指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「排除の論理」は間違いだろう

2017年10月29日 | 政治

小池百合子の致命的エラーで有名になった「排除の論理」だが、元は1996年に民主党を作るときに、鳩山由紀夫、菅直人らがしたことである。

そこでは、武村正義、土井たか子、村山富市らの前世代の政治家を入れなかった。

民主党の誤りはいろいろあり、官僚との付き合い方が一番の問題だったが、この排除の論理良くなかったと思う。

自民党系の組織に、「ろう・そう・せい」と言う言葉がある。これは何かというと、老人、壮年、青年が一緒になってことを行うと言う意味である。

やはり、日本は年功序列の社会であり、年上の人間は尊重されるべきとの儒教的考えは非常に強い。

映画『七人の侍』でも、村の端には高堂国典の爺様がいて、知恵を授けるのだが、高齢者はこのように使うべきなのである。

この民主党を作るとき、前世代など排除せず、来るものは拒まずでやれば良かったと思う。

いずれ選挙で前世代はいなくなるのだから、そのままにしておけば良かったのだと思う。

民主党では、何度も内部抗争があったが、こうした時、排除した長老たちがいれば、何らかの調停や和解役をしたと思うのだ。

その点、かつての自民党は国民政党だったので、高齢者から若者まで、右から左まで混在する政党で、そこが一番の強みだった。

よく、民主党・民進党について批判される「いろんな考えの政治家がいてだめ」というのがあるが、むしろ自民党の方が様々な政治家がいて、そこが自民党の強みなのである。

今は、安倍晋三に引きつられて、右寄りになっているが、個々の議員は様々なので、支持者から見れば、

「安倍晋三はああだが、うちの先生は違う」として自民党に投票するのである。

やはり、民進党系の政党は、今後は「国民政党」を目指して、右から左までいるような組織になっていくことが必要だと思う。

その点で、排除の論理で、自らを純化した希望の党は、最初から失格と言うべきである。

 

 

 


『風雲三條河原』

2017年10月27日 | 映画

1955年、劇団新国劇総出演で作られた、人斬りの岡田以蔵を主人公とする作品。

以蔵を主人公とした映画では、勝新太郎主演、五社英夫監督の『人斬り』があり、ここでは薩摩の「人斬り新兵衛」を三島由紀夫が演じ、最後に切腹を見せた。

三島の切腹願望は、20代くらいからあったようで、友人でホモセクシュアルの演出家・堂本正樹と、中世の切腹の絵巻を見ながら興奮して契っていたそうだ。

さらにもう1本、熊本の細川家にも「人斬り彦斎」と言うのがいて、これも日活で映画化されている。

幕末の京都は、何人ものテロリストが横行する町だったわけだ。

                                     

監督は、サイレント時代からの時代劇のベテラン並木鏡太郎で、よくできている。

主人公が島田正吾なのだから当たり前だが、筋がいい。

足軽だったが、腕が立つので京都に連れて来られた以蔵は、佐幕派を次から次に殺すが、土佐も公武合体派になりつつあり、テロリストは余計になっている。

土佐藩の者に追われて三條河原を逃げるところから始まり、回想で事件がつづられていく。

彼は、芸者の山根壽子と恋仲になっていて、日活の『人斬り彦斎』でも、中村扇雀の彦斎の恋仲なのが山根壽子で、この人は美人女優である。

土佐藩の上司が石山健二郎で、酒に薬を入れて毒殺しようとするが、以蔵は企みを悟って飲まず、そこからまず大立ち回りになる。

さすがに島田は上手い。対する辰巳柳太郎はと言うと、これが近藤勇で、悠揚として洒脱な感じである。

山根の身請けの金に困り、以蔵は、人相絵の出廻っている土佐の唯一の友人の徳大寺伸が、密かに母と会う場所を新選組に密告してしまう。

その金を持って置屋に行くと、山根も自分の身をかたに金を作ってきている。オー・ヘンリーの『賢者の贈物』のような皮肉な話である。

最後は、新選組が池田屋に集結していた土佐藩たちの勤皇派を襲撃する大立ち回り。

この時期、日活の製作再開で、新国劇は日活に行ったと言われていたが、同時に新東宝でも時代劇を作っていたのであった。

要は、時代劇は日本映画のドル箱だったのである。

東宝も実は戦前から時代劇を作っていたが、戦後の1950年代になると、それは減少するが、その代わりに新東宝が時代劇を作っていたのであることがよく分かった。

シネマヴェーラ渋谷

 

