指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『加賀騒動』

2005年10月29日 | 映画
昭和28年、東映作品。まだ怒涛と岩から出てくる東映の三角マークではなく、平板に東映と書かれたマークのタイトル。村上元三作、橋本忍脚本、佐伯清監督。
大友柳太郎の大槻伝次郎が伝えられるような逆臣ではなく、主君前田(三島雅夫)に忠実で、下級からその能力で家老まで昇進した武士だったことを描く作品。
描写はのろいが、なかなかの作品だった。

珍しいのは、大槻の恋人で、殿の側室になるのが新劇女優の東恵美子であること。良く見ると美人。所属はまだ俳優座。その後、青年座を結成する。
その他、まだ東映に専属俳優が少なかったためだろう、山田五十鈴の他、俳優座など新劇役者総動員。

最後、三島が脳梗塞で倒れ死ぬと、加藤嘉らの反対派によって大槻は家老職を追われ、切腹させられる。
大槻大逆賊の『前田騒動』の芝居小屋の看板の前を、大槻をよく知る薄田研二、東野英次郎らが苦々しい面持ちで通り過ぎる。
事件や騒動の真実は果たしてどうか、ということを投げかけた橋本忍の脚本がさすがに良い。

滝伸次は神代辰巳だった

2005年10月28日 | 映画
小林旭の「渡り鳥」シリーズのチーフ助監督は意外にも神代辰巳だった。
彼は、大変女性にもてる男で、「渡り鳥」シリーズのロケ地に先乗りして準備をすると、地元の女性の総てにもてたたそうだ。
だから、彼のあとに斉藤武市、小林旭らが撮影に行っても、すべて神代に荒らされた跡で、彼らは全く相手にされなかった。

ミナト、ミナトに女がいて、誰にでももてる小林旭の滝伸次は、むしろ神代辰巳だった。
「くまさん!」と言って浅丘ルリ子が涙を目に一杯ためてる中を神代は、次の町に去って行く。

『南国土佐を後にして』

2005年10月28日 | 映画
根上淳夫人ペギー・葉山の最大のヒットは、言うまでもなく『南国土佐を後にして』で、これは日活で小林旭主演で映画化され、「渡り鳥シリーズ」の第1作となる。しかし、後のシリーズとは異なり真面目で暗い作品だった。
監督は斉藤武市で、元松竹大船の助監督なので、叙情的な表現にすぐれていた。前の『絶唱』、『名づけてサクラ』などは、抒情的でセンチメンタルな作品である。「渡り鳥シリーズ」の全国の風物や情景を表現がいいのはそのためである。

根上淳死去

2005年10月26日 | 映画
82歳だそうだ。根上淳の初期のものは見ていないが、忘れがたいのは、増村保造監督の傑作『妻は告白する』での若尾文子の弁護士や、森一生監督の『次郎長富士』での盲目の強い剣士である。
盲目の剣士というのは、『大菩薩峠』の机龍之介からだろうが、座頭市の原型でもあるようにも思える。
オールスター映画『次郎長富士』では、勝新太郎が森の石松だが、最後殺されるところが、アンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』の主人公マチェックが、ゴミ捨て場で死ぬシーンとそっくりである。
勝新も森一生もポーランド映画を見ていたのだろう。大映のレベルの高さが分かるシーンである。

根上は随分前から糖尿病と脳梗塞だったらしい。ご冥福をお祈りして、また『妻は告白する』を見よう。

アンダースロー投手の宝庫・ロッテオリオンズ

2005年10月25日 | 野球
ロッテ、東京、大毎はアンダースロー投手の宝庫だった。
古くは、大毎時代から在籍し、東京時代には25勝もあげた坂井勝二。
坂井が大洋にトレードされた後では、仁科、深沢の二人がいた。
共に渋い技巧派だったが、かなりの勝ち星を挙げている。
仁科は、コーチでも残っていたので、仁科あたりから渡辺は教えらたのかもしれない。
投手にしろ、打者にしろチームの伝統と言うものは、結構残っていくものらしい。

渡辺俊介攻略法

2005年10月25日 | 野球
日本シリーズ第二戦は、ロッテの投手渡辺俊介に完全に阪神は押さえられた。最近珍しいアンダースローの投手で、打つのはかなり難しい。
渡辺は、よく見るとアンダースローで、なおかつ時々二段モーションをする。
ワインドアップのとき、足の上げ方、おろし方を時々変えている。そこから変化球と速球を交えるので、打者はとてもタイミングが取り難いだろう。
対策はただ一つ、ともかくなんとか走者を出して、ノーワインドアップで投げさせることである。

二段モーションをするアンダースローでは、昔近鉄に佐々木宏一郎という投手がいて、1970年には完全試合をやっている。通算勝利132勝。
下手投げ投手というのは、短期的にはかなり成績を上げるが、長い期間に活躍することは難しい。200勝以上では、山田久志と皆川睦男しかいない。

