猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

言葉を理解できることと言葉を話せること、脳とコンピューター

2020-06-25 22:53:17 | 脳とニューロンとコンピュータ

私の下の息子はひきこもっている。自分がうまく話せないから、みんなにいじめられるのだと思いこんでいる。

NPOでいろいろな子どもたちを見ると、発話できない子と発話できる子とがいる。発話できるように指導するのにずいぶん苦労した。

それで、どうしても、言葉とは何か、どうして話せたり話せなかったりするのか、と思ってしまう。このことについて、長く考えてきたが、いまだに、わからない。

私自身も、年老いてきたから、気づいた手がかりも、私の記憶力とともに失ってしまうだろう。まとまりがないが、言葉についての考察を少しずつ、書き留めておきたい。
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まず。言葉をはなすということと、コミュニケーションとを区別しないといけない。

アメリカの精神医学会の最新の診断マニュアルDSM-5は、コミュニケーション障害群で、言葉を話せることと、コミュニケーションができることを区別している。そうしないと、唖(おし)だとコミュニケーションができないことになる。じっさいには、手話や身ぶりや手書き文字で十分なコミュニケーションができる。

10年近く前に、沖縄で、障害者教育を行っている夫婦と会って、色々な話を聞いたが、彼女は耳が聞こえず、私との意思疎通は手書き文字を通じてだった。彼女は,漫画に自分の気持を描いて、社会に聴覚障害者への理解を訴えているという。

私の義兄は、咽頭がんで声帯をとった。胸にホワイトボードをぶら下げ、身ぶりで意思疎通できないときには、ホワイトボードに字を書いて、私とコミュニケーションをとった。

私の担当したダウン症の男の子も、発声するのに気管に障害があり、話しているのだが、何を言っているのか、私にはわからない。しかし、身ぶりで、それを補っていた。
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診断マニュアルDSM-5は、言葉が話せないことと、自閉スペクトラム症とを分けている。言葉が話せないからといって、自閉スペクトラム症ではないのだ。

しかし、今の社会は、コミュニケーションができるのに、言葉が話せないと差別する。
また、コミュニケーションが十分にとれないと、虐待をうける。

私が、発話にこだわるのは、虐待を受けたときに、親や善意の第三者に訴えることができるためだ。言葉が話せないと思われると平気で虐待する人がいる。そうでなくても、言葉で嫌なことは嫌だと言えれば、虐待のリスクは減る。

私の下の息子の「うまく話せない」というのは、コミュニケーションの問題である。これは、自分が理解してもらえない、自分の主張(assertion)を聞いてもらえないということである。したがって、これは mental disorder(精神疾患)というより、social skill(社会スキル)が身についていないという問題である。

NPOで子どもたちに接していると、自分が理解してもらえない、自分の主張を聞いてもらえないというのは、意外に多い悩みである。そして、いじめにあったり、自分の欲しくないモノを買わされたり、先生に誤解されたりする。 
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発話ができないのは、言葉が本当にでてこない場合と、心理的な抑圧で言葉が出てこない場合とがある。後者は、診断マニュアルDSM-5では、不安症群の選択性緘黙(Selective Mutism)に分類される。後者は、「選択性」で判断する。例えば、母親とはコミュニケーションができるが、学校では一言も話せないということが起きる。

言葉が本当にでてこないのは、私のような老人によくあることである。

先日、妻が私の朝食を用意してくれ、突如、「あれがある? あれがないね、あれが!」と言い出した。「あれ」は、食べるに使う「はし」のことである。そのとき、妻は「はし」という言葉を最後まで思い出せなかった。

これ自体は老人としては珍しいことではない。しかし、そのとき、私が気づいたことは、妻が、「はし」という言葉を忘れたが、私の食卓を見て欠けているモノに気づいたのである。すなわち、「あれ」がないと食事ができないと思ったのである。十分、知的な脳の働きである。発話しようとしたとき、言葉を見いだせなかっただけである。
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発話ができないのに、発話したい内容が脳で構成できるか否かの区別がある。

