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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

NHKスペシャル--駄々っ子の昭和天皇を伝える『拝謁記』

2019-08-18 19:27:33 | 戦争を考える


昨日(8月17日)のNHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁記」~」を見て、まだ このような番組を作る力がNHKにあったのか、と感心させられた。

ほぼ同時にネット上に公開した資料、初代宮内庁長官田島道治の昭和天皇『拝謁記』(https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1)も読みがいがある。

番組は、『拝謁記』にもとづき、1952年、敗戦後7年目の、平和条約締結を期して、昭和天皇が国民に向かって直接、自分の思いを告げようとして、できなかったことを、再現ドラマ仕立てにしている。私の好みとしては、再現ドラマはやめ、『拝謁記』の朗読と関係者の証言、時代背景の映像と識者の解説・コメントという、ドキュメンタリーの体裁をとって欲しかった。

平和条約(Treaty of Peace)とは、戦争終結と敗戦国の主権の回復の合意(Agreement)のことである。日本は、1945年に連合軍(米軍)に無条件降伏して、占領されていたのだから、国会が開かれ新憲法が制定されたにもかかわらず、日本に自己決定権がなかったのである。

1952年の独立記念式典で、昭和天皇が言いたかったことは何か。勝てない戦争をした陸軍に腹を立てていたのである。大日本帝国憲法(明治憲法)では、軍隊は天皇の軍隊である。

  第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
  第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
  第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス

陸軍が天皇の統帥に従わなかったことを怒っている。しかし、天皇がはっきりと陸軍に命令したのは、1936年に陸軍若手将校がクーデター(2.26事件)を起こし、皇居を取り囲んだとき、それに怒って「捕らえ厳罰にせよ」としたときだけである。

だから、天皇は、陸軍が「自分の意をくまない」と怒っているのである。統帥権があるのだから、具体的に命令できるのだから、そうしないで不満をぶちまければ、ただの「駄々っ子」である。

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『拝謁記』によれば、天皇は、中国に進出していた「関東軍」が1928年に満州軍閥の張作霖を乗っている列車ごと爆破して殺害したことに、怒っている。

事件を不問にした当時の田中義一首相を天皇は叱責したが、「首謀者」の河本大作が予備役になっただけで終わり、3年後、関東軍は独断で中国東北部を武力で占領し(満州事変)、政府もそれを追認した。明治憲法では、陸海軍は首相の下ではなく、天皇の下にあるのだから、統帥の責任は天皇にある。

天皇は田島長官に次のように言う。

「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣の時ニ 張作霖爆死を厳罰ニ すればよかつたのだ。あの時ハ 軍でも大して反対せず 断じてやれば きいたらう と思ふ」

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太平洋戦争に関して、天皇は田島長官に次のように言う。

「東條が唯一の陸軍を抑え得る人間と思つて内閣を作らしたのだ。勿論見込み違いをしたといえばその通りだが」

「平和を念じながら止められなかった」、

「東条内閣の時ハ 既ニ 病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」

「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」

「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハ あのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角 負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハ あゝ一部の者の意見が大勢を制して了つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」

「太平洋戦争ハ 近衛が始めたといつてよいよ」

近衛は東条の前の首相である。太平洋戦争を天皇に奏上(意見を申し上げること)したのは東条内閣で、安倍晋三の祖父の岸信介も奏上に署名している。明治憲法では戦争の布告は天皇がおこなう。天皇が太平洋戦争を決断したのである。

「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか或いは適当ニ 妥協して あとの事ハ 絶対駄目と出てくれゝば よかつたと思ふ」

「五五三の海軍比率が海軍を刺戟して平和的の海軍が兎に角くあゝいふ風ニ 仕舞ひニ 戦争ニ 賛成し又比率関係上堂々と戦へずパールハーバーになつた」

1921年のワシントン海軍軍縮条約が、1941年の日本の真珠湾奇襲攻撃の遠因になったと言っている。昭和天皇の「駄々っ子」ぶりが強くみえている。

「実ハ 私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが 条約の信義といふ事を私は非常ニ 重んじてた為、単独媾和ハ せぬと独乙と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」

