最近、若い人と話していると、ピンク映画とロマンポルノを混同している方が多い。
だが、ピンク映画とロマンポルノは、明らかに違うのである。
ロマンポルノは、1971年から17年間、日活がやっていたもので、ピンク映画は1962年頃から、始まったものである。
一般的には1961年の新東宝の倒産で、失職したスタッフ、キャストによって始められたと言われている。
確かに、ピンク映画第一号とされる『肉体の市場』の監督の小林悟は、新東宝系の富士映画の出身であり、その他にも小森白、小川欣也など新東宝系の監督が多くいた。
また、役者、特に俳優も新東宝の大部屋だった方も多い。
だが、もう一つ、ピンク映画へスタッフを供給した分野がある。
所謂文化映画、記録映画、ニュース映画、テレビ映画、PR映画等から移行してきた方で、山本晋也は岩波映画から、若松孝二もテレビ映画から移行してきた。
文化映画、記録映画、ニュース映画は、1941年の「映画法」の強制上映によって、戦時中は隆盛を迎えるが、戦後は法がなくなり、さらにテレビでニュースが始まると急激に落ち込む。
実は、1964年の東京オリンピックでは、文化映画等のスタッフ500人が総動員され、これは翌年に市川崑監督の『東京オリンピック』となり、12億円の大ヒットになる。
ただ、これには動員の力もあり、私も高校2年の3月に、全員で目黒の映画館に行った。
この東京オリンピックの時、山本晋也は、岩波映画にいて、陸上競技の撮影を担当していたそうだ。
この1964年が文化映画の頂点であり、以後ニュース映画も衰退し、PR映画も次第にテレビのコマーシャルに移行していく。
もう一つ、ピンク映画に参入してきた人たちがいる。撮影所が閉鎖された松竹京都等の人たちで、福田晴一などの監督がピンクで監督するようになる。
なぜ、そのようにピンク映画に多数の人間が入って来たかと言えば、勿論儲かるからである。
俗に「300万円映画」と言われたように、500万円くらいで製作された作品は、数千万円の興行収入があったと言われている。
その他、映画界とは無関係な連中も多数参入してきて、ピンク映画界は、大手5社をしのぐようになる。
もう一つ、これは重要な要素だったが、大手系列の映画館以外の独立館は全国に多数あった。
ところが、1960年代中頃になると大手は、予算の削減のため製作本数を削減するようになった。
東映の2本立てに始まった2本立て競争は明らかに生産過剰だったので、5社は次第に製作本数を減らし、あるいは外部からの買上を増やすようになる。
そのために、5社の直営館、系列館は良いが、独立館では新作の不足に悩むことになる。
5社の直営館では、新作の代わりにかつてのヒット作や名作を上映し、「今村昌平週間」とか「赤木圭一郎週間」などと銘打って旧作を上映したので、逆に私たちは多くの旧作を見ることができた。
横浜の京急日の出町駅に、「東活」という会社のポスターが貼ってあり、「これは何だ」といつも思っていたが、実は府中等で複数の映画館を持っていた人の会社で、小林悟などに作らせていたのだった。
そのように映画館の方の需要の理由でピンク映画が生まれたこともあったのである。
1960年代末にピンク映画は全盛を迎えるが、1971年日活がロマンポルノを始めて打撃を受ける。
だが、日活は、3本立てで、1本はピンク映画の買取だったこともあり、1980年代は共存していた。
ロマンポルノで一番打撃を受けたのは、実はATG映画で、「芸術エロ」だった日本ATGから日活へ、セックス映画の客は移動したのである。
ところが、1980年代の中頃に、アダルトビデオが成長してきて、個人視聴が可能なyため、ビデオデッキの普及、レンタル店の増加と共に、日活、ピンク映画の双方に打撃を与える。
そして、日活は、一時社名をロッポニカに変え、一般映画になったが大不振で、1992年に倒産してしまう。
日活は、もうないと思っている方も多いと思うが、きちんとあり今は日本テレビ系資本の会社で、一般映画を中心に作っている。
一方、ピンク映画は、今や「絶滅危惧種」と言われているが、横浜の野毛には大蔵映画経営の光音座があり、ゲイポルノを中心に上映している。