指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「スターは演技しなくて良い」

2010年10月31日 | 映画
岡田茉莉子の『岡田茉莉子』は、とても面白い本である。
彼女は東宝で女優デビューし、東宝初のカラー映画、山本嘉次郎監督の『花の中の娘たち』に出た。
そのとき、山本に、
「あなたはスターなのに、芝居をするんだね」と言われたそうだ。

山本の言葉は、当時の日本映画では、主演級のスター、「特に女優は演技などしない方が良い」との考えを現している。

最近は、役者は、自分が脚本に書かれた役の方に行くのではなく、
テレビ・ドラマが典型だが、シナリオの役がそれぞれの役者に「当てはめて書かれているので、そのままの自分を打ち出せば良い」こととなってしまっている。演技や役作りなどは、不要なのである。

そこで、仲代達矢曰く、
「最近は、役作りと言うものがなくなっているが、それもあるいは正しいのかなと思っていますが」
となるわけだ。

『東京の合唱』

2010年10月30日 | 映画
小津安二郎のサイレント時代の代表作の一つ『東京の合唱』が、活弁付きで上映されるというので、久しぶりに門前仲町まで行く。
ここへは、品川に住んでいた頃は、路線バスがあったので、よく遊びに来たことがある。

小津の戦前の映画、殊にサイレント作品は、なるべくなら活弁付きで見るようにしている。
本来、弁士が付き、音楽の演奏も付いた作品を、「映像だけで鑑賞しろ」と言うのは少々乱暴で、映画の半分くらいしか味わったことにならないからである。別にマツダ映画社の宣伝をするわけではないが。

今回は、無声映画鑑賞会の上映で、活弁は澤登翠、会場は門天ホール。
ここは、戦後すぐは日雇労働者の溜り場、江戸時代で言えば人足寄場だったところだそうだ。
となると今井正の、日雇労働者、当時で言えばニコヨンの河原崎長十郎らを主人公にした映画『どっこい生きている』も、この辺をロケしているのかもしれない。この辺と、確か千住辺りが映画の舞台だったように思うが。
ビルを建てるとき、組合が最上階にホールを作り、ビルの最上階の天井なので、門前仲町天井ホールで、門天ホールなのだそうだ。

井上正夫主演の『己が罪』が終わり、澤登が語る『東京の合唱』。
合唱ではなく、コーラスだそうだ。
話は、中学生の岡田時彦と教師斉藤達夫との交流を描くもの。
大学を出て生命保険会社のサラリーマンの岡田は、社長の横暴に怒り、首になってしまい失業者になる。1931年、昭和6年は大変な不況で、町には失業者、ルンペンがあふれていたそうだ。
妻は八雲恵美子、長男は菅原英雄,長女は7歳の高峰秀子で、可愛い。

求職活動中に岡田は、偶然恩師の斉藤に会う。
彼は、教師を辞め、妻の飯田蝶子と洋食屋「カロリー軒」をやっている。
洋食といっても、メニューはカレー・ライスのみ。
岡田は、斉藤に頼まれ店の宣伝の幟旗を持って町を歩いているところを、偶然市電に乗っていた高峰に発見され、八雲も驚く。

家に帰ってきた岡田に、八雲は言う。
「世間に顔向けできないことはしないで下さい」
当時、まだ広告・宣伝業の社会的地位は低かった。今日の電通の興隆を見ると、隔世の感がある。
だが、斉藤には岡田の「就職先を斡旋してもらう義理もあり、店を手伝うことした」との説明に八雲も納得し、
「私も一緒にそこで働こうかしら」と決心する。

ある日、中学の同窓会が斉藤の店で開かれる。
メニューは、ビールで乾杯し、カレーライス1皿で、15銭。これが、戦前の宴会だったのだろうか。
そこに、岡田の勤め先の通知が来る。
栃木県の女学校の英語教師。
岡田と八雲は、東京を離れる寂しさと職を得た喜びに浸り、同級生は寮歌を歌って祝す。
合唱ではなく、斉唱であり、ユニゾンに過ぎないが、まあそれは良い。

