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指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

意外性が多い五輪

2022年02月20日 | ボクシング

北京冬季五輪もいつに終わるが、ここでも意外な結果が出た。

女子のスピードスケートで、高木が金メダルを取り、小平は振るわなかった。

こうした番狂わせは、一発勝負の五輪ではよくあることだ。

1964年の東京五輪のとき、ボクシングではライト級の白鳥金丸が金メダル候補といわれていた。

当時の日本のアマチュアボクシングでは、アウトボクシングが主流だったが、白鳥はハードパンチャーで有名だった。

ところが、3回戦でメキシコの選手に負けてしまった。

その理由は、早稲田の体育の授業で、白鳥金丸先生は、次のように言っていた。

まず、選手村での外国人選手の態度の大きさ、奔放さに驚いたとのこと。

あるイタリア選手と仲良くなったが、彼が毎夜白鳥君の部屋の窓にくる。

「チラトリ、チラトリ・・・」と言い、

外に出ると、選手村の芝生の上で、女性選手といろいろとやっている。

純情だった白鳥君は、これで日々寝られなくなってしまう。

そして、ある夜に「桜井孝雄が選手村にいない」との大騒ぎが起きる。

ボクシングの主将だった白鳥君は、桜井を探しに町に出る。

なんと、桜井は、渋谷のバーで酒を飲んでいたと言うのだ。

           

そして、桜井孝雄は、バンタム級で金メダルを取る。これは、村田諒太がロンドン五輪で金メダルを取るまで、唯一の金メダルだった。

桜井は、五輪後はプロに転向し、東洋チャンピオンになるが、アウトボクシングだったので、あまり人気は出ず、比較的すぐに辞めた。

そして、高田馬場にメダリストという喫茶店をやっていた。

一方、白鳥君は、早稲田の体育学部の教員になり、私も夏休みの促成事業で彼の授業を取った。

非常に面白い授業で、五輪のフィルムなどもいろいろと見せてくれた。

 


ボクシングで最初の金メダルは

2021年07月27日 | ボクシング

早稲田は、変な大学で、4年生以上は体育の授業を夏休みの促成授業で単位を取得できるようになっていた。

就職が決まっているのに、単位不足で卒業できないのはまずいとのことからだろうと思う。

私も、4年のとき、夏に促成授業でボクシングを取ったが、教授は白鳥金丸先生だった。

白鳥先生は、「日本で最初にボクシングで金メダルを取ると言われていた方だった」

1964年の東京オリンピックの時である。

彼は、早稲田大学の学生だったが、ハードパンチャーで、日本のアマチュアボクシングには珍しい選手だった。

だが、彼はライト級の2回戦でメキシコの若者に負けてしまった。

その理由を彼は、正直に教えてくれた。

第一は、外国人選手の態度の大きさ、平気で選手村の芝生の上で性交するなどで、純情だった白鳥選手は度肝を抜かれる日々だった。

その上に、試合前日に、「バンタム級の桜井孝雄が、選手村にいない」との大騒ぎになった。

ボクシングの主将だった白鳥君は、選手村等を夜中まで探し廻った。

すると、桜井孝雄は、渋谷のバーで酒を飲んでいたとのこと。

こうした騒動で、白鳥先生は、調子をこわして負けたとのことだ。

一方、桜井孝雄は、バンタム級で優勝して金メダルを取ったのだ。

 

           

日本のボクシングで、数少ない金メダルだが、選手村を抜け出して遊ぶ等の大胆さがないと金メダルは取れないと言うことだろうか。

桜井は、プロに転向し、東洋バンタム級チャンピオンになり、世界タイトルにも挑戦したが、取れずに引退された。

彼は、その後高田馬場に、「メダリスト」という喫茶店を開いていて、私も一度行ったことがある。

桜井孝雄も、2012年1月に亡くなったが、日本ボクシング界で最初の金メダリストの記録は残っている。


森田健が出ていた

2020年07月05日 | ボクシング
八千草薫の追悼で『阿修羅のごとく』の2回目を見る。
向田邦子の名作の一つで、加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュンの4姉妹の話である。
この日は、新聞の投書で、「3姉妹」と書かれて、「自分は除者にされた」と思い込んだ風吹が、八千草の家に電話して来るところから始まる。
八千草の夫は、緒方拳、加藤は活花の師匠だが、料亭の主人の菅原謙二と伊豆の旅館で一夜を過ごしてきた朝で、菅原の妻は、同じ大映の三条美紀。
図書館司書のいしだは、自分が依頼した、姉妹の父親佐分利信の素行調査で、調査員の宇崎竜童から最後の方でプロポーズされる。
佐分利は、妻の大路三千緒に隠れて、女八木昌子との間に小学生の男の子を持っている。
風吹は、喫茶店のウエイトレスで、恋人の深水三章はボクサーで、試合のシーンがあった。
撃ち合いは結構きちんとやっていて、初め深水が優勢だったが、次第に劣勢になる。
この時、レフリーは、森田健だった。



