猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

とても残念なスピルバーグ映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』

2021-03-20 23:50:59 | 映画のなかの思想


いまちょうど、スティーヴン・スピルバーグの映画『ペンタゴン・ペーパーズ最高機密文書(The Post)』を見終わったところである。映画は、夫が死んでワシントン・ポストの社主になったキャサリン・グラハムが、記者が入手した国防総省の最高機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を、投獄の危険を冒して、報道するという物語である。

ペンダゴン・ペーパーズには、ベトナム戦争に歴代の大統領や国防総省(ペンタゴン)が勝つと思っていないこと、それでも戦争を続けるのは、ベトナムに負けた大統領と歴史に残りたくないからなどが書かれた4000ページ以上の機密文書である。たんに政治家のメンツのために、若者がベトナム戦争に駆り出されて死んだのである。

現在も、ワシントン・ポストが健在で、この件で地方紙(local papers)から中央紙になったのだから、キャサリンの決断はみんなに支持されたわけである。ただの「普通の女」と思われていたキャサリンが、勇敢にも決断して、報道の自由を守ったという、スピルバーグ特有のハッピーエンドの映画である。

製作費が5千万ドルで、アメリカ・カナダだけで興行収入が8千万ドル以上だったから、ビジネス的には成功だが、見て、何かが足りない。

国家権力に対する報道の自由の戦いに若者が参加できていないからだ。年老いた上流社交界の女たち、老練な新聞記者や編集主幹が主な登場人物になっている。これでは、ベトナム戦争反対の若者が老人になっての同窓会のようだ。

少なくても、年老いたメリル・ストリーブやトム・ハンクスを主役、準主役に用いたのは失敗である。史実はそうであろうとも、若手の俳優を使えば、現在の若者にも見てもらえただろう。国家権力に戦う昔の若者の熱気を現在の若者に共有して欲しかった。

それに、日本語の映画名もダサい。原題の“The Post”を生かして、『ワシントン・ポスト社の勇気』でもすればよかったのではないか。

とても残念な2017年のアメリカ映画である。

「LINE個人情報保護不備」事件は日本政府の陰謀ではないか

2021-03-19 22:44:04 | 社会時評

2、3日前から、LINEが中国人技術者に個人情報のアクセスを許可している、とメディアが騒いでいる。私はなぜ、騒ぐのか、よくわからないので、ここで、少し検討してみたい。

LINEはスマホ、アイフォンの無料通信アプリを提供している会社である。無料サービスだから、会社LINEは安い労働力を使ってアプリとシステムの開発、サーバー・システムの管理・保守を行わざるをえない。したがって、会社は中国やインドに仕事をだすのは当然である。これからは、インドネシアなどにも仕事をだすだろう。

これは、LINE以外の会社でも行っていることであり、何が悪いのかわからないが私の第一印象である。無料サービスを使うなら、ユーザーはそれだけのリスクは覚悟しなければならない。私は、無料サービスをできるだけ使わないようにしている。LINEは使っていない。私は検索エンジンの無料ソフトも信用しない。

新聞を読むと、会社LINEは、

〈サービスに使う人工知能(AI)などの開発を、上海の関連会社に委託。中国人スタッフ4人がシステム開発の過程で、日本のサーバーに保管される「トーク」と呼ばれる書き込みのほか、利用者の名前、電話番号、メールアドレス、LINE IDなどにアクセスできるようにしていた。〉

〈同社は「不適切なアクセスは現状で把握していない」と説明。今年2月24日にアクセスできないよう措置を講じた〉

という。

システム開発では、機密保持契約を結び限られた技術者にデータベースのアクセスを期間限定して許可するのは、普通のことである。

また、会社LINEは

〈2020年1月から「タイムライン」などのサービスで、不適切な書き込みなどを監視する業務を日本の通信業務代行会社に委託。この業務は大連にある中国法人に再委託した。〉

これも、「タイムライン」などへの不適切な書き込みの監視が、通信の機密に違反すると思われない。書き込みが削除されたとき、ユーザーは、「表現の自由」に反すると思えば、裁判所に訴えれば良い。中国法人に運用業務の再委託することがなぜ悪いのかわからない。

これらの件は、「中国人スタッフ」や「中国法人」だけがキーワードになって、それ以外の何が不適切なのか、理解しがたい。

すると、菅政権が接待問題や新型コロナ無策などで世論の袋叩きに会わないように、政権側が流した「はぐらかし」の弾(たま)ではないか。それとも、会社LINEが韓国資本だからか。

