猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「権威主義」という曖昧な言葉が独り歩きをしている

2020-02-16 18:07:18 | 社会時評

「権威主義」という言葉がどうも社会学者のあいだで はやっているようだ。困ったものだ。言葉として安定しておらず、誤解を招く。

豊永郁子が昨年8月22日の朝日新聞《政治季評》で、ドナルド・トランプ支持者を説明するものは「権威主義」だと書いていた。彼女のばあい、「権威主義」は、「政治体制のことではない。個人に存在する心理的傾向のこと」で、「権威主義者は『一つであること、同じであること』を求める」という。「集団主義」といってはいけないのか。

今年の1月26日の朝日新聞《民主主義は限界なのか》で、吉田徹は、「民主主義」に対抗する政治体制を「権威主義」と呼ぶ。「独裁・専制や全体主義など」をさすらしい。わざわざ「権威主義」という必要があるのか。

田辺俊介らの社会学者は、『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)で、「権威主義」を考え方や態度とし、アンケート調査では、「権威ある人々にはつねに敬意を払わなければならない」、「伝統や慣習にしたがったやり方に疑問を持つ人は、結局は問題を引き起こすことになる」、「この複雑な世の中で何をなすべきかを知る一番良い方法は、指導者や専門家に頼ることである」への賛意をもって、指標としている。

「権威」とは力の一種、あるいは、それを体現している人をさす。それに「主義」をつけたから ややこしくなる。

「権威」がどんな力かというと、発する言葉が中身の吟味なくても信頼されるという力である。たとえば、テレビの画面をとおして、良いスーツを着て、何かを話すと人に信頼されるが、このばあい、テレビとスーツが「権威」を与えているのである。同じように「肩書」も「権威」を与える。

政治では、「権威」は「自発的服従」を招くこととされることが多い。

ところが、現在、社会学者のいう「権威主義国家」は、独裁、専制、全体主義国家、軍国主義国家などを指すとのことである。

これらの国は「暴力」を誇示しているのではないか。「自発的服従」を越えているのではないか。
現在のアメリカや日本の政治体制は「権威主義国家」なのか否か。民主主義国家との境界はなにか。
田辺らの本に「ポスト権威主義国家崩壊後」という表現がでてくるが、具体的に何をいいたいのか。

言葉は意味が確定できる使い方をすべきである。

エンツォ・トラヴェルソは、『全体主義』(平凡社新書)の序で、「『全体主義』という言葉ほど、いい加減に、つまり意味を曖昧にしたまま広く使われる言葉は、そう多くない」と非難している。彼が怒っているのは、言葉の意味をあいまいにすることで、自分の経済的・政治的立場に都合のよいように論旨を誘導していることである。

「権威主義(Authoritarianism)」という言葉は、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で導入したのだと思う。彼は、ナチズムをささえる「自由からの逃避」の心理機構として、「権威主義」「破壊性」「機械的画一性」の3つをあげている。「機械的画一性」が多くの人がとる手段であるとしているにもかかわらず、「権威主義」の説明に多くのページをさいている。わかりにくく誤解されやすい概念だからだ。

フロムが具体的に想定しているのは、ヒトラーやナチス幹部や熱狂した若者である。

通常、多くの人にとって、抑圧的な社会で生きのびる手段は、目立たないことである。私のNPOにくる「社会に適応できない子どもたち」の1つのカテゴリーは、ひたすら目立たないようにして、授業が終わるのをじっと待っている子どもたちである。

ところが、ナチズムのばあい、積極的に動いた太鼓たたきがいたのである。これを「権威主義的性格」とみてよいのか、私はしっくりこない。植松聖と同じく、ただの「やんちゃなヒロイズム」と同じではないかとも思う。「力」への渇望にすぎない。目立ちたいのである。賞賛をうけたいのである。それを、上品に「権威主義」といってどこに益があるのだろうか。

トランプのばあいだって、町のならずものが、バイクで隊列を作って集会に参加すると歓呼をうける。目立ちたいのである。

私のNPOの子どもたちにも そういう子がいる。特別支援級に隔離されているのがいやで、テレビに出てアイドルになって、一発逆転がしたいのである。社会学者だって「学者」という「権威」を見せびらかしているのではないか。

じつは、フロムは「権威主義」を特別の意味で使っている。サド・マゾ的な努力(striving)で、「無力な人間や制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。無力な人間を見ると、かれを攻撃し、支配し、絶滅したくなる」ということで、特徴つけている。

「権威」のもとの意味に「弱者への嫌悪」を付加して使っているのだ。これは「力への渇望」ではないか。

ひとは、論理で動いているのではなく、情動で行動する。論理は言葉で、あとづけの説明である。

ひとは、無知で愚かに生まれてくる。他人に共感できる優しさをもっていれば、弱者を攻撃することもなく、無知で愚かなまま、幸せに一生を終えられる。本を読んで賢くなっても、他人に共感できなければ、欲に転んで、権力の太鼓たたきになる。