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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナウイルスの診断と治療の体制の確立を

2020-02-17 22:15:40 | 新型コロナウイルス

きのう、2月16日、加藤勝信厚生労働大臣が、官邸で開かれた専門家の会議で、国内の状況については流行の手前の「国内発生の早期」との認識で一致したことを明らかにした。

この間、加藤のほうが、安倍晋三よりも、新型コロナウイルスに関してリーダシップを発揮している。どちらが首相かわからないように見える。横浜港にいる集団感染のクルーズ船の乗員全員の確定検査を検討と加藤は1週間前に言っている。なぜか、そのとき、官邸側はそれを否定した。

「新型コロナウイルス感染者は軽症」ばかりが、メディアで強調されている。きのうの夜のフジテレビ『Mr.サンデー』で、ゲストの専門家の発言を聞いて、82歳の木村太郎が怒った。

「僕は大体、感染したら一番先に死ぬ世代なんですよ。その人間から見てみますと、なんにも分かっていないのに、恐れるなと言われているわけですよ。インフルエンザより怖いかその程度というが、インフルエンザって、関連する死者が年間、日本だけで1万人以上。それから潜伏期間が1日から40日までと説がある。それからさっき言った何人にうつりますかって、2人から6人まで変わって。とにかく何もまだ分かってないんですよ。それなのに手を洗って、とりあえずマスクしてれば、大丈夫とはいわないけど、警戒してくださいねって、言われても」
「インフルエンザというのはワクチンもあるしタミフルもあるんですよ」。

NPOで私の担当の子は新型コロナウイルスが怖いという。デマばかりで、どうして いい加減なことをいうのか、と怒っている。

専門家の会議は「国内発生の早期」と言うが、これは、これから本格的に流行するという意味である。検疫では流行を もう防ぎようがないということである。

きのうのテレビ朝日の『日曜スクープ』を聞いても、岡田晴恵以外のゲストは、中国の悪口ばかりを言っていて、これからの新型コロナウイルス流行が他人ごとになっていた。

「中国の医療体制が低い」「かかっても軽症だ」といわないで、診断と治療の体制を整える必要がある。木村太郎が怒るように、軽症の人もいるし、重症の人もいるのが事実だ。軽症の感染者が動き回れば、新型コロナウイルスをまき散らすことになる。軽症の人がいるから、かえって、厄介な感染症である。

診断はできるのだから、これから1万人が感染しても全員診断できる体制を整える必要がある。また、ウイルス学者の岡田晴恵がいうように症状に合わせての治療システムを確立する必要がある。軽症なら自宅待機とか、肺炎症状がでたらその重さで一般病院か専門病院かを割り振るとか。対処療法でも、何もしないより ましである。感染者の急増に対応できるシステムを構築しないといけない。

ひとりが何人にうつすかといっても、それは結果論。感染した人がどのような行動するかによって、何人にうつすかが変わる。軽症の人が多いというのは、それだけ、感染した人が動き待ってうつす可能性がある。感染者が動き回らなければよい。そのためには、まず、診断が先だつか、あるいは、診断がなくても、具合が悪ければ、仕事を休めばよい。

私は昨年の12月のはじめ、NPOで咳をする子供の相手をして、3日後に風邪を発症した。その子にマスクをさせようとしたが、マスクするのを嫌がってせず、私は飛沫を1時間近く浴びてうつった。発症して、37度台の微熱がでて、3日間仕事を休んだ。

風邪をひいたらまず出勤しないがエチケットではないか。

新型コロナウイルスは感染しても無症状、あるいは、軽症だという。
本当に無症状なのか。体がだるくないのか。微熱がないのか。咳が出ないのか。鼻水がでないのか。無症状だとすると、どうやって、他人に新型コロナウイルスをうつすのか。

軽症とはどんな症状のことをいうのか。普通の風邪とどうやって区別するのか。微熱が続く日数で判断するのか。

無症状の新型コロナウイルス感染者がいるとなると、結局、PCR診断しかないのではないか。

テレビでは、37.5度以上が4日間続くと、新型コロナウイルス感染を疑ってよいという。この症状は肺炎の早期状態を言っているだけで、結局、PCR診断しかないのではないか。

いろいろな病気でも微熱が出てくる。熱がでたら、かかりつけの医師にみてもらい、診断を受け、医師が肺炎あるいは新型コロナウイルスを疑ったら、保健所に連絡し、医療設備の整っている地域の病院に患者を紹介するのが、適切な手順ではないか。

