこんなものか」と思っていると、上映間近かに中居ファンの女子中学生が10人くる。
「中居さま、さま」

映画は、高知の田舎の床屋・清水豊松(中居正広)が、戦時中に撃墜されたB29搭乗員殺害で戦犯に問われ、絞首刑されるという、TBSテレビ(当時はラジオ東京テレビ)初期の名作。
映画としては1959年以来、二度目。
脚本は、テレビ、さらに映画も橋本忍(監督も橋本)で、今度も橋本だが、今回は重点の置き方を変え、なんと2時間半。

テレビ版や、1959年の映画版では、庶民の床屋の豊松が戦犯に問われる不条理を訴えた「お涙頂戴劇」だった。
私も、テレビを見て泣いた記憶がある。戦争の記憶がまだ生々しく残っていた当時では、それで十分だった。
だが、今回は、石坂浩二が演じる矢野正之中将の死刑台の前での大演説が加えられている。
彼は言う、
「確かに捕虜を殺害したのはハーグ条約違反だろう。だが、数百万人の非戦闘員を焼夷弾攻撃した米軍もハーグ条約違反である。また、今回の米兵殺害の責任はすべて司令官たる自分一人にあり、他のものは減刑、もしくは無罪としてほしい」と。
そして、この石坂と中居の交流もテレビ版等にはなかったものだ。
それほどには、日本の庶民感情も変化し、戦争への見方も客観的になって来たのだろう。

だが、今回の問題点は、中居の死刑判決を知った妻仲間由紀恵が、減刑の嘆願書を持って四国を歩く件にある。
四国の四季の美しい情景、また冬の雪深い山中や岬を乳飲み子を背負った仲間由紀恵が、署名を集めに彷徨する場面に、久石譲の音楽が高鳴る。
どこかで見ませんでした。

言うまでもなく、橋本忍脚本、野村芳太郎監督の『砂の器』である。
あの映画で、一番泣かせる、ハンセン病で村を追われ諸国をさ迷う加藤嘉と息子のシークエンスである。
橋本自身は、あれを「義太夫、文楽」と言っているそうだ。
つまり、演じている役者と画面に、太夫の語り(映画『砂の器』では、丹波哲郎の大芝居)が被せて、見るものの涙をさそう。
だが、映画『私は貝になりたい』では、語りがなく、音楽だけなので少々泣きが弱い。

また、中居正広、仲間由紀恵というのは、観客動員から見て仕方がないのだろうが、テレビのフランキー堺と桜むつ子、映画のフランキー堺と新珠三千代に比べ「庶民」と言えるだろうか。
もっとも、今の若い役者で庶民など、死語に近いが。
無理してキャステイングすれば、カンニングの竹山と女優の中島朋子くらいが、現在のベストキャステイングのように思えるが。
役者で唯一面白いのは、悪辣な上等兵を演じる六平直政である。
昔なら、自衛隊友の会の南道郎が演じた悪役兵士役を、六平は嬉々として演じ最高。

こんなことは、中居ファンの中学生には全く関係なかったようだが、彼らも一応泣いていた。

林真理子は、日本映画を見ていない

2008年12月30日 | 映画
林真理子の『RURIKO』は、よく調べてある良い本だが、彼女は古い日本映画をあまり見ていないと思う。
それは、小林旭の再婚(実は美空ひばりとは入籍していなかったので、初めての結婚なのだが)に触れたくだりで、相手の女優、青山京子について、「デビュー前の若い女優に一目ぼれして求婚した」と書いてある。
だが、言うまでもなく、青山京子は、小林旭より早く1953年に映画『思春期』のオーディションで映画界入りしてており、三島由紀夫の『潮騒』で主演した東宝の青春スターだった。
ただ、1960年代に入っては、青春スターには相応しくなくなっていいて、「鳴かず飛ばず」の状態だった。

また、浅丘ルリ子と恋人だった蔵原惟繕との共同作品の最高作を『執炎』としているが、私の見るところ三島由紀夫原作の『愛の渇き』が最高だと思う。
三島由紀夫も、生前彼の原作で評価できる映画は、市川崑の『炎上』と蔵原の『愛の渇き』だと認めていたそうである。

