指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『バキュームカーはえらかった』 黄金機械化部隊の戦後史 村野まさよし(文芸春秋社)

2020年03月27日 | 都市
近年、昭和30年代の日本を回顧したような『Always 三丁目の夕日』のような作品を見るとき、私は非常な違和感を感じる。
当時は、高度成長以前で貧しかったが、人間的な家庭と社会があったとするものだが、みな嘘だ。
映画は、臭いが出ないから良いが、もし臭いが出たら映画の感動は、台なしになるだろうと思うからだ。
なぜなら、東京でも、水洗トイレはほとんどなく、すべて汲み取り式だったので、町中は糞尿の臭いが充満していたからだ。
昔、京浜急行日ノ出町の駅前に本屋があり、ここは古本も並べている店だったので、時々寄ったが、店に入ると凄い臭いで、
『ここのトイレはまだ汲み取り式だな」と思ったものだ。
そのくらい汲み取り便所の臭いは強烈だったのだ。
実は、私の母親は、高等小学校出の無学な女性だったが、新しもの好きで、1960年に父が死んだとき、その退職金で古い家を建て替えてトイレを水洗式にしてしまった。勿論、下水道はきていなかったので、浄化槽で汚水を浄化し、最後は普通の下水に流す仕組みだった。

さて、江戸時代から、都市の住民が出す糞尿は「金肥」といい、農家が肥料として買っていた。
それを田んぼの近くの肥溜めに貯めてくさらせ、米麦への肥料とするきわめて循環的なリサイクル・システムだった。
だが、1945年の日本の敗戦以後、進駐してきた米占領軍は、生野菜を食べるため、汚わいを野菜に掛けるのは衛生上駄目とのことで、糞尿を肥料とすることができなくなり化学肥料が普及する。また、糞尿を樽に詰めて荷馬車等で東京から農村に運搬するのも、非常に汚いものに見えたようだ。
その証拠に、米軍人の歌と演奏で、ビクターから『ハニー・バケット・スウイング』というレコードが出されているほどである。
私は、その復刻CDを持っている。
明治以後は、大都市から出る糞尿は、自治体もしくわ民間業者が個々の家庭から、有償で引き取り、農家に融資で売るようになる。
つまり、業者は、家庭と農家と両方から金を貰うきわめて上手い汁を吸えるものでもあったようだ。
この辺の仕組みは、地域、時代によって異なるが、一部は被差別の人間によって担われていたようで、火野葦平の『糞尿譚』では、その辺が示唆されている。母の実家の横浜市鶴見区矢向には、河野さんという横浜市会議員がいたが、この人は糞尿処理業でお金持ちで「うんこやさん」と呼んでいた。

                          

そして、米占領軍は、下水道はともかく、汚わい車が都市の道路を走るのだけは見っともないと思ったのだろう、「それを運搬する車を作れ」と国に命令し、川崎市が了解して車両を作る。
これが、バキューム・カーの始まりで、その創始者は、川崎市の初代清掃課長で、後に助役となる工藤庄八氏だった。
車両から、ポンプ、ゴムホース、さらに捨て場に至るまで、工藤課長以下の担当者は、苦労してバキューム・カーを整備すると同時に、汲み取り事業を市の直営とし、家庭からは料金を徴収しないものとし、これが全国に普及してゆく。
その後の、下水道の普及で、汲み取りは減少するが、今でも各都市にバキューム・カーはあるようだ。
それは、何らかの4事情で、下水に直接つなぐことができず浄化槽を経由している施設があり、そうした場では、数年に一度は浄化槽の底にたまった汚泥を処理しなければならないからだそうだ。
文章があまり上手くなくて読みにくいが、貴重な資料だと思う。




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