診断と治療の立場からの、信頼できる情報が欲しい。

[追記]
けさ、2月17日のテレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』で、厚労省はPCR診断をまだ公的機関に限定していると、出席者が怒っていた。民間によるPCR診断は、すでに、麻疹などの感染症などで使われている。新型コロナウイルスの塩基配列はすでに確定されており、各国でもその変異を含め確認されていて、検査手順も確立している。なぜ公的機関に限定するのか、根拠がない。このままでは、これからの流行に対応できない。
[追記]
けさ、2月19日の朝日新聞を読むと、厚労省の新型コロナウイルスの対応が、横浜港のクルーズ船を含め、右往左往していた様子がまとめられていた。「新型」であるから、右往左往するのはしかたがないか、気になる点が2つある。
第1点は、感染症を診断・治療してきた人たちの意見が尊重されていたか、厚生省官僚のトップは医療の知識がなく政治的配慮が優先され、海外からの批判でその場しのぎをしていたのではないかである。
第1点と関係するが、第2点は、対応の誤りを認めないだけでなく、隠ぺいするために、今もウソを上塗りしているのではないか、ということである。クルーズ船の環境が劣悪で、そこで感染が広がったと識者はみている。クルーズ船に乗り込んだ医療従事者がそれを言うと、排除をうける。また、検査で陰性症状を下船させ、そのまま公共交通機関で自宅に帰還させる方針は、クルーズ船内で感染が広がったということを否定するための政治決断ではないか、と疑いたくなる。
[追記]
2月20日のTBSゴゴスマで、東国原英夫が「若い人は新型コロナウイルスに感染しないと思っていたが、感染しているではないか」と言っていたのにびっくりした。
政府は国民がパニックにならないために、重症者になるのは高齢者か持病のある者だと言っているだけで、若者が感染しないとは言っていない。政府はわざと誤解するように広報しているようにも思える。これは混乱を生むから やめてほしい。
若者も子どもも感染している。たまたま、肺に新型コロナウイルスがつけば、誰でも肺炎になる。特効薬がないから、休息を十分にとって自己回復力にたよるしかない。確かに高齢者や持病のある人が不利になるが、若者だって重症化する危険がある。死ぬのは私のような糖尿病で心臓疾患のある高齢者だけではない。

「権威主義」という曖昧な言葉が独り歩きをしている

2020-02-16 18:07:18 | 社会時評

「権威主義」という言葉がどうも社会学者のあいだで はやっているようだ。困ったものだ。言葉として安定しておらず、誤解を招く。

豊永郁子が昨年8月22日の朝日新聞《政治季評》で、ドナルド・トランプ支持者を説明するものは「権威主義」だと書いていた。彼女のばあい、「権威主義」は、「政治体制のことではない。個人に存在する心理的傾向のこと」で、「権威主義者は『一つであること、同じであること』を求める」という。「集団主義」といってはいけないのか。

今年の1月26日の朝日新聞《民主主義は限界なのか》で、吉田徹は、「民主主義」に対抗する政治体制を「権威主義」と呼ぶ。「独裁・専制や全体主義など」をさすらしい。わざわざ「権威主義」という必要があるのか。

田辺俊介らの社会学者は、『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)で、「権威主義」を考え方や態度とし、アンケート調査では、「権威ある人々にはつねに敬意を払わなければならない」、「伝統や慣習にしたがったやり方に疑問を持つ人は、結局は問題を引き起こすことになる」、「この複雑な世の中で何をなすべきかを知る一番良い方法は、指導者や専門家に頼ることである」への賛意をもって、指標としている。

「権威」とは力の一種、あるいは、それを体現している人をさす。それに「主義」をつけたから ややこしくなる。

「権威」がどんな力かというと、発する言葉が中身の吟味なくても信頼されるという力である。たとえば、テレビの画面をとおして、良いスーツを着て、何かを話すと人に信頼されるが、このばあい、テレビとスーツが「権威」を与えているのである。同じように「肩書」も「権威」を与える。

政治では、「権威」は「自発的服従」を招くこととされることが多い。

ところが、現在、社会学者のいう「権威主義国家」は、独裁、専制、全体主義国家、軍国主義国家などを指すとのことである。

これらの国は「暴力」を誇示しているのではないか。「自発的服従」を越えているのではないか。
現在のアメリカや日本の政治体制は「権威主義国家」なのか否か。民主主義国家との境界はなにか。
田辺らの本に「ポスト権威主義国家崩壊後」という表現がでてくるが、具体的に何をいいたいのか。

