指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

甦る1960年代 ドナルド・リチー作品

2013年04月30日 | 映画

先日、亡くなられたアメリカ人の映画評論家ドナルド・リチー氏は、1960年代は、日本におけるアングラ自主映画の監督の一人だった。

そのことはよく知っていたが、実際に作品を見たことはなかった。

イメージフォーラム映画祭でまとめて上映されるので、新宿のパークタワーホールに行く。

元は東京ガスのガスタンクがあったところで、新宿駅からは遠いので、東横線、副都心線、京王新線を乗り継いで初台に出て歩く。

 

上映されたのは、『戦争ごっこ』など6本。

中では、『死んだ少年』『のぞき物語』『五つの哲学的童話』『シーベル』が面白かった。

自主映画は、商業的映画とは異なり、作者自身の想いと強く結びついているので、表現されたことが見るものにはよく理解できないことがある。

彼の作品では、後期に属する4本には、際立った特徴がある。

それは、反社会性、反道徳性、そして死である。

彼が同性愛者だったのは有名だが、この3本には、いずれも男性の裸体、あるいは顔の美しさが出てくる。

特に『シーベル』では、谷中の墓地で撮影したとのことだが、裸体の男性に様々な苦行を加える。

その残虐性は、残酷を越えて、お尻にお灸かロウソクを差して火を点けるのに至っては、爆笑ものだった。

自主映画、アングラ映画は、多くは眼高手低になりがちだが、ここにはそれはない。

リチー氏の批評性の高さによるものだろう。

また、『のぞき物語』には、新橋名画座という当時ピンク映画を上映していた映画館の映像が出てくる。

今や、絶滅危惧種となったピンク映画館の貴重な映像だろう。

パークタワーホール


尾形修一さんが紹介してくれた

2013年04月30日 | 映画

元都立高校の教師で、映画、演劇に大変ご造詣が深い尾形修一さんがホームページで『黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避』を紹介してくれた。

大変な長文で、しかも極めて明確に趣旨も要約いただいた。

尾形さんのサイトは、映画、演劇、現代史等について大変に情報が多いので、ご覧いただければ、参考になると思う。

どうもありがとうございました。

アドレスは、http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180 です。


『河内カルメン』

2013年04月29日 | 映画

1964年、日活で野川由美子主演で作られた女性の遍歴物作品。

監督は鈴木清順だが、他の作品とはかなり違い、清順らしい遊びはなく、原作の今東光、三木克己(実は井手俊郎)の脚本どおりに撮っているようだ。

これは映画版だが、テレビでも藤本義一の脚本でやったような気がする。

と言うのは、エロ山伏が出てきて、ここでは桑山正一だが、この役がテレビ版では東宝の脇役谷晃という人で、その嫌らしさが強烈に記憶にあるのだ。

 

大阪の郊外、河内の繊維工場に勤めていた野川は、最下層の家を出て、大阪のキャバレーと言うよりも、余興付きのバーのような店で金を稼ぐ。

そして、幼馴染の憧れの男、和田浩治と同棲する。

彼は河内で温泉を掘ることを夢見ていたが、金銭のトラブルで暴力団に刺殺されてしまう。

前衛的な画家の川地民夫、金貸しの爺いの嵯峨善兵衛らとの遍歴を経るが、野川は少しも純な心を失わない。

そんな野川由美子を

「本当に君はいい子だね」と川地民夫が言うのは、まるで増村保造作品の男の台詞みたいだ。

最後、嵯峨善兵衛から大金をもらい自由になった野川は、故郷の家に戻ってくる。

そこで母親の宮城千賀子と不倫をし、さらに野川の妹の伊藤ルリ子にも手を出していたエロ山伏の桑山正一を殺してしまう。

桑山正一は、新劇の役者で、善人役が多いが、ここでの悪役は意外にも適役である。

彼は、実はかなりの艶福家で、本妻の家ではなく、若い恋人の部屋で死んだという噂を聞いたことがある。

人はわからないものである。

日活には、このような泥臭い喜劇作品があり、今村昌平の『盗まれた欲望』、あるいは舛田利雄の『河内ゾロ』などというものがそれだ。

実際は、関西ではなく、秩父の奥あたりで撮ったらしいが。

阿佐ヶ谷ラピュタ

 