結果として、本件の報道は無知な国民に中国に対する警戒を煽っている。これは、「愛国心」を悪用したデマゴギーで、いけないことである。

原発炉心損傷事故の確率なんて求まらない、これからも起きるのだ

2021-03-18 22:53:56 | 原発を考える


ここしばらく朝日新聞は原発の安全管理が行き届いていたかの検証記事を続けて連載している。私はこの努力を評価する。

『炉心溶融事故件研究者』の3回目の記事に、「国際原子力機関(IAEA)は、炉心損傷事故の確率を既設炉で1万年に1回、新設炉で10万年に1回、新設炉で10年に1回を下回るべきだと目標を掲げている」とある。

他の産業とくらべ、少数の原発しか建設されていない中、炉心損傷(メルトダウン)の事故確率なんて計算できるのか、と私は思う。この数値は、単に、チェルノブイリ原発事故やスリーマイル島原発事故を受けて、既設炉で1万年に1回と言っているだけである。しかも、これらの事故は人為的ミスで起きた。

私がいた会社で液晶ディスプレイを生産していたことがある。液晶ディスプレイの画面は100万くらいのセル(画素)からできている。その1つのセルが欠陥であれば、ディスプレイは不良品である。1日に1000台出荷すると、1日に10億のセルの検査があることになる。したがって、何個、欠陥が出るかの確率を求めても意味がある。設計や生産工程の改良でどこまで不良品を減らせるか、出荷前の検査の精度と効率をどうあげるか、などの研究が具体的に行える。

ところが、原発の場合、そうはいかない。第1に炉心損傷事故が起きたら、膨大な被害をもたらす。第2にそんなに原発事故が起きない。世界の原発で、500基弱の原子炉ある。1万年に1回というと、20年に1回、どこかで事故が起きていることになる。しかし、それでも頻度が少ないから、事故を確率的に抑えるとは、どだい無理である。

国際原子力機関は原発推進の機関である。したがって、意味のない確率で安全に原発を運用できると、世界をだまかすために、数値目標を掲げただけである。そして、その推進機関でさえ、事故が起こったので、起こりうると言ったのである。重大事故がこれからも起きるという認識こそがだいじなのだ。

したがって、原発を動かさないのが一番正しい。私は再稼働に反対である。動かさないで日本の経済に何の問題も生じなかった。

それに、炉心損傷事故が起きたとき、それを的確に迅速に対処し重大事故に至らないようにする体制を確立しないで、日本政府が原発を動かすというのは、正気の沙汰でない。原発規制委員会は法規制を守っているかの書類審査を行っているだけで、法規制が技術的問題や運用の安全を保障できるはずはない。

原発で炉心損傷事故が起きたときの対処方法について、国が原発メーカー、電力会社を含めて現場で研究を行っているのか。そして、事故が起きたとき、指揮を誰がとれるのか。首相も原発メーカーの社長も電力会社の社長が指揮をとれるはずがない。彼らに知識がないからである。平時から炉心損傷事故対処のチームをつくり、そのチームの長に、首相や社長より強い権限を与えるべきである。チームの長には、NHKのドキュメンタリー番組で指摘していたように、チームメンバーに死んで来いといわなければならない局面がある。

そうできないなら、原発を再稼働してはいけない。重大事故は起きるのである。津波とか火山とか地震だけでなく、人為的ミスでも起きるのである。あるいは、原発規制委員会が指摘しているように、テロでも起きるのである。

3月14日の朝日新聞の記事『「原発事故、起こるべくして起きた」東電元エースの告白』に電力会社のお粗末な実情が報告されている。

〈東電の司令塔である企画部で順調に出世街道を歩んでいた男性は事故の3カ月後、上司から事故の調査報告書のとりまとめを命じられた。しかし、男性が報告書の原案で原因に触れようとすると、会長の勝俣恒久ら経営陣からは厳しい言葉が飛んできた。
 「事実に立脚していないことは書く必要はない」
 「なんでお前が勝手に決めるんだ」
 男性は「事故は天災で防ぎようがなかったというシナリオを求めている」と感じたという。〉

これは、特に電力会社だけで起きていることではなく、日本の他の製造業でも頻繁に起き得ることである。会社のお粗末さを外に漏らすなということである。ただ、それによっておきる被害の規模は、原発事故に比べてはるかに小さい。

日本の裁判所が勝俣を有罪にして刑務所に送らなかったのは、とても残念である。きのう、伊方原発の再稼働差し止めも広島高裁でひっくり返った。司法も政府や民間企業の経営陣と同じく頭がいかれているのではないか。