「女、使わなかった?」

2008年12月30日 | 映画
BSフジで、澤井信一郎監督、薬師丸ひろ子主演の『Wの悲劇』を見る。
3回目だが、やはり面白い。
筋は分かったいるが、その画面の展開が上手くて、どうなるか分からない。
妙な例えだが、鈴木清順の名作『野獣の青春』のようなミステリアスでサスペンスな展開なのだ。

そして、この映画で最大の見ものは、薬師丸ひろ子が劇団の総会で、その身の不始末を責められたのとき、三田佳子が、薬師丸を擁護して(本当は自分のことを守ったのだが)言う台詞である。

「あなた、女、使わなかった? 私は使ったわ。そうやって芝居をやってきたんじゃないの。静香ちゃんを責めるなら、ここにいる人は全員退団だわ!」

この映画は、重要な場面のみを表現していて、その後を経緯を省略している。
それが、筋に前進力を与え、「あれっ、どうなったの」というミステリアスな展開にしている。
1984年、まだバブル以前の時代か。

アーサー・キット死す

2008年12月29日 | 音楽
アメリカの女性歌手アーサー・キットが26日に死んだことが報じられた。
彼女は、白人ではなくインディアンの血を引いていることは、おぼろげながら憶えいていた。
だが、彼女がいくつかの黒人ミュージカル出て、「最もセクシーな歌手」と言われたこと、さらに人種差別反対運動に大きく関わっていたことは、今回の訃報で初めて知った。

だが、訃報に「ショ、ショ、ショウジョウジ」の『狸囃子』のことが一切書かれていなかった。この曲は、日本では江利チエミが歌ったが、テレビのコマーシャルで、長くマルコメ味噌が使っていたので、憶えている方も多いだろう。
なぜ、今回の訃報にそのことが書いてないかったかと言えば、記事を書いた記者が若い方で、外電をそのまま翻訳し、彼女が日本語で歌った『狸囃子』のことなど知らないからだろう。
だが、日本でアーサー・キットと言えば、なんと言っても『しょうじょう寺の狸囃子』である。
さらに、『ウスク・ダラ』も大ヒットした曲で、これも江利チエミがカバーした。
おそらくアーサー・キットは、外人が日本の歌を歌ってヒットさせた最初の歌手だろう。
この後、西ドイツの女性歌手カテリーナ・バレンテも、日本の曲を上手に歌ってヒットさせた。
もっとも、外国人が日本語の歌を歌ったなら、戦前にバートン・クレインという変な外人がいて、『家に帰りたい』というジャズ・ソングを歌ったが、それはコロンビアのLP『日本のジャズ・ソング』に収録されている。
意外にもかなりヒットしたそうで、なかなかユーモアのある内容と歌い方である。

『戦ふ兵隊』

2008年12月28日 | 映画
フィルム・センターで亀井文夫監督・編集の『戦ふ兵隊』を見る。
間違いなく傑作である。
1939年、東宝文化部作品で、前作の『上海』が好評だったので、同時録音で南京から武漢への日本軍の進軍を描く。
だが、これは「戦う兵隊ではなく、疲れた兵隊だ」との陸軍の反対で、上映禁止、後に亀井は治安維持法違反で逮捕され、このフィルムも行方不明となる。
戦後、昭和50年に都内の録音スタジオで発見され、公開された。

この幻の名作を見るのは、3回目だが、非常に感動した。
冒頭、祈る中国人老人、町を追われ逃亡していく中国人の列、廃墟のような町等が続く。
するといきなり、日本軍のタンクが轟音と共に画面に向かってくるショック。
この二つのシークエンスで、日本軍の攻撃、作戦のすべてが中国の土地と人間に向けられたもので、破壊し、陵辱するものであることを明確に描いている。
日本軍の炊事、散髪、行軍、武器の手入れ等の日常が淡々と積み重なれられる。
中には、作戦風景もあるが、これは実はやらせで、再現してもらったものだそうだ。
最後、日本軍は武漢に入場する。
ああ、堂々の皇軍の行進である。
だが、そこに歓迎する中国人は見えない。
広場で演奏される軍楽隊。それを聞く兵隊には疲労が濃く、また軍服、軍靴等もぼろぼろの、粗末さ。
確かに疲れた兵隊である。
そこに陸軍の検閲官も反発しただろうが、それ以上に軍備の貧弱さを、日本の内地の人間に知られたくなかったのではないか、と思った。
あの軍装では、まるで貧乏な兵隊である。
多分、今年最高に感動した映画となるだろう。

