指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『止められるか、俺たちを』

2018年10月28日 | 映画

この映画の主人公の吉積めぐみの名を聞いたのは、以前川崎市民ミュージアムでやった若松映画の特集の時の、荒井晴彦の話だった。

1960年代末の若松プロには、映画界を目指す多くの若者が集まっていた。

理由は簡単で、5社は助監督の採用をしていなかったので、監督を目指すものは、ピンク映画か、あるいは5社でのアルバイト助監督しか方法がなかったからだ。

タイトルや作品中に出てくる若松孝二作品は、ほとんど見ていることに気づいた。蒲田や川崎の二番館では、他社の作品と合わせて若松プロ映画が上映されていたからだ。

                

それだけ当たっていたのだろう。中に商業主義として批判される『カーマスートラ』も、蓮沼のヒカリ座で見ている。

新宿のフーテンで有名だったおばけこと秋山に誘われてめぐみは、若松プロの女性助監督になる。

給料はなく、暴君の若松に怒鳴られるだけの助監督、撮影助手、製作たち。

その姿は、藤田正さんが言っていた、『ミュージック・マガジン』会長の中村とうようさんにも通じるものだった。

藤田さんが結婚することになり、給料を上げてほしい中村とうようさんにと言うと喧嘩になり、

「あなたのやっていることは、日頃外に言っていることと反対じゃないか」と憤激して退社したとのこと。

零細なマスコミ企業の社長と言うものは、皆そんなものなのだろうと思う。

当時の若松プロのシナリオを支えていたのは、足立正生で、ここでは描かれていないが、彼は当時学生映画界では、問題作『鎖陰』を撮った監督として、有名な存在だった。

同時に彼は根っからの日本共産党員で、この時期からさらに過激になり、最後はパレスチナゲリラの一員になってしまう。

大島渚や葛井欣四郎らが出てくるのは良いが、なぜ唐十郎が出てこないのだろうか。彼は若松作品で主演しているのに。

最後、彼女は妊娠中に睡眠薬と酒で死んでしまう。全員、タバコを吸いすぎで、彼らはいずれ肺ガンで死ぬ運命だったと思う。

若松は、周囲のインテリ学生に対し、いろいろと批判するが、実は彼の父は獣医で、裕福な家の出なのである。

横浜シネマジャック

 

 


『ブルータウン・青い町の狼』

2018年10月23日 | 映画

先日、101歳で亡くなった古川卓巳を追悼して録画であった1962年の『青い町の狼』を見る。

羽田空港から外人が飛行機に乗るが、カメラを高品格らのギャングが渡していた。外人は富士山を見て喜びカメラのシャッターを押すと爆発し、もちろん飛行機は墜落して全員死亡。

すると警視庁で捜査会議が開かれていて、課長の垂水悟朗は、潜入捜査させている二谷英明に連絡する。

二谷は、その外人がシンガポールを出て、沖縄から日本に上陸し、横浜に来たルートを洗い、横浜港に来る。

悪党の巣窟は、横浜の海岸通りの郵船横浜支店の隣のビルの地下で、つい最近までレストランだった。

地下に降りると、そこは「クラブ・リオ」、ステージでは歌手の芦川いずみが歌っているが、本人ではなく高美アリサという歌手の吹替え。

                        

二谷と芦川は、目が合い、二人は関係があったことが分かるが、二谷と芦川のコンビは珍しい。

悪玉は、三国人の藤村有弘と日系二世の二本柳寛で、二谷はまず二本柳に接触し秘書になって探る。

原作は山村正夫、脚本は小川英だが、筋は込み入っていて少々見ずらい。

要は、最初の外人はシンガポールから麻薬を密輸して二本柳に渡したが、彼らに殺されたらしい。

二谷は、芦川の貿易商の父親の部下だったのだが、途中で姿を消したのだという。

ブルータウンとは横浜で、シルクホテルが出てくるが、映像は外観と周辺のみで、1階のフロントなどはここではなく、有楽町の日活ホテルだと思う。シルクホテルのフロントは1階ではなく、4階くらいにあったはずで、これは篠田正浩監督の『乾いた花』に出てくる。