私も、昔はボクシングが好きで、テレビで放映されるゲームはほとんど見ていた。
フェザー級の金沢和良というのが大のお気に入りだった。
そして、レフリーでは、森田さんが一番好きだった。

この問題の投書は、たぶん母がしたのではないかというところで終わる。
さて、このドラマでも、多くの俳優が亡くなられている。
佐分利信、加藤治子、八千草薫、緒方拳、深水三章、そして八木昌子。
驚くことに、大路さんはご健在で、100歳を越えたとのこと。
また、森田さんも、ご健在とのことで喜びにたえない。



久しぶりにみた中南米スタイルの良いボクサー

2015年01月04日 | ボクシング
大晦日は、「紅白歌合戦」とボクシングを並行して見ていた。
一番すごかったのは、キューバのボクサーのリゴンドーだった。



キューバのような中南米スタイルのボクサーに、日本人は非常に弱い。
彼らは、ダッキングやスウェー・バックを頻繁に繰り返しては、相手との距離を常に微妙に変化させて、相手が自分の距離になった時に果敢に打ち込んでくる。
こういう柔軟なスタイルに日本のボクサーは非常に弱いのである。
要は、日本人ボクサーは距離の取り方が上手くないのである。
この日も、相手は本来はフェザー級の天笠尚で、結構よくやっていたが、リゴンドーに結局打たれっぱなしだった。
だが、さすがのリゴンドーもパンチ力はあまりないのか、最後まで天笠は持ってしまい、10回でTKOになった。
ともかく、当然の結果だったが、久しぶりの中南米スタイルのボクシングを堪能した。

『フェイシング・アリ』

2012年09月28日 | ボクシング
アリとは、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンに3回なったモハメッド・アリのことで、彼と対戦した歴代ボクサーの証言と記録映像であり、ボクシング好きにはたまらない映画である。
私たち、日本のボクシング愛好家が、最初にヘビー級の世界戦を見たのは、スエーデンのヨハンソンと米国のパターソンとの対戦で、これは何度かベルトが行き来したはずだ。
その後、無敵の黒人ボクサー、ソニー・リストンが現れ、以後は黒人ボクサーの時代になる。
その象徴が、アリで、当時はカシアス・クレイと言い、日本でもあやかってカシアス・内藤がいた。
アリは、今はパーキンソンで話せないので、対戦したボクサーのインタビューになる。
ジョージ・フォアマン、ジョー・フレイザー、ラリー・ホームズ、さらにアリが最初にタイトルを取った相手の英国の白人アーニー・テレルなど。
彼らは全てアリを賞賛している。
その理由は、アリはクリンチワークなども使ったが、決して反則ではなく、本質的にはきれいなボクシングだったからだろう。
学生時代に習った白鳥先生によれば、「昔、大学の竜後藤と言われた後藤秀夫の時代では、クリンチのとき相手から、次の回で倒れろ、そうしないと殺すからな」などと脅かされたものだったそうだが、アリはそんなことは言わなかったのだろう。

昔、フライ級の世界王者になったこともある海老原博幸が、誰かとアリの世界戦を見に行き、レポートしたのをテレビで見たことがある。
海老原は、「アリはボクサーではなく、しゃべり屋だ」と言っていた。
そうした口撃も含めて、アリは相手を挑発していたのだろう。
これを見て驚いたのは、フレイザーやフォアマンなど、力任せのファイターだと思っていた彼らが、冷静で客観的に試合を分析、記憶していることで、そうでなければチャンピオンになれないと思った。
よく知られているようにアリは、ずっとパーキンソン病である。
パーキンソン病は、昭和天皇がそうであったことで分かるように、大変真面目で勤勉な男の人がかかりやすい病気なのだそうだ。
横浜ニューテアトル