「私ハ 実ハ 無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ 持つて行きたいと念願し、それには一寸こちらが勝つたような時ニ 其時を見付けたいといふ念もあつた」

「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或はもつと早く止める事が出来なかつたかといふやうな疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思ふし、又首相をかへる事ハ 大権で出来る事故、なぜしなかつたかと疑ふ向きもあると思ふ」

「いやそうだらうと思ふが 事の実際としてハ 下剋上でとても出来るものではなかつた」

結局、昭和天皇は、臣下である陸軍を統制できない、と愚痴をこぼしているだけである。

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天皇は、独立記念式典で話すべき「おことば」で、田島長官につぎのようにアドバイスを求めている。

「そうする(講和条約に自分が調印すると)と(領土が)徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事で たとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国二なるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」

「今一つは再軍備の問題だ こゝで私の責任の事だが従来の様にカモフラージュでゆくかちやんと実状を話すかの問題があると思ふ 此点急に媾和が出来てあはてぬやうに考へておいて欲しい」

田島長官は、新憲法にもとづき、天皇の「おことば」草案を当時の吉田茂首相に見せ、同意を取ろうとした。
吉田は、独立記念式典で、次の一節を天皇が国民に向かって話すことを止めた。

「国民の康福を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡に顧みて、悔恨悲痛、寝食為に、安からぬものがあります」

私には、なぜ、吉田がこの削除にこだわったかわからない。番組では「勢の赴くところ」と陸軍を責めているのがいけないという編集であったが、吉田は、「兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招く」という、事実だがネガティブな敗戦の受け止め方が、当時の政治的状況に無用な混乱を生むと判断した可能性もある。

結局、独立記念式典の昭和天皇の「おことば」は次のようになった。

「平和条約は、国民待望のうちに、その効力を発し、ここにわが国が独立国として再び国際社会に加わるを得たことは、まことに喜ばしく、日本国憲法施行五周年の今日、この式典に臨み、一層同慶の念に堪えません。
さきに、万世のために、太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受託して以来、年をけみすること七歳、米国を始め連合国の好意と国民不屈の努力とによって、ついにこの喜びの日を迎えることを得ました。ここに、内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に戦争による無数の犠牲者に対しては、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。又特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒心し、過ちをふたたびせざることを、堅く心に銘すべきであると信じます。」

わたしは、「過ち」が入っているから、これはこれでいいのではないか、と思う。現在の「戦没者記念式典」の天皇の「おことば」には「反省」という語があるが、「過ち」はない。

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昭和天皇は、戦後も、自分が君主だと思っていて、平和条約をむすんだのだから、憲法改正して再軍備したほうが良いと思っていたことが『拝謁記』からわかる。これについて昭和天皇と吉田茂首相とが直接議論し、その記録が残っていれば、面白かったと思う。

NHKに、天皇退位論、再軍備論、憲法改正論とからめて、『拝謁記』のドキュメンタリーをもう一度作り直すべきである。

「駄々っ子」昭和天皇に、道義的だけでなく、法的にも戦争責任があると私は思っており、その裁判が行われなかったことが、とても残念である。

総理大臣や天皇が全国戦没者追悼式でのべるべきこと

2019-08-17 21:01:45 | 戦争を考える


全国戦没者追悼式とは、「先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため」、政府が8月15日に主催する追悼式のことである。

「先の大戦において」とは何かが意味不明だが、Wikipediaでは「第2次世界大戦」となっている。意味不明というのは、日中戦争(支那事変)は1937年に始まっているし、日米戦争(太平洋戦争)は1941年に始まっている。「第2次世界大戦」ではないはずだ。

そして、日本政府が1945年に連合軍に降伏してから、すなわち、戦後も、海外植民地からの引き揚げで、満蒙開拓団だけで約8万人が亡くなっている。捕虜になってシベリアに抑留にされた日本兵 約6万人が亡くなっている。

本当は、政府が「先の大戦において亡くなられた方々」とは誰なのか明確にしないといけない。

追悼されるのは誰か不明確なまま、総理大臣の安倍晋三はこの6年間、全国戦没者追悼式で、同じような式辞をのべている。また、今上天皇(令和天皇)も、平成天皇と同じような「おことば」をのべている。

