伊藤正敏は、『アジールと国家─中世日本の政治と宗教』(筑摩選書)で、日本中世史の研究者が非科学的なものを軽視する、と批判する。
彼は、「古代国家」は「律令と仏教」の2つの輸入文化によって、日本社会を統合しようとしたという。そして、「中世には 律令は漸次すたれ 仏教は隆盛を極めた」にもかかわらず、戦後の中世史の研究者が「仏語の基礎知識を学ぶことを怠り」、「寺社への言及が少なり、期せずして儒者の歪曲を追認する」結果になっている、と批判する。
伊藤の「末法思想」の紹介は面白い。法然・栄西・親鸞・日蓮など鎌倉仏教の開祖に強い影響を与えた偽書『末法燈明記』の論旨をつぎのようにまとめている。
☆ ☆ ☆
1. 仏滅の後、正法・像法・末法という段階で仏法が滅びていく。
2. したがって、僧侶が従うべき戒律が無意味なものになる。「無戒」の時代には「破戒」という概念も意味を失う。だから戒律にもとづいて破戒僧を取り締まる制度は直ちに廃止すべきである。
3. 無戒僧(無戒の比丘)は「世の神宝」として無条件に尊重されなければならない。それ以外に幸福が育つことはない。末法の世に持戒の僧が現実に存在するというのが本当なら、それは怪異である。市中に虎がいるのと同じぐらいおかしなことである。
4. だから破戒僧・無戒僧を登用すべきである。
☆ ☆ ☆
伊藤は、佐藤弘夫の『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世』(講談社選書メチエ)を参考に、伊藤自身の解釈を加えたという。
これは、佐藤の『偽書の精神史』を読んだときの私の印象と大きく異なる、伊藤のまとめである。
佐藤の主張は、中世の人々は、末法思想のなかで、「偽書」を悪いことと思っていなかった、「偽書」を通じて自分の思想を、人々を救うために、述べるようになった、であると思っていた。どこが伊藤の解釈かをチェックするため、『偽書の精神史』を図書館に予約した。
伊藤の『アジールと国家』の指摘、「学侶」と「行人・聖」との対立は、私が気づいていなかったものだ。私は、鎌倉仏教の影響の強い田舎町で育った。多くの人は「真宗」か「日蓮宗」か「浄土宗」か「禅宗」か「真言宗」で、「大乗仏教」とは人々を救済するものだ、と思いこんでいた。もしかすると、私が「大乗仏教」と思いこんでいるものは、じつは、「行人・聖」の思想かもしれない。
『末法燈明記』は、天台宗の開祖、最澄の名をかたって書かれた偽書とされている。
「学侶」とは、仏典を学び戒律を守る僧侶のことであり、「行人」とは寺社の雑務をする人々である。「行」は「修行」や「行者」の「行」である。
ちなみに、私の母の祖父は、「呪われている」との恐怖から、母の父をつれて、行者として全国の山々を回っていた。母の祖父は、まだ、「神仏習合」や「呪詛」の「中世」に生きていた。母の父は、当然、小学校に通っていず、行者仲間から、学んでいる。
伊藤によれば、「学侶」は上層の公家、武家の出、あるいは、富農の出であって、黒田俊雄の「権門体制論」の「公家」「武家」とつるんで民衆を支配したという「寺社勢力」は「学侶」であるという。確かに、「寺社勢力」を1つのものと考えるのではなく、「学侶」と「行人・聖」の対立があったとすると、鎌倉仏教の理解に役立つ。ただ、「救済」という概念が、伊藤の本にでてこないのは、片手落ちである。
それにしても、「宗教的部分」をバッサリ切りすてて、「物質的側面」からの「寺社勢力」の伊藤の分析は刺激的である。
[補遺]
いまだに、なぜ、伊藤が、「アジール」という概念で、中世の「寺社勢力」を分析しようとするのか、理解できない。グローバル化の時代であるから、海外の文化に影響されるのは、悪いことと思わない。しかし、海外の文化ということは、いってみれば、他人の思い込みに過ぎず、自分の考えを客観化するに有用であるが、どちらが特定の問題の分析に有用であるか、わからない。
伊藤正敏の著には「魔術」という言葉が出てくるが、仏教(仏法)の立場からすると、「呪詛」であり、親鸞自体は「呪詛」に否定的であった、と、小山聡子が『浄土真宗とは何か 親鸞の教えとその系譜』(中公新書)で書く。