1幕目が終わり、休憩に入ったとき思った。
「三好十郎の劇って、こんなにつまらなかったかな」
三好十郎は、学生劇団時代、唯一我がこととして読んでいた劇作家である。
当時は、まだ自分たちで創作劇を書くという発想はなかったからで、既存の劇をやることが普通だったのだ。三好十郎の他、福田善之、宮本研、矢代静一くらいしかいなかった、自分たちでやるべき作家と言えば。
二幕目になると、台詞の入っていない俳優がいて、プロンプターの囁きが聞こえて来たのには驚くしかなかった。
ただ、この劇でも、ひとつだけ良いことがあった。
それは、三好十郎と言えども、その舞台の役者に合わせて「当て書き」をしていたことが分ったことだ。
1937年の初演は、井上演劇道場公演で、主役は井上正夫と水谷八重子。井上のトーキーの映画は『帰国(ダモイ)』しか見ていないが、悠然とした腹芸の演技だったと思う。水谷は、言うまでもなく美人の清純派女優で,、私は彼女の『金色夜叉』のお宮を明治座で見たことがある。二人が、井上は、留吉という粗暴な男を、水谷は子持ちの酌婦の香代と普通の持ち役とは逆の役柄を演じる。そうしたところが劇の前半の意外な面白さで、それが最後に元に戻って幸福な結末になる。さすが三好十郎で上手くできた、見せる芝居だった。今回の民芸公演で、そうした面白さがあったかと言えば、残念ながら皆無だった。
それは、若手の役者(飯野遠、神敏明ら)だったからで、これは俳優に合わせて劇を改作するか、ベテランの樫山文枝と伊藤孝雄あたりに配役するしかなかったと思う。
だが、水谷八重子に20代の女性は演じられても、樫山が演じることは無理である。それは、水谷八重子の演技は、女性だが新派の「女形芸」だから年齢を超越できるが、新劇の樫山は、現実の女性を演じるために年齢は隠せないからだ。
脚本を改作ことは悪いことではなく、そうしないとリメイクは失敗することがある。それは、2007年に突然リメイクされた黒澤明監督の『椿三十郎』で、なぜか黒澤作品と同じ脚本で作られた。その結果、三船敏郎を織田裕二が演じた三十郎は、貧弱なものになってしまった。結果、分ったのは、当たり前だが黒澤明と言えど、出る俳優に合わせて脚本を書いていると言うことで、これは収穫だった。
さらにおかしなことは、一幕目は九州の炭坑町の話だが、二幕目は、留吉の故郷の信州での事件で、留吉が自己の過去の行為を改心して、元の九州に戻るのだが、この信州がよく分らず、九州のすぐ近くのようにしか見えないので、二幕の始まりに、一幕で出ていない留吉の妹夫婦が出てくるので、「これはなんだ」と思うのだ。
ともかく筋の展開が分りにくいのは問題だと思う。筋なんて関係ないと言う意見もあろうが、それは違う。吉本隆明は、「劇は物語の上に成立する」と言っており、物語の展開が見えないとこに劇は成立しないのだから。
小さなことだが、劇中で酌婦が俗謡を歌う。原作では「イイトコハト」で漫才で有名だが、これが違っていた。演出の田中麻衣子は、40代らしいので、てんやわんやの唄は知らなくても仕方はない。民芸にいるはずの60代以上の人も、新劇の悪例でクラシックには強いが、ジャズをはじめ大衆芸能には疎いからなのだろうか。
紀伊國屋サザンシアター