『与太者の感激 与太者と海水浴』

2013年04月29日 | 映画

本当は川崎市民ミュージアムで森繁特集を見るつもりだったが、いつものクセでフィルム・センターへの京浜急行に乗っていて、すでに蒲田を過ぎている。

携帯で調べると、この映画で「与太者シリーズ」は見たことがないので、見ることにする。

与太者シリーズは、磯野秋雄、阿部正三郎、三井秀男(三井弘次)のトリオで、7作目だそうだ。

話はどうということもないが、全編が体技のアクション喜劇であり、監督の野村浩将もアメリカ映画かぶれとは驚いた。

野村は、後に大ヒットの『愛染かつら』を作る人で、西河克己によれば、蒲田で一番威張っていた組だったそうだ。

それは、ヒット作を連発していたからで、彼と並んでやはり威張っていたのは、清水宏組で、これは勝手に威張っていて、後には誰からも相手にされなくなる。

これには、外人風のルックスの井上雪子がヒロインとして出ているが、高峰秀子も男の子の役で出ている。

彼らが海水浴をする海岸はどこだろうか。

感じとしては、横浜の本牧あたりの気もするが、ケチの松竹がそんなことを許したとは思えない。

蒲田の近くの大森海岸あたりだったのかもしれない。

私は、戦後の昭和28年頃、大井の平和島で海水浴に行ったことがある。

もちろん、水が汚れていて、海水浴場という雰囲気ではなかったが。

サイレントなので、字幕が出るが、時間が短くて読めない。

言うまでもなく活弁が付いたからで、神保町シアターでは、活弁を付けて上映するそうだが、そこまでして見る価値のある映画とは思えない。

フィルムセンター


反知性主義の時代

2013年04月28日 | 政治

数年前に、池上彰のテレビ番組で、日本の近代史についての回があった。

そのとき、太平洋戦争についての問題があった。

それは、「太平洋戦争で日本が戦った相手国はどこか」というもので、

1 ドイツ・イタリア 2 アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・中国 だった。

その時、藤本美貴は、1のドイツ・イタリアと答え、

「だって日本とアメリカは仲が良いではないですか」で、これには唖然とした。

結果と原因が逆である。

現在、日本がアメリカと仲良くしているのは、日本がアメリカに戦争で負けたからである。

このように今の日本を覆っているのは、一種の反知性主義である。

ただの無知に過ぎないタレントを、おバカキャラとか天然ボケとして持ち上げるばかばかしさ。

かつて大宅壮一は、テレビ時代を「一億総白痴化」と言ったが、まさに今や完全に白痴化している。

この気分は、大阪市の橋下徹市長の人気にも通じている。

あのやんちゃ坊や的キャラクターの持つ、言動の明瞭さは、深い思考や熟慮のないことの結果にすぎないが、その無謀さはむしろ快く響く。

前回の市長選挙の時、反橋下陣営に、香山リカや山口二郎らの大学教授が付き、広く応援したことも最悪だった。

中学、高校の教師、ひいては教育委員会に反感を持っている、フリーターやアルバイトの人間にとって、自分が学歴社会で上手くいかなかったのは、こうした教育の既得権益者の性だった。

英語の、数学の教師が嫌いだったので、勉強が嫌いになり、そのために受験がうまくいかなかった。その責任は教師にある。

そいつらを橋下徹は、打ち破ってくれると期待したのだろう。

だが、言うまでもなく、橋下や日本維新の会は、所謂「新自由主義者」であり、格差を肯定し、非正規雇用者は容赦なく切り捨てる側である。

自分の首を絞める権力者に票を投じる、なんという矛盾であろう。

世の中は、そうしたものだと言えばそれまでだが。

 