これを見て、私には小津の遺作『秋刀魚の味』への疑問が解けた。
『秋刀魚の味』は、笠智衆らが、中学の恩師東野英治郎が学校を退職後、娘の杉村春子とラーメン屋(映画ではチャンそば屋と言っている)をやっているのを見て、笠が婚期を逃さぬように娘の岩下志麻を結婚させようとするものである。
だが、『秋刀魚の味』が作られた昭和37年当時、年金制度はすでに整備されていたので、「教師の笠が、退職後の生活のためにラーメン屋をする必要がないのに、なぜやっているのか」見るたびに不思議に思っていた。
だが、『秋刀魚の味』は、実は戦前の『東京の合唱』の再映画化だったのだ。

戦前は、公務員以外は年金制度も不十分で、映画の斉藤達夫のように第二の人生を自分の手で営む必要があった。
と言うより、戦前の平均寿命は50歳半ばくらいだから、多くの人は退職即死去で、年金生活の必要もなかった。
小津は、『秋刀魚の味』を『東京の合唱』の再映画化で作ったので、そこには時代のズレが生じたのだ。
そのほかにも、小津安二郎の戦後の作品には、「これは戦後ではなく、戦前の風俗では」と思われるシーンが結構ある。
それは、多分再映画化によるものだろう。

ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』ではないが、日本の社会は、戦前と戦後は戦争によって分断されているのではなく、むしろ継続している箇所も多いのだから、それも正しいのかもしれないが。

岡田時彦を見ていて、その痩身で面長で知的な顔つきは、岡田時彦の実娘岡田茉莉子の夫である、監督吉田喜重にそっくりなことを発見した。
私は、オイディプス・コンプレックスを全面的に肯定すろもではないが、こういう実例を見るとうなってしまう。
門前仲町 門天ホール

『薔薇のスタビスキー』

2010年10月29日 | 映画
公開時に見て、よく理解できなかったが、今回見てもよく分からない。
話は、1930年代にフランスで起きたスタビスキー事件を基にしているが、このスタビスキー事件自体を我々はよく知らないので、スタビスキーを主人公にする意味が理解できないのである。

映画は、ロシア革命の指導者で、権力者スターリンに追われたトロツキーが、フランス海岸に亡命してくるところから始まる。
スタビスキーも、元はロシア系のユダヤ人であり、彼が所有する劇場では、役者のオーディションが行われていた。
そこには亡命してきたドイツ系ユダヤ人の女優が、アヌイの『間奏曲』の一節を演じる。
まさに、今日から回想すれば、1930年代は、二つの世界戦争の「間奏曲」のような時代だったことになる。

スタビスキー役は、ジャン・ポール・ベルモンドで、監督は「難解ホークス」の監督アラン・レネである。
彼の作品では、何と言っても『去年マリエンバードで』が「最高」で、私は3回見たが、筋をまったく理解できなかった。
それに比べれば、まことに分かりやすく、前半はスタビスキー夫妻の豪華な生活を描く。
政財界との交流もすごく、スペイン戦争のフランコ派への武器売却をめぐって大もうけをしようとするなど国際的でスケールが大きい。
だが、最後は勿論、詐欺がばれて、破産、捜索、そして自殺になる。
この辺は、アラン・レネらしく時制を交錯させ、国会の調査委員会証言、葬式、逃亡劇等が入り混じり、「あれっ」と思わせる。
スタビスキーの自殺シーンも実に淡々としていて、日本の映画ならベルモンドは大芝居をするところだが、実にあっさりとしたもの。

