私は昔、どうして中世の人びとが「極楽往生」をそんなに強く願ったのか、不思議だった。今回、佐藤弘夫の『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世』(講談社選書メチエ)をもう一度読んで、わかった。「強く願った」というのは、私の思い込みだったのだ。
佐藤は、本書のなかで、私の疑問に、親鸞と弟子の唯円との問答のエピソードで答えている。下記に、そのまま、佐藤の言葉を引用しよう。
〈親鸞の言葉を弟子の唯円が記した『歎異抄』では、いまだにこの世に未練があって、極楽往生したいという気持ちが少しも起こらないのはなぜか、という唯円の質問に対する親鸞の回答を載せている。
「唯円よ、じつは私もそうなのだ。しかしよく考えてみれば、天にも上るほどうれしいはずのことを素直に喜べないのは、煩悩の仕業である。阿弥陀仏は煩悩に覆われた凡夫を救おうというお誓いを立てておられるのだから、往生を急ぐ気持ちが起きないことをもって、いよいよ往生は定まったと確信してよいのだ」〉
人は、死ぬよりも、生きて楽しみたいと思うのは、自然なことだ、と親鸞は答えている。人は死ぬために生まれてきたのではない。死とは、好むと好まざるとにかかわらず、来るだけのことにすぎない。「この世に未練がある」というのは、いまが幸せなんだ。
佐藤によれば、親鸞が数えで19歳のとき、河内にある聖徳太子の廟に参籠した。2日目に夢で、お前は十数年で死に、極楽往生ができると、と聖徳太子に告げられたという。佐藤は、「十数年で死ぬ」という夢のお告げに、親鸞は喜べなかった、と推測する。
実際には、親鸞は89歳で死んでいる。当時としては驚くべき長寿である。「往生を急ぐ気持ちが起きない」ことは、生活苦がなく、しかも、心に動揺がないのだ。
聖徳太子の夢の10年後、親鸞は、京都の六角堂で100日の参籠を行い、95日目に、また、夢のお告げを受ける。「行者が宿業に引かれて女性と交わることになっても、私は美しい女の身になって、行者の相手を務めよう。生前は行者を守り、臨終においては極楽に引導しよう」と白い袈裟をつけた僧形の救世観音(ぐぜかんのん)が告げる。これを機に、伝統仏教を捨て、法然のもとに走ったという。
したがって、「極楽往生」をみんなが願ったというのを、言葉どおり受け取ってはいけない。「いまを楽しく生きたい」というのは、今も昔も同じである。
「極楽往生」とは、「戒律は守れないが 地獄で苦しみたくはない」という庶民の正直な気持ちである。
ここで「末法思想」から疑う必要がある。「末法思想」は、単に古代国家の崩壊を反映したものにすぎないのではないか。
「仏法」の最大のスポンサーは古代国家そのものであった。だから、古代国家が壊れていけば、個人を「仏法」のスポンサーにしなければならない。そのとき、「学侶」からは、学問がない民衆はどうしようもないものに、見えたのであろう。「仏法がすたれた状況では、慈悲深い仏ではなく、荒々しい地獄をもって、教化しないといけない」と考えたのではないか。
親鸞は比叡山で堂僧であったという。身分の高い出で教学にいそしむ「学侶」と異なり、堂僧とは、その下で、寺院の雑務を行う身分の低い「堂衆」であった。地獄絵図で民衆を脅かす伝統仏教に対抗し、生を肯定し、学問がなくても、地獄に行くことがないと、民衆に伝えることこそが、堂僧にとっての新しい使命と感じたのではないか。
そう思う私である。
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