 


『女の一生』

2013年04月28日 | 映画

1962年、大映で作られた作品、原作は言うまでもなく森本薫、脚本は八住利雄、監督は増村保造、主人公の布引けいを演じるのは京マチ子である。

『遥かなる走路』が、近代史を適当に描いているとすれば、こちらは厳密に背景としている。

女の一生と言うよりも、女に象徴される庶民の近代史である。

最下層の孤児だった京マチ子は、偶然に中国貿易の商社堤家の養女になり、次第に家の中で重要な存在になっていく。

長男の新太郎は高橋昌也、次男の英二は、田宮二郎、叔父は小沢栄太郎。

この3人の男たちは、インテリであり、中国の事情をよく知っていて、日本、軍隊、そして堤家が行っている中国進出に批判的である。

高橋は中国文学を通じて、田宮は中国人留学生から、小沢は中国での馬賊の経験からである。

何も実態を知らない京マチ子の布引けいは、政府と軍の言うままに中国貿易を拡大し、最後は破産し、残った屋敷も空襲で焼失してしまう。

戦後、獄から出た田宮と京マチ子は、再会するが。

京マチ子の演技は、随分と抑えているように見える。

言うまでもなく、布引けいの役は文学座の杉村春子のものであり、彼女のご存命中は他の女優は演じられなかったのである。

その後は、平由恵が演じているようだが。

 

男、つまりインテリは実態をわかっていたが、戦争への道を防ぎきれず、女、すなわち庶民は、国の言うとおりに戦争に狂奔して敗北した。

このようにこの作品は明確に言っていると思う。

神保町シアター


『遥かなる走路』

2013年04月27日 | 映画

ホンダの次は、トヨタである。

1980年に松竹がシネセルらの協力で作った、トヨタ自動車のPR映画、社史のような映画であるが、佐藤純也の監督作品にしてはできは良いほうだろう。

明治時代、自動織機を発明した豊田佐吉(田村高広)は、息子喜一郎は東大工学部にやり、経営面は商社から米倉斉加年を娘中野良子の婿に迎える。

技術と経営をそれぞれにやらせるためで、大正天皇から藍綬褒章を授与されて幸福に死ぬ。

市川染五郎(現松本幸四郎)の豊田喜一郎は、豊田家の家業の織機から自動車企業への転換を図り、苦心惨憺の末に成功する。

昭和初期の日本は、産業のすべてが遅れて、乗用車を作るのは容易ではなかったが、技術的問題をひとつづつ解決して乗用車の試作品を完成させる。

だが、戦時体制から自動車製造は、許可事業になることを知り、トラック生産に乗り出す。

作品としてみれば、この不良品で故障ばかりで、修理に苦労するトラック生産の件が一番面白い。

役者は、佐吉の最初の妻が岩崎加根子、二度目は司葉子、染五郎の妻は白都真理、技術者に三橋達也の他、地井武男や山谷初男と新劇系が多い。

この映画の企画が、民芸映画社、日活さらにはATGでも活躍された大塚和なので、その人脈だろう。

音楽が、ゴダイゴで、映画の生真面目さには少々合わない軽薄な感じがした。

チャンネルNECO


田端義夫、死去

2013年04月27日 | 音楽

歌手の田端義夫が亡くなられた、94歳。

訃報に彼の経歴が出ているが、彼はアマチュアから歌手になった、実は戦前にはきわめて珍しい方である。

意外に思われるかもしれないが、戦前の日本の歌謡曲の歌手は、藤山一郎、淡谷のり子、霧島昇らを典型に、ほとんどが音楽大学出である。

東海林太郎は、音大出ではないが、声楽をクラシックの下八川佳祐から学んでいるそうで、彼も言わばクラシック出となるだろう。

音楽大学出身者ではないのは、デック・ミネ、二村定一らジャズ系の歌手だけだろう。

戦後は、美空ひばりや北島三郎を代表に、のど自慢やコンクール、さらに町の流し等から、様々な方が歌手としてデビューし、活躍されるようになった。

大衆音楽の世界でも民主化がなされたわけである。

 