映画としてみれば、中途半端だと言うことになる。
ドラマチックでもなく、ドキュメンタリー的でもなく、「結局それで何を言いたいの」ということになる。

イーストマンカラー・パナビジョンの画面、珍しやミュージカル作曲家スティーブン・ソンドハイムの音楽はひどく美しい。
NHKBS

沢村栄治を見た人

2010年10月29日 | 野球
プロ野球のドラフト会議が行われ、中央大学の沢村祐一投手は巨人に単独指名された。
中大の監督は、今は高橋善正で、彼は東映、そして巨人にもいて巨人の指名確実なので、他球団は遠慮したのだろう。
紹介映像を見ただけだが、沢村の力強いストレートは大変素晴らしい。
ただ、腕をひどく使って投げているフォームなので、このままでは故障が心配だが、まず数年は持つだろう。

さて、巨人の原監督は、伝説の大投手「沢村栄治と名前も同じで、因縁を感じる」と言ったそうだ。
勿論、沢村は私も見たことはないが、かつて私の義父(妻の父親)は、
「沢村を州崎球場や上井草球場などで見たことがある」と言っていた。
因みに、上井草球場は、高峰秀子主演の映画『秀子の応援団長』で、プロ野球の試合が行われた球場だと思う。
この映画には、当時スター選手の巨人の水原やスタルヒンの他、苅谷久徳や西沢道夫等も出ていたと記憶している。ここで灰田勝彦が歌うのが名曲『煌く星座』である。
戦前の、野球やポピュラー音楽などの欧米文化が、まだ広く好まれていた古き良き時代を象徴するような作品の1本である。

義父は、もう20年以上も前になくなっているが、生きていれば80代後半で、年代的には、この世代の方は、沢村栄治を見た可能性があったのである。
ただ、当時はテレビはなく、実際の試合も大都市のみでしか行われず、都会の新し物好きの方しか見なかったので、見たことのある方は少ないのである。

新しい沢村祐一選手が、後々に「俺は沢村を見たことがある」と自慢できるような投手になることを期待したい。
勿論、私は阪神ファンで巨人びいきではないが。

『虚業成れり』 大島幹雄

2010年10月27日 | その他
わが国で、一般の人が「呼び屋」と言う名を最初に知った男・神彰の生涯をたどった本で、当初ネットに掲載されているときから、読んでいたが、やっと通読できた。
神は、世界を流浪する合唱団のドン・コザックをアメリカから招聘したのを皮切りに、ボリショイ・バレー、レニングラード・フィルなど、ソ連の芸術家を呼び、赤い呼び屋として名を挙げる。
さらに、女性小説家、才女の有吉佐和子と結婚する。
だが、その頃から彼の会社アート・フレンドは経営が不振となり、結局一児の有吉玉青を得るが、二人は離婚し、会社も倒産してしまう。
だが、その程度で地に落ちる男ではなく、彼は1970年代には居酒屋チェーン・北の家族のオーナーとして再起し、大成功を修める。
その成功の裏には、生地函館、さらに満州のハルピン以来のロシア語人脈があり、一癖も二癖もある個性があったことが明かされる。
後に、イベンターとして有名になる康芳夫も、神のところにいたのだった。
だが、呼び屋が、1964年の東京オリンピックを境に、次第に大手代理店等に握られていくように、居酒屋チェーンも最後は、大手企業に売り渡すことになる。
まことに大きなスケールの人間であり、虚業の名のふさわしい生き方で、彼は1998年5月死ぬ。
因みに、この「虚業成れり」と言うのは、スエズ運河掘削を企画し、当時のオランダ女王イザベルから助力の約束を得たとき、計画者レセップスが、友人に言った言葉だそうである。
岩波書店 2800円 2004年刊