クラブのバンドのトランペット吹きとしてチコ・ローランド、中華街の娼婦として千代郁子が出てくるが、この二人は蔵原惟繕映画の常連。

最後は、もちろん悪党同士が相討ちになり、二谷は目標を達し、芦川も無事救われてエンドマーク。場所は、たぶん横浜の根岸湾あたりだろうが、1962年なので埋立は行われていない。

『太陽の季節』のようなもたもた感はなく、古川卓巳監督もアクション映画をこなしていたようだ。

チャンネルNECO

 

 

 

 

 


『青い国道』

2018年10月22日 | 映画

フランク・永井の曲『青い国道』を基にした1959年の歌謡映画。

青い国道とは、下関と門司をつなぐ関門トンネルのことで、蛍光灯の色から来ているらしい。

主演は、関門海峡の渡し船の船員の青山恭二で、彼は、今は山田禅二船長の渡し船で働いているが、外国船航路の船員になることを夢見ている。

彼の母親は三崎千恵子で、夫は外洋船で死んだので、息子の青山を外洋船に乗せたくない。

この時期の、日活映画には、外国に行くことを憧れる若者が良く出てくるが、これは当時の若者の本心で、日本は海外に対して閉ざされた国だったのだ。典型は、石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』である。

山田禅二の友人で、河上信夫らが出てくるが、彼らはどうやら捕鯨船にも乗っていたことがあるようだ。

下関なので、もちろん大洋漁業であり、映画の協賛にもなっている。

町には路面電車も走っていて大変に活気がある。松田優作の父親も、下関に来ていた韓国人で、羽振りの良かった男だったそうだ。

青山の恋人は、山田の娘の堀恭子で、彼女には、トラックの運転手のフランク・永井も惚れている。

             

堀が勤務している会社は大洋漁業の工場らしく、フランクが運転しているトラックも漁業会社の運搬車である。

この時期、鯨は非常に重要な食糧で、大洋漁業も大繁盛だったのだ。

バーの女がどこかで見たことがあるなと思うと、小園容子で、彼女やギャング一味に青山は騙されて外洋船に乗れるとふ頭に連れ出されるが、フランクの助けで無事救出される。

フランクは、「俺より彼の方が足が長い」と堀恭子への愛を諦め、青山と堀の結婚を祝福してあげる。青山もそんなには背は高くないので、おかしい気がするが。

青山恭二は、当分は渡し船で働き、機会を見て外洋船に行くことにしてエンドマーク。

脚本は西島大、監督堀池清。この人は松竹大船から来た人なので、センチメンタルなメロ・ドラマであり、テレビ映画に転向していった。

衛星劇場


『秘密』

2018年10月17日 | 映画

月曜日の昼過ぎに阿佐ヶ谷ラピュタに行くと、なんと満席。

今や人気のない左翼独立プロの監督家城巳代治の1960年の東映での地味な映画なので、見に来る人などいないと思っていた。

だが、月曜日は国立映画アーカイブが休みで、しかもアーカイブ提供作品は、1イベントに付き3回しか上映できないので、この日に集中したのだ。

絶対に見ようと、昨日は10時前に横浜を出てラピュタで切符を取り、近くで昼食をとる。

見た結果で言えば、そこまでして見るべき作品だったかと言えば、多少の疑問はある。今井正が、やはり東映で作った『あれが港の灯だ』のようなものだろうか。

冒頭、江原真二郎が公衆電話で、何かを断られ、決意して銀行から出てきた女子職員が手に持っていた包みを奪って逃走し、長屋の路地を逃げて塀を乗り越えて広場に降りて、子どもを遊ばせていた女性・佐久間良子と目が合ったところまでが一つの場面。

