猫じじいのブログ

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『ドゥ・ザ・ライト・シング』は黒人のための黒人によるアメリカ映画

2022-02-08 22:28:54 | 映画のなかの思想

(ムーキーとサル)

『ドゥ・ザ・ライト・シング』は30年以上前の1989年公開のアメリカ映画だが、いま、見ても古さを感じさせない映画である。正直に言うと、30年前には見てないが。

黒人が黒人のために作った映画で、スパイク・リーが監督・製作・脚本・主演をしている。

物語は、華氏99度(37℃)の蒸し暑い夏の日に、ピザ店でイタリア系の店主と3人の黒人とが喧嘩になり、止めに入った警官がその黒人の首を警棒で締め殺したことで、黒人街の暴動に発展してしまう。

映画では、ピザ店の店主サルから「黒人街」という言葉はでてこない。彼は、あくまで、「コミュニティ」と自分たちの暮らす街(まち)を呼ぶ。「わが街」という感じであろう。みんな、自分のピザを食って育った隣人だと言う。暴動の前に、巡回にピザ店に寄った警官や、店主の息子が、店を売ってイタリア系が多い街に移ったら、と言う。

元野球選手の老いた黒人ダー・メイヤー(Da Mayor)は街をぶらぶら回って、みんな仲良く暮らすよう、お節介をしている。字幕では「市長」と訳していたが、本当に、「わが街のおとうさん」という感じの役どころであろう。

街には仕事がなくブラブラしている黒人がいることも描いている。3人組の老いた黒人はチンポコの大きさを話題にしている。

スパイク・リーはそのピザ店で週250ドルで働く配達員ムーキーを演じている。彼は給料の前払いを店主に求めるが、お金を払ったら戻ってこないから、払えないと断る。じっさい、ピザの配達にでた彼は、恋人とセックスを始める。

この映画は、わがコミュニティをだいじにしたいとの思いがある、いっぽう、窒息しそうなうっぷんもコミュニティにたまっているさまを ていねいに描いている。

だからこそ、暴動という行動に出ることの後味の悪さ、気まずさがうまく描かれる。

暴動は、警官に黒人が殺された後、ムーキーが自分の働いていたピザ店にごみ缶を投げることから始まる。集まった群衆は事情もよく知らずに店に火をつけ、レジのお金を盗んでいく。

翌日、壊された店の前で茫然として座り込む店主サルに、配達員のムーキーは給料250ドルを請求する。サルは腹を立てるが、給料は給料と、100ドル札を5枚、ムーキーに投げつける。ムーキーはお金をひろって、給料は250ドルだと、100ドル札を2枚投げ返し、50ドルは借りだと言う。

暴動が起ころうとも、コミュニティはコミュニティである。住む人びとは、気まずいを思いを残し、日常に戻るしかない。

結局、目覚めて(Wake up)正しいこと(Do the righto thing)をするしかない。政治に参加することである。マーチン・ルーサー・キング牧師とマルコムXの言葉が画面に映し出され、映画は終わる。

映画は非常に常識的に終わるが、それまでの細部の心理描写にリアリティがあり、非常に現代的なものを感じさせる。

[補足]

ブログで、黒人という言葉を使ったが、いまのアメリカで、ブラックとかニグロとかは差別語とされ、おおやけの場ではアフリカンと言う。しかし、人種問題に起因する暴動が いまなお ある状況では、黒人(ブラック)と言葉を使って現実を見たほうが良いと思う。



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