『戦場の精神史』 佐伯真一

2010年10月27日 | 政治
「武士道という幻想」と副題された本書は、一般的に言われる武士道の、フェア・プレイ等の精神が、実はほとんど近世までの日本で武士による戦闘、戦争があった時代にはなかったこと。あるいは、あってもむしろ例外的で、実態は勝つためにはなんでもする、時には「騙し撃ち」も横行していたことを明らかにしている。
豊富な実例が挙げられていて、大変に説得力がある。
確かに、古典や劇に出てくる英雄譚では、多くはだまし討ちや仲間を欺いての先駆けけが多い。
映画『七人の侍』で、志村喬の勘兵衛が、野武士を襲って鉄砲を奪って来た三船敏郎を、「抜け駆けは手柄にはならない」と叱るが、これは実態から見ればおかしいのである。
黒澤たちも、武士道の誤解していたのである。
手柄を認めさせるためには、殺した相手の首を切り取らねばならず、源平合戦の「宇治川の先陣争い」は、明らかに仲間を騙しての先駆けの功名である。それが戦場の実態である。

だが、戦争がなくなり平和になった江戸時代には、兵法家や儒者からは、こうした卑怯な兵法は、次第に非難されるようになる。それは、長期的に見れば、だまし討ち等の勝てば良い式のやり方では、仲間内の信頼を失い、組織を管理・運営していくには不都合になるからである。

だが、明治維新以後、急に「武士道」が発見され、鼓吹されることになる。
江戸時代にはほとんど知られていなかった、山本常朝の『葉隠』が発掘され、武士道の見本とされる。
明治になり、武士がいなくなり、欧化で欲深い連中が横行するようになったとき、今はない侍は美しい人間として美化されるようになる。
まことに現実は矛盾していると言うか、皮肉と言うべきか。
世の中の常識と言うものが、いかに実際の歴史と異なっているかを教えてくれる貴重な1冊である。
NHKブックス 1120円  2004年刊

『祇園の暗殺者』

2010年10月26日 | 映画
1960年代の東映の時代劇の隠れた名作として名高いので、阿佐ヶ谷まで見に行く。
確かに、1962年と言う時代を考えれば、大島渚が『日本の夜と霧』で、木下恵介が『女の園』で描いた反体制的立場にあるもの同士の「内ゲバ」の時代劇版であり、きわめて時代を先取りした作品と言える。
話は、薩摩の剣客志戸原健作の近衛が、自分が殺した目明しの娘北沢典子を知り、家族の悲惨さや、策謀に明け暮れる土佐の武市半平太(佐藤慶で適役)らの姿に絶望し、暗殺に疑問を持ち、苦悩するが、最後は佐藤に扇動された若者たちに自分が暗殺されてしまうと言うもの。

脚本は、後にヤクザ映画や『仁義なき戦い』を書く笠原和夫なので、幕末物で一応主人公は、近衛十四郎や佐藤慶、菅貫太郎らだが、むしろほとんど全員が重要な意味を与えられており、笠原和夫得意の「群像劇」である。
だが、監督が『ひよどり草子』の内出好吉であり、スター映画しか撮れないので、よく分からないシーンがある。
その典型が、豪商の女将木村俊恵で、密かに近衛に思いを寄せているが、主人は幕府方の商人である。
最後の討伐に出たとき、近衛は家の物置に隠れている男女を見て、見逃し、それが近衛が粛清される原因になる。
実はその女が、木村だったことが後に分かるが、この物置のシーン、暗くほんの一瞬なので、女が木村とは分からない。
当時の東映京都の作法から言えば、木村俊恵レベルの女優にアップは不要だが、ここは当然アップが必要だったはず。
その他、脇役の表現が不当に不足していると思う。
その意味で、これは『仁義なき戦い』の先駆けである。

そして、笠原の心情としては、勤皇佐幕と騒いでいる武士とは、無関係に祇園祭りに興じるしかない京都庶民の哀歓であろう。
まさに「帝力、我にあらんや」という、権力には常にひどい目に合わせられながら、しかし権力とは無関係に生きていく庶民である。
何度か出てくる三条河原のセットが良い。さすが京都にある撮影所。
阿佐ヶ谷ラピュタ 近衛十四郎特集