そこから、なぜ江原が強盗をするまでに追い詰められたかを辿る。

東京の下町の貧困家庭の長男の江原、母は山田五十鈴で、父親はいず、たぶん戦死したのだろう。彼の下に妹と幼い弟がいて、一家は江原の稼ぎに頼っている。

彼が働くのはメッキ工場で、つげ義春が若いころいたような最劣悪な工場で、部品等をメッキ液に漬けて製品を作っている、工場主は殿山泰司。

江原は、ある日に、友達の大村文武に会い、妻が病気で入院費用に困っているといると言われ、集金に廻っていて集めた金の中から、6,000円を渡してしまう。彼は本当に人が良いのである。

給料の前借りで穴埋めしようとしていたが、工場は工員に貸すどころの状態ではなく、殿山に断られ、仕方なく友人で別の工場のトラック運転手の南広に借金を頼むが、これもダメで、結局江原は、強盗をすることにしたのだ。

奪った金28万円の中から補充して集金の使込みは、糊塗しておくが、殿山には集金に手を付けたことを、その会社に行かれて

「とっくに渡したよ」と言われ、首になってしまう。

荷役作業をしている中、ある日町で江原は、佐久間に会ってしまい、「自分はあの強盗犯だ・・・」と告白する。

              

実は、佐久間はよく憶えていなかったのだが、正直な江原に感動し、彼の行動に付き沿うようになる。

彼女は近所の豆腐屋の娘で、父は須藤健、母は利根はる枝とこれまた独立プロ映画のお馴染み。

江原は、自首する前に、被害者の女子職員に謝罪したいと言い、彼女の自宅の玄関に金を置くがほんの少しの差ですれ違いになり、前の家から出てくる小母さんが戸田春子には笑った。彼女も、東宝争議馘首組の一人で、独立プロ作品の常連なのだ。

途中、酒場で大村文武に会うと、なんと妻は元気で、病気云々は嘘であることが分かり、江原は愕然として酒で荒れる。

憂さ晴らしに入った劇場では、平尾昌晃とオールスターワゴンが演奏しているのは、貴重な映像だった。

その他、江東の町がふんだんに出て来て、都電の他、元城東線も出てくる。この時代は、まだ木造の長屋が多数あったのだなと改めて思う。

最後、江原は、佐久間に付き添われ、被害女性の会社に行き、本人に会い謝罪するが、彼女は意味が分からず大騒ぎになり、駆け付けたパトカーに連行されてエンドマーク。

これは何を言いたいのだろうか。原作は早乙女勝元なので、工員(労働者)は工員(労働者)同士の仲間意識、連帯が第一というのだろうか。

音楽は池野成で、ほとんどギター1本のみ。市川雷蔵主演の『陸軍中野学校』シリーズ(特に『開戦前夜』)のように、いつもは重厚な響きの池野作品としては珍しい。

 

 

 


樹木希林の最初の夫は

2018年10月15日 | 演劇

先日、亡くなった女優の樹木希林の夫としては、内田裕也が出ている。

だが、彼女(当時は悠木千帆)が最初に結婚した相手は、俳優の岸田森である。

この二人は、文学座の研究生仲間で、一時は、東大や早稲田の劇研の山元清太、村松克己、津野海太郎、佐伯隆幸らと共に、六月劇場という劇団をやっていたことがあり、蜷川幸雄とも交流があったのだそうだ。そこには、文学座の研究生仲間だった草野大吾や田島和子らも参加していた。

詩人の長田弘が書いた劇『魂へのキックオフ』は、小劇団の公演には珍しく新宿の紀伊国屋ホールで行われたが、それは岸田の「顔」だった。言うまでもなく、岸田森は、文学座の創立者の一人岸田國士の弟の息子であり、岸田今日子とは従姉弟に当たる人物だったからだ。

