goo blog サービス終了のお知らせ 

指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「出世と恋愛」

2023年08月20日 | 

一昨日の斎藤美奈子さんによれば、「出世と恋愛」は、近代の所産、個人の営為なのだそうだ。

たしかに、日本でも近代以前の封建社会では、身分は一応固定されていたので、その身分の中での上昇はあっても、身分を越えての上昇はないのが建前だった。

また、結婚も男女の恋愛の結果ではなく、ある程度の階層では、結婚は家と家の間で行われるもので、さらには、一生の内、男女が必ず結婚するようになったのは、江戸時代後期のことだったそうだ。

これも、やはり農民にとって不可欠の土地、田んぼや畑を次男、三男に持たせることはできなかったからだと言われている。

そして、明治維新となり、身分解放となり、近代社会は、一応個人は自由に生きられるとされたので、職業の選択も自由になり、成功も失敗も個々人の責任とされるようになった。

ここにきて、出世と恋愛は、その可能性が起きる場をえたという具合なのだ。

これは、勿論基本的にであり、どの時代でも例外はいくらでもあるのだが。]

                                 


『出世と恋愛 近代文学に見む男と女』 斎藤美奈子

2023年08月19日 | 

斎藤美奈子さんとは、昔ある雑誌で同じ書き手だった。『HOLIC』という雑誌で、かなり過激な内容を狙っていたが、1年間は持たなかったと思う。

中で、斎藤さんは、一番光る書き手だったが、その後有名になったのは、さすがと思った。

                 

ここでは、明治以降の近代文学の中での主人公たる男たちが、さんざ批判されている。

最初は、夏目漱石の『三四郎』で、地方から出てきて帝大にい三四郎は、女の心が分からない男とされている。森鴎外の『青年』も同様で、野暮天とされる。

大正時代の武者小路実篤の『友情』に至っては、ほとんどストーカーとされる。

また、ベストセラーの『金色夜叉』と『野菊の墓』については、熱海と伊香保に、それぞれの有名場面の銅像が立っていることも紹介された。熱海の銅像は見たこともあるが、伊香保に、民子と政夫の銅像があることは初めて知った。

ここで、斎藤が一番評価しているのは、細井和貴造の『地獄』と『工場』で、プロレタリア小説の細井は、実際に工場労働を経験している中で、男女の心情を理解していると評価されている。

最後に、なぜこのように恋愛小説が上手くできていないかの原因だが、

1 主人公が、地方出のエリートで、他人の言葉を聞く習慣がないこと。

2 男女別学がホモソーシアルな環境を作っていること。

3 多様な人間関係を知らないこと。

としており、今回の講義で聞いた独自の見解として『三四郎』は、『野菊の墓』の後日譚であるとのことだ。

私は、伊藤佐千男の『野菊の墓』は読んでいないが、木下恵介の映画『野菊の墓』では、有田紀子と田中慎二のコンビで、大人になってからの笠智衆が、民子の墓を詣でるシーンがラストだと記憶している。

これは、政夫の懺悔ののようにも感じられて良かった記憶がある。

ただ、今回の講座で『出世』については、ほとんど触れられていなかったのは残念なことだつた。


イシャウッドの著作が翻訳されたそうだ

2023年06月18日 | 

キャスリーンとフランク―父と母の話―

クリストファー・イシャウッド/著 、横山貞子/訳

5,390円(税込)

イギリスの小説家、クリストファー・イシャウッドの小説が翻訳されたそうだ。

イシャウッドって誰と思うかもしれないが、映画、ミュージカルの『キャバレー』の原作を書いた人なのだ。この人の小説は、最初は『嵐の中の青春』として、芝居と映画になり、さらにミュージカルになり、映画にもなっている。ライザ・ミネリの主演作である。

これについては、傑作な話があり、、彼女のポスターが映画館の近くに貼ってあり、

「このキャバレーには、外人の女の子をいれたのか」とおじさんたちに言われたとのことだ。

 


塩沢化は、成功していたことになる

2023年02月02日 | 

『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』を知人等に献本して言われるのは、

「指田さんが、こんなことやっているなんて知らなかったよ」である。

特に上司がそうで、私が役所での仕事の他に、密かに『ミュージック・マガジン』等で原稿を書いていたことは知られていなかったのだ。

              

これは、私の「塩沢化計画」で、映画『ある殺し屋』で、主演の市川雷蔵が、1作目では、小料理屋の主人、2作目では日本舞踊の師匠だが、実はすごい殺し屋、という二重性を目指した結果なのだ。

