猫じじいのブログ

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宮澤賢治論の補遺:池澤夏樹の『言葉の流星群』

2019-08-06 16:09:19 | 童話

池澤夏樹は、『言葉の流星群』(角川文庫)のなかで、宮澤賢治のことをモダニストと書いた。

西欧にあこがれる「ロマンチスト」より「モダニスト」が宮澤賢治にぴったりと私も思う。この「モダニスト」は「新しいもの好き」という軽い意味だから、田舎に暮らし「モダニスト」であることは、何も不思議ではない。

いっぽう、神経科学者のエリック・カンデラは、「モダニズム」を啓蒙思想への反動と、『芸術・無意識・脳』(九夏社)のなかで言う。「啓蒙思想」もよくわからない語だから、「モダニズム」はもっとわからない。「啓蒙思想」は英語の “enlightenment”の訳である。光をあてて見えにくかったものを見えるようにすることだ。文字通り受け取るのが良いと思う。

ソビエト連邦の最初にして最後の大統領ミハイル・ゴルバチョフが、行った政治改革策の柱が、情報公開(グラスノスチ)である。これはまさに、啓蒙である。

啓蒙の反対は蒙昧(obscurantism)で、それは、意図的にあいまいなことを言ったりして、問題の本質を隠すことをいう。愚民化策とも訳される。

啓蒙思想のミハイル・ゴルバチョフは、1991年に、ボリス・エリツィンのクーデターに負け、ソビエト連邦が崩壊する。エリツィンは、自分の闇の部分を覆い隠すために、ウラジーミル・プーチンを自分の後継者に選んだと言われている。

残念ながら、人間は、善意の「啓蒙」より、悪意の「蒙昧」を望むようである。

「モダニズム」が「啓蒙思想の反動」だというのは、人間に生まれつきの理性があるわけでなく、非合理的な行動にもでるという人間理解のことだ。カンデラは大脳皮質の機能よりも扁桃体、線条体の機能を強調しているわけだ。フリードリヒ・ニーチェも『道徳の系譜』で、自分の欲望を抑え込むことは自己に残酷だと言っている。

私は、人間が理性的でなくとも、それでも“enlightenment”をだいじだと思う。

だから宮澤賢治が軽い意味のほうでの「モダニスト」で充分である。

池澤夏樹は、宮澤賢治が必ずしも禁欲的でないと言う。宮澤賢治が「性」を直接扱った作品が2つあると言う。『泉ある家』と『十六日』である。「性」は情動のだいじな要素で、それによって、個人と個人とが結びついているとも私は思う。

物語は『十六日』のほうが性に対して肯定的であり、私は富島健夫の作品を思い浮かべた。

宮澤賢治は、童話のなかでも、「自己犠牲」より「性の喜び」を強調してよかったのではないか。人間にとって情動が避けられないものなら、争ったり、残酷になったりしないように、そして、人間同士が喜びをもって結びつくように、情動を利用していけばよい。

ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)のなかで、「自己犠牲」について次のように語っている。

「全体として見れば、みずからの起源をロックに負い、啓蒙された私利追求を説いた学派の方が、英雄主義と自己犠牲の名においてそれを軽べつした学派よりも、人間の幸福を増大させるにより大きい貢献をし、人間の悲惨を増大させることにはより少ししか役割を演じない。」

ここで「啓蒙された私利追求」は“enlightened self-interest”の訳である。

池澤夏樹の次のことばには、私は違和感をもつ。

「自由にはしかしいつも責任がついてまわる。田舎の共同体の中では一人の失敗は速やかに全体によって補われるが、都会の失敗者には誰にも手を貸してくれない。個人は個人として突き放される。」

「自由と責任」は、文部科学省の道徳教育『学習指導要領解説』に出てくるキーワードで、「自由」を束縛するものとして「責任」が置かれる。

池澤夏樹のことばは、自分の意志で選択した結果は、他人のせいではないから、どんなに悲惨な結果でも、我慢しろ、につながる。私が思うに、「自由」を求める情動は、人類が生き延びるために、新しいことに挑戦するように、すべての個人に植え付けられた特性である。失敗した挑戦者を暖かく助けるのが、人間社会の当然の知恵だと思う。

「共同体」は“community”の訳である。コミュニティは、田舎でも都会でも必要なものである。旧約聖書の新共同訳は、以前、「会衆」と訳していた“עדת”(エダー)を「共同体」と訳したが、とても良いと思う。池澤の「コミュニテイが都会にない」は、言いすぎであろう。個人とコミュニティは両立するものである。そして、コミュニティは自分で作ることができるものである。


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