この公演の時、蜷川幸雄も見に来たが、見た後で「こんな程度か・・・」という顔で帰ったと津野の本に書かれている。

私は、高校生だったので見ていないが、実際に見た方の話だと相当にひどいものだったようで、晶文社から戯曲が出ていて私も読んだが、大変に詰まらない作品だった。

だが、六月劇場は、結構注目された劇団で、研究生を募集したら、200人も来たそうで、後の研究生には、『八月の濡れた砂』の広瀬昌助もいたし、あの松田優作も当時は劇団の裏方の一人だった。劇団は1960年代の中頃に解散するが、事務所としては残ったいて、多くの役者は六月劇場の所属で活動していたらしい。

岸田も樹木も、「これは到底将来はない」と思ったのだろう、岸田は映画に行き、東宝の「吸血鬼シリーズ」の主演として活躍する。

                 

また、樹木は、TBSの大型ドラマ『七人の孫』での東北出の女中役の、森繫久彌との掛け合い芝居の上手さで注目されて、テレビの人気者になる。

そして、二人は離婚し、岸田は女優の三田和代と再婚し、樹木は内田と再婚した。

樹木希林の二人の夫である、岸田森と内田裕也は共通していることがある。

それは、どちらも都会生まれで、結構良い家の出であることだ。

類は友を呼ぶというべきだろうか。


『灰とダイヤモンド』と『続・次郎長富士』

2018年10月14日 | 映画

『灰とダイヤモンド』を最初に見たのは、1964年の8月だったと思う。

見たのは、新宿の新東地下で、後の新宿文化とは異なる東宝系の映画館の地下にあるちいさな洋画系の名画座だった。

結構いい映画をやっていたが、地下なので部屋に柱があり、その後ろでは見えないという不思議な館で、銀座の並木座のようなものだった。

この時、ニュース映画で、大井勝島の宝組倉庫の火災をやっていたので、8月中旬だったと思う。

この宝組倉庫の火災は大火災で、私は中学の友人でジャズ好きのN君と一緒に、新宿の厚生年金ホールで行われたマイルス・ディビス・クインテットの公演を見たの後、五反田の池上線のホームから、この大火災を見ていたのだ。

1964年の時は、そうは感動しなかったと思うが、いい映画だとは思った。

その後、政治学者の橋川文三がこの映画に大変な感動を受け、『ぼくらの中の生と死』として、1959年8月に『映画芸術』異常に思い入れた批評を書いているのを読んで、この映画の意味が少しわかった。特に、ポーランドという国の、親ソ連派と親英米的な反共派党派との激しい争いが、戦前からあった特殊な事情にである。

その後、リバイバル上映で、1980年にスバル座で『夜行列車』と一緒に見ているが、この時は「随分と自己憐憫の強い映画だな」と思ったことをよく憶えている。

今回見て、この映画に託された、主人公反共派テロリスト集団の若者のマチェック、チブルスキーの心情、まさしく自己憐憫は、1950年代の監督のワイダをはじめとするポーランドのインテリの心情だったと想像できる。

シナリオが、非常に上手く書かれていることに感心した。最初の地区共産党書記と間違えてのジープに乗った二人の労働者の射殺。

日向に置いてあった機銃の先が焼けて「アチチ」をマチェックがするところ。無関係な少女を追い返し、やってきたジープに銃を発するマチェックを何カットか正面から捉えているところ。

町に行くと、ラジオはドイツが降伏し、ソ連が勝利し、ポーランドも祖国を回復したことに沸いている。

そして、ホテルでは祝勝パーティが行われ、マチェックらが撃ち漏らした地区共産党書記も来るとのことで、上司らとホテルに潜入する。

そこでは、時代の変化に追従して出世しようとする市長の秘書は、インチキな新聞記者の偽情報で彼を狂喜させて酒で酔わせてパーティを滅茶滅茶にし、出世に失敗する。

地区共産党書記の男は、根っからの共産党員で、スペイン内戦にも参加し、現在は好ましいはずだが、息子はやはり反共集団の一員として警察に逮捕されている。

そうした時代の変化に蠢く人間が右往左往するが、ホテルの職員、トイレのチップの小母さんなどはまるで時代と無関係。

その日その日を自分の職業で生きているだけである。

夜中、街に出た共産党書記の後を追ったマチェックは、振り向きざまに射殺する。その時、祝勝の花火が打ち上げられるのは名場面だが、夜中に花火があるものだろうかという疑問はあるが。