つぎに、脳で話したいことを構成できても、単語と単語とを組み合わせることができないと、話したことにならない。コミュニケーションとはならない。私の妻の場合は、「はし」が言えなかっただけだ。意思疎通はできた。

5、6年も前のことだが、平仮名や漢字が書けて、「助詞」の使い方のドリルの問題をもくもくとする子が、指導の時間が終わると、とつぜん、お母さんに向かって「ニラニラ」と叫んだ。何のことかわからずに、非常に面くらった。一語だと何を言いたいのか、理解できない。助詞がなくても、いくつかの単語が頭の中に駆け巡ってこそ、言いたいことを理解できるのだ。例えば、「ニラ 好き」か「ニラ きらい」か「ニラ 食べたい」か「ニラ 買いたい」がわかる。

わかったことは、「助詞」の使い方のもくもくとドリルをこなすことと、発話ができることと異なるのだ。ドリルをこなすことをやめ、自分に起きたことを作文として書かすこと、また、対話を試みることで、苦労したが発話できるようになった。「かぜひいた」と私に文の形で言ってくれたとき、とても、うれしかった。
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言葉を理解する、言葉を話すということは、とても脳に負担をかけるように、思える。

いまは、言葉の出てこない子どもに対して、語彙をやたらと増やすことより、言葉を組み合わせて話す訓練に重点を置くようにしている。たとえば、中学英語は700語でできている。じっさいには、300語でも、組み合わせれば意志疎通ができる。日本語でも、同じだ。

言葉を自由に使いこなせない子は、見ていると、暗示にかかりやすい。なにかを指示をすると、それが頭のなかでぐるぐると回っているように見える。何か尋ねると、私を喜ばせようとして、意味もわからず、肯定してしまう。雨が降っているのに、「きょうは晴れだね」と言うと「晴れだね」と返ってくる。言葉を理解するのに苦労しているのだ。

私の母はある時から、ニコニコして隅に引っ込んでしまうようになった。母が死んでから、最近になってだが、私はそれが理解できるようになった。声が聞こえるが理解できないという症状が私にも起きるようになったからだ。

NPOで子どもの指導をしているとき、それが起きると、私はニコニコしてごまかすしかない。母も言葉の聞き取りが難しくなり、ニコニコするしかなかったのだろう。プライドの高い母だったから、それが大変苦しかっただろう。
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では、人間は、どうやって言葉を理解しているのだろうか。コンピューターと脳と比較すると、大きな謎がうまれる。

コンピューターにとって、言葉は記号列である。具体的には、言葉はビット列であり、普段は記憶装置にしまわれており、必要に応じて記憶装置から取り出されて、処理機構に送られ、処理が済むと、記憶装置に送られ、しまわれる。

脳のなかにはビット列なるものは存在しない。音素とか音節とか単語とか文法とかは、人類が文字をもってからできた人為的概念であって、人間の脳のなかにはそんなものはない。

脳のなかで起きているのは、刺激を受けて神経細胞が興奮し、シナプスを通じて、次々と他の神経細胞を興奮させていくことだ。長期記憶は興奮の伝わっていく神経回路の書き換えとして蓄えられ、一時的記憶は、脳のなかの興奮の広がりとして、本当に一時的にしか存在しない。このように、コンピューターと異なり、脳はとても無駄の多い仕組みで、あたかも多数決かのように言葉を理解している。

したがって、人間は、言葉を理解し、話すために非常に苦労している。私も、老人になり、脳の機能が衰えると、しみじみと実感する。
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世の中には、人の言っていることを言葉どおりにしか理解できず、推察できない子どもを「発達障害」だという先生がたやカウンセラーがいるが、そんな差別発言をするよりも、相手にわかるように話す社会にすれば良い。

