猫じじいのブログ

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映画『市民ケーン』、自分が生きたいように生きた男の物語

2022-04-26 23:17:58 | 映画のなかの思想

今日の午後、思わず、BSプレミアムで白黒映画『市民ケーン』を見入ってしまった。じっさい、立ちすくしたまま、見入ってしまった。

あとでウィキペディアで調べてみると、25歳のオーソン・ウェルズの初映画監督の作品である。1941年に公開されたアメリカ映画である。「主人公のケーンがウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていたことから、ハーストによって上映妨害運動が展開された」とあるが、映画ではウェルズが主人公ケーンを非常に魅力的に描いている。もし、ハーストが偏見なくこの映画を見ていたら、自分の伝記映画として満足したのではないか。

映画のケーンは自分の生きたいように生きたのだから、世間的には偉人ではないが、まさに、アメリカン・ヒーローではないか。映画では、妻との関係がうまくいかなく、一番目の妻からも「愛がない」、二番目の妻からも「人の評判を気にしている」となじられ、離婚される。が、自分の思いを新聞に書きたて、発行部数をどんどん伸ばし、全国の新聞社を配下に納めていく。これも、生き方の選択としてはあり得る。

ハーストは、妻をだいじにしないといけないという、世俗的なドグマを気にしていたのだろうか。

映画は、ケーンが死ぬときの最後の一言「バラのつぼみ」が何であるかの謎を追い求めて関係者の証言でケーンの一生が描かれる。そして、「バラのつぼみ」を女のことではないかと想像しながら、誰も真実を解明できないまま、最後のシーンで映画の観客だけに真実が伝えられる。ケーンの所有物の整理が行われ、がらくたが燃やされるのだが、そのなかにケーンが子ども時代に遊んだ雪そりがある。その商品名が「バラのつぼみ」だったのだ。女のことではなかったというオチである。

ウェルズはジャーナリストとしての市民ケーンを描いていない。アメリカの労働者の不満を満足させるべく、ケーンは政治家の不正を暴き、大衆の心をつかんでいく。しかし、ウェルズは思想に立ち入っていない。社会主義者でも共産主義者でもない。目立ちたり屋の腕白なガキとしてケーンを描いている。

きのう、イーロン・マスクはツイッター社から買収の同意を得た。買収の前の段階で、ツイッター社の自主規制は、アメリカの言論の自由に違反している、とマスクは攻撃した。トランプや共和党はマスクの主張に喝采した。『市民ケーン』と似た構図に感ずる。ポピュリズムを梃子(てこ)として、自分の思いをとげようとしている。目立ちたり屋の腕白なガキである。

20世紀は新聞は社会に影響力をもっている。とくに20世紀前半はそうであっただろう。20世紀後半はテレビが影響力をもっている。21世紀はSNSが影響力をもっている。だから、イーロン・マスクは自分が21世紀の市民ケーンだと思っているのではないか。



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