儀式好き国民

2005年10月24日 | 政治
岡本喜八監督の『日本の一番長い日』を見ていたら、最後で下村情報局総裁(志村喬)に部下(江原達よし)が聞く、「すでにご聖断が下され、玉音放送もやったのに、なぜまた枢密院顧問会議を開くのか、無意味じゃないですか」と。「これは儀式なのだ。大日本帝国に死を宣告する儀式なのだ」と答える。
本当に、日本人、中国人は儀式が大好きである。
何かの始まり、終わり、等々に儀式をやらないと済まない。
歴代の権力者で儀式好きじゃないのは小泉純一郎首相くらいだが、何故か靖国神社にはこだわっているのは、不思議。

『サザエさん』

2005年10月23日 | 映画
江利ちえみ主演の「サザエさん」シリーズ第1作。
脚本笠原良三、監督青柳信雄。
小泉博、藤原鎌足、清川にじ子、小畑やすし、松島トモ子ら。
サザエがますおと知り合い、結ばれることを暗示し、磯野家の雪のクリスマスで終わる。
従兄弟のり助が仲代達矢、その妻・道子は、可愛いが誰か分からなかったが調べると青山京子だった。仲代の本当の叔父(母の兄弟)有木山太も流しで出ている。
森川信のお婆さん姿には笑った。この人は、本当に上手い。
昭和31年12月の公開で、お正月用の明るい映画。

音楽が美空ひばりの『お祭りマンボ』の原六朗で、最初が『陽気なバイヨン』、最後が『ジングル・ベル』。この2シーンだけ、町内の御用聞きでダーク・ダックスが出る。恐らく、2シーンを一緒に撮ったのだろう。
全体として、物語性は弱く、シーン毎の芸を見せるやり方で、後のテレビのバラエティー・ショー(『光子の窓』や『シャボン玉ホリディー』のような)に近い雰囲気だった。テレビ以前、特に地方の人間はこういう映画で、バラエティを楽しんでいたのだ。
川崎市民ミュージアム。

野球で選手兼監督があるが、映画でも役者から監督になった者がいる。

2005年10月21日 | 映画
多分、役者から監督になった第一号は、衣笠貞之助だろう。この人はサイレント時代の女形で、主演しながらカメラマンに指示を出したと言う。女優として品を作り形を決めながら「絞り、絞ってくださいな」と指示したという。。役者から監督になった人では、稲垣浩もそうだ。最も子役だったそうだが。
女優では、田中絹代が有名で、6本作っている。公開当時は話題だけで余り正当に評価されていないが、最後の作品『お吟さま』など、大変立派な出来である。
女優では1本だけだが、左幸子が『遠い一本の道』という国労の協力で、日本映画史上恐らく最後になる「組合運動賛美映画」を監督している。望月優子も監督をしたかったらしいが、議員になったりしたためか実現しなかった。
男優では、勝新太郎が第一だろう。勝はテレビも随分作っている。生きていれば市川雷蔵も、監督が出来たと思うが、残念なことである。
渋いところでは、脇役だった小杉勇が戦後日活等で映画を作っているが、比較的いい出来だったようだ。

また、間違えた。

2005年10月21日 | 映画
『フィニアンの虹』をコッポラの脚本と書いたが、脚本ではなく監督だった。当時、彼はメジャーで監督をしたくて、何でもいいからと監督したらしい。
コッポラだというので見に行ったが、普通のミュージカルで拍子抜けした覚えがある。
元は、舞台のミュージカルで宝塚でもやった。

ニューオリンズの映画

2005年10月20日 | 映画
ニューオリンズを舞台にした作品と言えばテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』だが、シドニー・ポラックの映画『雨のニューオリンズ』も、最後がニューオリンズで、街中が出てくる。
実は、この映画はテネシー・ウィリアムズの1幕劇『財産没収』をアダプトしたもので、シナリオはかのコッポラなのである。
ナタリー・ウッドと当時は新人だったロバート・レットフォードの恋愛悲劇で、なかなか面白かった。
わずか20枚くらいの1幕劇を2時間近くの映画にしたハリウッドの手腕に感心した覚えがある。
コッポラは、映像の力をよく指摘されるが、シナリオ・ライターとしてもたいしたものだ。コッポラが書いたシナリオとしてはミュージカル『フィニアンの虹』もあった。いずれも既存の劇を基にしている。

選手兼任監督の中で

2005年10月19日 | 野球
古田敦也がヤクルトの選手兼監督になるが、この報道の中で近鉄で小玉利明も選手兼任で監督をやったことが出ていた。
小玉は、1960年代近鉄が最も弱い時代の主力選手で、近鉄からオールスター戦に出る唯一の野手だった。
野村、村山、中西の選手兼監督が出る中で、ほとんどやけくそ的に近鉄は生え抜きのスター(と言うほど人気はなかったが)小玉を監督にしてしまう。
しかし、直ぐに強くなるはずもなく低迷し、たった2年で解雇され、小玉は一選手として阪神に移籍するが、全く働かず1年で引退してしまう。
記録は、安打が1900本代(もう少しで2000本)だったのだから、巨人の中畑清よりは遥かに上だったろう。いかに非人気球団にいると不利だったかという証左である。
小玉の後、三原脩、西本幸雄らが監督に来て近鉄はやっとまともな球団になる。
後にパ・リーグで優勝するまで近鉄を強化したのは、なんと言っても西本幸雄だろう。
西本は、阪急で何度も優勝しながら、直情径行な性格で、球団が西本の監督継続に疑問を持つと、選手に支持するか否かの投票を実施し、予想外に不支持があると直ぐにやめてしまう。誠に正直な人間である。
そして、近鉄の改造に真剣に取り組む。
大毎(現ロッテ)、阪急(オリックス)、そして近鉄でも日本一になれなかったが、日本プロ野球の監督の中で、歴史に残る名監督の一人だろう。