言葉は意味が確定できる使い方をすべきである。

エンツォ・トラヴェルソは、『全体主義』(平凡社新書)の序で、「『全体主義』という言葉ほど、いい加減に、つまり意味を曖昧にしたまま広く使われる言葉は、そう多くない」と非難している。彼が怒っているのは、言葉の意味をあいまいにすることで、自分の経済的・政治的立場に都合のよいように論旨を誘導していることである。

「権威主義(Authoritarianism)」という言葉は、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で導入したのだと思う。彼は、ナチズムをささえる「自由からの逃避」の心理機構として、「権威主義」「破壊性」「機械的画一性」の3つをあげている。「機械的画一性」が多くの人がとる手段であるとしているにもかかわらず、「権威主義」の説明に多くのページをさいている。わかりにくく誤解されやすい概念だからだ。

フロムが具体的に想定しているのは、ヒトラーやナチス幹部や熱狂した若者である。

通常、多くの人にとって、抑圧的な社会で生きのびる手段は、目立たないことである。私のNPOにくる「社会に適応できない子どもたち」の1つのカテゴリーは、ひたすら目立たないようにして、授業が終わるのをじっと待っている子どもたちである。

ところが、ナチズムのばあい、積極的に動いた太鼓たたきがいたのである。これを「権威主義的性格」とみてよいのか、私はしっくりこない。植松聖と同じく、ただの「やんちゃなヒロイズム」と同じではないかとも思う。「力」への渇望にすぎない。目立ちたいのである。賞賛をうけたいのである。それを、上品に「権威主義」といってどこに益があるのだろうか。

トランプのばあいだって、町のならずものが、バイクで隊列を作って集会に参加すると歓呼をうける。目立ちたいのである。

私のNPOの子どもたちにも そういう子がいる。特別支援級に隔離されているのがいやで、テレビに出てアイドルになって、一発逆転がしたいのである。社会学者だって「学者」という「権威」を見せびらかしているのではないか。

じつは、フロムは「権威主義」を特別の意味で使っている。サド・マゾ的な努力(striving)で、「無力な人間や制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。無力な人間を見ると、かれを攻撃し、支配し、絶滅したくなる」ということで、特徴つけている。

「権威」のもとの意味に「弱者への嫌悪」を付加して使っているのだ。これは「力への渇望」ではないか。

ひとは、論理で動いているのではなく、情動で行動する。論理は言葉で、あとづけの説明である。

ひとは、無知で愚かに生まれてくる。他人に共感できる優しさをもっていれば、弱者を攻撃することもなく、無知で愚かなまま、幸せに一生を終えられる。本を読んで賢くなっても、他人に共感できなければ、欲に転んで、権力の太鼓たたきになる。

田辺俊介の『日本人は右傾化したか』は右翼の定義から おかしい

2020-02-14 23:25:56 | 思想

田辺俊介の編集した『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)はどこかおかしいと感じていたが、ようやくわかった。そもそも「右翼」「保守」の定義がおかしいのである。

第10章で松谷満はつぎのように書く。

《 『保守』「右」とは何か、……、社会意識、政治意識という観点からすると、おおよそ現状や伝統の維持、個人よりも国家を重視すると立場をさす。》
《 政治的価値対立軸は、……、経済的には、「小さな政府」を志向し、文化的には、権威や秩序、伝統を重視するのが、保守、右派の立場とされる。》

こういう定義自体が、私のような左翼の立場からみると、見当違いである。

「右翼」とは2つの側面からなる。1つは、人はそれぞれ差異があるから平等である必要がないとする立場である。もう1つは、人が人を支配することは当然であるとする立場である。

「左翼」は、これに対し、人はそれぞれ個性があるが、社会的政治的に平等であり、人が人を支配することがあってはならないとするものである。

「保守」とは、平等ではなく、人が人を支配する社会を守ろうとすることをいう。「革新」は、そのような社会を壊そうとすることをいう。

第10章では、松谷は、日本人を、年齢的な区分でなく、歴史的な文脈でつぎのように区分し、これを世代と呼ぶ。

• 平成世代(1990年以降の生まれ)
• 氷河期世代(1969年から1989年生まれ)
• 安定期世代(1954年~1968年生まれ)
• 団塊世代(1944年~1953年生まれ)
• 戦後世代(1936年~1943年生まれ)