 


小池百合子評論家 中田宏

2017年10月26日 | 政治

この間の選挙の騒ぎでテレビに出続けたのが、中田宏氏であり、今や小池百合子評論家である。

前に書いたこともあるが、彼の横浜市長1期目は一応評価できるものだったと思う。

高秀市長の下の市政の停滞を打ち破ったのは評価してよいと思う。

ただ、二期目は、地金が出たというか、ひどい状況になった。

                    

横浜市では、毎年の2月頃に全区で「自治会町内会長感謝会」と言うのをする。

長年町内会長を務めた方々を表彰するほか、現在の町内会長さんたちに来ていただき、市長、議長らと懇親するのである。

ある区の職員だった時、市長の出迎えの役を与えられて、会場の地区センターの玄関にいた。

すると大きな外車が来て止まり、中田氏が颯爽と現れた。

すぐに私は、随行の秘書に聞いた。

「この車は何ですか」

「ジャガーですよ」

横浜市長が外車に乗っているとは!

この頃、中田氏は、日産の本社を横浜に誘致したと偉っていたのだが、ご自分は外車に乗っておられるとは!

この時から、私は中田市長の言うことを信用しないことにしている。

今や、迷走中の小池百合子の状況から、小池百合子評論家としてご活躍の中田氏には、ますますご活躍の機会があるだろう。

 


2本立ての最初は

2017年10月24日 | 映画

1950年代中頃から、日本映画は、多くの映画館では2本立て上映になった。

これは、『笛吹童子』以下の新諸国物語スリーズの大ヒットで、東映が中編2本立てで業界を席捲したことに追従した動きだった。

だが、これは同一社内の2本立てだが、異なる社の2本立てを考えて大成功した男がいた。

かつて「四国の大将」と呼ばれた、坪内壽夫さんである。

彼は、戦後松山で映画館をやっていたが、そこで異なる社の作品の2本立てを始めて大ヒットさせたのである。

これは日本で最初のことだったのである。

                  

その後、造船所を次々と買収し、銀行の要請に応じて佐世保重工業も配下に置き、一時は「世界一の造船王」とまで呼ばれた。

私は、横浜市会議長だった松村千賀雄先生から聞いたことがあるが、1980年代初頭に坪内さんと松村さんはお会いした。

その時、坪内さんは、環境関係の事業を構想していたとのことだった。

やはり、時代を先取りする方だったわけだ。

 

 


池上映画劇場

2017年10月20日 | 東京

ネットがすごいと思ったのは、池上にあった池上映画劇場について、載っていたことだ。誰が書いたのかはわからないが。

ただ、そこには私の記憶と少し違う部分もある。

そこは、池上駅の近くだが、少し離れたところにあり、当初は東宝と東映の館だったと思う。

東映のシネマスコープ第一作の『鳳城の花嫁』はここで見たし、東宝の水野久美、上原美佐、三井美奈のスリー・ビユーティズの紹介短編もここで見た。本編は何だっかはよく憶えていないが。

『地球防衛軍』や『モスラ』は、ここで見た。

              

当時は、こういうご挨拶映画があり、新人監督への昇進試験映画だったそうだ。

 スリー・ビユーティズ映画も、冒頭はスタンダードサイズで始まり、それがいきなり拡大してシネマスコープになるというものだった。

大島渚も『明日の太陽』で、ニューフェイス紹介の作品を作っていて、この時は「この大島はじきに監督になる」として大船撮影所自体が大騒ぎになったそうだ。

池上では、東映の全盛で、池上東映ができ、池上映画劇場からは東映作品はなくなった。

ただ、東映でも封切館だったかは不明だが、私は『特ダネ30時間シリーズ』などを見ている。

ここはすぐになくなってスーパーになった。

一方、池上映画劇場は、大映の作品も上映していて、市川崑の『おとうと』はここで見た。

1960年代の映画不況の中で、ここは釣堀になり、映画やテレビのニュースにも取り上げられた。

そして、今は大きなマンションになっている。映画館が廃館した後は、スーパーやパチンコ屋になった例が多いが、ここは少し駅から離れていて便利な場所ではなかったので、マンションにしたのだと思う。