1作目では、雷蔵は塩沢で、2作目の『ある殺し屋の鍵』では、新田なのだ。

どちらも、監督は大贔屓の森一生で、撮影は宮川一夫、音楽も鏑木創と同じスタッフの仕事なのだ。

この秀作が、たった2本で終わったのは、大映京都に、市川雷蔵の現代劇をよく思わない幹部がいた性だとのことで、実に分かっていない馬鹿がいたものである。

だが、この2本の市井の普通の職の人間が、実はすごい殺し屋、というのは、テレビ朝日、松竹京都で延々と作られた「必殺シリーズ」の元なのである。

大衆文化というものは、そうして継承されるものなのである。

 


東京新聞で紹介されました

2023年01月31日 | 

土曜日の東京新聞の書評欄で、紹介されました。

                   

                  

 1991~1996年に横浜で毎年開催された国際的音楽イベント「ウォーマッド」。アフリカ、アジア、欧米の音楽家が多数来日し、日本からは坂本竜一、都はるみらが出た。横浜市の元職員で、企画にあたった著者が自分史を交えてつづる。幅広い出演者が複数の舞台で並行して演奏するウォーマッドの精神は、現在の野外音楽フェスにつながると指摘。関係者の寄稿なども含め、貴重な記録だ。

(Pヴァイン発行、日販アイ・ビー・エス発売 2200円)

                     


『美と恋の位相』をいただく

2023年01月30日 | 

一昨日、シアターχで、志賀さんにお会いしたとき、『美と恋の位相・93』をいただいた。

                

写真が多く、かなり豪華な雑誌で、季刊とのこと。

美術大学の若い女性などに人気で、この号には志賀さんは、3本書かれている。

こういう雑誌もあるのか、と思う。


これです 『ウォーマッド横浜 歴史に消えた日本のビッグフェステイバル』

2022年12月03日 | 

12月21日に、Pヴァイン社から出ます。

                                                       

1991年夏に横浜で始まったウォーマッド横浜、同時に富山県南砺市で始まった『スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド』

前者は、1996年で終わったが、後者は今も行われている。

そして、1997年から「フジロック・フェステイバル」が始まるのだ。

この本は、ウォーマッド横浜を企画して、実行へと導いた私の本である。

多数の写真の他、ピーター・バラカンさんや松村洋氏らの寄稿もいただき、日本におけるフェステイバルの意義、経過等もきちんと記述しています。

また、こうしたフェステイバルが、1950年代以降の世界的なサブ・カルチャーの興隆の中で起きたことも書いています。

音楽のみならず、映画、演劇等の状況にも触れています。

ぜひ、お読みください。


『松本清張 映像の世界』 林悦子

2021年10月17日 | 

「霧にかけた夢」とサブタイトルされた本で、林悦子は、1975年3月に松本清張が、霧プロダクションを作った時に、唯一の職員として雇用された。

                   

霧プロは、松本清張の小説『黒地の絵』を映画化することを目的に設立されたのだが、これが実に問題の小説だった。1950年7月に、朝鮮半島に送られる黒人兵が北九州市で反乱を起こした事件を基にしている。黒人兵に乱暴された女性が、朝鮮から送られてきた兵士の死体に、その本人を発見するという話である。

そして、松竹の監督のみならず、東宝の森谷司郎らも映画化を企画し、海外で撮影することなども考慮したが、結局できず、その間に野村芳太郎は、他の作品に行ってしまい、終には松本も1992年に倒れて7月に死んでしまう。

私は、この話は映画化されなくて良かったと思っている。もし、米国で公開されたら、人種差別だと批難されたにちがいない。

そもそも、黒人兵たちが、祇園太鼓の音に鼓舞され、本能を呼び覚まされて反乱を起こすと言うのが、間違いの始まりなのだ。

小倉祇園太鼓というのは、富島松五郎が「勇みコマ」などと言って勇壮に叩くものではなく、「カエル打ち」でずっと静かにやっていくものなのだ。

あの映画『無法松の一生』の祇園太鼓は、岩下俊作のアイディアにもとずき、監督の稲垣浩が音楽担当と工夫して作ったものなのである。

さらに、「アフリカの音楽イコール太鼓」という図式が、間違いである。アフリカ内陸の小国のブルンディのドラムが有名で、日本にも何度も来ているが、ああいう勇壮なのは例外である。

もちろん、アフリカ各地に太鼓はあるが、主に伝達用に使用されるもので、トーキングドラムのようにメッセージを伝えるもので、本能を呼び覚ますと言ったものではない。

この辺のアフリカ音楽についての無知は、松本清張らの当時の日本人には仕方ない点もあるが、ひどいと言うしかない。

 

 