愛すべき子供たち、ひらがなが読み書きできない

2020-06-24 11:00:58 | 愛すべき子どもたち


私のNPOでは、毎年、その年までに二十歳になった子どもたちを集めて「成人式」を行っている。自治体から補助がでる「放デイサービス」は、養護学校高等部を含む高校までの子どもたちが対象である。それがすぎると来なくなる子が多い。うまく社会に適応できたか心配になる。それで同窓会のように、NPO独自の成人式を行っている。

今年は、NPOの組織も大きくなったので、時期をずらして教室ごとに成人式を行うことにした。ところが、まずいことに、新型コロナウイルスの流行がはじまり、2月2日の成人式ができたが、3月1日予定していた成人式は中止になった。

2月2日の成人式は、去年職場に通えなくなったという女の子が来てくれた。職場にまた通い出したとのことで、何かほっとした。バスの運転手になりたいという男の子は、無事思いがかなって、静岡のバス会社の研修所に入ることが決まった。

その後の新型コロナウイルスの流行が、せっかくの自立をくじかないように、祈っている。

以下は、昨年の成人式の思い出である。

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私の愛すべき子どもたちに、ひらがなの読み書きができない男の子がいる。この子も、ことし、成人式を迎えた。

私のNPOでも2月に成人式を行った。中身は、みんなで、ゲームをし、お菓子を食べることだ。
この子がゲームに参加できるか、心配したが、自分から参加した。それも、「わたしはだれでしょう」というゲームである。
このゲームは、自分の頭の上の三角帽子につけられた絵が、(お菓子とか動物とかテレビアニメの主人公なんだが)、何かを、言い当てるものだ。周りの子どもたちがヒントを与えるが、本人からはその絵が見えない。

私の同僚がその子にかぶせた絵は「ドラえもん」である。
この子が見るテレビ番組は歌番組だけである。ストーリーのある番組についていくのがむずかしい。
ひらがなが読めないから、漫画も見ない。

しかし、その子は「ドラえもん」を言い当てたのだ。あとで、お母さんに聞くと、やはり、テレビアニメは見ていない。どうも、最終的に「ド」のヒントで、頭の中の記憶から「ドラえもん」という言葉が引きだされたようだ。

私が指導を引きついだのは、養護学校中等部の1年の終わりだった。この子が、同僚の女性指導員の手首をつかんで離さない,という理由からだった。

指導の現場を見せていただくと、指導員がその子の手首をつかんで、無理やり、線をひかせたり、字を書かせたりしている。これをやめて、この問題はすぐ解決した。
その子に自傷行為があったが、抑圧(虐待)されているのではと思ったので、母親にその旨を告げた。それを受け、母親は養護学校側と話し合いをもった。この自傷行為も止んだ。

しかし、ひらがなが読めないだけでなく、口からでる言葉がモノの名称だけであった。人と会話ができない。手に入る教材は、ひらがなが読めることを前提としている。どうしたら、言葉が話せるようになるか、私は途方にくれた。

45分の指導と言うことで、その子を預かったが、私は45分を持たせることができなかった。母親は私に預けた間に買い物などの用事をすませるのだが、子どもを迎えにくると、ホットする私であった。

私は何をするにもその子の意思を確認した。絵を描かせたり、色々な遊具を使かったりしても、すぐ飽きる。「好きじゃない」、「やりたくない」と言う。部屋から飛び出す。トイレに行く。水を飲みに行く。ガラス窓や鏡に映った自分に口づけをする。

そのうち、いくつかのことに気づいた。

その子はハッキリと自分の意思を持っている。自我は誰にでもあるのだ。
ほかの子と隔離し個室で指導していたのだが、たまに、大部屋で指導すると、飛び出しが少ない。他人の存在が嫌ではないのだ。うまくつきあいができないだけだ。