フィールド・レコーディングからビートに。

2005年10月19日 | 音楽
以前SP時代の録音の多様性について書いたが、アフリカ等のフィールド・レコーディングは20世紀初頭からあった。
デニス・ルーズベルトらによる旧ベルギー領コンゴ等のレコーディングは、すでに1930年代に発売され、70年代以降日本でも人気となったブルンディー・ドラムは、ジャズのジーン・クルーパにも影響したのだ。
他にも、フランスのオコラは中近東の音楽のレコードを多数残している。
明治時代に日本に来たフレッド・ガイズバークの「出張録音」も、日本という極東の未開の国の音楽のフィールド・レコーディングだったとも言えるだろう。
こうしたフィールド・レコーディングは、言わば文化人類学的発想であり、ノンフィクション的発想でもある。
こうした流れの上に、ジャン・ルーシュらのアフリカ等での記録映画もあったのだと思われる。
フォーク・ソングで有名なフォークウェーズ・レコードの創設者サムエル・チャーターズの妻アン・チャーターズが、1950年代のビートの中心人物であったことも考え合わせると、ビートがもう一つの文化、非西欧近代社会的な文化への興味だったことの証左である。

バレンタイン監督とは

2005年10月18日 | 野球
パ・リーグ優勝のロッテのバレンタイン監督について、ロッテのGMだった広岡達郎は次のように言っている。
彼(バレンタイン)は、「監督としての采配に特に優れたものはないが、選手を乗せることとマスコミなど外部への宣伝がとても上手い」と。
この二つは今の監督には絶対に必要なものだが、常勝時代の巨人には、必要なかったのだろう。
巨人の選手なら、いやでもハッスルするし、マスコミはいつも報道する。
プロ野球の世界も随分変わってきたようだ。

阪神の岡田監督は、ロッテは手ごわいとのコメントを出している。
岡田は、結構冷静にものを見ている。

『大丈夫マイフレンド』

2005年10月17日 | 映画
横浜駅西口のビデオ屋に行くと、1983年のこの映画があった。当時、相当大々的に宣伝されていた。フィル・スペクター風の主題歌はカッコいいが、SFミュージカルにピーター・フォンダの主演、村上龍の原作・脚本・監督では、「大丈夫なの?村上先生」と予告編を見るたびに思ったものだが、予想どおり大ずっこけで直ぐに打ち切られ、見る機会がなかった。

撮影監督岡崎宏三さんは、「脚本を読んだときとてもユニークな娯楽作品になる」と期待したそうだ。彼は、アメリカ人俳優ピーター・フォンダのため、彼の出るシーン等は2キャメラ・システムで撮り、拘束時間超過のオーバーギャランティを出さずにしたが、製作者からはフィルムの使いすぎだと言われたそうだ。

話は、ダンスとバンドをやっている広田玲央名、渡辺裕之らの能天気な若者のところに異星人のピーターが突如落ちてきて(新宿西口のホテルのプール)、彼を狙うドアーズという悪人たち(首領が根津甚八、手下が岸部一徳、刈谷俊介ら)との追っかけとなるという他愛のないもの。
この程度の映画のためにサイパンロケに40日も行ったというのだから、キティ・フィルムは随分儲かっていたらしい。
作品の失敗は、勿論監督村上龍の脚本のひどさと演出力のなさにあり、特にミュージカル・シーンが凡庸で、少しも楽しくない。ミュージカルシーンの演出は本職の監督でも難しいのだから、素人の村上に上手くできるわけがない。
また、悪党団のSF的セットや衣装がきわめてチャチで、テレビの子供番組以下。ピーター君は、日本に来て、一体このひどい映画をどう感じたのだろうか、是非お聞きしてみたいところである。
昔、プロ野球の近鉄に来た某外人選手が近鉄の球場は、「爆弾が落ちた後みたい」と言ったが、そんな感想だろうか。

最後に、ピーターが悪人たちにロケットで打ち上げられる時、彼は「最後にマスターベーションをさせてくれ」と懇願し、ロケットに向け彼のロケットから液体を発射させる(勿論、見えないが)。すると人間の1000倍のパワーの彼から発射された液は、ロケットを破壊するが、このシーンが愉一笑えたシーンだった。
主演の広田玲央名ちゃんは、今で言う巨乳女優だが、現在はどうしているのだろうか。
日本の映画界が一番混乱していた1980年代の珍品の一つである。