立花隆、死去

2021年06月24日 | 

立花隆が亡くなった、80歳だったそうだ。

もっと上だと思っていたが、私とは7歳違いなのかと思う。

彼の本はよく読んでいたが、一番感動したのは、『宇宙からの帰還』で、宇宙飛行士の何人かが神を見てしまうのが驚く。

彼の著作では、なんと言っても田中角栄のものだが、違和感を感じたこともある。

 

                      

それは、田中真紀子についてで、彼女は、角栄が倒れて入院したとき、早坂茂三らの側近が見舞客に高級寿司を取り、その付けが一月200万にもなった。

そこで、真紀子は、側近を首にしたというのだ。

ここには、田中角栄と田中真紀子の考えの差が象徴されていたと思う。

角栄は、自分のところに来る者に最大限のおもてなしをした。それが農村の仕来りだったからだ。

だが、真紀子は、早稲田大学にいた後、アメリカに留学して近代的人物になった。

この辺は、小泉純一郎も同じで、彼もイギリスに留学している。

私は、田中角栄は、アジア的指導者、政治家だったと思う。

田中の言葉で、敵にどう対処するかで、敵と自分の間の連中をまず、中立にする。

そして、次第に中立派を自分の陣営に引き込んでゆく。

これは、中国の毛沢東の「中間地帯理論」と同じである。

毛沢東は、アメリカ帝国主義と中国の間のアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国を自分の側に引き込み、次第に自国陣営に入れると言うものだ。

これは、農村という広がりの中にこそ成立する思考方法で、毛沢東も田中角栄も同類だと思う。

様々な人が雑居している都市では、成立しないと思うのだ。

「知の巨人」の冥福を祈りたい。


『映画監督・小林正樹』

2020年07月29日 | 
以前、読んだが、図書館で借りて読んだので、じっくりと読めず、今回買ってゆっくりと読む。
小林は、私にとっては新藤兼人と並び非常に苦手で、そのまじめすぎるところが、見ていて辛いのだ。
ただ、今回じっくりと読んで再認識したのは、小林は戦争にずっとこだわってきたなということだ。
小林と言えば、『人間の条件・三部作』だが、その他にも劇映画として、広田弘毅首相を主人公に『東京裁判』を作る企画があり、八住利雄の脚本も作られていたのだそうだ。これは、予算面で駄目になるが、後にこれは記録映画『東京裁判』になる。
また、日活が山本薩夫監督で作った、五味川順平の『戦争と人間』も、テレビで作る企画もあったとのことだ。
それほどまでに小林が、太平洋戦争にこだわったのは、自分の体験から来ているのは、間違いない。
彼は、実際に大きな戦闘にには遭遇しなかったが、徴兵されて最初は満州のソ連との国境地帯、さらに末期は宮古島という戦場にいて戦争と軍隊を体験している。
その意味では、作家の大岡昇平とよく似ていると思う。大岡は、戦争末期に徴兵され、フィリピンに送られ悲惨な戦争を体験し、それを『俘虜記』と『野火』という名作を書いている。
彼は、そのことについて、無謀な戦争に追い込んだ軍部と政治家を呪ったが、それに対してなにもしなかった自分を自覚したと書いていたはずだ。
小林も、小樽の比較的裕福な家で育って、早稲田で東洋美術を学ぶというインテリ世界にいて、戦争に向かう日本社会に何かをすることはなかった。
彼がいた松竹は、不思議な映画会社で、戦争に積極的でなかったため、小津安二郎、木下恵介、佐野周二、小林正樹など、軒並み徴兵されている。
対して東宝の黒澤明は、一切徴兵されていないのは、東宝が一種の「軍需企業」だったからだ。

また、この本で初めて知ったが、映画『人間の条件』の最後は、松山善三が書いた初校は、現在のものとは大きく異なったいたとのこと。
そこでは、最初に出てきた朝鮮人の娼婦有馬稲子が現れて、仲代達矢をはじめ日本人を強く糾弾するものだったそうだ。

                    

現在の、ヘイト状況から見れば信じがたいが、松山善三のような穏健なヒューマニストでも、戦前、戦中の日本のアジアへの罪を感じていたことである。
映画『東京裁判』が公開された時、小林は、戦時中は軍の将校だった人たちから、「こういう経過で戦争に従事したとは初めて知りました」との感想をもらったそうだ。
あの作品は、それだけでも意味があったというべきだろう。






『女帝・小池百合子』

2020年06月26日 | 
小池百合子は、昔からインチキくさい女と思っていたが、その通りであった。
だが、この女帝という題名は間違いで、女優とすべきだと思った。
彼女の公約、政策がその場、その場で変わっているのは知っていた。
ただ、それを簡単に、しかも変えても平気なのは、小池が政治家ではなく、女優だからだ。