『吾輩は猫である』

2010年10月25日 | 映画
市川崑監督で作られた夏目漱石のあまりにも有名な小説、と言っても原作は物語性は薄く、今日的に言えばエッセイ的な小説である。
主人公のくしゃみ先生は、仲代達矢、妻は波野久里子で、悪妻ぶりがぴったり。
親友のめいていは、伊丹十三で、これも適役。
むしろ仲代は、あまりにも悠然としていて立派過ぎる気がする。
漱石は、もっと神経質な線の細い人だったと思う。
そうでないと、盗品を受け取りに警察に行き、その夜を家に戻らず、姪の島田陽子の家に泊まってしまう気弱さの理由の説明がつかない。
この後、泥棒と刑事が家に挨拶に来るが、辻萬長と海野かつおで、辻の方が立派なヤクザ、海野が怪し気な男で、漱石が取り違えてしまうのがおかしい。海野かつおなど、失礼だが、大して有名でない喜劇人をよく使ったと思う。彼の代表作に違いない。

寒月の岡本信人、金貸しの三波伸介の金田、その高慢な妻岡田茉莉子、美人の娘篠ひろ子、さらに仲代の仲間の前田武彦、中学の校長の岡田英次など、多彩で適役はさすが市川崑である。
彼によれば、脚本と配役で映画の70%は決まってしまうのだそうだから。

この作品は、東宝配給だが、製作は芸苑社。
1970年代、東宝は、東宝映画の他、東宝映像、芸苑社、青灯社、東京映画等の製作プロを配置し、製作と配給の分離を図った。
東京映画で、文芸映画を多数作ってきた佐藤一郎の芸苑社は、『華麗なる一族』等で大成功したが、佐藤の死で終焉になる。
さらに、青灯社に至っては、「社長の堀場伸生が、『レイテ戦記』の企画で資本金を使ってしまうような大失態で、潰れた」と葛井欣四郎の『遺書』にあった。
分社化は、責任分担の明確化とリストラには意味があるが、全体の管理や統制も余程きちんとやらないと、これまた無責任体制になってしまうようだ。
1980年代以降、内部製作機構ではなく、外部プロダクションからいくらでも作品が来るようになったので、東宝は、東宝映画と特撮の東宝映像にしてしまう。なんとも懐かしい気がした。
日本映画専門チャンネル

『牝犬』

2010年10月25日 | 映画
志村喬特集、1951年の大映作品。
監督は木村恵吾、女優は京マチ子、久我美子、北林谷栄など。
保険会社の重役でまじめ一方の志村喬は、部下の使い込みを調らべに浅草のキャバレーに行く。
そこで京マチ子と出会い、京の兄でヤクザな加東大介に鞄を詐取されかけたことから、逆に会社の金300万円を持ち逃げし、京マチ子の愛人になってしまう。
木村恵吾監督と京マチ子と言えば、前年の谷崎潤一郎原作の『痴人の愛』がヒットしていて、ここでも京マチ子は、肉体的魅力で周囲の男を破滅させる女を演じている。

二人は、東京から逃亡して港町に行き、横領した金でキャバレーをやっている。
志村が、真面目な男から悪役に変わるのが面白いが、その原因は、京の肉体にあり、志村は京マチ子の体から逃れられない。
木村恵吾は、エロい映画が得意で、文芸エロ路線である。

キャバレーの楽団に二枚目の根上淳が来て、彼に京マチ子は惚れてしまい、執拗に迫る。
だが、クラシックの楽団に入ることになり、東京に行ってしまう。

その夜、流しのストリッパーが踊り、楽屋で休んだとき、志村は慰労に彼女に自分で淹れたコーヒーを出す。
と女は、志村の娘でバレリーナを目指していたが、志村の不行跡に絶望した母親北林の死でストリッパーに落ちぶれた久我美子だった。
この辺の因果物劇は、脚本の成沢昌成のセンスである。
最後、根上を追って行く京マチ子を刺殺した志村喬は、港の防波堤を歩み、自死することが暗示されて終わる。