ホテルのバーの娘クリスチナに恋し、性交までしたマチェックは、組織を抜けようするが、駅に向う道で警官に見つかり射撃されてしまう。

そして、病院の白いシーツから黒い血が滲み、さらに広大なゴミ捨て場で死んでしまう。

この時の彼のことを、橋川文三は「まるでいやいやをしているようだ」と書いている。

この名作に感動した者は、橋川先生だけではない。大映のオールスター映画で、長谷川一夫主演の『次郎長富士』シリーズの2作目の『続・次郎長富士』では、森の石松の勝新太郎は、都鳥一家にだまし討ちされて、田圃のあぜ道に落ちて、いやいやをしながら死んでしまう。

これは、勝新やスタッフの井上昭らが『灰とダイヤモンド』を見て、模倣したからなのだと私は思う。

上大岡東宝シネマズ

 

 


古川卓巳死去、101歳

2018年10月12日 | 映画

今朝の新聞に古川卓巳が死んだと出ていて、101歳。

古川卓巳と言っても、誰も知らないだろうが、日活で『太陽の季節』を監督し、大ヒットさせた監督なのだ。

だが、彼はもともと大映多摩川に出身で、まじめな人だったらしく、石原慎太郎原作の小説をひどく真面目に文芸映画のように撮っていて、石原の持つ、風俗的な新しさをほとんど表現していない。

            

その意味では、日活が次に放った「太陽族映画」の『狂った果実』の方が、はるかに出来は良い。

その理由は、この映画の監督が松竹大船から来た中平康であったからである。松竹大船の基本は何かといえば、吉村公三郎が言っていたが、「風俗をきちんと描く」ということだからだったのである。

古川卓巳作品では、自身の戦争体験を生かした『人間魚雷出撃す』や『沖縄の民』などの真面目な戦争映画の方がはるかに評価できる。

晩年には、香港でもアクション映画を作ったこともあるようだ。

101歳とは、誠に見事で、ご冥福をお祈りする。


聞くも涙、語るも涙の物語 『佐賀のがばいばあちゃん』

2018年10月11日 | 映画

漫才ブームの時の人気者、島田洋七の実話に基づく映画。

要は、大貧乏物語で、本来であれば生活保護世帯だが、そんなことは無視して貧乏を賛美する作品。

吉行は言う、「うちは昔から貧乏で、明るく生きていれば貧乏なんて問題じゃない」

安倍晋三が聞いたら、泣いて喜ぶに違いない。

元黒テントの脚本家山元清多が脚本を書いているほか、今や参議院議員で、政府を追及する立場の山本太郎が先生として出ている。

広島にいた弘明は、母の工藤夕貴は、子供を二人も養育できないので、幼い小学生の弘明を佐賀の祖母に家に、妹の浅田美代子に連れて行かせる。

この祖母が凄い貧乏で、磁石を地面に引いて町中を歩いて金ものを集めて来て売るという女性で、吉行和子。

                       

