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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

伊藤隆の昭和史の理解--革新右翼をめぐって

2020-12-12 23:29:01 | 戦争を考える
 
菅義偉によって日本学術会議会員の任命が拒否された加藤陽子について知りたくて、図書館に『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)を予約したが、11年前に出版されたにもかかわらず、人気が高くて、いまだに借りられない。しかたがなく、彼女の指導教授だった伊藤隆の本を読む。
 
伊藤隆は私の15歳上の昭和史の大家である。しかし、彼の『歴史と私』(中公新書)を読んでも、なぜ、日本がアメリカとの戦争に突っ込んでいったがわからない。わかるのは、彼が民青の駒場のキャップになり、共産党にもはいったが、共産党に疑いを持ち、共産党が大きらいになったということだけである。
 
〈 共産党にどっぷり浸かっていた私は、学生大会の議長になると反対者の発言を許さないなど強引な進行をしたり、民青本部で『若き戦士』という機関紙作りに励んだりしていました。〉
〈 許せないと思うことがいくつかあって、その年の7月に共産党が従来の武装闘争方針から大転換を行った大会、いわゆる「六全協」のときには仲間と代々木の党本部に押しかけて抗議し、日本共産党を見限りました。〉
〈 本郷に来てからは共産党から離れて、やっと本気で近代史の勉強を始めました。〉
 
私が大学にはいったときも、駒場の「学生大会」の無茶ぶり、「強引な進行」は変わっていなかったが、民青が主導権を握っていなかった。本郷にいったときの理学部の「学生大会」はもっと普通のもので、ルールに基づいて運営されていた。民青と新左翼とノンポリとがつりあっていた。このなかで、東大闘争といわれるストライキが始まった。
 
たぶん、共産党の方針転換が定着していたのだろう。「強引さ」は一部の新左翼が引き継いでいたのだろう。したがって、私には伊藤隆の共産党嫌いが理解できない。
 
『歴史と私』は、権力の中枢にいた人間たちの資料発掘についての自分の功績を語っているだけなので、軍部のなかの争いや、軍部の台頭の理由がわからない。私は、大局的には、第1に、軍部を抑えるものないという大日本帝国憲法の欠陥と、第2に、政府による左翼運動の強圧的弾圧とによって起きたことだと思う。
 
ここで、左翼とは、人間が人間を支配することを拒否する者たちを私はさす。
 
つづいて、伊藤隆の『大政翼賛会への道』(講談社学術文庫)を読む。こちらは、軍部や革新右翼の動きに詳しい。伊藤は「革新」という言葉を、体制内ルールを無視しても体制変革を目指す者たちという意味で使っている。「革新」はテロやクーデターに結びつく言葉である。
 
大日本帝国憲法は、天皇が言い出さなければ、「神聖にして侵すべからず」の天皇制を廃止できないよう規定していた。天皇制を支持する右翼が、体制を「破壊」せよという革新右翼になる理由がわからない。
 
伊藤隆は、「革新」派が台頭した理由を、ドイツやイタリアの影響で、米英のデモクラシーすなわち資本主義が日本の大衆の困窮を生んだと考えるようになったからだ、と考えているようである。
 
伊藤は、本著で、近衛新党運動を推進した日本社会主義研究所の暫定綱領を引用している。
 
〈 我等は日本伝来の天皇制をもって日本国民最適の国家形態と信じ、いっさいの経綸をこの前提のもとに行なわんとす〉
〈 我等は生産手段の私有を基礎とする資本主義の無政府経済性をもって我が国民の生活圧殺するものと認め、できえるだけ急速にこれが撤廃を期す〉
 
デモクラシーが資本主義だというのはおかしいが、天皇に主権があるという「国体」を問題にしないと、この誤りに落ち込むのだろう。したがって、左翼への弾圧が「革新」右翼の台頭を招いたと言える。
 
