猫じじいのブログ

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判決のステレオタイプな批判は無意味、津久井やまゆり園殺傷事件

2020-03-17 13:49:38 | 津久井やまゆり園殺傷事件


きのう、3月16日、津久井やまゆり園殺傷事件被告の死刑判決があった。

この裁判は、裁判員裁判のため、裁判所のもとに検察側と弁護側の論点整理が事前に行なわれたため、争点が、被告の「責任能力」に絞られたことは、まことに不適切で不幸なことだった。

きょうの朝日新聞が『視/点』や『論説』で「なぜ犯行が解明されていないのか」と批判していたが、それが「動機」の解明を意味するなら、本来、裁判で行うべきことではない。それに、判決文に理解可能な被告の「動機」が十二分に書かれている。

今回の裁判の問題は、判決文にそれしかないことである。

ひとがおこなった行為に対して、ひとはひとを裁くべきである。刑法199条に殺人罪があり、これにもとづいて裁くべきである。被告は2016年7月26日に「19名を殺害し、24名に傷害を負わせた」のである。

もちろん、裁判のもう一つの役割は、類似の犯罪が行われないように、社会にメッセージを発することでもある。

しかし、裁判で個人の内面に踏み込んで、何か、意味あるメッセージを社会に送ることができるのであろうか。個人の内面に踏み込むことは、自分の心の動きから相手の心の動きを憶測することであり、いまだ科学的に行えない領域である。

それより、もしかしたら、犯行を防げたかも知れない点が幾多とある。そこに集中すべきである。

今回の事件で驚いたことは、被告が津久井やまゆり園での犯行を予告したにもかかわらず、有効な手段がとられなかった、あるいは、とることができなかったということである。

判決文によれば、「午前1時43分頃から同日午前2時48分頃までの間に、本件施設内の各居室又はその付近において、いずれも殺意をもって、利用者43名に対し、それぞれ、その身体を柳刃包丁等で突き刺すなどし」とある。被告が、邪魔されることがなく、1時間以上にわたって、犯行をおこなったのだ。しかも、5人の職員が結束バンドで拘束され、遅い者は午前4時まで解放されなかったのである。誰が職員を解放したかは、判決文に明記されていないが、とにかく、セキュリティ会社ALSOKの警備体制がまったく役に立たなかったことは事実である。ALSOKはテレビで過大広告を行っているのではないか。

また、被告は、仲間と日常生活のように、大麻を服用していることにも驚いた。芸能人の大麻使用に厳しく処罰しているのに対し、それ以外は野放しになっているのではないか、という疑問をもった。大麻がそんなに手に入りやすいのか。

もう一つ、今回の裁判で明らかになったことは、刑法が殺人を禁じていることを、被告は意に介していないことである。裁判官も被告人質問でこの点を確認している。これは、殺人犯を厳罰に処さないからということより、法の権威が、そして民主主義の理念が、日本社会で崩れていることを反映していると思われる。この問題に関して、判決文は言及していない。

   ☆   ☆   ☆
判決文は、ネット上に全文が載っている。それを読むと、非常に丁寧に「責任能力」について論じている。「当裁判所は、犯行時の被告人が完全責任能力を有していたと認めた」との結論に私は納得できる。もちろん、死刑が妥当とは思わないが。

判決文では、「意思疎通ができない重度障害者が不幸を生む不要な存在であり、安楽死させるべきであると考えるに至った」根拠を、是認できないものであるが、理解可能と指摘している。噛みつくなどの重度障害者の行動、その家族の心の揺れ、介護職員の態度、また、政治家の言動、テロの存在、社会のお金への崇拝など、被告の「妄想」を形成する要因があるとしている。

判決文は、また、犯行の5ヵ月前の2月15日に衆議院議長に渡した被告の手紙を引用している。非常に論旨の通った論理的な手紙である。そして、違法行為を行うことを被告は意識している。刑法39条の「心神喪失」あるいは「心神耗弱」の状態では、こうは書けない。

判決文では、また、精神鑑定の中身に踏み入って論じている。この部分はとても良くできている。判決文 曰く、

「本件証拠上、本件犯行に相応の影響を及ぼした可能性があるといえる精神障害は、工藤鑑定が指摘する動因逸脱症候群を伴う大麻精神病のみであるが、動因逸脱症候群を伴う大麻精神病は、工藤医師自身もこれまでに接したことがなく、日本国内で確認された例もない稀有な症例とされており、その病像や診断基準等について、工藤鑑定が確立した医学的知見に依拠したものといえるのかは証拠上必ずしも明らかではない。」

これって、弁護側のために精神鑑定をした工藤行夫を、裁判官が「ののしっている」のである。

私は、精神科医は裁判に関与すべきでないと考えている。アメリカ精神医学会の診断マニュアルDSM-5にも、このマニュアルを裁判で使わないようにという前書きがある。

精神医学は学問として いまだ成立していず、しかし、治療を願う患者やその家族のために、仮説にもとづいて薬を使ってみたり、患者の周辺の人間関係を変えたりしてみているのが、現状である。精神医学を、死刑か無罪かの判断の基準に使ってはならない。

判決文 曰く、

「しかしながら、このことのみから、精神医学の十分な専門的知見に基づくと認められる工藤鑑定を直ちに排斥することはできない。そこで、以下、工藤鑑定のいう病像や診断基準等に照らして、犯行時の被告人が、工藤鑑定のいう動因逸脱症候群を伴う大麻精神病にり患していた疑いが排斥されるか否かを検討する。」

そして、裁判官は、精神医学の「権威」にあえて踏み込み、「完全責任能力を有していた」と判定したのである。

「動因逸脱症候群」とは私が聞いたことがないが、判決文によると「持続した高揚気分、あるいは意欲の異常亢進等能動性が逸脱した状態」のことをいうらしい。「動因」とは “motive”の訳で「逸脱」とは “deviation”の訳と思われる。「症候群」とは、病因をいうのではなく、そういう症状がみられる集まりというのに過ぎない。そのことと、「意志疎通のとれない重度障害者は死ぬべき」とは、つながらない。裁判官が「工藤医師自身もこれまでに接したことがなく、日本国内で確認された例もない稀有な症例」と言うように、「責任能力がない」根拠に まったく ならない。

とにかく、今回の判例をもって、今後、他の裁判でも、弁護人が、刑法39条の「心神喪失」あるいは「心神耗弱」を法廷戦術に利用するのは やめてほしい。


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