猫じじいのブログ

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私的財産を守るために人を死刑にする国、ロックの統治論

2021-08-11 22:53:00 | 思想

きょう、たまたま、図書館で『ロック 統治論』(中公クラシックス)を見つけ、借りてきた。

なぜ、こんなことを言うかと、宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のなかに、ジョン・ロックの記述がまったくない。『自由論』のジョン=スチュアート・ミルにのみ焦点を当てている。

いっぽう、バートランド・ラッセルが『西洋哲学史』(みすず書房)のなかで「ジョン・ロックを彼は近代の哲学者たちのうちで、最も深遠であるとけっしていえないが、もっとも影響力のあったひとである」と評価している。

まだ、パラパラと見ているだけだが、印象としてロックは民主主義の人ではない。彼は王党派ではないが、どちらかというと共和派である。平等より公共の利益に、軸足を置くのである。ロックは言う。

《「所有権(property)」を調整し保全するために死刑、およびそれ以下のあらゆる刑罰をふくむ法律をつくり、このような法律を執行し、外敵から国家を防衛するにあたって共同社会の力を使用する権利のことであり、しかも押しなべてこのようなことを「公共の福祉(public good)」のためにのみ行う権利である、と考える》

ここで私が驚くのは、死刑を行っても「私的所有」を守ることを「統治(government)」と考えていることである。ここでは「公共の福祉」は大義名分にすぎない。

『統治論』の第5章は「所有権について(Of Property)」にあてられている。

ここで、もともとは「私的所有」はなかったとする。自然は人間たちの共有のものであったとロックは言う。神が人間たちに共有物として与えたものだと言う。

自然が人間のものというのも、現代の環境論からすると、ちょっと言いすぎであろうが。

では、どの時点から、私的所有が生じるかと彼は問う。労働を投下したことによって私的所有が生じると言う。共有地では荒れ果てたままであるが、囲い込んで手入れをすれば豊かな実りをもたらすという。鹿だって殺した者のものになる。

しかし、自然は有限であるから、人口が増えれば、労働を投下したから私的所有権が生じるというのだけでは、争いが生じる。

ここで彼は、つぎの制限を加える。

《一人の人間が耕し、植え、改良し、栽培し、そしてその収穫物を利用しうるだけの土地、それだけが彼の所有物である。》

ところが、そんなことは、現在、守られていない。ロックは、「人間に自分が必要とする以上のものをもちたいという欲望が生じた」からであると言う。それを促すのが貨幣の発明であるという。

《土地生産物の過剰分と交換にそれら〔貨幣〕受け取ることによって、人は、自分だけではそこからの生産物を利用しきれないほどの土地を正当に所有する方法を……発見したからである。》

貨幣の発明によって生じた私的所有(財産)の不平等をどうすればよいのか、第5章には書かれていない。もともと、私的所有はなく、貨幣の使用に人びとが同意したばかりに、貧富の差が生じたという考え方のみを、ロックはここで述べている。

じつは、日本の中学校の公民の教科書は、私的所有を動かしがたい法の原則として、のべている。明治に作られた大日本帝国憲法も、戦後作られた日本国憲法も、私有財産を犯すべからざる基本的人権としている。ところが、100年といくばくか前の江戸時代には、里山は農民の共有地であった。だからといって、荒れ果てていたわけではない。それが、明治維新で、里山は天皇の私的所有地になった。欧米の私的所有制が、文明開化とともに、日本社会に入ってきたのである。

宇野重規はデモクラシーの基本を平等だと言う。では、彼は私的所有をどう考えていたのか。一度、聞いてみたいものである。



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