自由平等の「平等」を、人間が人間を支配することの廃止と理解せず、みんなが同じ服を着て同じものを食べると考えたことに、「革新」右翼の誤りがあったと思う。

伊藤隆と司馬遼太郎の幻の対談―坂の上に雲はあったのか

2020-12-09 22:58:57 | 戦争を考える
 
日本近代史家の伊藤隆の『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書)のなかに、興味深いエピソードが書かれている。
 
1986年に中央公論が伊藤と作家司馬遼太郎との対談を企画した。が、会って対談を始めると、伊藤は司馬の発言にかみつき、対談はそのままお蔵入りになったという。
 
司馬は、当時の人気歴史小説家で、NHKのシルクロード紀行やドキュメンタリー番組に進行役でよく登場していた。
 
伊藤はつぎのように書く。
 
〈私は司馬さんの愛読者ではないけれど、『坂の上の雲』は面白いと思っていました。その日も「雲を求めて、坂を上がってきた日本は、その歴史をどう見通すことができるか」という話しができればと考えていました。〉
 
『坂の上の雲』は、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本の青春群像劇である。中心となるのは、陸軍大将になる秋山好古と、その弟で海軍中将となる秋山真之と、俳人の正岡子規である。ここでの「雲」とは、「日本の近代化の目指した夢」だ。
 
〈ところが司馬さんが、「結局、雲がなかった。パルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」
「日露戦争までの日本史は理解できるが、昭和にはいってから20年間の歴史は他の時代とはまったく違い、断絶している、非連続だ」
と言うに及んで、反論のスイッチが入りました。〉
 
日郎戦争までの「明治」がよくて、「昭和」に入って日本が悪くなったというのは、半藤一利など穏健な保守の論客によくみられる意見である。だが、伊藤は気に入らなかったようだ。私は、日清戦争も日露戦争もロマンチックに捉えることではなく、「反軍演説」の斎藤隆夫のいうように、人の命を粗末にする強欲の戦争であると思う。
 
ところが、伊藤がかみついた理由が私と異なっていた。
 
〈坂をあがっていって、雲をつかめたかどうかはわからないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です。司馬さんのような見方は、西欧コンプレックスそのものだし、東京裁判の図式と変わらないではないか、といつもの調子で言い募ってしまったのです。〉
 
このことで、伊藤と司馬は仲たがいをして二度と口をきくことがなかった。
 
伊藤が「西欧的な産業国家になった」で何をいいたいのか、私にはわからない。
第1に、日清戦争や日露戦争をしたから西欧的な産業国家になったと伊藤は言いたいのかという疑問である。
第2に、「西欧的な」とは何をいうのか、ということである。日本の「産業」生産力が欧米並みになったというのか、経済システムが欧米のシステムを模倣できたというのか、意味がわからない。
 
司馬もわからなかったのではないか。それなのに、「西欧コンプレックス」だとか「東京裁判の図式とかわらない」と罵倒されて面食らったのではないか。そして、ものすごく腹がたったのではないか。
 
司馬遼太郎とか半藤一利とかは、明治の近代化の目指したものをデモクラシーととらえる。ところが、いつまにか、陸軍や海軍が変な動きをしだす。第1次世界大戦でドイツの隙を狙い、中国山東省の租借地青島を占領し、海軍は南洋諸島のドイツ領を占領する。ロシアで革命が起き、内乱が勃発すると、シベリアに出兵する。この動きが大きくなって、昭和に日本からデモクラシーを追い出すことになったという思いが、彼らにある。
 
伊藤の言いたいことは理解しがたいが、明治のロマンが昭和の革新派(昭和維新)につながっているとの思いが彼にあり、昭和の新体制運動のすべてを否定する風潮が気にいらなかったのでは、と推察する。もし、そうなら、伊藤が丁寧に説明すれば、面白い対談になったと思う。伊藤は大人気(おとなげ)がない。

12月8日は 79年前に昭和天皇がアメリカに宣戦布告した日

2020-12-08 22:16:25 | 戦争を考える


きょう、12月18日は、79年前に昭和天皇がアメリカに宣戦を布告した日である。

大日本帝国憲法によれば、

第3条 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
第11条 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
第13条 「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」