多様性と価値の多元性、言い争って、やってみて、改める

2021-03-17 22:58:44 | 思想


田中拓道は『リベラルとは何か』(中公新書)の中でつぎのように指摘する。

〈1970年代に登場した新自由主義(ネオ・リベラリズム)は、古典的な自由主義とは異なる論拠に支えられていた。それは経済的な自由だけでなく、「価値の多元性」という新たな哲学に支えられたものだった。〉

この多元性は“pluralism”の訳で、多様性は“diversity”の訳である。

今年、私のNPOの研修で、経験豊かなスタッフからつぎのような発言があった。

〈生き苦しさを抱える子供の指導にあたって、いろいろな考え方のスタッフがあっていいのだと思います。〉

驚いたことに、この発言を「子供は色々な考えの大人と接して強くならなければいけない」と理解したスタッフが少なからずいた。そうではない。発言者は、「子供の指導にあたって何が最善かわからない」という難しさを述べているのである。

子どもの抱えている問題も多様であるし、子どもの性格も多様、子どもを囲む環境も多様である。事前にそれらが分析でき、1つの指導方法だけが正しいとわかるわけではない。現実的には、その子に色々なタイプのスタッフをあてて、より良い結果を生み出すスタッフを探し出すことになる。結果が悪ければ担当スタッフを変え、結果が良ければそのまま担当を続けてもらう。

「価値の多元性」は、より良い社会を築くに、良い社会とは何か、また、効率的なその手段は何か、わからないということをついている。すなわち、多数派の中で、少数派が自己主張するために、理性が「良い社会」「良い手段」の問題に答えきれないことを利用しているだけで、自分の唱える価値が一番正しいと各自思っているわけだ。

「多様性」は現実に起きる傾向のことで、価値とは無関係である。遺伝子の本体である塩基配列は常に変異を起こし、多様化が起きる。(進歩とかいう考えは多数派が自己正当化の嘘である。)

何が良いかわからないと言って、すべてが良いで済ますのはおかしい、と思う。「価値の多元性」は単なる政治的デマゴギーだと思う。何が良いかの言い争いが起きるのが正しいありかただと思う。そして、やってみてだめだったら、考えを改めることがないといけない。

知的でもなく楽しくもない「会食」には絶対に出たくない

2021-03-16 22:16:45 | 社会時評


きょうの朝日新聞《耕論》で、3人の論者が「会食」について論じていた。

会食はもともと共同体社会の内か外かを表わす儀式であった。それが、いつしか、徒党を組むために会食をもつようになった。仲間か敵か窺い知るために、誰が親分で誰が子分かを示すために、共同体社会の会食のように、集まって同じものを食べるようになった。そして、ヤクザの「一宿一飯の恩義」という言葉まで生まれた。「接待」も人によっては「会食」に分類する。

政治ジャーナリスト田崎史郎は、政治家が会食をもつことを当然のように肯定する。それは、政治を「権力闘争」と理解するからである。彼にとって、政治は「階級闘争」ではなく、個人がトップに立つための闘争であるからである。すなわち、デモクラシーというものを否定している。

元衆院議員の井戸まさえは、「会食」を嫌悪しながら、政治家の会食を全否定できないという。会食は共犯関係を作る隠微なものをとしてとらえる。

ホタテ漁師の高森優は「会食」を否定する。共同体社会の内か外かを表わす儀式は、集団のなかでの上下関係を維持するために、村だけでなく、日本社会に広くいきわたっているという。

私は、食事を楽しむために、ただそれだけのために、家族や友人や見知らぬ人たちが集まって食事をしたって良いと思う。

しかし、政治家の会食には反対である。政治には合理的思考が求められる。集まりのなかで知的な会話が戦わされるべきである。食事をしながら、知的な会話ができると思えない。水か、お茶か、コーヒーで我慢すべきである。

また、共同体というものは、本来、財産の共有と対等な人間関係の社会を意味するのであるが、排除をちらつかせて、思想の均一性を押しつけたりするなら、そういう共同体は要らないと思う。

もっとも、私は好き嫌いが激しいから、同じもの食うということ自体ができない。おまけに、私は、お酒を飲むことはお金の浪費と思うようになったし、人のバカ話を聞きたくないから、知的でもなく楽しくもない「会食」には絶対に出たくない。

[補足]
新約聖書においては、会食や共同体について、面白い話が多い。特に、パウロが出てくる『使徒行伝(Πράξεις τῶν Ἀποστόλων)』に多い。すでに、この時代に「会食」や「共同体」がウソっぽいものになっていたことがわかる。