猫じじいのブログ

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宮澤賢治論:池澤夏樹の『言葉の流星群』

2019-08-02 22:47:39 | 童話

妻が買ってきた池澤夏樹の『言葉の流星群』(角川文庫)が面白い。宮澤賢治のことばのマジカルな力を改めて教えられた。と同時に、自分が気づいていない池澤の側面をも、見たような気がする。

読むのは、本書の終わりに近い「宮澤賢治の言葉」から始めると良い。本書の前半は硬質で思想的なものに立ち入っているので、読みづらいかもしれない。

ここで、池澤は、自分が「北海道の帯広という田舎町の生まれ」と言う。そして、宮澤賢治が「花巻という実に微妙な場所」に生まれ育ったのが良かったと言う。だから、東京も田舎も見えると言う。

宮澤賢治は、生きている間は少しも評価されなかったが、自分を信じて疑わず、すごいエネルギーで書き続けたと言う。

また、モダニストであって、また、自然や田舎にすごい愛着をもっていると言う。

私は、宮澤賢治は、ヨーロッパ風のカタカナの人名や地名が、詩や童話に出てくるから、ヨーロッパに深いあこがれをもっていると思っていた。しかし、池澤に指摘されてみると、宮澤賢治は、西欧的なものだけでなく、都会的・文化的・文明的なものに強いあこがれをもっている。モダニストという言葉がぴったりだ。

彼の詩や童話に汽車や電信柱がよく出てくる。彼にとって、これは、文明の象徴であって、田舎に進出してきた都会なのである。しかも、田舎の自然を壊す情景とならず、都会的造形物が田舎の自然の中に溶け込んでいる。

宮澤賢治のなかでは、モダニストであることと田舎・自然への愛着とが対立していないように、私は思う。

ところが、池澤は、本書の前半で、もう少し、厳しい目で宮澤賢治をみる。「田舎」と「都会」とは共存できないと考える。

池澤はつぎのように言う。

「田舎と都会のいちばんの違いは、田舎では人は共同体の一員としての資格において生きるのに対し、都会では個人の資格で生きなければならないという点だ。」

「自由にはしかしいつも責任がついてまわる。田舎の共同体の中では一人の失敗は速やかに全体によって補われるが、都会の失敗者には誰にも手を貸してくれない。個人は個人として突き放される。」

しかし、本当にこれは、「田舎」と「都会」との対立なのだろうか。

池澤の言う「都会」とは、体制内で立身出世を目指す「エリート」のことではないか。

私の記憶では、昔の商店街は共同体である。私の母は、少し商品の価格が高くても近所で買い物をしなさい、と言っていた。商店街のみんなは助け合って生活しているからだ。

私は会社に入って、しかも、外資系の会社に入ったが、同僚はみんな仲間だ、と思っていた。競争相手だとは思わなかった。米国の同僚も私と同じ考えだ。研究者や技術者は労働者であって、経営者側の人間ではない。

都会的なものと田舎的なものは共存できる。

それでは、宮澤賢治の抱える本当の問題は何か。

彼は世の中の理不尽や不条理を見ている。農民は天候不順で簡単に借金地獄に落とされる。猟師は好きで熊を殺しているのではないのに、熊の皮と胆を町の旦那に売りに行くと、買いたたかれてしまう。

しかし、それを宮澤賢治は政治的問題として捉えず、自分の個人的な努力の問題としてしまう。そして「自己犠牲」の考えにとらわれてしまう。

「自己犠牲」は必要になるときもあるが、それだけでは政治的問題は解決しない。


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