一応、建物等の清掃の仕事をしてるらしいが、貧困の極み。

弘明の父親は、原爆で死んだが、祖父の死の原因は不明。

弘明は、中学に行っても勉強はまったくだめだが、足が速く、マラソン大会で優勝する。

高校は広島に行き、野球部に入ったはずだが、すぐに挫折し、漫才で大成功する。

ビートたけしによれば、漫才ブームのころ、島田洋七はいつもポケットに百万円の札束を入れていて、周囲の人間に配っていたそうだが、それはこの幼児期の貧困の反動だろう。

日本映画専門チャンネル


『太陽の塔』

2018年10月11日 | 映画

太陽の塔は、1970年の大阪万博の時、シンボル施設として万博広場に作られたもので、設計は岡本太郎で、ほとんどが撤去された万博の施設の中で、唯一今もある施設だそうだ。

岡本太郎は、一度だけ見たことがある。1966年の6月頃、何かのデモをするために四谷の清水谷公園にいると、白のレインコートできて居てた。その傍には、たぶん岡本敏子もいたと思う。

太陽の塔だけ残っているのは、その迫力で壊せなかったそうで、公園に来る子どもには、怖いと泣く子もいるとのこと。

映画は、まずこの塔が作られる経緯から始まり、お祭り広場という万博の、丹下健三設計の建物の中に、その中心を付きぬくタワーとして建物に穴を開けてしまったものであることが辿られる。本来、丹下先生としては不愉快だったと思うが、岡本の迫力には敵わなかったのだと思う。この政府主催のイベントには、多くの芸術家、特に前衛的と言われていた建築家、美術家、映画監督等が参加した。それについての批判もあったが、今ではそのことを記憶している人も少なくなっただろう。

そこから太郎の人生が振り返られ、戦前にパリに行き、ピカソをはじめ、当時のシュールレアリズムの作家とも交流し、最も重要なアフリカ等の原始美術作品に衝撃を受ける。それは、帰国した後の戦後に、東北やアイヌ、さらに沖縄の美術と、縄文時代の作品への傾倒になる。

図式的に言えば、弥生時代以後の現在の天皇制にまで通じる文化、芸術に対し、縄文を対置することで、平城、平安以来の文化が本来の日本の文化ではないことを明らかにしたのである。

多くの文化人、学者の証言でそのことが明らかにされるが、戦後の「夜の会」への参加のことが描かれていなかったことはやや不満。

そして、ほぼ最後の作品である「明日の神話」が製作され、メキシコでの展示の後、渋谷の東京メトロの通路に展示されたことが描かれる。

最後は、太陽の塔は、チベット仏教の曼荼羅であい、供物のトルマではないかとの説が明らかにされる。

                                        

             

トルマは、神に捧げる供物で、もともとは人や動物を捧げたもので、今はムギコガシを練って円錐形のものを作り、供物とするものだそうだ。

確かに、太陽の塔は、人類と世界への供物であるのかもしれない。

横浜シネマベティ

 


『散り椿』

2018年10月06日 | 映画

 

                

女優の飯田蝶子さんは大変なシアターゴーアで、どんな芝居でも見たが、時々余りにひどいと「わたしゃ、ドブに財布を落としたような気分になったよ・・・」と言ったそうだ。

これも、1100円だったが、500円くらいの作品だった。

撮影の木村大作は悪くはないと思うが、脚本の小泉が最悪だろうと思うとやはりひどかった。こいつは、映画『雨あがる』で、三船史郎の若殿に「世の自尊心が傷ついたぞ!」と言わせたバカなのだ。

ここでも、「権力争い」、「独占販売」とか「緊張の身で正月を過ごした」などと享保時代にはありえない台詞を役者に平気で言わせている。

話は本当はきわめて単純なのに非常に分かりにくい筋になっている。

その理由は、岡田准一や西島栄俊らの本心が良く分からないからで、岡田がいきなり西島に剣を向けるなどすると、「一体何だ」と思ってしまう。

岡田と西島の殺陣はいいと思うが、「こんなに軽々と剣が振りまわせるのか」とも思ってしまう。

それに大問題は、音楽で、いいところになると『ゴッド・ファーザー』の「愛のテーマ」が聞こえてくる。

これで盗作にならないのか、心配してしまうのだ。

上大岡東宝シネマ