さて、田端義夫だが、「この人って結構大物なんだな」と思ったのは、約40年前のことである。

大学生の時、大阪と京都に遊びに行った。

大阪を北から南まで歩いたが、その中で道頓堀の中座の前を通ると「田端義夫公演」をやっていた。

当時、東京、関東で彼の公演などはあり得なかったが、大阪では立派な大スターだったのだ。

もちろん、歌手芝居の常で、芝居と歌謡ショーの2本立てで、学生なので、金がなくて見なかったが、今考えれば惜しいことをしたと思う。

上に書いたように、彼は戦前から極めて珍しい庶民出のスターであり、その意味で幅広く庶民に愛されたのだろうと思う。

トレードマークの「オッス!」というのも、まさに彼らしいスタイルだったと思う。

ご冥福をお祈りしたい。

 


タウンニュースに紹介された

2013年04月25日 | 映画

黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避』が、横浜市等で配布されているタウン紙のタウンニュース南区版4月25日に掲載されることになった。

黒澤映画の新解釈本とのことで、まあいいだろう。

新聞折込による各個配布なので、南区の人で、新聞をとっていないと入手できない。

だが、ネットではアクセスできる。

アドレスは、www.townnews.co.jp の南区の中の「ローカルニュース」である。

 

先日、友人に会い、この本を見せたところ、「書評は出たの」と聞かれた。

本は4月初旬に出たばかりなので、新聞各社で書評家に依頼したとしても、原稿が返ってくるのは、いくら早くても今週末くらいだろう。

となると、書評が出るのは、どんなに早くても今週末となる。

今週末を期待したい。

 


林穎四郎さんからお礼のお電話をいただく

2013年04月24日 | 映画

先日、拙書『黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避』を林穎四郎さんに送ったところ、早速お礼のお電話をいただいた。

林さんは、戦後東宝の砧撮影所に入り、長く録音技師として活躍された方だった。

作品としては、1971年の『だまされて貰います』が、録音技師としての最初で、今井正の『海軍特別年少兵』、『ゴジラ対メガロ』、須川栄三の『野獣狩り』

『グアム島珍道中』、『しあわせ』、『妻と女の間』、『白熱』、『乱れからくり』、『地震列島』などの多彩な作品を担当されている。

一見すると喜劇、特撮、文芸作品、ミステリーと脈絡がないが、その辺が全盛時の映画界の技術者のすごいところで、どんな映画でもできたのである。

日活で言えば、舛田利雄や鈴木清順、あるいは西河克己らが、どのようなジャンルの映画でも監督できたのと同じである。

因みに林さんが、昭和27年に東宝に入社して最初についた作品は、黒澤明の『生きる』だったそうだが、その後黒澤作品につくことはなかったとのこと。

 

