中央区宝町の国立映画アーカイブは、コロナ頃からチケットが、基本的に事前予約制のパソコン入力になった。
それがなかなか上手くできず、以前の「京マチ子特集」など行けなくて困っていた。
ところが、先週友人にスマフォで席を予約してもらい、入場できたので、日曜日は自分のPCで取ると無事できた。
今度は、明日のも無事取れた。
どうしてこうなったのか不明だが、出来るようになったのは、非常にうれしい。
今度の特集は、普段は上映されない作品ばかりなので、ぜひ見に行こうと思った。
中央区宝町の国立映画アーカイブは、コロナ頃からチケットが、基本的に事前予約制のパソコン入力になった。
それがなかなか上手くできず、以前の「京マチ子特集」など行けなくて困っていた。
ところが、先週友人にスマフォで席を予約してもらい、入場できたので、日曜日は自分のPCで取ると無事できた。
今度は、明日のも無事取れた。
どうしてこうなったのか不明だが、出来るようになったのは、非常にうれしい。
今度の特集は、普段は上映されない作品ばかりなので、ぜひ見に行こうと思った。
昨日は、国立映画アーカイブで、「かんけまり」特集を見た。
かんけは、東宝のスクリプターから始まり、戦後は記録映画監督になった。
4本が上映されたが、3本目の『ガジュマルは生きている』が、興味深かった。
これは、沖縄返還を叫ぶ短編だが、なかで佐藤栄作首相が来て、「沖縄が戻って来なければ、戦後は終わっていない」の名言を残した。
その通り、現在ではいろいろ問題はあったが、沖縄返還を実現したのは、すごいと言える。
この沖縄返還を実現したことで、日本社会党などの野党は、政権を取る可能性を失ったと私は思うのだ。
池田の所得倍増と佐藤の沖縄返還、この二つは大きかったいえるだろう。
4本目の映画は、『鳴らせ自由の号笛』で、これは国鉄の動力車労組の、革マル派の支配に対する、共産党系の反対運動を描くものだった。
これは、参議院選挙での、動労の組織内候補の目黒今朝次郎への寄付を強制したのに対する反対から起きたものだったが、革マルは、本当に真珠がたいほどの連中だった。
日本の新左翼運動を壊したのは、革マルの黒田寛一と連合赤軍の永田洋子と私は思っている。
黒田は、ソ連の、永田は中国の、それぞれの共産党の非近代性を受け継いでいたことが間違いの基だと思うのだ。
NHKの「バタフライエフェクト」の『ロックが壊した冷戦の壁』に、チェコスロバキアのハベル氏が出ていた。
元劇場主のハベル氏は、当時は反体制人の一人で、当局に監視される人間だった。
彼らは、しかしいろんなイベントをやっていたが、その一つが、日本の田中泯さんのダンスで、制作は田村光男だったが、そのことは今度出した本『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスティバル』に書いた。
後に、ハベル氏は、チェコの大統領になる。
そして、2014年に田村が病死して、追悼イベントが行われたとき、ハベル氏名の弔電が来たのだった。
1939年、東宝京都撮影所で作られた石田民三監督作品で、助監督が市川崑と毛利正樹。この二人は、後に東京に移り、東宝、新東宝の監督となる。
原作は、人気作家吉屋信子で、高峰秀子ら、大阪の女学生の日常を描くもので、友人として清水美佐子らが出ている。他に、戦後加藤治子となる御舟京子がいたようだが、これは分からず。
ここで、注目されるのは、恐らくはロケーションだった大阪の富豪な家の設えの立派さである。
戦後、新東宝で谷崎潤一郎の『細雪』が阿部豊監督で映画化され、このとき市川崑が助監督で、
「これは違う」と思ったそうだが、その理由がよく分かった。
高峰の家は、芸者屋で、中で踊りや音曲の稽古が見られるが、その内部が実に豪華で、伝統の厚みを感じさせるものになっているのだ。
こうした大阪の持っていた伝統と文化の厚みは、戦時中の空襲で失われたものであり、橋下徹は、米軍の空襲を恨むべきなのだ。
だから、市川崑が、「阿部の『細雪』は違う」と言ったのだと思う。その代わり、市川の映画『細雪』では、映画の冒頭で、船場の商家の豪華な装置を見せているのだ。
また、ときどきで、シンメトリカルな映像も見せ、そこは市川崑的でもある。
音楽は、鈴木静一で、生徒の憧れの宝塚を退団した直後の葦原邦子が歌を歌うが、これがかなり高い声であることに大変に驚く。
今の宝塚歌劇の男役の声と歌は、かなり低い声になっているのに対し、対照的である。