『東条英樹と日米開戦』

2008年12月26日 | テレビ
一昨日、TBSが放送したビート・たけし主演の『東条英樹と日米開戦』は、なかなか面白かった。
たけしが東条英樹を演じた。
日本映画で、東条英樹を演じたのは、1959年の新東宝映画『大東亜戦争と東京裁判』の高田稔、東宝の「8・15シリーズ」の1970年の堀川弘通監督作品『激動の昭和史 軍閥』での小林桂樹に次いで三人目だが、記録映像が前後に挟まれた約4時間の大作。

ドラマ部分(約2時間)も、時代考証をはじめきちんとしているので、「一体誰の演出か」と新聞を見ると、演出は鴨下信一、脚本池端俊策、さすがである。
鴨下氏は、TBSで『日曜劇場』をはじめ、『岸辺のアルバム』等の名作を作ってきた。
だが、いつの間にか役員になり、ついには社長になった。
ところが、オウム真理教に坂元弁護士の映像を見せた「坂元弁護士事件」が起き、その責任を取って社長を辞任された。
その後は、フリーの演出家、文筆家として活躍されている。


今回のドラマを見て、テレビは映画にはない特質があることに改めて思った。
娯楽性と教養・教育性の双方を満たすものが出来ることだ。
映画では、娯楽性は劇映画、教養・教育的機能は、記録映画・文化映画へと完全に別れている。
テレビ局は、内部に報道、教養部門を抱えていることもあり、こうしたドラマと記録の融合が容易に出来る。
こういう方向を、昔は「ドキュ・ドラ」などと言った時代もあったが、テレビの可能性ではないかと思う。

内容的には、東条の唯一のブレーンだったジャーナリスト徳富蘇峰(西田敏行)を中心に添えているのが面白かった。
徳富蘇峰は、真珠湾攻撃の開戦の天皇の詔勅の文章を起草したほど、東条とは親交が深かった。
だが、最後敗戦に終わり、その責任を記者から追及されるとき東条について、彼はこう言う。
「所詮、首相の器ではなかった」
確かに、東条は官僚としては優秀、真面目で、きちんと仕事をするので、昭和天皇からは信任が極めて厚かったらしい。
この辺は、すべてにいい加減で、性格的な弱さと相俟って無責任だった近衛文麿とは対照的だったようだ。

徳富蘇峰に、「首相の器でなかった」と言われては東条も可哀想だが、その首相に率いられた日本国民はもっと可哀想であったわけだ。

『RURIKO』

2008年12月25日 | 映画
林真理子による浅丘ルリ子の伝記である。
内容は、ほとんど知っていることだが、浅丘の最初の恋人である小林旭を介しての、美空ひばりとの交友が大変興味深い。
この本の価値は、満州での浅丘の父浅井源二郎氏のこと、そして美空ひばりの素顔を描いたところにある。
ひばりがこんなに純で素直な女性だったとは本当に知らなかった。
美空ひばりに関する本で、今までに一番優れていると思っていたのは、竹中労の『美空ひばり』だった。だが、この本は、彼女の生まれからデビュー以前の戦時中の活動、戦後の大活躍の頃の部分は凄い。
だが、大スターになってからの記述は、竹中が本質的に大スターが嫌いなので、1960年代以降の部分はつまらない。
林のこの本は、その部分を十分埋めるものになっている。
浅丘ではなく、むしろ美空ひばり、小林旭、石原裕次郎ら、戦後の大スターの素顔を知るには最適の本だと思う。

『昨日の続き』

2008年12月23日 | 横浜
ラジオ関東の歴史で、何が意味あるかと言えば、このトーク番組である。
もし、何十年後か、日本の放送史が書かれるとき、ちっぽけなラジオ局が放送していた、この番組は必ず記述されなければならないと思う。