林さんは、2006年雑誌『映画テレビ技術』に『日本映画史のミッシング・リンク』を連載されており、戦時中の航空教育資料製作所について書かれた。

東宝の先輩の録音や撮影の技術者、藤好昌生、うしおそうじ、玉井正夫らからの聞き書きで、航空教育資料製作所の全貌を初めて明らかにした。

詳しくは、林さんの論文、あるいは拙書を読むしかないが、1939年に東宝は海軍から砧の土地を譲渡され、そこに秘密のスタジオを建てた。

そこでは、雷撃機での魚雷の投下方法、航空母艦との戦闘方法等の軍事マニュアル映画が、陸海軍からの委託で作られた。

言うまでもなく、円谷英二の特撮を駆使してである。

具体的には、真珠湾攻撃の際の魚雷攻撃のための映画もあり、うしおそうじが、その中の線画、つまりアニメーションを担当した。

さらに航空戦果シリーズとして、三菱、中島、川崎の航空機会社に予算を出させて、南方等での実戦の活躍を記録した映画も作った。

それは、工場の労働者の士気向上のために軍需工場で上映されたのである。

それは極秘だったので、東宝の社員でもほとんど知らないとことだったと佐藤忠男さんの『日本映画史・増補版』にも書かれている。

敗戦までの50本以上の中・短編映画が作られたが、その殆どは終戦時に焼却されて残っていないそうである。

こうしたことは、戦後は言って見れば秘匿したいマイナスの歴史であり、それを関係者にお聞きして記録し、発表することはかなり大変だったと思う。

事実、当初の原稿からはかなり削除した部分もあったそうだ。

だが、私は戦争中の歴史は、歴史として事実を明らかにすべきだと思っている。

その上で、責任が問題になるが、単純に言ってそれは仕方なかったことだろうと思う。

現在と全く異なり、戦争体制は絶対であり、もし反対すれば、逮捕、投獄、処罰が当然のことだった。

 

2年前の「3・11」直後のテレビ等のマスコミは、一斉に自粛ムードになった。

あの凄まじさを思えば、戦時中に永井荷風が、周囲に同調せず、自説と自分姿勢を一貫して貫いたことは、いかに凄いことだったかが、よくわかった。

林さんからは、「よくきちんと調べたことと」をお褒めいただいた。

ただ、「松竹で黒澤が監督した『白痴』については記述がありませんでしたね」とのご注意もいただいた。

 確かにその通りで、映画『白痴』については、一切触れていない。

理由は、映画『白痴』は、正当に評価に値する作品として残っているのか、ということである。

知られているように、黒澤明が当初作った『白痴』は、4時間くらいの映画だった。

それをチーフ助監督の野村芳太郎が松竹からの命令で、2時間半に再編集し短縮したものしかない。

それをどう評価すれば良いのだろうか。

 

林さんの論文には私は大変助けられたので、すぐに送ったのだが、読んでいただきお礼を言われたので大変嬉しかった。

 

 

 


当然と言えば当然

2013年04月23日 | 政治

4月21日、日曜日の東京新聞に、松本清張の代表作の一つ『日本の黒い霧』の文庫本版に「お断り」を入れることが出ていた。

お断りを入れるのは、伊藤律が、ゾルゲ事件発覚させた特高のスパイだったとの記述の部分で、伊藤の遺族からの出版差し止めの訴えがあったためだ。

伊藤律スパイ説は、戦後彼が日本共産党で幹部として活躍し、その後共産党の内部対立で党を除名された時に、彼の旧悪を暴く証拠として喧伝された。

また、作家尾崎秀樹も『生きているユダ』で、伊藤律スパイ説を執拗に展開し、私も読んで納得したものである。

その後、伊藤は亡命先の中国から帰国し、この問題については、多くを言わずに死んでしまった。

だが、伊藤律スパイ説については、その後渡部富哉よって反論する本が出されており、ほぼこちらの方が正しいという世評となっている。

 

その意味では、今回の措置は当然といえば、当然で、同書には、「下山貞明国鉄総裁の他殺説」もあるが、これもほとんどトンデモ本に近い内容である。

日本の映画界では、松本清張は、数多くのヒット作を提供した「宝の山」であり、彼を批判することを憚る雰囲気がある。

松本清張の小説やノンフィクションの多くは、要約すると「諸悪の根源は、アメリカ占領軍」になってしまい、これも一種の自虐史観とも言える。

歴史教科書の改訂を目指す連中が言う「自虐史観」は、賛成できないが、清張の小説に見られるように1970年代まで日本に存在したことは事実である。

それは、戦後のアメリカによる占領への反感、屈辱感が基になっており、松本清張にみならず石原慎太郎の作品にもよく見られるものである。

しかし、今や冷静に松本清張の著作を評価すべき時になったと私は思う。

 