監督の石田は、東宝の合同と移籍に対して京都は離れず、戦後は舞台や関西での記録映画に従事したとのことだ。
その意味では、映画界の東京への集中化、統制下に従わなかった一人だともいえる。
国立映画アーカイブ小ホール
トロッコというと、地方の列車のように思えるが、東京大田区の池上でも、トロッコがあったことがある。
それは、池上の本門寺の崖のところに大田区民会館を作った時のことで、本門寺脇の崖から、呑川までトロッコの軌道が引かれて、土砂を運搬していた。
当時は、トラックがまだ普及していなくて、工事での土砂の運搬にはトロッコが使用されていたのだと思う。
そうした図は、成瀬己喜男監督の大映映画『あにいもうと』で、兄で肉体労働者の森雅之が働く、多摩川の土手での作業用のトロッコが出てくる。
大田区民会館は、大ホールの他、結婚式場、会議室などもあり、そして図書館もある総合的な文化施設だった。ここには、豪華な詩集などもあり、埴谷雄高なども、ここで読んだのだ。
また、大ホールでは、定期的に映画会をやっていて、ここでは『黄色いカラス』のような子供向けの映画もやっていたが、溝口健二監督の『近松物語』も上映していたのだ。
もっとも、その時は、ただの暗い映画だなとしか感じていなかった。ところが、30代になり、銀座の並木座で『近松物語』を見ていて、最後の長谷川一夫と香川京子が裸馬に乗せられて市中引き回しの場面にきて、
「区民会館で見た映画は、これだ!」と思ったのだ。
意外にも良い映画をただで上映していたのだ。
国会への欠席を続けているNHK党のガーシー参院議員に対し「議場での陳謝」を科す懲罰が、参院本会議で22日、与野党の賛成多数で可決し、正式に決定された。 【画像で見る】ガーシー議員VS鈴木宗男議員”場外乱闘”で舌戦も・・・ ドバイに滞在し、去年7月の初当選以降、一度も登院していないガーシー氏に対し、「議場での陳謝」を科す懲罰が、参院本会議で22日、与野党の賛成多数で可決し、正式決定された。 本会議では、NHK党の浜田政調会長が「少数派が多数派に排除されるそのプロセスを国民にはしっかりと注視していただき、現状の日本の政治の問題点、今後の日本の進むべき方向を考えて頂けると幸いだ」などと弁明した。 欠席を理由とした懲罰は初めて。 本会議終了後、立花党首は記者団に対し、「ガーシーは国会で誰かに迷惑をかけたわけではない。ただ国会に来ていないだけだ。質問主意書も出している」と述べた。 懲罰には重い順に「除名」「登院停止」「議場での陳謝」「議場での戒告」の4種類があるが、NHK党の浜田政調会長はガーシー氏が「議場での陳謝」に応じる可能性は「ない」としている。 そのためガーシー氏が帰国・登院せず、「議場での陳謝」に応じなければ、再び懲罰委員会を開催し、「除名」も含めたより重い処分が検討される見通し。 「除名」となれば、ガーシー氏は国会議員としての身分を失うことになる。
こんな非常識な奴は、早く除名すべきだと思う。
不当に逮捕される恐れがあるから帰国しないとは理由になっていない。
不当な逮捕なら、逮捕された後に、正当性を主張すればよいだけのことである。
先日、あるイベントのためにパシフィコ横浜に行って話を聞くと、4月には放射線医学会総会・展示会が行われるとのことだ。
これは、私の記憶では、パシフィコ横浜開業以来ずっと横浜でやってくれているコンベンションで、多分最初に横浜での開催を決めてくれたイベントなのだ。
当時は、高橋利男さんの後任として、JTBから井上幸一さんが来ていて、彼が中心となって営業した結果なのだ。当時、私は、企画係長としてウォーマッド横浜などの、オープニングイベントのことを中心にやっていて、その点では井上さんに大変お世話になったものだ。
そして、2001年夏に、脳梗塞で倒れて、滝頭の脳血管医療センターに入院した。
そのとき、MRIをはじめ、ペットなどの多数の放射線医療機器のお世話になった。
その時、思ったものだ、
「情けは人のためならず」と。
私が寄与したところなど、大したことではないが、こうした放射線機器の発展に多少とも関係したこともあるのかもしれないと思ったものだ。
再び、『昭和天皇拝謁録』に戻る。
中で一番の問題点は、昭和天皇は、戦後、日本国憲法が制定された後でも、自分は日本の元首だと思っていたことだろう。
1953年5月18日のことで、首相を「認証しないこともある」と言ったことだ。