敗戦後、明らかになったのは、誰もアメリカに勝つと思わなくて、天皇に開戦を言わしめたことだ。国力に10倍の差があったにもかかわらずだ。

ここで、「アメリカに勝つと思わなくて」の言葉に注意がいる。1941年にまだドイツがイギリスに勝つと思っている人々が日本にいたのである。憶病で卑怯者なのに、誰かに頼って強いものに勝つのだと、正義ぶって、ヒロイズムぶって、勝ち馬に乗ろうという人間がいる。残念なことに。

そういうクズ人間たちが、当時、日本政府を形作っていて、「神聖な」天皇にアメリカとの戦争を宣言させたのである。彼ら、クズ人間たちは自分のメンツと地位保全ばかりに気をくばり、自分たちが犠牲を強いることになる国民のことを考えていなかった。

開戦の直前に1941年4月に、日米修復のための交渉がはじまったが、落としどころがあり、妥結できるものだった。日本政府が、アメリカの最後通告と受け取った「ハル・ノート」には、満州国からの日本軍の撤退、朝鮮半島・台湾の放棄が含まれていなかった。

前年の1940年2月2日の立憲民政会の斎藤隆夫の帝国議会代表質問(いわゆる「反軍演説」)を読む限り、「ハル・ノート」をうけいれる考えをもつ議員が、帝国議会にいたのだ。「ハル・ノート」は蒋介石政府との和平を要求している。当時の歴代日本政府は、中国に傀儡政権を立てることにこだわっていたが、斎藤は「日本の国力を対照して」軍事力のある蒋介石政権との和平を提案したものだった。

斎藤隆夫は、また、戦争には正義がない、あるのは、力の論理だけであると演説している。そして、日清戦争も日露戦争も正義の戦い「聖戦」ではないと、つぎのように言っている。

〈わが国はかつて支那と戦った。その戦においても東洋永遠の平和がとなえられたのである。次にロシアと戦った。その時にも東洋永遠の平和がとなえられたのである。また平和を目的として、戦後の条約も締結せられたのでありまするが、平和が得られましたか。得られなかったではないか。平和が得られないからして、今回の日支事変も起こってきたのである。〉

ここで「日支事変」は「日中戦争」のことである。

きょうの朝日新聞は、真珠湾攻撃に参加した航空兵の大変さを記事にしているが、感傷にひたる問題ではなく、日本政府が国策を誤った要因を、あらためて、読者に訴えるべきでなかったのか。《耕論》の格好のテーマになるのではないか。「明治維新」「昭和維新」を批判する必要をも感じる。

私は、日本政府の誤りは、明治政府が「尊王攘夷」の幕末の動乱を反省せず、「富国強兵」路線に走ったことにあると思う。「正義の戦い」はないという斎藤の指摘は正しいと思う。日清戦争も日露戦争も講和条約で相手から賠償金をとっており、日本の領土拡張に結び付けている。おとぎ話の『桃太郎の鬼退治』と同じく、闘って相手から財宝をうばいとることが、戦争の目的だった。

歌人の斎藤茂吉が精神医学を学びにドイツに留学していたときのことである。精神医学の第1人者エミール・クレペリン教授に握手を求めたところ、握手を拒否されたという。他の東南アジアの留学生とは教授がにこやかに握手をしたにもかかわらずだ。斎藤茂吉は、つぎのように推察した。第1次世界大戦でドイツがイギリス、フランス、アメリカと激しく戦っていたときに、日本軍は中国に出兵し、中国でのドイツの利権を奪ったことを、クレペリンが恨んでのことではないかと。

日本の陸軍は、そういう卑怯な行為を繰り返しながら、いつも聖戦を唱えてきたのだ。

第2次世界大戦で、ドイツがオランダ、フランスを占領したことで、東南アジアのオランダ領、フランス領の軍事力が弱くなったのを見て、日本陸軍は南方作戦を展開し、これらを占領する。