戦後の昭和21年、日本共産党の野坂参三が中国から戻ってきて、日比谷公園であいさつした。
その時、歓迎の辞を読んだのは、東宝の藤田進だった。
それは、「日本の時代は変わった」ことを知らせる宮島義勇の考えだった。
戦時中は、軍人役者だった藤田が、共産党ということなのだ
普通の人間なら、軍人から共産党へと簡単には変えられない。
だが、役者というのは、そうしたことを簡単にできるもので、それは小池百合子も同じだと思う。
昨日は、善玉、今日は悪役という風に役を演じられなければ役者は失格だからだ。

この本で、一番驚いたのは、1994年3月の当時の細川首相が、「国民福祉税」の問題で退陣したとき、小池は、細川に代わって自分が日本新党の代表になると騒いだとのことだ。これは、どう考えても分を知らない言動で、本当に信じがたいことで、頭を疑う。

3年前の希望の党の大騒ぎと、前原など民進党の連中をだました件等などほとんど忘れていたが、本当の嘘つきだったことを思い出した。


ただ、この本で一つだけ、小池がすごいと思ったのは、彼女がエジプト唐日本に戻ってきて最初にテレビにレギューラーとして出た「竹村健一のルックルックこんいちは」でのことだ。
ここで、彼女は、番組に出てきた全部の人たちに、いちいち礼状を書いたというのだ。
さらに驚くのは、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」の最中に、アメリカABCのピーター・ジェニグングスに会いに行ったということだ。
本当によくやるよと思う。
4年前の東京都知事選の際の、小池百合子の7つの公約を憶えているだろうか。
7つのゼロだが、一つも実現していない。普通の政治家なら、この状態では、到底選挙に出られないが、彼女は平気で出る。
強心臓というほかはないが、果たして都民の選択はどうなのだろうか。

『無名鬼の妻』 山口弘子(作品社)

2019年12月22日 | 
先日、中曽根から村上一郎を探していて、彼の妻の伝記が出ていることを知り読んでみる。
そして、彼の話を聞いたことがあることを思いだした。
前に、早稲田で彼の講演を聞いたことがあることを書いたが、その後だと思うが、俳優座劇場で彼の話を聞いている。
それは、三好十郎の劇『その人を知らず』の公演の後に、三好十郎の研究家の川村さんの後に、村上が話したと思う。
かなり大感激した口ぶりで、「そこで見ていて泣いた・・・」というようなことを言っていた。
三好十郎の戯曲は、戦時中に天皇信仰に対してキリスト者として抗して弾圧された人たちを描いたもので、日本では極めて珍しい人たちだったのだ。
日本共産党員をはじめ、多くの左翼が転向し、戦争協力をしていった中で、キリスト教のホーリネス派の人だけがこのように行動したので、三好は驚きをもって彼らを描いている。
そして、この本で知ったのは、村上一郎の父親は、このホーリネス派の牧師だったとのことだ。

               


村上の妻となる、えみ子は、戦争末期、東京海軍監督官事務所で知り合う。
そこは、海軍への武器をはじめ多くの物資等を配布する事務所で、東京商科大学(一橋大学)の村上と、女子学院出のえみ子は、東監で知り合うことになる。
共に、徴兵逃れ的な意味もあったが、それについて村上一郎は戦後、自分の責任として悩むことになる。
戦時下の恋は、非常に美しいが、それは妻えみ子にとって、戦後のつらい日々の始まりでもあった。

戦後、村上は多くの出版社に勤めるが、長くは続かない。それは村上の直情径行的な性格だが、それは次第に精神的な疾患になっていく。
日本共産党員にもなるが、それは長く続かず、1960年後は、吉本隆明らに近い文化人として活動し、多摩美大での職も得る。
だが、学園紛争で彼の血が騒ぎ、問題を起こして止める。
当時、桑沢デザイン研究所でも教えていたそうだが、当時教わった女性に聞くと相当におかしなものだったらしい。授業中に、いきなり謡をうたい、舞い出したりして、生徒はみなびっくりしたとのこと。
私が、早稲田で彼の講演を聞いたのは、そのころだが、当時もひどい精神状態だったことは初めて知って非常に驚いた。
そして、三島由紀夫の激賞から、彼の自殺事件で、村上一郎は一躍有名文化人になり、それが彼の病をさらに嵩じさせる。
そして、頸動脈を自ら切っての自死。
まことに誠実というか、悲しいことだった。