この時の政治体制は、吉田政権だが、保守は分裂していて改進党があり、社会党では左派が優勢になっていた。
そこで、かつての芦田政権のような、改進党と社会党との連立政権のようなことを考えたのかもしれないが。このときも、もちろん首相を認証しているのだが、ときどき自分は「象徴」とされたが、それでも日本の元首なのだとの考えが出ることがあったようだ。
そのたびに、リベラリストであった宮内庁長官の田島に、諫められている。
大正時代末期の摂政の時代から、1945年まで、元首的存在だった昭和天皇にとって、天皇は本来元首なのだという思いは、ずっとあったのだろうと想像する。
特に、大元帥として、戦前の軍隊を統帥していた者としては、元首的な発想は戦後もあったのだろうと思われる。
その点では、新憲法下で天皇となった、現上皇や、今上天皇とはまったく異なる存在だったと思うのだ。
今回出した『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』では、パシフィコ横浜の人についても書いた。
本当は、もっと面白いこともあったのだが、他人への批判となる可能性もあるので止した。
もう一つ書いたのは、社内の部長以上に人にしたが、課長で一番にお世話になったのは、上司の営業課長の高橋利夫さんである。
彼は、私とまったく同学年で、JTBから出向してきたが、都立桜町高校から東大文学部に入られた方だった。
非常に優秀で、面白い人で、私は「コンベンションの営業」を教えてもらったのだ。
彼は、JTBでは、国際旅行にいた方で、世界中に添乗員として旅行されていた。
いろいろと聞いたが、一番すごかったのは、イスラエルに行った時のことで、山本七平先生とアラブの遺跡を辿る旅だった。途中で道に迷い、戦場に入ってしまい、兵隊たちに助けられたなど、
「本当にですか」と聞いたものだ。
高橋さんに助けられたことの一つに、「営業は、自社の良いところを説明するものだが、結局決めるのは相手で、われわれではない」とのことで、負けても仕方がないとのことだった。
なにかの国際会議で、京都の国際会館に敗れたときのことだったと思う。
先日の「昭和天皇拝謁記」からには、いろいろと面白いことが出ていた。
1953年1月には、秩父宮が死去されている。よく知られているように秩父宮は、陸軍青年将校らに近く、2・26事件の黒幕の一人とされた西田税とは、士官学校同期生でもあり、青年将校らに同情的とされて、昭和天皇を悩ませた。このことから、「昭和天皇と他の兄弟の父親は別」との説が生まれてきた。明治天皇までは側室がいたのだから、それも変ではなく、特に大正天皇は、心身に障害があったとされていたので、「別の種を」と望んだのは無理もないことだ。
そして、3月にソ連のスターリンが死去し、マレンコフ、さらにフルシチョフが権力を握るようになる。
国内情勢では、次第に吉田茂の力が低下していき、自由党でも鳩山派が出来てきて、他に改進党もあり、保守は分裂していた。社会党も右と左の別れていたが、次第に左派が勢力を増してゆく。
こうした情勢を昭和天皇は、かなり憂慮されていて、「保守団結」を言いたいが、現在の憲法では何もできぬと悩んでいる。吉田茂と重光が手を取ればよいがと思うが、それを外部には言えないと言っている。
そして、4月に総選挙があり、再び吉田政権になったが、ここで
「久原と広川が落ちたのは、愉快だねえ」と言っていて、久原房之助や広川弘禅らが選挙で落選したのには喜んでいる。
昭和天皇は、彼らのような「謀略家」は嫌いで、一番好きだったのは、平野貞夫の本によれば、前尾繁三郎のような温厚な官僚出身者だったようだ。
もともと東大法学部は、天皇制の官僚を養成するために作られたのだから、当然と言えばそれまでだが。
最後に、三笠宮の言動についても、困っていて、どこか進歩派陣営に利するような発言に困惑されている。
しかし、天皇は、新聞等をよく読んでおられて、読書新聞に『細川日記』の広告が出ていて、それについても記述していて、以前の「独白録」のようなものを作りたいと言っている。
だが、それは現在では宮内庁は存在しないとのことだ。
これによっても、「独白録」は、東京裁判への対策の一つだったことが分かると思う。
答えは、「東宮ちゃん」である。
山田朗先生の田島道治の『昭和天皇拝謁記』を読むの中での、昭和天皇の言葉で、17日は、1953年の前半で、非常に興味深い言葉があったが、これが最高だった。