私は、年齢ではなく、「歴史的文脈」で日本人を区切る考え方は適切だと思う。人は人格形成期の体験(教育を含む)で価値観が決まり、それ以降、価値観や政治的立場などが大きくは変動しないと思うからである。

ただ、命名は適切ではない。

「戦後世代」は「軍国主義少年少女世代」である。私の出た研究室(物理学)では、私72歳を最年少として、いまだに老人たちが1年に1度会うが、80歳を過ぎている人たちに聞くと、思わず自然にでてくる歌はすべて軍歌であるという。軍国主義から民主主義に転向できたのは限られた人々である。この世代が右翼的であることは、少しも不思議ではない。

「安定期世代」は「日本主義復興世代」と、「平成世代」は「しらけ世代」と言ったほうが適切だろう。

さて、本書は、「平成世代(しらけ世代)」すなわち若者世代が、「氷河期世代」より、安倍晋三や自民党を支持すると言う。そして、その要因が何かは分からないと言う。

若者世代の安倍支持、自民党支持は原発支持と相関が高いが、原発推進のために若者世代が安倍や自民党を支持しているのではない。

私が思うに、人は、どうすれば得かという判断で行動し、判断は学習(体験の記憶)にもとづく。ヒトの脳はイヌやネコと同じなのだ。

現代人にとって最大の学習は学校教育だが、ついで、親のみじめな人生から学ぶことが多い。学校教育をつうじて人の能力は平等でない、競争に負けたものはクズだという価値観を植え付けられ、親たちが理想を求めたので貧乏をしていると子どもたちが学習するなら、権力に寄り添って生きのびるしかないと若者世代が考えるのはしかたがないのではないか。

すなわち、若者世代のなかで起きているのは、あきらめのなかで、それでも、生き延びようともがいていることだ。右翼的な言動をすれば、生き延びることができると考えているのだ。

松谷は、私とちがって、若者世代は権威主義的であり、それは、次の理由で生じたと考える。

《 高度成長期以降の世代は、比較的余裕のある家庭に育った者が多く、年長世代から多大な恩恵を受けてきた。現在のような不安定な社会―経済状況にあっては、その恩恵を受けたいという経験が大きいほど、権威を信頼し、それに従属して切り抜けようとするのではないか。》

松谷が思うのと異なり、若者世代は別に権威主義的ではない。彼らに先立つ世代が権力に負けたと思い、あきらめのなかで生きのびを図っているのだ。

結局、田辺が率いるグループは、おばっちゃま、おじょうさまが「社会科学あそび」をやっているにすぎず、支配される者や奪われる者の怒りを受け止めず、見当違いの分析をしている。

「社会科学者」たちに言いたい。

学校教育でどのような洗脳が行われているかの実態調査をすべきだろう。学校教育で全人格否定を受けていまだに苦しむ人びとを調査すべきだろう。そして、不幸を再生産する社会にalternativeの思想、すなわち、左翼思想を吹き込むべきだろう。

精神鑑定は言いぱっなしではダメで討議すべき、やまゆり殺傷事件裁判

2020-02-12 21:47:44 | 津久井やまゆり園殺傷事件

相変わらず、メディアの津久井やまゆり殺傷事件の裁判報道がお粗末である。

2月7日の第12回公判では、東京都立松沢病院の大沢達哉医師が2018年に行なった精神鑑定を説明し、心神喪失か耗弱の状態でないと述べた。2月10日の第13回公判では、中山病院(千葉県市川市)の工藤行夫医師が、大麻の乱用で心神喪失か耗弱の状態だったと述べた。

大沢は検察側の精神科医であり、工藤は弁護側の精神科医であるから、結論が異なるのはあたりまえだ。

精神医学は、まだ、学問として未熟であり、専門家といえでも、客観的真理を述べることはできない。1900年前後に活躍した精神医学の大家、エミール・クレペリンは、精神科医が心の動きをシミュレーションできない言動をする人を、精神疾患者と定義した。現在もそれが変わっていないが、現代の精神医学哲学者レイチェル・クーパーは、自分の心の動きから他人の心の動きをシミュレーションするのを精神科医は もう やめるべきだと言う。

したがって、自分の心の動きから他人の心の動きを推量するという、現在の精神医学の限界を超えるために、大沢と工藤が直接討議したり、検察や裁判員や裁判官が工藤の論理的整合性をついたり、弁護側や裁判員や裁判官が大沢の論理的整合性をつくことが、必須である。