いずれにしても、系列館以外の独立館は結構多かったのである。

 

 

 

 


ピンク映画とロマンポルノは違う

2017年10月19日 | 映画

最近、若い人と話していると、ピンク映画とロマンポルノを混同している方が多い。

だが、ピンク映画とロマンポルノは、明らかに違うのである。

ロマンポルノは、1971年から17年間、日活がやっていたもので、ピンク映画は1962年頃から、始まったものである。

一般的には1961年の新東宝の倒産で、失職したスタッフ、キャストによって始められたと言われている。

確かに、ピンク映画第一号とされる『肉体の市場』の監督の小林悟は、新東宝系の富士映画の出身であり、その他にも小森白、小川欣也など新東宝系の監督が多くいた。

                     

また、役者、特に俳優も新東宝の大部屋だった方も多い。

だが、もう一つ、ピンク映画へスタッフを供給した分野がある。

所謂文化映画、記録映画、ニュース映画、テレビ映画、PR映画等から移行してきた方で、山本晋也は岩波映画から、若松孝二もテレビ映画から移行してきた。

文化映画、記録映画、ニュース映画は、1941年の「映画法」の強制上映によって、戦時中は隆盛を迎えるが、戦後は法がなくなり、さらにテレビでニュースが始まると急激に落ち込む。

実は、1964年の東京オリンピックでは、文化映画等のスタッフ500人が総動員され、これは翌年に市川崑監督の『東京オリンピック』となり、12億円の大ヒットになる。

ただ、これには動員の力もあり、私も高校2年の3月に、全員で目黒の映画館に行った。

この東京オリンピックの時、山本晋也は、岩波映画にいて、陸上競技の撮影を担当していたそうだ。

この1964年が文化映画の頂点であり、以後ニュース映画も衰退し、PR映画も次第にテレビのコマーシャルに移行していく。

もう一つ、ピンク映画に参入してきた人たちがいる。撮影所が閉鎖された松竹京都等の人たちで、福田晴一などの監督がピンクで監督するようになる。

なぜ、そのようにピンク映画に多数の人間が入って来たかと言えば、勿論儲かるからである。

俗に「300万円映画」と言われたように、500万円くらいで製作された作品は、数千万円の興行収入があったと言われている。

その他、映画界とは無関係な連中も多数参入してきて、ピンク映画界は、大手5社をしのぐようになる。

もう一つ、これは重要な要素だったが、大手系列の映画館以外の独立館は全国に多数あった。

ところが、1960年代中頃になると大手は、予算の削減のため製作本数を削減するようになった。

東映の2本立てに始まった2本立て競争は明らかに生産過剰だったので、5社は次第に製作本数を減らし、あるいは外部からの買上を増やすようになる。

そのために、5社の直営館、系列館は良いが、独立館では新作の不足に悩むことになる。

5社の直営館では、新作の代わりにかつてのヒット作や名作を上映し、「今村昌平週間」とか「赤木圭一郎週間」などと銘打って旧作を上映したので、逆に私たちは多くの旧作を見ることができた。

横浜の京急日の出町駅に、「東活」という会社のポスターが貼ってあり、「これは何だ」といつも思っていたが、実は府中等で複数の映画館を持っていた人の会社で、小林悟などに作らせていたのだった。

そのように映画館の方の需要の理由でピンク映画が生まれたこともあったのである。

1960年代末にピンク映画は全盛を迎えるが、1971年日活がロマンポルノを始めて打撃を受ける。

だが、日活は、3本立てで、1本はピンク映画の買取だったこともあり、1980年代は共存していた。

ロマンポルノで一番打撃を受けたのは、実はATG映画で、「芸術エロ」だった日本ATGから日活へ、セックス映画の客は移動したのである。

ところが、1980年代の中頃に、アダルトビデオが成長してきて、個人視聴が可能なyため、ビデオデッキの普及、レンタル店の増加と共に、日活、ピンク映画の双方に打撃を与える。