この題名の『牝犬』だが、以前は野川由美子主演で『三匹の牝猫』や『賭場の牝猫』など、性的欲望に駆られる女を、犬、猫にたとえる題名があったが、近年は見ない。確かに野川由美子は、猫のような目だったが。
やはり、人間のごとく、「犬権」や「猫権」の尊重から来たものか。

キャバレーの前の通りの鉄道の踏切のセット撮影が上手い。
この映画も、当時の作品の常で、ほとんどが撮影所のセットで撮影されていた。
日本映画専門チャンネル

『カエサル』

2010年10月24日 | 演劇
塩野七生の『ローマ人の物語』から、シーザーを主人公に斉藤雅文が脚色、栗山民也の演出。
カエサル役は、松本幸四郎、彼を暗殺するブルータスは小沢征悦、幸四郎の妻は水野美紀、愛人役は高橋恵子、哲学者キケロは、渡辺いつけいの豪華キャスト。
さらにクレオパトラ(小島聖)、アントニウスからオクタビアヌスまでの有名人が登場する。
私が、原作を読んでいない性か、細かいところがよく分からず、正直に言って感銘は、薄い。元老院と市民の関係など、よく分からないのだ。
この劇は、約2時間だが、むしろもう1時間くらい足して3時間ぐらいの大作にして、細かいところも劇化した方が面白かったのではないかと思った。

演技を見れば勿論、松本幸四郎はさすがだが、どうして面白くないのだろうか。
それは、幸四郎をはじめ、主役がマイクを使っていることがあると思う。
近年、ミュージカルでは、マイクの使用は常識だが、普通の劇でのマイクの使用は問題である。
第一、幸四郎をはじめ高橋恵子、渡辺いつけいらは、日生劇場クラスの広さでも、十分マイクなしで、十分に演技できると思う。
誰が、マイクを使わないと声が聞こえないか知らないが、マイクの使用は、役者の演技からホットな、力演をなくしている。
だから、マイクなしの脇役の芝居の方が、感情が伝わって来るのである。
まことに皮肉な現象と言うしかない。

さらに脚本で言えば、劇のテーマが散漫でよく分からないのである。
カエサルは、ガリア地方等の他民族を征服したときにも、殺略を行わず、「寛容」で臨む。この寛容の精神が作品のテーマなのかと思うが、そうでもないようだ。

かつて映画監督溝口健二が言った言葉を借りれば、
「ここには筋があっても、ドラマはない」と言うべきだろうか。
日生劇場

風呂場で背中を流す仕来り

2010年10月23日 | 横浜
民主党の中塚議員が、妻を海外視察に同行させたことが問題となった。
昭和20年代のことだが、横浜市会には、行政視察にお妾さんを連れて行った議員がいた。
4年間も議長をやり、その間には全国市議会議長会会長も務めた津村峰夫氏である。
この人は、なかなか豪快な人で女性関係も派手だったらしいが、今では到底当選できないに違いない。

私が、横浜市に入り、市会事務局に配属され、2年後に議員の行政視察に同行した。
昼の視察日程が終わり、風呂に行くと、某局の総務部長が、某議員の背中を流していた。
そのとき、ひどく不愉快な気分になり、
「横浜市役所って、こんな田舎市役所だったのか!」と落胆したものだ。
後で部長に聞くと、議員と部長は若い頃、同じ部署にいて組合青年部の先輩、後輩だったと話してくれた。
「総務部長も大変なんだな」と思った。

以前、テレビで今はなき映画監督神代辰巳が、初めに助監督として入った松竹京都撮影所には、古い徒弟制が残っていて、
「風呂に入ると助監督は監督の背中を流す、なんてことが仕来りとしてあった。
日活はそれがないだけでも自由で良かった。別に背中を流すのが嫌なわけではないが」と言っていた。
神代も同じだったんだな、と思ったものだ。

