最近は色々なことが つぎからつぎと起こり、年老いた私には、情報の洪水で処理できない。ウクライナの戦争もガザの戦争も、何もかも解決していない。きょう日曜日は、ガザ戦争の発端から半年にあたるというので、朝日新聞はガザ戦争でのイスラエルの暴虐を特集していた。
しかし、マルチタスクができなくなった老人の私には、きょうは『クララとお日さま』に話を絞りたい。金曜日の夜に、仕事の終わった後、明け方まで、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』をいっきに読んだ。ちょっと寝ての土曜日のゴミだしは、若くないので、体に こたえた。
クララは、太陽光(お日さま)発電で動く人造人間で、子どもの玩具である。クララが人間界を観察し語るSF小説である。
読んで感じたのは、イシグロは、誰かに仕えるだけの人生をあえて描くということである。『日の名残り』を読んだときもそう感じた。仕えるだけの人生を送ったのにも関わらず、人造人間のクララも執事のスティーブンスも後悔しないのである。自己肯定感が崩れないのである。
イシグロの作品は、いつも非常に考えて創作されたプロットで、普通の人の普通の人生体験ではない。
イシグロは小説家として成功しているにも関わらず、屈折しているように感じる。普通のイギリス人ではなかった自分の幼少期の体験に自信を持っていないのではという気がする。舞台を日本にしたり、執事という特殊な職業をえらんだり、クーロン人間とかAF(人造友人)を主役にしたりして、虚構の舞台設定で、人間の心理劇を描いている。イシグロは自分の幼少期のことを隠している。
誰かに仕えるだけの人生、それは、マイノリティが必死で社会のなかを生きていくすべでもある。私が40年前にカナダで親しくさせていただいた日本からの研究者の息子は大人になってから自殺している。2世のほうが、葛藤を抱える。1世は国を捨てるのは、生き抜くためにしかたがないと納得している。自分の選択であると納得している。2世は自分の選択ではない。なぜ、差別されるのか、納得いかないが、親の祖国日本で生きていける自信もない。
せっかく、イシグロは名声を確保したのだから、SFに逃げるのではなく、マイノリティとして暮らした幼少期をモデルにした作品も書いてみて欲しい。