そして、日活は、一時社名をロッポニカに変え、一般映画になったが大不振で、1992年に倒産してしまう。

日活は、もうないと思っている方も多いと思うが、きちんとあり今は日本テレビ系資本の会社で、一般映画を中心に作っている。

一方、ピンク映画は、今や「絶滅危惧種」と言われているが、横浜の野毛には大蔵映画経営の光音座があり、ゲイポルノを中心に上映している。

 

 


判官びいきは存在しない

2017年10月15日 | 政治

各種の選挙の世論調査で、自公が有利との報道が出ている。

かつては、「アナウンスメント効果」と言って、有利だと予想された側から、不利とされた方に票が流れるとされた。

これが日本人特有の判官びいきであり、アナウンスメント効果だとされてきた。

                                       

だが、現在では逆だと私は思う。

今は、有利だと言われた方に投票することが多いと思う。

それは、かつては衆議院は中選挙区制で、自民党では複数の候補が出ていたので、別の候補に入れる投票行動があった。

あるいは、自民は勝つから社会党に入れようというような余裕があった。

だが、今は小選挙区制で、1位以外の票は無意味となってしまう。

そこで自分の票を無効にしないため、有利な方に入れてしまうのである。

それに小泉純一郎・竹中平蔵の新自由主義経済路線以降、勝組・負組という嫌な区別もできた。

そこでは、自分は負組に組みしたくないという意識も強くなっている。

かつて大阪の橋下徹に入れた票の多くも、客観的に見れば、負組の連中だったと思える。

つまり、かつてナチスに投票したのが、ドイツの不況で一番苦しんだ中産階級であったことと同じである。

自分たちの首を締める者に投票するということは、今の日本でも起こっていることだと私は思う。

自公政権の勝利によって首を絞められるのは、最終的には若者たちのはずなのに、彼らが自公に投票するというのは、まことに政治の逆説である。


ガキのケンカ トランプと国務長官のIQ争い

2017年10月12日 | 政治

トランプのすることは、いつもおかしいが、国務長官と以下のようにIQ争いになったというのは、本当に笑ってしまう。

せいぜい中学生の口喧嘩のレベルだろう。

 

「IQテストで白黒つけよう トランプ氏、「ばか」呼ばわり報道のティラーソン国務長官と勝負?」


結局、オオカミおばさんになった小池百合子

2017年10月10日 | 政治

小池百合子は、衆議院議員選挙に出ないことになった。さんざ出るの出ないのと日本中を大騒ぎをさせておいての結果とは、実に人騒がせな女である。

やはり、民進党の議員を選別すると言ったことが失敗だった。

最終的には、そうするにしても、公示直前まではあいまいにしておいた方が良かったと思う。

あのようにかっこよくきっぱりと言ってしまったのは、やはり人気故の奢りというべきだろう。

                                         

もちろん、それ以上に理解不能なのは、前原誠司民進党代表が小池百合子に合流を申し入れたことの本当の理由である。

一説では、「合流すれば、数としては民進党系の方が多いのだから、最後は自分たちで党を乗っ取れるのではないか」と思ったからだそうだが、これもにわかには信じがたいことである。

ただ、今回の小池の衆議院議員選挙への不出馬で良いことあるとすれば、今後彼女は本気で都政に取り組まざるえ得なくなるということだろう。

これで、当分大したことはできないし、批判の多い豊洲移転以下の都政に真剣に対応せざるを得なくなるだろう。

今回の失敗は、都知事選や都議会議員選挙の時のような、敵を見つけられなかったことにあると思う。

むしろ、民進党との合流の選別で、自分が敵になってしまった。

これで希望の党の得票は相当に落ち、自公は楽勝とまではいかないが過半数は取ることになるのだろう。

安倍晋三は喜んでいるだろうが、本当にこの「愚直に」ではなく、本当に愚かな男はいつまで首相でいるのだろうか。

TBSの岸井成格は、二次政権の始まりのインタビューで「権力は抑制的に使うべきだ」と安倍に言ったところ、

「いや歴代の自民党政権はそうだったからダメで、権力は強く行使すべきだ」と言ったそうだ。

本当にあきれるしかない。

オオカミ少年は、嘘を村人につき続けたため、本当に狼が来た時は、誰も信じてくれなくなる。

小池おばさんの最後はどうなるのだろうか。


小池百合子は、信用できるか?