40代以下は、黒澤明を見ていない

2013年04月22日 | 映画

今回、現代企画室から『黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避』を出して気づいたことがある。

それは、40代以下の人は、ほとんど彼の作品を見ていないということだった。

考えて見れば、確かにそうだろう。

作品の評価、観客動員、実際に見ての感動という点で、彼の作品中で、言わば最後の作品は、1965年の『赤ひげ』になる。

晩年の『影武者』や『乱』は、ヒットしたではないか、と言われるかもしれない。

だが、この2本は、単純に見ると決して面白くなく、ダイナミックではあっても、爽快感はない。

その意味では、かなり後味の良くない作品であり、それをたまたま見た若者が、黒澤明は大したことないのでは、と思ったとしても少しも不思議ではない。

『赤ひげ』を親に連れられて見たとして、1965年当時中学生だったとしても、もう50は越えているはずである。

もちろん、『赤ひげ』のみならず、1948年の『酔いどれ天使』から1963年の『天国と地獄』まではすごい作品ばかりである。

是非、若い人にも見て欲しいと思う。

私の『黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避』が、多少なりとも黒澤映画の観客を増やすことになることを期待したい。


『妻の勲章』

2013年04月21日 | 映画

本田技研工業を作った本田宗一郎とその妻を描く映画で、ここでは幸田礼次郎となっているが、本田を演じるのは高橋貞二、妻は高千穂ひづる。

彼の片腕的職人が伊藤雄之助、オートバイ工場の親分に多々良純、高橋夫妻の娘は、子供時代は四方正美、成人してからは桑野みゆきである。

四方正美が、1959年とこんなに早くから映画に出ているとは知らなかった。彼女は、安井昌治・小田切みきの娘で、長女、四方晴美の姉である。

 

昭和17年から始まり、高橋の義弟、つまり高千穂ひづるの弟の森美樹が、出征しマレー半島戦で、銀輪部隊としてニュース映画に出ている。

これは、戦前、戦中ニュース映画が大人気だったとき、よくあったことで、「ニュースご対面」と言われ、日本映画社では、カットを複製してくれたそうだ。

だが、オートバイ狂の高橋貞二は、銀輪部隊のような人力では戦争に勝てないと、自転車にエンジンを付けた車を考案し、陸軍に採用される。

妻の高千穂ひづるは、寺の僧侶宇野重吉の娘で、小学校の教員で、この二人は言わばインテリと鍛冶屋の息子の職人との恋だった。

だが高橋の「あなたを見ないと一日も生きていられないのです」

との申し出にほだされ、その率直さに宇野重吉も二人の結婚に賛成する。

戦時中も、機械いじりがやめられない高橋は、事あるごとに軍に睨まれて、特高に調べられ軍歌を高唱するところのバカバカしさは大いに笑える。

監督は内川清一郎で、新東宝、松竹等で作品を作ったが、丹波哲郎によれば直上径行型で人間関係が下手で、次第に上手く行かなくなったとのこと。

その意味では、主人公の本田宗一郎も、単純で率直な人柄であり、内川監督によく似たタイプだったのだろう、この作品は大変成功している。

戦後、陸軍の無線機の発電エンジンと湯たんぽをガソリンタンクにしたアイディアで、自転車オートバイ、バタバタを発明し、大成功を収める。

そして昭和32年には、藍綬褒章を受賞する。

その席に来た電報は、妻が肺がんで死んだ知らせだった。

彼も、この勲章は俺のものじゃない、妻のものだと高千穂の胸に置く。

今や、ガソリン車から電気自動車に転換し、いずれガソリン車がなくなろうとするとき、

「俺はガソリンの匂いが死ぬほど好きや」という男はもう現れないに違いない。

チャンネルNECO

 