毎年同じ「式辞」「おことば」でも内容が適切であれば、それで良いのだが、そうでないから問題なのだ。

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安倍の式辞から、3つの文を取り出し、問題を指摘したい。

「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは決して忘れることはありません。」

「犠牲」とは「神に捧げるお供え(動物や人間の死)」のことで、それが転じて、「大義に殉じて死んだ人」を意味する。平成天皇は、けっして、「犠牲」という言葉を使わなかった。安倍が「犠牲」という言葉を毎年使うのは、「先の大戦」、日中戦争や日米戦争が日本の「大義」によると考え、それを国民に訴えたいからである。

また、安倍は次のようにのべる。

「ご遺骨が一日も早くふるさとに戻られるよう、私たちの使命として全力を尽くしてまいります」

厚生労働省は、これまで、DNA鑑定から日本人と思われない、海外から遺骨を収集してきたことを、隠していた。これは、海外の地にもともと住んでいた人の墓を掘り起こし、盗んだことになる。もし、日本人の遺骨だとしても、誰の遺骨か もはや わかりようがないから、結局は、日本のどこかに日本政府がまとめて投げ込むだけである。埋められるべき「ふるさと」さえ、わからないのである。無理を承知で、日本政府が遺骨を収集するのは、「日本兵は死んで御霊となって靖国神社に戻る」という体裁にこだわっているからだ。

安倍は「式辞」でいかなる反省も「謝罪」も述べていない。ただ、つぎのように言う。

「平和で、希望に満ちあふれる新たな時代を創り上げていくため、世界が直面しているさまざまな課題の解決に向け、国際社会と力を合わせて全力で取り組んでまいります。」

反省なしの「さまざまな課題の解決に向け、国際社会と力を合わせて全力で取り組む」とは、『新しい国へ――美しい国へ完全版』で示唆するアメリカを盟主とする軍事行動への参加につながってしまう。

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令和になっての今上天皇の「おことば」(全文)は、平成天皇と同じく、次のように、3つの段落からなっている。

「本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」

「終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。」

戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」

例年と同じく、今上天皇は「犠牲」という言葉を用いず、代わりに「反省」という言葉を入れている。問題は第3段落である。

天皇の「おことば」は何を「反省」しているか、いつも不明なのである。戦後70年の追悼式でだけ、「さきの大戦に対する」を「深い反省」の直前に挿入した。翌年からこの語句がなくなり、また、なんの反省かわからない「おことば」になった。

今上天皇は、今回、まずいことに、第3段落のはじめに、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」という語句を入れてしまった。より曖昧な「深い反省」になってしまった。

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敗戦50年の村山富市の談話では、「終戦」ではなく「敗戦」という言葉をつかい、次のように語った。

「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」

する必要がなく、してはならない「戦争」をした「国策の誤り」こそ、「深く反省」すべきでことである。そのことを、「さきの大戦で亡くなった方々」と国民にお詫びするのが、全国戦没者追悼式での、総理大臣と天皇の務めである。

暴力は人間の本能か、『兵士というもの』の違和感

2019-08-16 21:05:09 | 戦争を考える


『兵士というもの』(みすず書房)で展開するゼンケ・ナイツェルとハラルト・ヴェルツァーの議論にどうも納得がいかない。

本書の最後、第4章の最後の節「暴力」で彼らは、次のように書く。

〈暴力は、文化的・社会的状況からして有効であると考えられる場合には、文字通りすべての人間集団によって行使される。男性も女性も、高い教育を受けた者もそうでない者も、カトリックもプロテスタントもムスリムも。〉

本当にそうなのか?同じ捕虜の盗聴記録から、フェリクス・レーマー(Felix Römer)が統計的に有意義な差があると言っている。

また、ナイツェルとヴェルツァーは、さらに次のように書く。

〈戦争になれば、人間が死に、殺され、身体に障害を抱えることについて憤ったり驚いたりするのは、適切ではない。戦争とはそういうものだからだ。〉

戦争とは悲惨なものだ、戦争は嫌だという情動は、戦争を回避するために大切ではないか。

〈その代わりに問わなければならないのは、人間はそもそも殺害を止めることができるのか、やめることができるとすればそれはどのような社会的条件においてなのか、ということだろう。〉