これを知ったのは、多分大学生だった兄からだと思う。
ある日、家に帰って来た兄は、興奮気味に「ずごく面白い番組がある」と言ってラジオのダイヤルを回した。
そして、スピーカーから流れてきたのは、大人の男女が、今まさに話している不思議な感じで、その部屋が見えるようだった。
多分、出演者は永六輔、前田武彦、そして富田恵子だったと思う。
そして、兄か姉に、「この富田恵子は、テレビの『光子の窓』のヒロイン草笛光子の妹で、新劇女優なのだ」と教えられたと思う。

こうしたゴシツプの一つ、一つは、芸能界への遠さを現していたが、だが今聞いている『昨日の続き』は、その世界をすぐ側のことのように感じさせていた。

だが、なぜか番組は間もなく終了してしまった。
突然、そのとき宝物がなくなったように感じられた。

でも、ラジオ関東には、まだまだ面白い番組があった。
夜12時からは、DJがあり、12時半からは、季節ごとに変わるポピュラー音楽の紹介番組があった。
夏は、勿論ハワイアンで早津敏彦さん、秋はラテンで低音の中村とうようさん、その他タンゴ、シャンソンなどもあったと思う。

そして、15分後には、本多俊夫の『ミッドナイト・ジャズ』が、チコ・ハミルトン、クインテットの演奏で始まる。
ここで、私はモダンジャズを知り、若者はジャズの虜にならなければいけないと固く信じるようになった。
ラジオ関東も開局50年だそうだ。
私が年とるのも当然だった。


天皇の指示の証拠

2008年12月23日 | 政治
「非核三原則」、さらに日本の非核武装化ついて、昭和天皇の意思だったのではないか、と私が思う証拠に、元衆議院議員平野貞夫の本『昭和天皇の極秘指令』がある。

この本は、平野貞夫が衆議院事務局にいて、主に前尾繁三郎衆議院議長に仕えた時のことを記述したものである。
その中に、1974年、田中角栄首相にロッキード問題で大騒動のとき、前尾議長が議会で承認されていなかった「核防条約」の批准を強力に推進したことが書かれている。
そして、「暗闇の牛」と呼ばれ、何事にも慎重だった前尾が、一命を賭して核防条約批准を推進した理由には、昭和天皇の指示によるものだったことが書かれている。

昭和天皇は、当時各国元首や首脳と会うと、日本が核防条約を批准していないことを聞かれて心を痛められ、「早期に批准するよう」前尾議長に話したのだそうだ。

すなわち、吉田茂以下、戦後の歴代自民党首相が、本心では核武装したくても絶対に出来ず、ついには佐藤栄作によって「非核三原則」を宣言するまでに至ったのは、おそらく昭和天皇の意思によるものだったと私は推測している。
これは、昭和天皇の事跡として正当に評価すべきことだと私は思う。

ラジオ関東開局50年

2008年12月23日 | その他
1958年の開局から、ラジオ関東が開局50年を迎えたそうだ。
「ラジオ関東など、いったいどこだ」と言われそうだが、今のRFラジオ・ニッポンである。
ラジオ関東は、東京の城南地区や横浜では有名なラジオ局だった。
だが、その設立経緯からいろいろな問題があり組合問題等が起き内紛の末、最後は、読売グループが買収して、今のRFラジオ・ニッポンになった。
この局は、衆議院議員で、建設大臣等を務めた自民党の大物河野一郎の力で出来、社長は遠山景久という、遠山金四郎の末裔を名乗るヤクザまがいの人間だった。
そして、この局は、横浜に一応本社を置きが、「ポート・ジョッキー」など、いかにもみなと横浜を見下ろして放送しているかのごとき番組もあり、しゃれた雰井気で局のイメージを売っていた。
だが、確かに本社は横浜の野毛山に置いていたが、実際の番組の制作、営業は発足当時からすべて東京でやっていた。