今回の裁判長がバカでないかぎり、大沢や工藤に対する質疑が法廷で行われたはずである。それを報道しないメディアはお粗末としか言いようがない。それとも、裁判長はバカなのか。

このなかで、2月11日の時事オピニオンに載った雨宮処凛の『植松聖被告の法廷に通って』は貴重な公判報告である。彼女によると、傍聴した2月6日の第11回公判で、次の事実を聞いて驚いたという。

《しかし、2月6日に傍聴した第11回公判で、冒頭のように被害者弁護士に「あなたは小学生の時、『障害者はいらない』という作文を書いてますね?」と問われた植松被告はそれを認めた。書いたのは低学年の頃だという。
 また、この日の裁判では、中学生の頃に一学年下の知的障害者の生徒が同級生の女の子を階段から突き落としたのを見て、その障害者の腹を殴ったと発言。これも初耳だった。》

弁護側の証人、精神科医の工藤は、第13回公判で、つぎのように言った。

《幼少期の被告は明るく人懐こい性格の一方で、中学時代に飲酒・喫煙をしたり、高校時代に部活動で部員を殴り停学になったりしたと指摘。大学では飲み会中心のサークルに入り、危険ドラッグも使うようになった。
問題行動はあるが反社会的な逸脱はない「やんちゃでお調子者」というのが、被告本来の性質だ。だが、2013年ごろから大麻を乱用し、「障害者を安楽死させるべきだ」などと述べて人が変わった状態になった》。

第11回公判で、子どもときから障害者への嫌悪感をもっていたとの証言と、「問題行動はあるが反社会的な逸脱はない」との工藤の判断とは、整合性があるのか。このことを、第13回公判で、だれかが、工藤に問わなかったのか、気になる。

さらに、「問題行動」と「反社会的逸脱」との境界は何かを問わないといけない。私が思うに、この区別は精神医学の問題ではなく、教育心理学、犯罪学心理学で行われる区別である。「反社会的逸脱」とは法を犯すことをいい、「問題行動」とは社会的コンセンサスを犯しているが、法を犯していないこと工藤はを言っているようである。

そうでなければ、「中学時代に飲酒・喫煙」、「高校時代に部活動で部員を殴り停学」、「大学では危険ドラッグ」さらに「入れ墨」した被告を「やんちゃでお調子者」とは言わないだろう。

また、「幼少期の被告は明るく人懐こい性格」というが、第11回公判で証言された「障害者の嫌悪」と「暴力的行動」と合わせると、弱者への共感能力にかけた乱暴な性格と言えるのではないか。とうぜん、工藤に問うべき問題である。

じつは、精神科医 工藤は、昨年5月に1回、被告と約1時間面接しただけで、地裁が起訴後に実施した精神鑑定の結果などを参照しながらの判断である。すなわち、同じ事実を参照しながら、どう解釈するかに違いが生じたと思われる。したがって、工藤に対する質疑が裁判においてとても重要だと言えるのに、報道からまったくそれが見えない。

雨宮は、また、被告が深刻な「妄想」状態だったのではと述べている。彼女はつぎのエピソードを書いている。

《 1月30日の面会で、私は植松被告に真鍋昌平氏の漫画『闇金ウシジマくん』(小学館)について聞いていた。1月24日の法廷で「横浜に原子爆弾が落ちる」「6月7日か9月7日に落ちる」などと言っていた植松被告だが、それが「『闇金ウシジマくん』に書いてあります」と述べていたからだ。面会でそのシーンが何巻にあるか聞くと「最終巻です。それの一番最後のところです」と言うので入手して読んでみた。
しかし、『闇金ウシジマくん』の最終巻に、彼が言うシーンは存在しなかった。
彼には一体、何が見えているのだろう?》

統合失調症のなどの「精神病」の診断では、よみがえる記憶を現実と誤って認識する状態を「幻覚」という。本人にとって嫌な声が聞こえる幻聴が多い。

この被告のケースは、原爆が落ちる記述がどこにあったかの記憶の話であり、「幻視」ではなく、単純な「記憶違い」の可能性もある。「彼には一体、何が見えているのだろう?」というほどのことではないように思える。