母親はその子を「自閉症」と言うが、本当は「知的能力障害」であるだけなのだ。

あるとき、その子は私に「水を飲みたいです」と言った。チャンと文になっている。単語を教えるのではなく、文を教えるべきなのだ。文字を読めるより、会話ができることが大事なのだ。

オウム返しができる。私の言っていることが、ちゃんと聞き取れているのだ。意味が理解できていないが、短期記憶力がしっかりしている。

そのうち、NPOが新しい教室を増やすことになり、ケアプラザの大きな一室を借りることになった。これを機会に指導方針を大きく変えた。

ほかの子たちから隔離しない。遊具を使わない。教材は私が自分で作る。一緒に声出しをする。飛び出しを止めない。水やお茶を飲みたければ、座席に持ってこさせ、自由に飲ます。単語を覚えさせるのではなく、文を教える。

例えば、私が、6つの絵を提示し、「お母さんが包丁で人参を切っている。どれかな、これかな。あれかな」と言う。今では、私の問いかけに、正しく答えられる。また、大きい傘の絵と小さい傘の絵を見せ、「これはどんな傘?」と聞く。ちゃんと「大きな傘」、「小さな傘」と答えられる。

コップの洗い方や、歯の磨き方や、レジでの買い物の仕方などを、私は毎回話すようにした。焼き芋屋さんとか、弁当屋さんとか、魚屋さんなどのモノマネもした。何回も何回もするうちに、面白がって、声を合わせるようになった。

歯の磨き方では、「歯磨き粉のふたをとります、歯磨き粉を歯ブラシにつけます、歯ブラシで歯をごしごし磨きます、良く磨いたら、水で口をゆすぎます、ゆすぎ終わったら、歯ブラシを洗います、最後に歯磨き粉と歯ブラシをかたづけます」と私がいうのだ。

焼き芋屋さんでは、「やきいもー、やきいもー、ほかほかの 焼き芋、いりませんか、おじさん、焼き芋 ください。どんな 焼き芋かな、大きな 焼き芋 ください、はい、大きな焼き芋、200円ください、ありがとうございました」と私がいうのだ。

スーパーのチラシの写真から好きなものを選んで、電卓にその金額を打ち込んでもらう、これもその子が大好きな指導項目である。ほとんどの商品名を言えるようになった。
それから、私の財布のなかの硬貨を数える。硬貨の金額はいまだに覚えられない。100円玉が1円玉になったりする。

指導の最後は、きょうの天気はどうか、学校に行ったのか、学校で何をしたか、何を食べたか、家で何をするのか、を聞き取って、私が書き留めるようにした。
いまは、「学校」が「作業所」に変わっている。
使える語が着実に増えている。

とにかく、いまは、45分があっという間にすぎるようになった。飛び出さない。映った自分の顔に口づけもしない。昔のその子を知る指導員たちは「よい子になった」と言う。

もちろん、ひらがなはまだ読めない。ほとんどの仮名は識別できる。形状認識はできているのだ。しかし、人が字が読めるということは、もっともっと、むずかしい知的行為なのだ。

社会生活を一人で送るには、まだまだ指導すべきことがあるのだが、とにかく、人に愛される子に育っている。親子の間に、笑いがあるように、なっている。

カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』 ノーベル賞講演

2020-06-23 22:39:15 | こころ

ノーベル賞をもらうと、授賞式に先立って、受賞者が講演することになる。この講演のビデオや原稿は、ノーベル賞のサイトから手に入る。カズオ・イシグロの講演は、下記のサイトにある。
 https://www.nobelprize.org/prizes/literature/2017/ishiguro/lecture/

カズオ・イシグロの講演によると、1979年の秋に、彼が24歳のとき、ロンドンの160km北西の村 Buxtonに引っ越して、小部屋を借りた。それまでは、ヒッピーかのように髪の毛を肩まで伸ばし、ミュージシャンでもなろうかと思っていたという。