1983年に横浜市会の議長秘書になり、歴代の議長・副議長の就任挨拶で各報道機関へ行くとき、野毛山のラジオ関東の「本社屋」にも行った。
だが、そこには誰もいなくて、留守番の守衛がいるだけだった。
要は、放送局免許が、東京ではすでに民放ラジオでも、ラジオ東京(TBS)、文化放送、ニッポン放送とすでに3局あり、そこでは新たには免許を取得できないので、形だけ横浜を拠点にした民間ラジオ局にしたのだろう。
だから、一応本社は横浜の野毛山、放送塔も川崎の多摩川河原にあった。
そのため、東京の城南地区でも、よく聞こえたのである。
だから、私は大学に入るまで、ラジオ関東は、メジャーな放送局だと思っていた。
だが、東京でも西部や北部ではよく聞こえず、他県の連中にあっては、まったく聞いたことがないのにはとても驚いた。
ラジオ関東の悪口ばかり書いたが、その人気番組については、別に書く。

わが国の最高権力者は誰か

2008年12月23日 | 政治
憲法上、日本の最高権力者は、言うまでもなく内閣総理大臣である。
現在で言えば、麻生太郎、その人だ。
だが、実はその上にやはりある方が存在することが、昨日の新聞で分かった。
昨日の朝刊各紙には、1965年の中国の核実験の後、佐藤栄作首相が訪米した際、中国との将来の核戦争において、アメリカの核攻撃を容認するが、日本は核武装をしないことを表明していたことが出ていた。

この公開された外務省文書については、佐藤首相が日本国内向けとは別の政治的動きをアメリカに対してしていたとのことで、「二枚舌」であり、評判が良くないようだ。
だが、私の見方は違う。
ここにも、首相に対しある指示があった気がする。
言うまでもなく、昭和天皇である。

日本が将来的にも、核武装化をしないことの昭和天皇の強い指示、あるいは命令があり、戦後の歴代首相は、吉田茂から、池田勇人、佐藤栄作に至るまで、自らの意思と自民党の党是にも反するかもしれないが、核武装が出来なかったというのが、もう一つの戦後史だったと思った。

大衆劇の作り方

2008年12月21日 | 演劇
以前に録画した「昭和演劇大全集」の長谷川一夫・東宝歌舞伎の昭和31年『百舌と女』を見て、久しぶりに芝居を十分に堪能した。
脇役が誠に充実している。
主役の長谷川一夫、越路吹雪の他、草笛光子、南悠子、岩井半四郎らの助演陣も、今考えれば豪華である。
だが、その先の脇役がとても良い。小川虎之助、谷晃、山田巳之助など、東宝の映画で脇をやっていたのが多数出ている。
特に、山田巳之助は、黒澤明監督の映画『生きる』に出ていたので、記憶されている方も多いだろう。癖のある因業な親父をやるとぴったりだった。

そして、長谷川の芝居の作り方が上手いのは、自身があまり出てこないところである。
1時間30分くらいの芝居で、出ている場面は合計20分くらいしかない。
主役は、ほんの少ししか出なくて良いのである。
だが、少ない出番で十分に芝居し、場面をさらい観客に強い印象を残して行く。
この辺は大衆向けの芝居を十分に知り尽くした長谷川の知恵だと思う。
勿論、脚本の菊田一夫も十分に知っていた。

つまり、芝居全体の構造、劇の流れは脇や助演の役者が十分に作り上げ、劇が盛り上がったところで主役はやっと出てくる。
まさに観客にとっては、「待ってました」となる。
大相撲で横綱が、寄席で真打が、それぞれ最後の最後に、出てきて打ち止めをするのと同じである。

『おかしな時代』 津野海太郎

2008年12月19日 | その他
津野海太郎の『おかしな時代』(本の雑誌社)を読み、とても面白かった。
1960年代前半から1970年代に至る日本文化史の一面である。
津野が、かつては編集者であり、演出家でもあったなど、今の和光大教授としての彼しか知らない人には驚きだろう。
1970年代中頃、「黒テント・演劇センター68・71」の公演に行くと、タコ入道のような津野の他、サングラスの佐伯隆幸、小柄な田川律らの面々が会場整理をしていたものだ。

津野は、早稲田の学生劇団演劇研究会にいて、友人で早世した演出家草間暉雄の代わりに、1962年に旗揚げした劇団独立劇場の中心になる。
一方で、今はない新日文(新日本文学会)の事務局に就職する。
東中野にあった新日文の事務所には、高校生時代にバック・ナンバーを買いに行ったことがあるが、汚い木賃アパートで、「こんな貧乏世帯なのか」と思った。