まさに、「卑怯な桃太郎」の鬼退治の繰り返しである。

とても残念なことに、「戦後70年の安倍談話」では、聖戦を唱えながら、実態は、戦争で儲けを求める日本軍の伝統を隠している。きちんと、戦争には正義がないという、真実を見つめ直すべきである。

日米開戦の前年の斎藤隆夫の帝国議会代表質問―日中戦争の収拾案

2020-12-07 23:04:35 | 戦争を考える


第2次世界大戦は、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻に、それに対して、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して始まる。日本がアメリカに開戦を通告したのは1941年12月8日である。それまでは、日本・ドイツ・イタリアの三国同盟にもかかわらず、ドイツ・イタリア対イギリス・フランスの戦争に日本は参加しなかった。

伊藤隆監修の中学校教科書『新しい日本の歴史』(育鵬社)に、つぎの簡単な記述があった。

〈1940年、立憲民政党の斎藤隆夫は帝国議会で、日中戦争の解決に関する演説(いわゆる反軍演説)を行ったため、軍部の怒りを買い、議員を除名されました。〉

この斎藤の演説は、2月2日に米内内閣に対する民政党の代表質問として帝国議会で行われた。演説の速記録を読むと、反軍演説というより、日中戦争、および戦争収拾策の批判である。演説の後半三カ所が議会の速記録から削除され、3月7日、政友会、民政会、社会大衆党の賛成で斎藤は議会から除名された。

当時、日本は、日中戦争の泥沼化で、三国同盟にかかわらず、欧州で始まった第2次世界大戦に参加する余裕がなかったのである。

半藤一利の『昭和史探索 5巻』(ちくま文庫)に斎藤の演説の削除された部分が掲載されている。16ページに渡る長いものである。ここでは、私がそれを要約してみた。

1.戦争に正義や善悪というものはない。徹頭徹尾、力の争いである。「国際正義を盾とし、いわゆる八紘一字の精神を持って、東洋の永遠の平和、ひいて世界の平和を確立するために戦っている」とする日中戦争の処理方針「近衛声明」を批判的に検討する必要がある。

2.内閣は汪兆銘新政府を支援し、蒋介石政府の撃滅をかかげているが、汪兆銘新政府には実体がなく、蒋介石政府は軍事力を有する。新政府ができても、維持できないのではないか。日本の国力を対照して、蒋介石政府と和平工作をすすめるべきである。

3.戦争は国民に経済的にも肉体的にも大きな犠牲をしいている。歴代の政府は国民に向かって、しきりに「精神運動」をはじめているが、それだけで、日中戦争を解決できない。

非常にまともな演説であるが、しかし、帝国議は斎藤を議員から除名した。除名に賛成した政友会、民政会、社会大衆党の議員たちはバカではないか。

斎藤から質問を受けた内閣総理大臣の米内光政は、海軍出身であるが、親米派と言われていた。そして、彼は斎藤の代表質問を評価したといわれている。それなのに、なぜ、斎藤は除名されたのか、私にはわからない。

斎藤の演説をみんなが理解したなら、翌年の日米交渉は妥結にいたっただろう。ハル・ノートは、強硬案としてでなく、両者が納得できる案として受けとめられただろう。

この後、11月までに、つぎつぎと帝国議会の政党は解散し、近衛文麿の「大政翼賛会」に合流した。すでに共産党は非合法化されており、翌年の12月8日のアメリカへの開戦を帝国議会は止めることができなくなったのである。

日本が79年前の12月8日にアメリカに戦争をしかけた理由がわからない

2020-12-06 23:37:29 | 戦争を考える


もうしばらくすると、79年前に日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した12月8日がやってくる。日本は79年前にアメリカと戦争したのだ。

伊藤隆が監修した育鵬社の中学校教科書『新しい日本の歴史』を読んでもなぜアメリカと開戦したのか、わからない。というのは、その年の1941年4月から、日米関係修復の交渉が始まったばかりだ。教科書には、つぎのように書かれている。