2017年10月06日 | 政治

この間の日本の政治は、「ものみな小池になびく」で大騒ぎだが、小池百合子は信用できるのだろうか。

勿論、信用性など、政治家にとって意味はない、優れた政治をするのが政治家だというご意見もあるだろう。

昨日も、小池百合子は、前原誠司との会談の後で、「私は衆議院選挙には出ません!」と断言したが、私は出るとみている。

理由は二つあり、一つは昨日の音喜多駿、上田玲子都議の都民ファーストの会からの離党に見られる、希望の党への好感度の急激な低下である。

言わば逆風下で、もう一度自分たちに風を吹かせるためには、一発大逆転のホームランとして公示直前での選挙出馬で話題にするしか方法はないからだ。

もう一つは、今回の2都議は、元みんなの党の議員で、これと渡辺美喜元みんなの党代表の、希望の党からの衆議院選挙出馬を小池が断ったことである。

要は、小池は自分よりも偉い人間はすべて排除する女性なのである。

もし、今回の選挙で希望の党がかなりの議席を取り、首班指名になったとき、自分よりも長い政治歴を持っていて、自民党内にも支持者のいる渡辺がいては、彼に指名が行く可能性があり、それは絶対に拒否して自分が首相になりたいのである。

小池百合子は、何が何でも首相になるたい女性なのである。

政治家なら当然でもあるが、それが相当に異常なのが小池百合子だと思う。

                               

特に希望の党の公約で注目されるのは、「外国人の地方参政権反対」である。これは、かつては公明党は賛成で、小沢一郎も推進した政策である。

なぜ、これに小池が拘るかと言うと、彼女のエジプト留学時代に何かの体験ではないかと、私は下衆のかんぐりをするものである。

私は、小池百合子が、先日の希望の党の設立発表の時、若狭勝、細野豪志を両脇に従えて、

「お二人が検討してきたが、リセットして・・・」と言った度胸と面の皮の厚さはすごい。

到底普通の神経の人間で言える台詞ではない。

 


「日本を東洋のスイスに!」

2017年10月05日 | 政治

これは左翼が言ったことでも、民進党が言ったことでもない。

戦後、アメリカによる日本の占領が終わり、独立させるとき、GHQ総司令官マッカーサーが言ったことである。

なぜ、こんなことを考えていたのかはよくわからない。多分、マッカーサーは、大統領選挙に出るつもりだったので、自分の成果としたかったのかもしれない。共和党の予備選挙に出るが、アイゼンハワーに負けてだめになる。

戦争の経歴では、マッカーサーの方がアイゼンハワーよりはるかに上で、自分がなぜ大統領候補になれないのか、と聞いた時、側近は言った。

「戦歴はあなたのほうが上でも、アイクの笑顔にあなたは勝てませんよ!」

         

アメリカの大統領選挙の一面を語る台詞である。

さて、米国の占領が終わるとき、日本側もいろいろ考えていて、外務省は、アメリカと安保条約を結ぶ意向だったが、それは5年くらいの「有期駐留」で、首相の吉田茂もそうだった。

だが、それを「永久駐留」に変えさせたのは、実は昭和天皇だったのだ。

当時は、まだ朝鮮戦争があり、北朝鮮の攻勢も強かったので、このまま天皇制が維持できるのか、という不安が昭和天皇にあったのだろうと思う。

昭和天皇は、吉田茂らの頭を超えて米国側に要請して、安保条約を有期駐留ではなくしてしまう。

特に、沖縄に駐留することにしたのは、昭和天皇の意思で、沖縄は天皇によって言わば「捨てられた」のである。

今は、歴史を誰も顧みず、ものを知らないことがむしろ「可愛い」と言われる時代だが、やはり歴史の重要なことは知っておくべきだと私は思う。


佐藤栄作の評価

2017年10月03日 | 政治

佐藤栄作といえば、佐藤B作という、彼の名を揶揄した役者がいるほど、左右両陣営から評判の悪い首相だった。

特に、ノーベル平和賞を受賞したのも、やりすぎだと思われたものだ。

だが、私は、彼の側近の日記を読んだあたりから、「この人は意外にも違うのではないか」と思うようになった。

岸・佐藤兄弟と一括りにされるが、この兄弟はかなり違う。第一に、佐藤は兄岸信介のような秀才ではない。

彼も東大法学部を出たが、国ではなく鉄道院、それも中央よりも地方勤務が多かったように、ここでも中枢ではない。

中で重要なのは、1945年3月の大阪空襲の時、大阪にいて火災現場で指揮を執ったことである。

                  