新日文がつぶれた後、津野は晶文社に参画し、独立劇場に文学座からの俳優草野大吾、岸田森らの参加を得て六月劇場を創立する。
そこに当初は、蜷川幸雄らも参加する話があったというのは初耳。
その六月劇場の長田弘作、津野演出の『魂へキックオフ』を蜷川が紀伊国屋ホールに見に来た。
そのとき、蜷川が「この程度か」と言う顔をして帰ったというので、津野らの劇の水準が分かる。
後に、単行本で「伝説の公演」を読んだが、つまらない戯曲で、「六月劇場って、こんなレベルだったか」と思った。

だが、晶文社での仕事はすごい。
島尾敏雄作品集に始まり、小林信彦や片岡義男の本は、即ほとんど買って読んでいる。
その後、『日本版ローリング・ストーン』に関わり、『ワンダーランド』、改め『宝島』の創刊など、私が興味を持った雑誌、本の多くが津野や長田弘らが関わっていたものであることを知り、本当に驚いた。
俺は、こいつらの手の上で踊っていたのか。

そして、一方で新日本文学会以来の、政治的な批評性があると共に、今日のサブ・カルチャーの流れを作っている。
それは大きく見れば、新日文のイデオローグであった評論家花田清輝の、文化路線「前衛性と大衆文化」でもあったと改めて思った。

実は、私は高校時代は新日文を購読し、花田清輝も愛読していた。
だが、途中で吉本隆明に取り付かれ、花田はほとんど読まなくなったが、志向性としては私の中に花田清輝はずっと残っていたのだと思った。

津野海太郎の、大学時代の劇団での言動については、彼を知っている方からいろいろ聞いているが、勿論ここには書かない。

『まぼろしの邪馬台国』

2008年12月19日 | 映画
早稲田に『人類館』を見に行くまでの間、時間があったので渋谷東映で『まぼろしの邪馬台国』を見る。
全く期待していなかったが、意外に面白かった。
渋谷東映は東口駅前で、前は地下に渋谷松竹があったビルの7階。

NHKラジオの福岡放送局で、当時誰も知らなかった邪馬台国について、竹中直人の宮崎康平島原鉄道社長が語り、聞き手だった地元放送劇団員の吉永小百合が島原に来て、観光バス事業に無理やり参加させられる。
観光バスは意外にも当たるが、台風で鉄道が寸断され、壊滅的な打撃を受ける。
鉄道と言っても、蒸気機関車による単線の地方鉄道にすぎない。
その際、崩れた路肩から土器が出土し、宮崎は本格的に古代史研究と遺跡発掘に没頭する。
彼はもともと早稲田大学で古代史を専攻した人間で、古代史等膨大な書籍を所有していたのだ。だが、社業を疎かにしたとのことで、社長を解任されてしまう。
失意の中で、宮崎は幼い子供のため吉永に求婚し、二人は一緒になる。
ここまでの、竹中の常軌を逸した言動はとても面白い。
脚本が小劇場出身の大石静なので、展開やドラマの作り方はアングラ的である。
また、役者も竹中を始め、竹中に敵対する会社役員の石橋蓮司、不破万作、前妻の余喜美子など、小劇場の連中が多数出ている。
また、古代史学会で宮崎と対立する教授に、早稲田の大槻教授、線路の復旧工事の労務者に大仁田厚など多彩なキャスト。

だが、吉永、竹中の二人が邪馬台国を探して北九州を歩く段になると途端につまらなくなる。
理由は簡単で、そこには二人の「愛情物語」しかなく、ドラマがないからだ。

邪馬台国に関しては、九州説、大和説があり、宮崎氏は当然九州説で、松本清張らも九州説である。
私は全くの素人なので、詳細は分からないが大和説の方が正しいのではないか、と思っている。
理由は、『魏志倭人伝』が載っている『後漢書』は、言うまでもなく中国の歴史書である。
本質的に事大主義の中国が、日本の最高権力として、九州の一地方政権に過ぎなかっただろう「九州の豪族」(九州説論者の邪馬台国)を、日本の代表政権とは認めなかっただろうと思うからだ。