白鳥金丸が負けた理由

2012年08月08日 | ボクシング
オリンピックのボクシングで、メキシコ大会以来のメダルが取れるようだが、日本人でボクシングで金メダルを取ったのは、東京大会バンタム級の桜井孝雄だけである。
だが、この時、桜井よりも、遥かにメダル候補と言われていたのが、早稲田の学生でライト級の候補白鳥金丸(しらとり かなまる)選手で、彼はボクシング・チームのキャプテンでもあった。

大学の終わりの4年生の時、早稲田特有の夏の速成授業で、体育の単位をボクシングで取ったとき、先生が白鳥金丸だった。
とても面白い人で、オリンピックのボクシングの記録映画を上映するなどとても楽しい授業だったが、彼は自分がなぜメダルと取れなかったについても正直に話してくれた。

理由は二つあり、一つは外人選手の態度の大きさに圧倒されたこと。
彼らは代々木の選手村の道路の真ん中を堂々と歩いていて、それだけで日本人選手は圧倒されて負けていたというのだ。
彼らは、競技よりも女性ハントに精出す者も多く、選手村の芝生の上で抱き合うのなどいくらでもあり、当時は純情だった白鳥君は寝られなくなったそうである。

さらに、試合の前日の夜中に、桜井孝雄が選手村にいないと分かり大騒ぎになり、キャプテンの彼は東京中を探すことになった。
すると桜井は、渋谷のバーで酒を飲んでいたのだ。
そんなことで白鳥選手は調子を狂わせてしまい、二回戦でメキシコの選手に負けてしまったそうだ。
だが、そのメキシコ代表は、銅メダルを取っているので、強いボクサーだったのだが。

やはりオリンピックのような国際大会では、実力も当然だが、それ以上に精神的な強さ、図太さこそが重要だということだろう。

桜井孝雄、死す

2012年01月12日 | ボクシング
ボクサーの桜井孝雄が死んだ、70歳。
彼は、東京オリンピックのボクシング、バンタム級の日本代表で、優勝し金メダルを取った。
これが、日本のボクシングで、現在も唯一の金メダルであり、大変なボクサーだった。
プロに転向しても、負けたのは、チャンピオンのライオネル・ローズに僅差の判定負けと、黄金のバンタム・ルーベン・オリバレスにKO負けの2敗飲みの,32戦30勝2敗の大変立派な成績だった。
だが、アマチュア時代からのアウト・ボクシング・スタイルだったため、当時の日本は、根性と手数のラッシュ・スタイルが主流だったので人気が出ず、東洋タイトルを取るとすぐに引退してしまった。
彼のボクシングは、冷静なアウト・ボクシングだったが、その実像は違うように思う。

というのは、大学時代、私は授業でボクシングを取り、その時の教官の白鳥金丸先生から桜井のことを聞いていたからである。
白鳥さんは、当時アマチュアにしては珍しいハード・パンチャーで、金メダル確実と言われていて、一方桜井は全く期待されていなかった。
では、なぜ桜井は金メダルを取れて、白鳥さんは取れなかったのか。
白鳥さんに言わせれば、理由は二つあった。

一つは、外国人選手の態度の大きさ、悪行の酷さに驚き、圧倒されたことであり、もう一つは桜井孝雄が、試合の前日にいなくなってしまったことだという。
代々木の五輪選手村では、外人選手は我が物に闊歩し、酷い奴は選手村の野外の芝生の上で、セックスしまくっていたという。
当時、純情だった白鳥選手は、夜毎のフリー・セックス騒ぎに寝られず、睡眠不足になってしまった。
そこに舞い込んだのが、「バンタムの桜井が選手村にいない!」という知らせで、キャプテンだった白鳥さんは、夜中中桜井を探し回った。
すると彼は、一人で渋谷のバーで一人で酒を飲んでいたというのだ。
なんとも豪胆ではないか、桜井君は。

その結果、桜井は優勝して金メダル、白鳥さんは、3回戦でメキシコの18歳の少年に負けてしまったそうだ。
尤も、その少年はメダルを取ったので、実力もあったらしいが。

桜井は、ボクサーをやめた後、高田馬場で「メダリスト」という喫茶店をやっていて、私も一度行ったことがあるが、彼は店にきちんといた。
間もなくして、その店もやめたようで、幾つかの職に就いたようだが、特に大きな成功も失敗もしなかったのは、アウトボクサーらしい賢明さであるというべきだろうか。
「倒し、倒される」の、KO戦は彼には合わなかったわけだ。