彼の借りた小部屋からは、遠くまで広がる農地が見えたという。30代の家主は妻に先立たれたばかりで、家主は彼と顔を合わすのも避けており、家じゅうに幽霊がいるかのような雰囲気だったという。ここでの静けさと孤独が作家になるのを助けたという。

『遠い山なみの光(A Pale View of Hills)』のエツコがイギリス人の夫に死なれ一人で暮らす家から見た景色はここをモデルとしているのかも知れない。

その冬に、突然、自分の生まれた長崎、第2次世界大戦後のまもない長崎のことを彼は書こうと思い立ったという。当時、多文化に対する理解がない時代であり、イギリス人からみて外国である長崎を書くことにためらいがあった。大学の学生仲間や先生や小説家のPaul Baileyに、あらすじを見せて、励まされ、吹っ切れたという。そして、書きに書きまくったという。翌年の春に、“A Pale View of Hills”の半分が出来上がったという。

この書きに書きまくったエネルギーは、自分のなかで消えていく長崎の記憶を残しておこうということではなかったか、と、彼は考える。

彼は5歳のとき、両親と姉ととともに、イギリスにわたる。彼は、イギリスに悪いイメージを何も持っていないようだ。自分はまわりから受け入れられていると思っていた。そして、自分を田舎町での有名人のように思っていた。楽観的な人生観がこのとき築かれたように思える。

両親は、ちょっとイギリスに滞在するつもりでいて、来年には長崎に戻る雰囲気であった。すなわち、ほかの外国人のような移民という意識が家庭になかったのである。祖父は成功者で裕福な生活を長崎で送っていた。両親は政府の招待でイギリスにきた海洋物理学者で発明家である。

私も、1977年に、妻と1歳の息子をつれて、カナダの大学に補助研究員として滞在した。息子は5歳まで、カナダの田舎町で暮らした。私の場合は、カナダに住みつこうと思っていた。補助研究員だから給料安く、安アパート暮らしだった。周りは移民だらけだったので、私は、自分がエリアン(「外人」のこと)だという意識はなかった。しかし、妻はみんなと違うと感じていたようだ。息子が幼稚園に行くようになると、母(私の妻)はカナダ人だが、父の私は違う、中国人だと思ったようだ。4年後に、日本に帰ったとき、息子はテレビに出てくるヒーロー(heroes)が日本語を話すとびっくりするとともに、感激していた。

カズオ・イシグロは、そとではイギリス人に完全に同化し、うちでは両親のもと日本文化のなかで育てられた。そして、5歳でイギリスに来てから、日本に帰ったことが一度もなく、“A Pale View of Hills”を書くのである。したがって、作家魂からの創作というより、彼の頭の中にあった日本の風景、日本人の文化を書き留めたと、彼が講演で主張した。経営者として成功し悠々自適の生活を送る祖父とその一族の話しを聞きながら育った彼は、戦争で世の中がどう変わったかを、上流や中流の人びとの視点から見るのも当然である。

彼の幸運な子ども時代からくる楽観的人生観と保守的体質が、イギリス文壇での成功を導いたのだと思う。

[補遺]
ネットの書き込みによれば、『遠い山なみの光』の長崎の地形は、現実の地形と合っていないという。カズオ・イシグロの記憶違いらしい。
私はそんなことより、描かれた人間像は、彼の姉や妹や両親がモデルになっているのか、両親の噂話からくるのか、読んだイギリス人の小説からくるのか、が気になる。描かれた人格が多少ステレオタイプに思える。

カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』――緒方さんと悦子

2020-06-22 23:06:06 | こころ


図書館から、『遠い山なみの光』の原本 “A Pale View of Hills”を借りてきた。しかし、この原題の“hills”は、長崎の稲佐のなだらかな「山なみか」、自殺したケイコの部屋から見えるイギリスの起伏にみちた田園風景か、わたしには まだ わからない。