もちろん、裁判員や裁判官が、大沢や工藤にこのことをどう考えるのか、聞いてみても面白いと思う。

新型コロナウイルスの診断と治療をうける権利がある

2020-02-11 22:32:27 | 新型コロナウイルス

けさ、テレビ朝日の羽鳥慎一のモーニングショーを見ていたら、希望しても新型コロナウイルス感染症の検査を受けることができないという。検査が必要にもかかわらず、なぜ、検査が受けられないかの理由が明らかにされていない、という。これは大問題だ。

新型コロナウイルスは、RNAの一本鎖である。その約3万の塩基の配列が、すでに、中国政府の医療機関から明らかにされている。

患者の唾液や痰をとって、その検体のRNAをPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)でふやし、遺伝子解析すれば、新型コロナウイルスを確定検査できる。

先日、国立感染症研究所が新型コロナウイルスを分離、培養したと発表したとき、その塩基配列は中国の発表の配列と99.9%一致したという。RNA遺伝子は突然変異が頻繁に起こるので完全に一致する必要はない。

最新機器を使えば、1検体あたり4時間で答えが出るという。福井新聞によれば、福井県衛生環境研究センターの機器では、1検体当たり約8時間で答えが出る。そして、いつでも、新型コロナウイルスの確定検査をする用意ができているという。

京都市は、政府の指示にしたがわず、独自の判断で確定検査を市衛生環境研究所で行い、新型コロナウイルスの患者を発見した。

各自治体が自分の判断で自由に新型コロナウイルス検査をやってよいのではないか。民間の遺伝子解析業者が自由に新型コロナウイルス検査をやってよいのではないか。

してはいけない理由を政府は明らかにする義務があると思う。

上昌広は、1週間前の東洋経済ONLINEの寄稿『新型肺炎「日本の対応」は不備だらけの大問題 流行が始まっている前提で動かねばならない』で、日本の薬品業界が検査キットやワクチンを開発するのをまっているからではないか、と推定する。じっさい、海外では、すでに、新型コロナウイルスを日本に先立って分離培養しており、それ専用の遺伝子検査機器を中国に無償でおくったり、発売したりしている。

政府が邦人救出チャーター機を武漢に送ったとき、政府はよくやったと思ったが、その後の政府の動きがよくわからない。安倍晋三は他国に邦人救出機を送るというパフォーマンスはできるが、人道見地からの行動ができない。中国の医療支援はどうなっているのだろうか。経済的に、日本と中国の関係は密接である。中国の新型コロナウイルスの流行を抑え込むための医療支援は、人道的見地からも経済的見地からも必須である。

また、国内的には、政府が観光立国という政策をこの7年間行ってきたから、海外の感染症が日本にはいってくることは、原理的に防ぎようがない。大量にはいってくることは、検疫で防げるし、防ぐべきだが、検疫を越えてはいってくるのは少しだが起きることである。したがって、日本に、新型コロナウイルスがすでに上陸していることを前提に考えるべきである。そうとすると、新型コロナウイルスの診断と治療ができるだけ多くの医療機関でできるようにすべきであろう。診断と治療は、感染症の抑え込みのために必須である。

とすれば、新型コロナウイルスの確定検査は希望すればできるようにしないといけない、はずである。有料であってもよい。ふつうの風邪の診断でも患者はお金をはらっている。

福井新聞によれば、検査機器はノロウイルスや風疹、麻疹の検査でも使う「リアルタイムPCR装置」で良いという。検査には、国立感染所から届いた新型コロナウイルス用の試薬以外にも5~6種類の試薬が必要だという。現在、福井県衛生環境研究センターは60検体が検査できる量の試薬を確保したという。

政府は、全国でどれだけの検体が検査できるか、わかっているはずだ。メディアは、1日に数千検体から数万検体というが、これはたぶん機器からくる制限で、本当の制限は試薬の備蓄からくるのではないか。

少なくても、横浜港にいる集団感染のクルーズ船の乗員の確定検査を実行する必要があると思う。厚生大臣 加藤勝信は全員検査の方向と言っているが、官房長官 菅義偉はこれを否定している。なぜ、検査しないのか、明らかにしていない。

安倍晋三は、国粋主義の立場から新型コロナウイルスをみているのではないか。新型コロナウイルスは感染力が強いが、若者の致死率は低い。慢性病の老人に死んでもらう、絶好の機会と考えているのではないか、の疑念が頭を横切る。老人は普通の風邪をひいても肺炎になる。診断と治療をしなければ、老人はどんどん死んでいく。

診断と治療を受けられないことに私は納得できない。