山田先生は、昭和天皇のことを「かなりの親ばか」と呼んでいるが、その通りだと思った。
ユーチューブには、かなりオーディオについてのサイトがあり、見ている。
私は、本にも書いたが、中学時代はラジオ少年だったので、オーディオにも興味はある。
池田圭と言えば、オーディオの世界では、神様のごとき人である。
高校の同級生に、カメラマンになったIという男がいて、彼が雑誌の仕事で、池田邸に行ったそうだ。
田園調布の邸宅の地下にリスニングルームがあったとのこと。
そこで、大先生がお聞きになっていたのは、沢たまきの『ベッドで煙草を吸わないで』だった。
もちろん、沢たまきが悪いわけではなく、元ジャズシンガーの彼女の歌は悪くない。
ただ、池田先生なら、せめて武満徹か黛敏郎くらいを聴いていてほしかったなあと私は思うのだ。
一昨日に見た「ノア美容室」の、美容と理容だが、これは国家試験資格の合格が必要で、開業には保健所の許可がいる業種なのである。
昔、ある保健所にいたとき、理容室の開業許可に立ち会ったことがある。
結構、さまざまな事項がチェックされるもので、担当者が厳しい人だったので、いろいろ言うと店の者と喧嘩しそうになった。
それは、その店が、低価格で組合に加入しないチェーン店の一つだったので、それを妨害してるのではと店の人が誤解したように見えた。
別に、保健所が、非組合店を妨害している事などないのだが。
その後、係長に、「なんで理容、美容は、こんなに厳しい許可をしているのか」聞いてみた。
彼の答えは、「首から上のことで、なおハサミや剃刀などの危険な物を使っているからでしょう」とのことだった。
ちなみに、エステや全身美容等は、一応首から下なので、許可はいらないのである。
その通り、イギリスでは、ロンドンの床屋が、妻を殺された復讐に、理容店の客の首を切って肉をパイにしたという実話、『スイニー・トッド』という劇もあったくらいだ。
この『スイニー・トッド』は、日本では帝劇で、松本幸四郎が鈴木忠志の演出で上演した。
これは、成功だったので、帝劇は続いて鈴木に、作・演出を依頼した。すると彼は、ギリシャ悲劇を基にした『悲劇』をやった。
これは、実にすごいもので、鳳蘭などの元宝塚の女優を見に来た大半の観客は、まったく声も出ず、休憩になるとロビーに出て、一斉におしゃべりをするという公演だった。
なにしろ、赤褌姿の小田豊などが、ちあきなおみの歌『さだめ川』で踊り狂うといった表現だったのだから。
民藝の公演を新宿のサザンシアターに見に行くが、寒くて参る。
話は、作者のナガイヒデミの故郷の瀬戸内地方の美容院・ノアで起きるドラマで、悪くはないが、なんともぬるい作品だった。
美容師は、昔から女性の仕事としてあったので、劇や映画になっており、渋谷実の映画『もず』でも、主人公の有馬稲子は、地方から出てきて東京で働く美容師だった。
この劇では、主人公は日色ともえで、そこは近所の高齢者たちの居場所、息抜きの場となっている。
そこが、高速道路の建設予定地になり、息子で地方銀行の支店長は、自分の預金獲得のために早く売って預金してくれと懇願してくる。
孫で大学生の娘は、美容師たちの話を聞き、生活史・民俗史として卒論としようとヒアリングする。
この辺は、面白いが、どこにもドラマがない。
二幕目は、村の生まれで、海外に行っている報道写真家の西川明が現れて、紛争地域での取材について会話するが、これは一幕と無関係で困る。
いずれにしても、ドラマが存在しない「ぬるい劇」だった。
以前の、新国立劇場の『パーマ屋スミレ』は、すぐれた劇だったことと対照的だったというべきだろうか。
紀伊国屋サザンシアター
去年、私が出した本『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスティバル』で、早稲田大学の劇団演劇研究会に入っての最大の事件は、林裕通さんに会ったことだと書いた。
この林さんは、ある意味で不思議な人で、世界最長の中里介山の小説『大菩薩峠』を読み通したという人なのだ。
たぶん、近所にあった貸本屋で借りて読んだのだろうと思う。
感想を聞くと、
「最後は、同じことの繰り返しだった」とのことだ。
まあ、奇特な人には違いない。
なにしろ、二浪して8年生だったので、私が会った1966年には、28歳だったのだ。
「大学にはいろんな人がいるなあ」と思ったものだ。