猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

アメリカは民主主義の国か、宇野重規が投げかけた問い

2021-08-10 23:21:05 | 民主主義、共産主義、社会主義

宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のなかに、「アメリカは民主主義の国か」という言葉がでてくる。

日本ではバラック・オバマ元大統領が演説の名手と言われている。しかし、彼が日本に来て演説したのを一度テレビでライブで聞いたことがあるが、中身がなく、単にアメリカの「建国の父」の精神をほめているだけである。すなわち、アメリカ人が子どものときに聞かされた逸話を繰り返し、従順な子ども時代の道徳心を刺激して、聴衆を喜ばしているだけである。

宇野は、建国の父たちは特権階級で、民衆が政治に関与することを恐れた、と言う。

《「建国の父」たちは大地主や、弁護士といった知的職業に就く人々がほとんどでした。彼らは、植民地の上層に位置する人々であり、シェイズの反乱のような動きに対してはきわめて警戒的でした。この反乱は貧しい農民中心の反乱で、独立戦争の退役軍人ダニエル・シェイズを指導者とするものです。》

宇野は、アメリカの連邦制は、この貧しい人々が巨大な力をもつことを「建国の父」たちが恐れたゆえに、作られた制度であると言う。「建国の父」たちが、純粋な民主政(pure democracy)と共和政(republic)と対比し、共和政を実現しようとした。純粋な民主政では、多数派(貧乏人)が少数派(自分たち金持ち)の利益を犠牲にすることを恐れたから、と言う。

私は、「共和政」というと、血縁による支配、王制の否定と漠然と思っていたが、共和政(republic)の語源はラテン語の res publicaで「公共の事柄」、すなわち「公共の利益」を考えた政治をすることである、と宇野は言う。すなわち、「公共の利益」を考えることができる名士の集まりが国を統治することである。

「公共の利益」とは何であるか、曖昧であるから、少数派に統治の権力を与えることに、何らの正当性があるわけではない。「国益」を口にする者は一般にウソつきである。「国益」というものが虚構であるからだ。

とにかく、「建国の父」たちは民主主義の国を作ろうと思っていなかったのである。

それから、約80年後、「共和党」出の大統領エイブラハム・リンカーンは「人民の人民のための人民による政治(government of the people, by the people, for the people)」と演説した。この「政治」は「統治」のことである。「人民の政治」とは統治に人民が参加することである。田舎出のリンカーンは、直接民主主義を理想としていたと思われるが、暗殺されておしまいになる。リンカーンが生きていても「人民の人民のための人民による政治」を実現できたか わからない。

これに関係して面白い映画がある。映画『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』である。アイルランド系移民と星条旗に忠誠を誓う貧民たちの抗争である。映画では金持ちが つどう酒場で リンカーンをあざ笑う人形劇がおこなわれている。南北戦争(Civil War)が始まると、志願兵募集に反対するスラム街の暴動に、金持ちの命令で一斉艦砲射撃が行われ、争うアイルランド系移民とアメリカ化した貧民がいっしょに殺されるという物語である。

この映画の脚本家はアメリカに民主主義はないと考えていると思う。

宇野はアレクシ・ド・トクヴィルの見解を紹介している。リンカーンと同時代のアメリカに訪れ、その後『アメリカの民主主義』を出版し、アメリカの人びとの「平等」の精神に、民主主義の未来を見ている。

宇野は現状のアメリカは「民主主義の国」として問題を抱えているが、「平等」の精神にデモクラシーの未来を信じているのである。

[関連ブログ]



最新の画像もっと見る

コメントを投稿