食道ガンとのことで、やはり酒とタバコだろう。
日本のボクシング史に残る名選手のご冥福をお祈りする。

平沢雪村

2011年05月25日 | ボクシング
鈴木清順監督の映画『百万弗を叩き出せ』にボクシング解説者の平沢雪村が出ていた。
この人は、当時ボクシング解説の第一人者だったが、きわめて日本人選手に偏った解説で有名だった。
頭山満の流れを引く国粋主義者だったのだから当然なのだが。

一番傑作だったのが、体重オーバーでバンタム級が無理になったファイティング原田が、フェザー級に上げ、オーストラリアのシドニーで、チャンピオンのジョニー・ファメションと戦ったタイトル戦の解説だった。
この試合で、原田はファメションにかなり問題の判定で負けたのだが、そのとき平沢が言った言葉がすごかった。

「これは、いかんですよ、完全な規則違反です。
 ボクシングのリング・ロープは4本なのに、ここは3本しかなかった。
 だから原田は、押されてリング下に落ち消耗して負けたのです。
 これはいかんですよ、原田はファメションにではなく、3本ロープに負けたんです」

 確かに、ロープ際でもみ合いになり、原田はリング・サイドに落ち、そこでかなり体力を消耗したのは事実だったと思う。

 でも、全く驚いた。
すべてのスポーツ解説で、これほどの偏狭なものは先ず当時もその後もなかったと思う。
今なら、テレビ局に抗議の電話が殺到して、即クビに違いない。

『あしたのジョー』

2010年06月07日 | ボクシング
1970年、末期の日活で作られた実写版。
監督長谷部安春、主演石橋正次、辰巳柳太郎。
辰巳が、この時期に映画に出るのは珍しいが、製作が新国劇映画のため。
長谷部らしくテンポが早いが、その分、こくもない。
彼は、ボクシングに興味がないのではないか。

亀田は進歩している

2009年11月30日 | ボクシング
夜、暇だったので、ボクシングWBCフライ級の内藤大助対亀田興毅戦を見る。
かなりの大差で亀田の勝利になった。

スタイルが、全く反対で、正統派の亀田と変則派の内藤だったが、亀田は的確にパンチをヒットしていた。
また、亀田が3回までにKOを宣言していて、「短期なら、亀田」と、後半戦以降のスタミナ切れも予想され、多分内藤は、「6回以降亀田がスピードが落ちたところで勝つ」という戦略だったと思うが、6回以降もスピードは落ちなかった。
かなり練習してきた成果だろう。

採点を見ると、差が相当に開いているが、これはWBCの性格であろう。
WBCは、欧州勢がメインで、アマチュア・ボクシングの基礎も強いので、亀田のような正統派のアウト・ボクシングを評価し、内藤のような変則派は嫌うのだ。
亀田は、これからは是非言動も良くしてもらいたいものである。

関光徳死去

2008年06月07日 | ボクシング
ボクサーでジムの経営者でもあった関光徳が死んだ。66歳。
彼は、昭和30年代の人気ボクサーの一人で、フライ級からスタートし、次第に体重が増え、最後はフェザー級の東洋チャンピオンになった。
サウスポーのハード・パンチャーだったが、守りも良く、なかなかのテクニシャンでもあった。
世界チャンピオンにはなれなかったが、忘れがたいボクサーの一人である。
また、引退後はテレビの解説もやっていた。
ご冥福をお祈りする。

NHKはいつまで格闘技を放送していたか

2007年10月13日 | ボクシング
内藤対亀田の世界タイトル戦で矢尾板貞夫、海津文雄のことについて書いた。
彼らは、フライ級とミドル級のボクサーだったが、彼らの試合は、NHKがテレビ中継していたと思う。
矢尾板が世界チャンピオンのパスカル・ペレスとやったノン・タイトル戦や海津が辰巳八郎や権藤正雄とやった日本ミドル級の試合は、記憶ではNHKが放送したと思う。
その時は、家にテレビがなかったので私は見ていないが、プロレスの歴史的試合力道山対木村政彦の日本タイトル戦もNHKが放送したのだそうだ。
プロレスも日本テレビの独占ではなかったのだ。