「社会的条件」とは具体的に何を言うのか、彼らは述べていない。

〈そうした死者が存在するのは、「戦争」という参照枠組みが行為を要求し機会の構造をつくり出すからであって、そこでは暴力を完全に囲い込んだり限定したりすることは不可能である。〉

彼らの言う「参照枠組み」は、集団的思い込みのことであり、個人というものを認めないドイツの保守的な社会構造に問題があるのではないか。

〈近代は暴力とは無縁だという信頼は幻想だ。人間は非常に多くの理由によって人を殺す。兵士たちが人を殺すのは、それが彼らの任務だからだ。〉

3つの文からなる言明の、2番目の文の「人間」には同意しかねる。ここは「ある人は」ではないか。最後の文も、彼らが集団主義に埋没しているから、このような結論になると思う。

人間は別に暴力が好きなわけではない。

たしかに、暴力は、家族間にもあり、教室にもあり、社会にもある。
ある子どもは、暴力によって他人を支配できると学習する。そして、暴力の結果、勝者に生まれる万能感は、快楽と暴力とを結びつけるかもしれない。これは家庭内暴力の発生機構でもある。しかし、学習するのだから、人間の暴力は本能ではない。

また、暴力に接して、暴力を嫌悪する子どももいる。暴力を受ける側の苦痛を学習するからだ。

そして、いったん、家庭内暴力が生まれても、多くの場合、子どもは親に暴力をふるわなくなる。自分が親の助けがないと生きていけないことを悟るからだ。

暴力が社会を支配しなくなる希望は、人間の多様性にあると思う。戦争が必要だというのは妄想である。集団行動ができない「発達障害児」こそ、人類の希望であると思ったりする。

あの戦争は必要だったのか、その責任は問われたのか

2019-08-15 22:13:22 | 戦争を考える
 
8月15日は、74年前、昭和天皇が日本の降伏を国民にラジオで伝えた日である。終戦記念日というが、連合軍(実際には米軍)に対し日本が降伏の調印を行った日は9月2日である。したがって、米国やフランスでは、対日戦勝記念日は9月2日である。ソビエト連邦は9月3日を対日戦勝記念日とする。
 
8月になると、年中行事のように、米軍による大空襲、広島、長崎の原爆投下、南方戦線や北方諸島での戦死、特攻隊、満州や朝鮮からの引揚など、戦争の過酷さが、メディアで強調される。
 
しかし、「戦争が過酷」だけでは感傷に流れてしまう、と私は危惧する。「戦争は必要だったのか」「なぜ、戦争してしまったのか」の問いに答えなければならない。そして、「日本人は戦争を起こした人々を適切に罰したか」という問いにも答えないといけない。
 
私の郷里は北陸にある。日本が日露戦争を戦わず、韓国を併合していなければ、北朝鮮と韓国とに分かれることもなく、今頃は、朝鮮半島が経済的に栄えており、北陸も、朝鮮やロシアとの貿易で栄えて、裏日本ではなく、表日本と呼ばれていたのでは、と私は思っている。
 
そうなれば、もちろん、日韓関係にこじれを起こした「歴史問題」なんてないのである。
 
あの太平洋戦争は、する必要がなく、してはならなかった、と思っている。太平戦争は、1941年12月8日に日本がアメリカに開戦を通告したのである。日本が満州の利権を手放せば、戦争を回避できたのである。そうすれば、日本人の満州からの引き揚げも整然と行われ、殺されたり、病死したり、子どもを捨てたり、女性が襲われたりしなかったのである。
 
どこで、日本の歴史が狂ったのか。すべての発端は吉田松陰にあると思う。安倍晋三は「日本の独立」を唱えるが、まさに、そこに根本の「悪」があると思う。それは「富国強兵」「軍国主義」へと人々を誘う。
 
「大東亜共栄圏」が、昭和のすべての戦争を正当化する魔法の言葉となっている。「大東亜共栄圏」は、日本による軍事的アジア支配を言っているのにすぎない。
 
戦争をする必要はない。19世紀末には、イギリス、フランスは軍事的拡張より外交を重要視するようになっている。日本も平和裏に「富国」になることに専念すれば良かったのである。
 