本書のテーマは、あくまで、娘ケイコを自殺にまで追い込んだ母エツコが、もう一人の娘ニキとの5日間の回想で、自己を許せるようになるということだ。

長崎の稲佐の「山なみ」にのぼった日は、エツコの記憶なかで、ケイコの投影であるマリコが幸せだった特別の日なのだ。だから、作者が“a pale view”とは言わないような気がする。

もう一度、『遠い山なみの光』と“A Pale View of Hills”とを読んで、この小説のプロットが非常に練られているのに気づいた。20代後半のカズオ・イシグロが、イギリス社会で這い上がるために練りあげた、考えに考えたすえのフィクション、作り物なのだ。

野心家のカズオ・イシグロに敬意を表して、メモを取りながら、読むことにした。

小説に出てくる日本人は、教養ある育ちのよい日本人に設定されている。激しい自我を内に秘めてたんたんと接する人間関係を描くところは、小津安二郎や成瀬巳喜男の昔の日本映画の世界だ。しかし、わたしは下賤の出であるから、ほんとうは坊ちゃん嬢ちゃんを好きでない。

カズオ・イシグロは“A Pale View of Hills”を出版したとき、28歳である。若い彼に、50代の女エツコの気持ちがわかるのだろうか。エツコもサチコもマリコも、野心にみちた若い彼が、イギリス文壇に受け入れられるために創作したステレオタイプ的な女たちにすぎないのではないか。それとも、身近にモデルがいたのであろうか。

物語の語り手でもあるエツコに、カズオ・イシグロは複雑な過去を設定する。

この物語では、オガタさん(Ogata-san)とナカムラさん(Nakamura-san)だけを、エツコが「さん」をつけて思い出す。名前しか出てこないナカムラさんは、どうも、原爆で死んだ恋人であるらしい。

〈緒方さんは夫の父なので私も同じ性になってからも、彼のことはいつでも緒方さんとしか考えなかったのは、妙な気もする。〉(小野寺健訳)
この原文は
〈it seems rather odd I always thought of him as “Ogata-san” even in those days when that was my own name.〉
である。「妙にみえる」と断言しているのだ。

〈けれども「緒方さん」とはあまりにも古くからのおつきあいで ― 夫の二郎と会うよりずっと前からだったから ―  どうしても「おとうさん」と呼ぶ気にはなれなかった。〉

この原文は
〈But then I had known him as “Ogata-san” for such a long time – since long before I had ever met Jiro – I had nerver got used to calling him “Father”.〉
である。

訳文の〈「緒方さん」とはあまりにも古くからのおつきあいで〉は、原文の〈I had known him as “Ogata-san” for such a long time〉とニュアンスが違う気がする。

小野寺健の訳での、エツコがオガタさんに話しかける際の「おとうさん」は原文では単に“you”である。
例えば、小野寺訳〈男だったら、お義父さまの名前をつけようかしら〉は、原文では〈If it’s a boy we could name him after you.〉である。
(カズオ・イシグロは英語で考えていて、日本語で考えていない。)

それだけでない。オガタさんとエツコは互いに素直に話す。まるで、夫婦のようだ。

そして、小説最後の12章を読むと、エツコは、オガタさんが大好きだった、と娘ニキに告白している。

〈On the contrary, Niki. I would have been happy if he’d lived with us.〉
〈 I was very fond of my father-in-law.〉

元校長のオガタさんは、血縁関係のない若いエツコを、原爆投下後の困難な時期に、引き取ったのである。エツコを好きだったから引き取ったのか、引き取ったから好きなのかは断言できないが、エツコの家はオガタさんの家の近くというから、以前から好きだったのではないか。

