奴隷というと、戦争で得た捕虜のことと考えやすい。ジェームズ・C・スコット著の『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房)もそういう印象を与えるかもしれない。古代のローマ帝国では、確かに、そういう側面があったが、古代社会が すべて そうであるわけではない。
古代のメソポタミアやパレスチナでは、しもべと奴隷との区別がなかった。しもべも奴隷も主人に仕える点で同じである。所有物である。お金で売買された時点で、現代的な意味で「奴隷」であることがわかる。
古代メソポタミアでは、戦争で捕虜にされるのは、敵国の裕福なもの、王などの支配者の一族である。貧しい者は、殺されるのでなければ、負ける前に逃亡するのである。王などの支配者一族は反乱を避けるため、隔離する必要がある。これを「捕囚」という。裕福な者は、その身内が身代金を支払うまで、すなわち、「贖われる」まで、捕虜にとどまる。
「奴隷」は、優遇されなければ、カウツキーが指摘するように、非常に生産性の悪い「労働力」となる。したがって、単純労働する奴隷が社会のなかで多数を占めたのは、ローマ帝国の特殊性である。ローマ帝国が安易に勝てたという時代が一時的にあったということだ。
戦争は、勝てるために、自軍からも死者をださないといけない。戦闘の努力が、得た奴隷の労働奉仕に見合うとは、かなりの偶然的要素に依存している。ローマ帝国が他国に容易に勝てる時代がすぎると、奴隷制が崩壊した。
奴隷が生じる要因は、かならずしも、戦争の結果ではない。
歴史上最悪の奴隷制は、200年前のアメリカの奴隷制である。ここでの奴隷制は、国内的には、暴力と人種差別によってなりたっていた。対外的には、イギリスの奴隷商人が、中央アフリカの部族王と、工業製品と奴隷との交換貿易を行って、アメリカに奴隷が供給されていたのである。王が着飾るために、奴隷を輸出していたのである。
これは、グローバリズムのなかで、生産力の差によって、奴隷が輸出されたという例である。
社会が安定した結果、格差が拡大し、奴隷が生じたという例も多い。
『図説中国文明史』(創元社)第4巻の「秦漢 雄偉なる文明」には、9箇所、奴隷のことが書かれている。中国は殷、周、春秋、戦国と、次第に奴隷の売買や殉葬がなくなり、戦国末には法的にも禁じられた。国が分かれていると、王や貴族の過酷な支配から平民や奴隷は逃亡するから、競合して下層民の人権もみとめるようになる。
すなわち、国政に競合があると、奴隷制はなくなるということだ。けっして、巨大統一国家は望ましいことではない。
ところが、漢代のように、競合的支配体制がないと、自営農民が没落し、小作になり、借金がかさむと奴隷になる。奴隷が増加し、後漢時代には、奴隷の売買が法的にも認められたとある。
『地域からの世界史』(朝日新聞社)第11巻、和田春樹の『ロシア・ソ連』に同様の例が見られる。ロシア帝国の国力が高まり、治安が良くなると、地主は農民から過酷に取り立てを行うようになり、逃亡が起きるようになった。そこで、農民の移動を禁止し、農奴が生じた。農奴制が立法化されたのは1649年である。ロシアに初めから農奴があったわけでない。
日本も、このまま、格差が大きくなると、奴隷制がおきるかもしれない。
支配・被支配関係が強化された形が、奴隷制である。
働くことは生の一部である。働くこと自体が苦痛であるのではない。働かされるから、苦痛なのだ。働くことが喜びであるのが、あるべき社会だ。
農耕は苦役だから、奴隷制が生じたというスコットの見解に賛同できない。
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