安倍晋三の「新しい国へ――美しい国へ完全版」を読むと、日本に交戦権が必要だと言っている。そして、米国を世界の軍事的支配の盟主と考え、日本をその主要な軍事的パートナーにしようとしている。
 
日本人が悲惨な戦争体験をしたのに、なぜ、いまだに、軍事によって世界平和を確保する、という者が日本にいるのか。不必要な戦争をした責任を、74年前に、日本人がちゃんと問わなかったからである。
 
安倍晋三は、戦勝国が敗戦国を裁くのは不当だというが、ドイツのように、日本人みずから、戦争責任者を裁けば良かったのである。
 
まず、吉田松陰を徹底的に批判しなければならない。そして、明治維新の立役者の誤りを指摘しないといけない。大日本帝国憲法(明治憲法)に秘められた制度的欠陥を指摘しなければならない。大東亜共栄圏思想の誤りを指摘しなければならない。そして、昭和天皇の戦争責任を追及しなければならない。
 
明治憲法は君主政をしいている。天皇以外はすべて臣民である。しかし、実際には、権力は維新の立役者が握っていた。「天皇機関説」が実態を表わしていたのである。しかし、維新の立役者が死んでいき、世代が変われば、明治憲法に書かれていることをそのままに信じる者が増えていく。とくに、操り人形であった天皇自身が、自分は主権者でしっかりしないといけないと考えるようになる。昭和天皇はまさにそう人に育てられたのである。
 
8月7日の朝日新聞で、歴史学者の吉田裕が昭和天皇について次のように述べている。
 
「日本軍が受けた被害については、ほぼ確実に把握していました。」
「敵に与えた損害は、誇大に報告されがちでした。」
「実態とかけ離れた戦果が天皇のもとに情報として集められ、敵も苦しいはずだという楽観が生まれてしまいました。」
「1945年2月に元首相の近衛文麿が戦争の終結を上奏したときに、天皇は『もう一度戦果を挙げてからでないとむずかしい』と答えています。」
「沖縄戦の場合は、天皇は海軍の側に立って、作戦に介入していたといえます。」
「天皇が発する最高の統帥命令を、陸軍は『大陸命』、海軍は『大海令』といいますが、戦後の占領期、大陸命や大海令の存在は占領軍に秘匿されました。隠さなければいけなかったという事実が、天皇が作戦に関与していたことを証明しています」
 
昭和天皇は、太平洋戦争に関与していたのだから、責任を問われねばならない。有罪である。いかなる処罰を与えるかには議論の余地がある。絞首刑なのか、禁固刑なのか、天皇退位なのか、天皇制廃止なのか。
 
少なくとも、敗戦を挟んで、元号が同じというのはおかしい。私は、新憲法の制定にあたって、天皇制を廃止すべきだったと思う。
 
【補遺】
昭和天皇を罰すると、戦争を支持した普通の人々が自分を責めて苦しい思いをするという意見をネットでみた。何が「普通の人々」だ。戦争に反対して抑圧された、逮捕された、あるいは、拷問を受けた人々もいるのだ。昭和天皇を罰しないから、なぜ、軍国少年や軍国少女になったのかを 戦後 自問できず、戦後の道徳教育の復活を許してしまう結果になったのだ。子どもが政府に騙されないためにどうすべきか、真剣に考えて欲しい。

ナイツェルとヴェルツァーの『兵士というもの』の書評

2019-08-08 00:57:57 | 戦争を考える


ゼンケ・ナイツェルとハラルト・ヴェルツァーの『兵士というもの』(みすず書房)の書評がネッ上で意外とない。もしかしたら、訳者、小野寺拓也の「訳者あとがき」が一番良い書評かもしれない。

昨年の6月30日の朝日新聞の書評に、保阪正康が次のように書いている。

《ごく平凡で真面目な庶民が軍服に身を包み、殺害に慣れて変身していく様は、不気味である。残虐な行為が×せられないとなると、つまり道徳も法体系も存在しない空間では人は人でなくなる、ということも教えている。》