温泉地帯

2010年10月22日 | 東京
朝日新聞朝刊に、「大田区が温泉地帯」との記事があったが、私が生まれ育った池上にも久松湯という温泉があった。
黒いお湯で、いかにも体によさそうな泉質だったが、今も営業している。
大田区あたりの地下には、古多摩川の堆積物による温泉があるのだそうだ。

この久松湯は、なかなかの企業家で、開業直後の昭和20年代末にテレビ放送が始まると、2階の広間に置いて見せるようにした。
また、舞台もあり、歌や踊りもできるようにしていた。昭和40年代に全国の自治体が作った老人福祉センターの先取りである。

勿論、テレビの目玉は、プロレス中継で、私も力道山・遠藤幸吉とシャープ兄弟の試合を見た記憶がある。
やはり、横浜市磯子区屏風ヶ浦の、今はなき最高に美味しかった飲み屋「夕凪」は、その昔は銭湯で、ここでもやはりテレビ中継を有料で見せていたと言っていた。
風呂屋や喫茶店では、テレビを見せることを店の目玉にしていた時代があったのだ。

今、テレビは格闘技はともかく、初期のテレビの売り物だったプロ野球中継を地上波ではせず、愚にもつかない、三流芸人による番組を放送している。
江戸時代から明治時代まで、東京や大阪の都会には、各町内に1軒くらい小さな寄席があり、安価な料金を売り物に様々な芸人が出ていたそうだ。
それは、映画が出て来て(サイレントの活動写真だが)、格ありで入場料も高く立派な寄席以外は消滅し、あるいは映画館に転向した。
さらに、戦後はテレビの出現で、映画館もなくなった。

現在、また三流芸人の芸をただでテレビで見せられているのは、江戸時代に戻ったと言うことかもしれない。

ルン・プロ革命の可能性

2010年10月20日 | 政治
中国の反日デモの若者の映像を見ていて、久しぶりにルンペン・プロレタリアートという懐かしの左翼用語を思い出した。
ルンペン・プロレタリアートは、マルクスからは反革命の温床とされ、アナーキストからは革命の主体とされた。
だが、ロシア革命の成功で、社会主義革命は、組織された労働者と前衛党の指導によってのみ成功するとされ、ルン・プロは問題外とされた。
1960年代の日本では、ブンドなどの反革共同諸派は、
「ルン・プロ集団にすぎない」と中核、革マルからは、盛んに嘲笑されたものである。確かに、先進国ではそうだろう。

だが、今の中国は違うようだ。
50%近くの若者の失業率、日本とは比べものにならない大きな貧富の格差、共産党の一党支配の政治的独裁、すべて暴動、反乱、革命がいつ起きても不思議ではない状況である。
唯一、大多数の国民が中国共産党を支持するのは、「かつての絶対的飢餓から共産党が、とにもかくにもすべての人間が食えるレベルまでに生活を引き上げてくれた」という50代以上の世代までの感謝の感情である。
だが、すでに生まれたときには、貧しいが、絶対的窮乏という状態でなかった若者たちにとって、中国の現状の貧富の格差と政治的、社会的自由のなさは、到底耐え難いものになっているに違いない。

だから、いずれ、中国全土を若者による反乱、革命が襲うことになるだろう。
社会主義国中国で「革命」が起きるという歴史の皮肉。
それも、かつて毛沢東が予言し、実現したように「地方から都市を襲う」ことになると思う。

ただ、この若者による「民主化革命」が、かつてのような暴力によるものかどうかは、また別の問題である。
インターネット、ツイッターによる言論戦が中心になるのかもしれかもしれない。
20世紀末の東欧の「ビロード革命」が、衛星放送の浸透による情報の多様化から起きたように。

そして、巨大な隣国・中国が民主化されることは、膨大な民衆のエネルギーを掘り起こすことであり、経済的、社会的、文化的にも日本にとっては大変良いことである。
日本は今後も、極端に言えば、中国と言う巨大な世界第一の大国に、好むと好まざるとに関らず、言わば「パラサイト」していくことしかその生存の道はないのだから。