少なくともボクシングに関しては、何故か重量級の試合はNHKが放映していたと思う。

国民の期待は大げさだが

2007年10月12日 | ボクシング
内藤大助対亀田大幾の世界タイトルマッチで、内藤が勝ったのは当然だが、良かったと思う。
それにしても、亀田の「投げ」は一体なんだろう。
私も、昔々の矢尾板貞雄、海津文雄の時代から長くボクシングの試合を見ているが、あんなのは初めてである。
それに、終わったらすぐにコーナーから逃げるように帰ってしまったのもひどい。
自分たちが勝てなければ、何にも付き合わないと言うのでは、まともな社会人ではない。
言うまでもなく、ボクシングは相手があるスポーツであり、相手を尊重してこそ試合ができる。一人でボクシングはできないことを奴らは完全に忘れている。

ボクシングはルールの規制の多いスポーツで、技術の習得が大変で、そこが面白さでもある。
亀田一家はテクニックができていないという以前に、その精神がひどい。
勝てば何をしても良いということだろうが、世の中そうばかりではない。
彼を見ていて思い出したのは、去年のトリノ・オリンピックのスノー・ボードで、日本代表で大げさに騒いで、論外の成績だった成田兄妹である。
テレビで大騒ぎし「ヒーロー」になったが、それだけで何も実力がなく、結果は惨敗だった。

亀田一家に対しては、今後あのような馬鹿を輩出しないためにも、そうした罰則があるかどうか知らないが、無期限出場停止処分にすべきだろう。

また、内藤大助について解説者が、「変則ボクシング」と言っているのは、正しいだろうか。
あのどこからでもパンチを出すスタイルは、日本では少ないが、中南米には普通にあるタイプで、内藤はどこで覚えたのだろうか。
この中南米スタイルは、日本人はとても苦手なものだが、必ずしも変則ではないのである。
要は、変則だろうと正攻法だろうと、きちんと戦って勝てれば良いのである。

「エデル・ジョレフ殿!」

2006年08月06日 | ボクシング
世界のボクシング・チャンピオンの中で、歴史的な大選手と言われる一人が、ブラジルの「黄金のバンタム」エデル・ジョフレである。

誰の対戦の時だったか忘れたが、あるとき圧倒的な強さで日本人をKOして勝った。
ところが、当時のコミッショナー真鍋氏八千代氏は、「ジョフレ」と言うのを「ジョレフ」と言ってしまった。
「エデル・ジョレフ殿!」
わざわざブラジルから来日し、名前を間違えられては彼も堪らなかったに違いない。

彼は、日本では最後にファイティング原田との世界戦をやった。
予想は圧倒的にジョフレ有利だったが、僅差の判定で原田が勝った。
その後、原田はジョフレと再戦し、今度は大差の判定で勝った。

以前、原田がブラジルに行き、ジョフレと再会する番組をやっていたが、とても仲の良い間柄なのだそうだ。
現役時代、原田のラッシュ・スタイルは大嫌いだったが、現在は日本ボクシング協会会長として、活躍されているのは大変立派である。

中米スタイル

2006年08月06日 | ボクシング
依然として、亀田興毅の世界戦の判定問題が話題となっているが、元々日本は中米の、アウト・ボクシングとイン・ファイトを併せた「ボクサー・ファイター」のスタイルには、きわめて弱いのである。

歴史的に見れば、戦前日本のボクシングは、「槍の笹崎」や「ピストン堀口」らに表現されるように、ほとんどイン・ファイトだったらしい。
日本のボクシング界に、「アウト・ボクシング」を教えたのは、日本最初の世界チャンピオン白井義男を育てたカーン博士である。
だから、戦前からのボクシング・ファンだった、漫才のコロンビア・トップなどは、当時全盛期だった矢尾板貞夫らのアウト・ボクサーが大嫌だった。

日本のボクサーは、タイやアメリカに多い典型的なイン・ファイトのタイプ、あるいは欧州のアウト・ボクサーには強いのだが、この二つのスタイルを混ぜた、中米の「ボクサー・ファイター」には大変弱いのである。
彼らは、そのときにより、アウト・ボクシングとイン・ファイトを使い分ける。
そして、隙を見て内側からパンチを入れて来る。

亀田が1ラウンドに入れられた右フックも、内側から入れられた有効打である。

採点法も話題になっているが、日本には昔から、手数を有効とする考えが強いが、世界的見れば、この手数の多さ、攻勢点、なるものは無意味な採点法である。
本来、ボクシングで有効なのは、クリーン・ヒットであり、きれいに打つことは最も高い評価を受けるものなのだ。
これは、欧州に強い、アマチュア・ボクシングの伝統である。