その後、えみ子は再婚するが、それは必ずしも幸福なものではなかったようだ。
それは、えみ子の村上への愛の大きさを現していると思う。


『日本映画講義・戦争・パニック映画編』 町山智弘・春日太一(河出新書)

2019年11月21日 | 
この二日間、寒くて外に出るのが嫌だったので、買ってあった本を読む。
映画漫談としては、非常に面白い。
取り上げられるのは、『人間の条件』『兵隊やくざ』『日本の一番長い日』『沖縄決戦』『日本沈没』『新幹線大爆破』、そして三船敏郎について描いたドキュメンタリーの『MIFUNE』
いろいろと知らなかったこともあり、参考になるが完全な間違いもある。

              

『人間の条件』についてで、カメラの宮島義勇が中国での戦争体験があるので、北海道ロケで満州の雲とは違うといって「雲待ち」をしたというところ。
宮島は、中国はおろか従軍体験がない。一応、戦争末期に彼にも徴兵令状が来たそうだ、だが東宝の責任者の森岩雄が、
「宮島は必要な男だから」と軍と交渉してくれて、代わりに玉井正夫を出した」
『ゴジラ』の、『浮雲』の玉井正夫である。しかし、「玉井君は、体が弱いとのことで従軍しなかった。結局、私は徴兵忌避者となる」と偉そうに書いている。
第一、宮島は、満州には行けなかったと思う。
なぜなら、満州、満州映画協会には、プロキノの先輩で委員長の監督木村壮十二がいたので、木村の下の宮島が行くはずがない。
また、ロケ地についても、鉱山は北海道と書いているが、これが秋田の小坂銅山なのは有名な話。

全体として、戦後の多くの日本映画の秀作が戦争に絡んでいたのは当然で、日本人と日本が、明治以降の近代で体験した最大の事件は、太平洋戦争とその敗北だったのだからだ。
いわば、戦後日本の戦争映画は、『平家物語』のような国民的叙事詩だというのが私の考えである。

『新東宝1947-1961』 ダーティー・工藤(ワイズ出版)

2019年03月19日 | 

最近、読んだ本で一番面白かった。

                   

内容は、新東宝の監督、俳優、脚本家などへのインタビューで、『映画論叢』に掲載されたものの再録が多いが、こうして1冊になるのはうれしいことだ。

また、それ以上に素晴らしいのは、公開作品のデータである。これを見ると、結構記録映画やソ連製の作品等まで公開しているのには驚いた。この1947から1961が象徴するように、新東宝の存在は、イコール日本映画全盛時代なのである。

また、その前史として、戦後に東宝は膨大な余剰職員を抱えていたことがあった。余剰職員がいたからこそ、第二会社ができたのである。

なぜだろうか。

それは、東宝が実は戦時中は「軍需企業」であり、真珠湾攻撃へのマニュアル映画等を特撮とアニメーションで作ったいたことがある。

そのスタジオは、第二撮影所で、もちろんリーダーは円谷英二だった。この上の撮影所と言われた第二撮影所が、戦後の東宝争議の後に、新東宝撮影所になるのだ。

今は、新東宝の解散後は、その大部分は日大商学部になっていて、ほんの一部が国際放映、現在の東京メディアシティの撮影所になっている。

また、大蔵貢所有の会社として富士映画があったが、これは戦前の東京発声映画で、戦前に東宝に合併されて東宝第三撮影所になった。

新東宝末期に大蔵貢個人のものににされ、ピンク映画の撮影等に使用されたが、ボーリング場にされて、現在はオークラランドになっている。

ここには傑作な話があり、富士映画で照明を担当していた小父さんは、撮影所がボーリング場になると、そこの電気係に転職していたとのこと。いろいろなスキャンダルの多い大蔵だが、意外にも人情にあつい人だったといえるだろう。

何かというと、スタッフ、キャスト、さらに新聞記者などに現金を気軽に渡したというのは、日本の中小企業の社長の典型だと言える。

 

 

 


「週刊金曜日」の本箱に出る

2016年01月24日 | 

『小津安二郎の悔恨』が、「週刊金曜日」の本箱欄に出ていますよと、えにし書房の塚田さんが掲載紙を送ってくれる。

たった七行の紹介だが、塚田さんによれば、「大部分の本は全く紹介もされないのだから、これでも出た方がよい」とのこと。

「週刊金曜日」というと、ネットウヨには「お里が知れる」と言われそうだが、私は本多勝一も、故筑紫哲也も好きではない。

特に筑紫は、高校の先輩にもなるが、妙に若者にこびる姿勢が嫌いだった。

まあ、世の中にはいろいろな人がいるのだから、仕方ないのだが。