『日本ニュース256号』

2013年04月21日 | 映画

『狂宴』の上映の前に、日本ニュース256号が上映された。

これは、1945年9月12日に公開されたもので、内容は米軍進駐とミズリー号艦上での降伏文書の調印式、さらに東久邇稔彦総理大臣の国会演説である。

どれも今見ると非常な感慨がある。

米軍進駐は、厚木飛行場にマッカーサー以下が沖縄から進駐してきた記録だが、この映像のバックには、ワグナーの『ワルキューレの飛行』が流れている。

日本、ドイツでもニュース映画の空爆のシーンには、この曲が流されていたが、米軍進駐で、アメリカの輸送機の飛行にも使用されていたのである。

 

ミズリー号上での降伏文書の調印は、日本の全権代表が外務大臣重光葵、陸軍参謀長梅津美治郎で、これは皆降伏文書に調印するのを嫌がったためだ。

さすがにカメラマン以下の製作者も、この映像は日本人に受けないと思ったのか、じつにあっさりと終わる。

最後が、時の内閣総理大臣東久邇稔彦の国会演説で、甲高い声で、時局の多難なこと、一億万民が心を合わせて難局にあたっていくことを訴えている。

彼は、この後、すぐに辞職してしまうが、ひな壇には近衛文麿の姿も見える。

無任所の国務大臣で、憲法改正を担当したが、連合国軍との対立、自身の戦犯容疑から年末には自殺することになる。


『狂宴』

2013年04月21日 | 映画

この日、上映されたのは、かなり不思議なフィルムだった。

映画『狂宴』は、昔の記録では製作は、近代映画協会、つまり新藤兼人が吉村公三郎と作り、今も存続している独立プロの名になっている。

だが、この日上映されたフィルムに、近代映画協会の母子のブロンズ像のタイトルはなく、サバンナ社となっていた。

これはどういうことなのだろうか、私が想像するに、主演の望月優子がカギだろうと思う。

望月優子は、「日本のお母さん女優」と呼ばれ、数多くの名作に出ていたが、1971年日本社会党から参議院議員選挙に出て、全国区で3位で当選する。

非常に真面目な方だったので、所謂タレント議員とは異なり、きちんと議員活動をされていたようだが、1977年は労組等の支援がなく落選してしまう。

この間の彼女の選挙運動の一環として、この映画は再編集されて各地で上映されたものではないかと思う。

その理由は、作品の冒頭とラストに、多分望月優子の声で、

「この映画のようにアメリカは、朝鮮侵略の後方基地として日本を利用したように、今はベトナム戦争の基地にしている」とのナレーションが流れる。

そこには、新たにベトナム戦争での映像がついていた。

朝鮮戦争をアメリカの侵略とすることは今日では誤謬だが、ベトナム戦争反対運動は大きな盛り上がっていたので、それに便乗し運動したのだろう。

 

話は、朝鮮戦争の最中の奈良で、米軍基地が出来て、それに便乗し、慰安婦、つまりパンパンのクラブを開く三島雅夫と望月優子夫婦の話。

一方、本来の農業に身を入れろと言うのが、横山運平だが、その孫娘の渡辺美佐子は、高校の修学旅行で仙台に行き、そこで米兵に暴行されてしまう。

そして、沼に入って渡辺美佐子は自殺してしまう。

監督は関川秀雄、脚本は近代映画協会系の片岡薫、俳優は東野英治郎、三戸部スエなど俳優座の人が多い。

ひどく誇張されて乱暴な演出であり、望月や三島の演技もあまりに極端である。

望月優子は、無学で貧乏、そして不幸の象徴のような女優だったが、木下恵介の大傑作『日本の悲劇』だけでも、日本の映画史に永遠に残るだろう。

因みに、この映画の製作の具快万という人は、朝鮮系の人だったようだ。

川崎市民ミュージアム