さて、日本にはルン・プロは存在しないのだろうか。
そんなことはない。勿論いる。
彼らは、コン・ビニや外食産業等で、フリーターと言う名で働き、その日暮らしの生活を送っている。
これも、豊かさの中の貧困と言うべきだろう。

『十兵衛暗殺剣』

2010年10月20日 | 映画
1964年、東映京都の近衛十四郎主演の柳生十兵衛シリーズ最終作。
柳生新陰流に対して、大友柳太郎の幕屋大休が正統派新陰流を名乗って江戸に乗り込んできて、柳生道場を挑発し、根拠地の琵琶湖に逃げる。
十兵衛は、師範代内田朝雄以下10人を連れて琵琶湖に行く。
大友らは、湖族(海賊の湖版だろう)の助けを借りて十兵衛らと戦う。
勿論、最後は近衛が勝つが、その勝利は「骨を切らせて肉を切る」と言うもの。
内田朝雄らも全員殺され、近衛も大友に左手に小柄を刺されるが、その反動で大友を頭部から切り落とす。
リアルな時代劇として、とてもよく出来ていた。監督は倉田順二。

この前に、加藤泰監督で、見たことがなかった『喧嘩辰』を見るが、あまり面白いものではなかった。明治時代に大阪で人力車夫をしている辰、内田良平の喧嘩人生を描くものだが、ヤクザ映画としては過渡的なものだろう。
これも1964年製作で、この頃から東映は、チャンバラ時代劇からヤクザ映画に変わっていく。
ラピュタ阿佐ヶ谷

『乾いた花』

2010年10月18日 | 映画
池部良を追悼して、久しぶりに篠田正浩監督の『乾いた花』を見る。
傑作だが、これを松竹の城戸四郎社長が、1年間もオクラにしていた意味がよくわかった。
全体にみなぎる「反社会性」がすごいのだ。

タイトル前から賭博場のシーンが続く。
「どっちも、どっちも、後にコマ、先にコマ」等々の低い台詞が流れる。
その後、東映のヤクザ映画でさんざ見せられるサイコロ博打の場面。
さらに、手本引きという、藤純子が、さらに江波杏子の「入ります」で有名にした、花札を服の中に入れて手ぬぐいの中に畳み込み、
それを当てさせる高度な技の花札賭博、これが映画で見せられた最初だろうと思う。
ここでは、加賀マリ子も、上着の中に入れて演じて見せる。

ともかく、全体を覆う反道徳性、「まともな社会とは別の世界に生きているんだ」という意識がすごい。
武満徹の音楽、小杉正雄のコントラストの強い白黒画面、池部良とその愛人原知佐子の人生を投げた生き方の表情。
無意味に退屈している金持ちの小娘の加賀マリ子。
自分たちは老人で動けないから、競馬に賭け、出入りでは若者を仕掛けるしかないヤクザの親分の宮口精二と東野英治郎の退廃。
麻薬中毒の中国人の殺し屋藤木孝。
美術は、この後小林正樹の『怪談』で、にんじんプロダクションを倒産させてしまう戸田重昌で、リアルな世俗的シーンと抽象的な前衛的美術との切り替えが上手い。

横浜を舞台にしているが、これは最高の部類だろう。
そして、原作の石原慎太郎から篠田の盟友だった寺山修司など、すべては当時は反社会道徳の輩だった。
1960年代前半と言うのは、そういう時代だったのだ。
だが、この作品は松竹大船ではなく、東京目黒の柿ノ木坂スタジオで撮影されたように、松竹大船調の崩壊は始まっていたのである。
本来なら、この後1970年代前半には、松竹大船は大船調のイデオロギーを失い、倒れるべき存在だった。
だが、山田洋次・渥美清の『男はつらいよ』の大ヒットで、以後数十年間延命できたのである。