オガタさんはエツコを引き取っただけでなく、エツコのわがままに耐え、自分の息子と結婚させたのである。
エツコは、オガタさんに男らしいエネルギーを感じるが、息子ジロは父に似ていず、前かがみで小柄でずんぐりしている男に見える。
エツコはオガタさんの息子ジロへの愛がなく結婚したのである。
ジロはそのことに感づいていて、結婚後、父のオガタさんといっしょに住むことを拒否する。
ジロのわだかまりが、娘が生まれても夫婦の距離を近づけない。
エツコは、オガタさんの妻の名をとって、娘をケイコと名づける。
7年後、エツコは、夫を棄てて、ケイコを連れて、イギリス人の恋人と共にイギリスにわたる。
このイギリス人の新しい夫をも、知識人ぶっているだけの軽薄な男として、エツコは思い出す。

多くの人が気づいていないが、これが野心に燃える若いカズオ・イシグロの考え抜いて創ったプロットであると思う。そして、彼の創ったフィクションが王立文学協会賞を受賞し、9か国語に翻訳されたのだ。

中村かれんの「べてるの家」、ままならぬ こころ のユートピア

2020-06-21 23:07:23 | こころの病(やまい)

伊藤亜紗の『どもる体』に続いて、中村かれんの『クレイジー・イン・ジャパン べてるの家のエスノグラフィ』を読む。同じ医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の一つである。

原題は、“A Disability of the Soul”である。『ままならぬ こころ』という気持ちだろうか。日本での本のタイトル『クレイジー・イン・ジャパン』は直接的で軽く、原題のほうが内容にふさわしい。

この本は、統合失調症患者のユートピアの里「べてる」のレポートである。著者の中村は、映像人類学者であり、プロテスタントの日系アメリカ人である。

カタカナで「ベテル」と書くと、旧約聖書に出てくる聖地で、ヘブライ語で「神の居場所」を意味する。ユダ王国の王ヨシヤが聖地をエルサレムに限定したことで、閉じられた聖地の1つである。

ひらかなの「べてる」は、北海道の浦河町にある、退院した患者たちのコミュニティである。

中村は、7年間にわたり、「べてる」のフィールドワークをおこない、元患者が自立して集団で暮らすさまを、アメリカ人として、社会学者として、他者の目から報告している。
元患者の個人ヒストリーやコミュニティ運営理念と実態、町の住人・警察・自治体・道庁・官庁との衝突を含む関わりあいを語る。これらは、まさに、日本社会の凝縮である。

中村は、「終章 べてるを超えて」で、このユートピアの里は存続していけるのか、の問題を提起している。これは、理想を求めるNPOのどこもが、直面する問題である。組織や体制として存続を望むのか、ユートピアとして存続を望むのか、ということである

「べてる」は、上下関係のない元患者たちの自立組織としてユートピアなのだが、自分たちの稼ぎだけではやっていけない。少なくとも、障害年金、生活保護が必要である。コミュニティが、NPOとして運営していこうとすると、さらに、色々な法規制がかかり、書類の提出を役所から求められる。元患者たちには 手の負えない書類であり、事務職員を雇用することが求められる。

社会は、コミュニティの存在を許さず、法の下の施設であることを求める。

そして、いっぽう、ユートピアを求めて新しい患者たちが次々とやってくる。「べてる」創立時のメンバーと意識が当然異なってくる。新しいメンバーは、「べてる」が何をやってくれるかの意識になる。創立時はクリスチャンの信仰をもとにコミュニティがまとまっていたが、創価学会の会員も当然はいってくる。もはや宗教がコミュニティを維持する核にならない。

ユートピアとは、実は、自然発生するものではない。
引っ張っていくリーダーと陰で支えるサポーターが必要である。「べてる」の場合、ソーシャルワーカーの向谷地生良(むかいやち いくよし)がリーダー、精神科医の川村敏明が陰で支えるサポーターである。

しかし、二人とも年老いて死んでいくのだ。だれが、その役割を引き継げるのか。

「べてる」は変質せざるを得ない。
もしかしたら、ユートピアでなくなるかもしれない。
しかし、伝説となることで、「べてる」は新たなユートピアを作る種子となって、風に吹かれて、日本や世界の各地に散らばっていく。
それが、著者、中村かれんの願いかもしれない。