彼が、「人事の佐藤」と呼ばれるほど、人事管理、情報に通じていたことは有名で、国会にいてもいつも「国会便覧」を読んでいたそうだ。

対照的なのが宮沢喜一首相で、政策には通じていたが、議員の動きが分からない人間だった。1993年の宮沢内閣不信任案の時も、小沢一郎らの動きは全く知らず、採決まで知らず、結果に驚いたのだそうだ。

さて、佐藤栄作は内政は得意だったが、外交が下手で典型例が日中国交回復で、結局彼はできず、次の田中角栄が電撃的に中国を訪問して国交回復し、田中の大手柄とされた。

だが、先日のBSNHKの『日中「密使外交」の全貌』は非常に面白く、実は佐藤栄作も中国との国交回復の秘密交渉をさせていたことが明らかにされた。

江口真彦(口は、難しい字)という人で、戦前は外務省にいて特務工作をやっていた人で、彼は1971年秋から佐藤からの依頼によって中国政府の中枢部、具体的には周恩来へ3通の秘密書簡を送るのを工作したのだ。

戦時中の中国との人脈から、当時は香港にいた彼らの様々なルートから北京への秘密交渉を行っていたのだ。

中国側の窓口は廖承志で、当時は対日窓口の責任者で、そこから周恩来に伝えたのだ。

なぜ、そのようなことをしたかと言えば、1971年10月に国連から台湾が追放され、中華人民共和国が国連の代表権を得たからである。

もちろん、日本は公式的には台湾側にいたが、この時の佐藤の反応を見ると、結果として中國側が代表権を得たのだから、仕方がなく、中国と交渉しようとするものだったようだ。

この辺は、実に現実的で、佐藤栄作は、イデオロギストというよりは現実家だったわけだ。

私が、佐藤栄作がすごいと思ったのは、役所で配布された人権関連の本の中に、ある関係の幹部の叙勲について、佐藤栄作が大変に運動してくれたという記事で、この人はすごい人脈なのだなと思った。

そのように、国の高級官僚の人事掌握術は、こうした「面倒見」のようだった。私が唯一関係した元大蔵次官の高木文雄さんも、細かく部下の人事を面倒見ていたようで、時にはそこまでしなくてはと思ったものだ。

その結果、高木文雄さんには、日本全国あらゆるところに知り合いがいるのには、本当に驚いたが、佐藤栄作はもっとすごかったのだろうと思う。

もちろん、日中国交回復については、このルートの他、田中角栄と公明党の竹入義勝委員長、さらに日本社会党や日中友好協会など様々なルートがあり、最終的には佐藤内閣の後任が田中角栄になり実際に訪中して国交回復したので、竹入ルートだけが存在したように言われるようになった。

佐藤栄作については、岸信介とは異なる政策を進めた自民党の首相として、私は再評価しなければならないと以前から思ってきたが、それが裏付けられた番組だった。

 

 

 


「安倍が窮地なのはいい」

2017年10月01日 | 政治

先日、50代の女性と話したが、今回の選挙に向けての動きは滅茶苦茶で、なにをやっているのだと言う。

一体、民進党はどうなっているのか、と思うそうで、前原なんてバカだそうだ。

だが、「もっとバカの安倍がおたおたしているのは、気持ちがよい」のだそうだ。

安倍晋三首相を嫌いな人は結構いるものだと改めて思った。

 

なんでこんなに騒いでいるのかとのご意見もあるだろう。

だが、私は選挙は民主主義のお祭りであり、アメリカの大統領選挙では大騒ぎで、関心を作っている。

その意味では、今回のような大騒ぎは非常に良いと思う。

かつての自民党、社会党の二大政党対立時代、本心では彼らは、特に地方の選挙では、選挙への関心を下げるようにしていた。

関心が下がれば、現職が有利だからである。

今度はどのようになるのか、大変に興味深い。