これって、本書の第1章の最後にある著者たちの次の言葉をそのまま言い換えただけである。

《ホロコストやナチによる絶滅戦争が示しているように、民間人や兵士、親衛隊員、警官の大多数は、そうした行動が促され、求められていると思われる場合には排他的、暴力的、非人間的なふるまいをした一方で、これに抵抗し、人を助けようとしたのはごく少数にすぎなかったからである。》
《心理学的に考えればナチ・ドイツの住人たちは、他のどの時代のどの社会とも同じくらいふつうの人々であった。……「罰せられることのない非人間性」(ギュンター・アンデルス)の誘惑に屈しなかった集団は、ひとつも存在しなかった。》

ナイツェルとヴェルツァーは、倫理、人間愛なんて、外的な参照枠組み、「戦争」の前に無力だと言っている。では、ナチ・ドイツの住人は無罪なのか。個人の個性を無視して「ナチ・ドイツの住人」と集団をひと固まりにして人間を考えるだけで、良いのだろうか。

とにかく、わたしの率直な感想は、ナイツェルとヴェルツァーの分析に不満だということだ。

小野寺拓也は「訳者あとがき」で、盗聴された会話の記録は捕虜の「武勇伝」であると指摘している。わたしの「悪人自慢」と同じ受け止め方である。

また、小野寺は、同じ盗聴記録からレーマー(Felix Römer)が異なる結論を得ていると指摘する。レーマーの著作“Kameraden: Die Wehrmacht von innen” (Gebundene Ausgabe)は、戦争における多様な個人を描いているという。なお、この著作は日本語に翻訳されていず、わたしは現物を読んでいない。

小野寺拓也によれば、レーマ―は「人がどのように戦うかは、単に状況のダイナミクスによってのみ決まるのではなく、個人的な態度や意図によっても決まるのだ」と、ナイツェルとヴェルツァーと異なる見方を述べる。

さらに、レーマーは700人程度の捕虜への質問票の数量的分析を行っており、これも興味深い。小野寺拓也によれば、ヒトラーへの支持率は宗派別ではプロテスタントがカトリックより明らかに高く、また、世代別では、1916年(第1次世界大戦)後に生まれた若者の支持率が高かった、とある。

わたしは、「倫理」とか「モラル」とか「人間性」とかが、生まれながらにして人間にそなわっている、とは思っていない。わたしは、人間は記憶によって動く機械だと思う。ナイツェルとヴェルツァーは外から注入された記憶を参照枠組みと呼んでいるのだ、と理解している。

本来は、個々人が異なる体験をして、異なる記憶をもっているはずだ。それなのに、どのようにして、個々人の記憶に集団妄想が入り込んだか、それが問題である。それは「言葉」と「暴力」によると思う。それは、オオカミやハイエナと同じく、リーダの声に従うように人間の脳ができているからだ。人間は特別の生き物ではなく犬と同じなのだ。

ヒトラーの支持率がプロテスタントで高いのは、かれらの教会の説教の言葉をヒトラーが意識的になぞっているからだ(高田博行『ヒトラー演説 熱狂の真実』(中公新書))。

また、国防軍が第1次世界大戦後にヒトラーを右翼思想の「太鼓たたき」に雇ったが、ヒトラーは国防軍の思惑を越えた言葉の力をもっていた。ナチスが議会第1党に躍り出たとき、ヒトラーは、国防軍と手打ちをし、「長いナイフの夜」にナチスの武装組織SAの幹部レームらを皆殺しにし、国防軍とナチスの上に立った(イアン・カーショー『ヒトラー 上下』(白水社))。

「第三帝国」(ナチス・ドイツ)に起きたことは、日本にも起きうる問題でもある。

日本国政府は、集団行動を取らない子どもたちを「発達障害児」として教育から隔離し、その他の子どもたちには、権力に従順であるよう、道徳教育をたたき込んでいる。すなわち、日本国政府は、いまは戦争に直接参加していないが、戦争を遂行するための、心の準備を、国民に対して、させている。
なかでも安倍晋三はトンデモナイ男である。かれは天皇のマネをしてテレビに出て、日本版ヒトラーになろうとしている。

記憶に集団妄想が侵入するのを防ぐものはなにか。権力による洗脳への抵抗力(レジリエンス)はどこにあるか。家庭環境と人間の脳の特性の個人差である。すなわち、多様な個性である。ここに希望がある。