交渉の途中の7月26日に、「日本政府は、東南アジア産出の重要物資を確保するために日本陸軍がフランス領インドシナ南部に軍を進めました。
これに対しアメリカは、国内にある日本の資産を差しおさえるとともに石油の対日輸出全面禁止に踏み切り、日米の対立は決定的なものになりました。」

「日米交渉が行きづまる中、軍部では対米開戦も主張されるようになりました。1941年11月、アメリカは、中国やインドシナからの日本軍の無条件撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄などを要求する強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました。東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました。
 1941年12月8日、日本海軍はハワイにある真珠湾の米軍基地を攻撃し、アメリカ海軍の艦隊に壊滅的な損害を与えました。」

伊藤隆は「自虐史観」に抗して新しい歴史教科書を作ろうとした人である。その彼が、日本側からアメリカに開戦をしかけ、アメリカ海軍の艦隊を壊滅させたのだから、日本が奇襲攻撃をかけたのは事実としてよい。日本の武士道には奇襲攻撃が昔から多かった。サムライは昔から卑怯者である。

読んでわからないのは、日本が中国との戦争に疲労困憊しているのに、交渉の途中で南方での戦争を拡大したことである。インドシナに戦線を拡大するのは、本当に日本政府が意図したことだったのか、という疑問が起きる。

昭和天皇は、当時、日本は「下剋上」であったという。日本政府も軍部も、若手官僚や若手将校を抑えきれない状態であったのではないか。当時の日本の上層部は、ヴィジョンもなくリーダーシップもとれないぼけナスばかりだったのではないか。

日本が南方に戦線を拡大したことで、アメリカから経済封鎖を受けたが、そのことだけで、アメリカと戦争する必要はない。現在、アメリカがイランや北朝鮮に行っている経済封鎖とくらべ、ゆるいものである。

11月のハル・ノートを最後通告と東条英機が受けとったというが、ここには、満州国のことがはいっていない。すなわち、アメリカは、対ソ連を考え、交渉条件から日本の利権である満州国を外している。当時、満州国と中国とは区別されていた。ハル・ノートは、逆に、泥沼化している中国との戦争から日本が撤退するチャンスを与えたのだ。

また、日本・ドイツ・イタリアの三国同盟は日本にとって何の役にもたっていない。三国同盟を破棄して、第2次世界大戦からの中立国を表明すれば日本にとって良かった。

ハル・ノートは日本にとって「最後通告」ではなく「助け船」であったのだ。

さらに、不思議なのは、満州国樹立にしろ、中国との戦争にしろ、南方の軍事的占領にしろ、陸軍が行ってきたことで、その尻ぬぐいのために、海軍がアメリカと戦争をする理由がない。海軍が奇襲攻撃をしたということは、アメリカと日本の戦力の違いを意識していたはずである。

さらにさらに、1945年8月に日本が全面降伏したとき、軍部も政府も戦争に勝つと思っていなかったと言う。

ところで、このようなことが起きたのは、「日本国民」が戦争を望んでいたからだ、という説がある。

しかし、この「国民」とは誰のことか。「治安維持法」があった日本に、絶対君主制の大日本帝国憲法下の日本に、自由意志の「国民」というものがそもそもあり得たのか。無政府主義者や社会主義者や共産主義者を殺したり、牢に閉じこめたりしている日本には、戦争を止めるだけの力が「国民」にあり得たのだろうか。

国民の政治的不満を政府や軍部の上層部が「尊王攘夷」「富国強兵」に結びつけた結果、勝てないと思っているアメリカと戦争せざるをえないことになり、多数の国民を飢えと死に追い込んだのではないか、と私は思う。

そして、敗戦後、軍部も政府も戦争を望んでいなかったとして、戦争責任を「日本国民」に押し付けたのである。いわゆる「一億総ざんげ」である。