goo blog サービス終了のお知らせ 

猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

死んで鬼神となる - 日本人の戦争

2020-07-15 22:33:37 | 戦争を考える


75年前に敗戦で終わった日本人の戦争が、コロナ騒ぎで忘れられないために、昨年書いたブログを再録する。

去年(2019年)の2月24日に、日本を愛した研究者ドナルド・キーンが96歳で亡くなった。
数年前、彼の本『日本人の戦争―作家の日記を読む』(文藝春秋)に、私は衝撃を受けた。
多くの日本の作家たちがガダルカナル島で「死んで神となった兵士たちを称揚した」とあるからだ。

ドナルド・キーンの驚きは、知的なはずの作家たちが、1942年8月から翌年2月まで続いたガダルカナル島の戦闘で、多くの日本兵が銃弾や飢餓で死んだことに悲しまず、個人的な思いを書く日記で、その死を讃えたことにある。

わたしの驚きは、兵士が「死んで神となる」という考えである。英米文学やドイツ文学、ロシア文学の素養がある作家、ジャーナリストが「死んで神となる」と本気で考えたことである。これは、天皇の神格化と同じく、わたしにとっては理解できない。

しかし、戦後まもないわたしの子供時代を思い出すと、少なくない年寄りが天皇を神として参拝していた。とんでもないことだが、戦前、戦中の作家やジャーナリストの中に「死んで神となる」と考えがあったのも、事実であろう。
天皇が神であるという考えや、戦いで死んで神になるという考えは、日本の伝統にはもともとなかった。明治維新体制の官僚が創作し教育を通じて広めた新たな宗教観である。

日本には、人間がすごい恨みを持って死ねば、「鬼神」になってたたるという考えは、確かにあった。菅原道真を祭るのは、鬼神の霊をなぐさめるためである。
「たたり」を恐れてではなく、死んだ開祖者を「守り神」として祭るのは、徳川家康が最初かと思う。この場合は、開祖者が自分の子孫を守るため、自ら「鬼神」となって祭られるのである。

天皇が祭司として自分の祖先に仕えるのはありうるかもしれない。しかし、生きている人を神として祭るという創作が、74年前まで、日本でまかり通っていたのは理解しにくい。しかも、戦争で死んだ兵士も神となって、生きている神のもとに馳せ参じるとは、思うだけで、おどろおどろしいホラー映画のようである。この官製ホラー物語の舞台が、74年前まで、靖国神社であった。そこに戦争で死んだ兵士が天皇のために鬼神となって集まるのである。

1945年の敗戦に伴って、宗教団体法や治安維持法などが廃止され、靖国神社の特権的位置も廃止された。靖国神社は普通の貧乏神社になった。この靖国神社に、1978年、第2次世界大戦のA級戦犯が合祀される。いま、戦後74年になっているのに、一部の国会議員が靖国神社に参拝する。1975年以来、天皇は靖国神社を参拝していない。

小熊英二の『「誤解」を解く「枢軸国日本」と一線を』では、合祀を決めた靖国神社の宮司の次の言葉が紹介されている。
「現行憲法の否定はわれわれの願うところだが、そのまえに極東軍事裁判がある。この根源をたたいてしまうという意図のもとに、“A級戦犯”14柱を新たに祭神とした」
このようにして、靖国神社は普通の神社から大日本帝国の復興を願う神社になった。一部の国会議員が参拝するが、決して天皇が参拝しない神社になった。新しいホラー物語の舞台になった。

【引用文献】
ドナルド キーン:「日本人の戦争―作家の日記を読む」文藝春秋 (2009/07) ISBN-13: 978-4163715704
小熊英二:「『誤解』を解く『枢軸国日本』と一線を」朝日新聞2014年10月14日夕刊3面


イージス・アショアの撤回で ほころんだ日本の戦略はどこにいくのか

2020-06-20 22:41:58 | 戦争を考える

政府がイージス・アショアを撤回すると、きょう各社の新聞が伝えていた。これが、アリの一穴となり、日本の防衛戦略の全面的ほころびに至るのでは、と予測する。

平均的日本人の戦争観とはどんなものか。原武史は、きょうの朝日新聞で、農本主義者 橘考三郎が列車でたまたま聞いた、純朴そうな村の年寄りたちの話しを紹介していた。

「早く日米戦争でも おっぱじまれば いいのに。」
「ほんとうにそうだ。そうすりゃ ひと景気くるかも知らんかな、ところで どうだい こんな ありさまで勝てると思うかよ。なにしろアメリカは大きいぞ。」
「いや そりゃどうか わからん。しかし日本の軍隊は なんちゅうても 強いからのう。」
「兵隊は世界一強いにしても、だいいち軍資金がつづくまい。」
「うむ」
「ともかく腹がへっては いくさというものは かなわないぞ。」
「うむ、そりゃそうだ。どうせ負けたって かまったものじゃねぇ。勝てばもちろん こっちのものだ、思う存分金をひったくる、負けたってアメリカなら そんなひどいことも やるまい、かえってアメリカの属国になりゃ楽になるかも知れんぞ。」

これは、『日本愛国革新本義』(建設社、1932年)の第3篇第1章からの引用で、原文は国立国会図書館デジタルコレクションで検索すれば、誰もが無料で読める。

1932年の前年に、満州事変がおきて、日本の関東軍が満州(中国北東部)を占領した。アメリカは、これに対し、1932年1月7日に、日本の満洲全土の軍事制圧を中華民国の領土・行政の侵害とし、道義的勧告(moral suasion)をした。

橘は言いたいことは、「農民が貧困の中では いくさなんて できない」という現実と、いっぽうの「日本人がお金への欲にまみれている」というモラルの破綻だ。

戦争は日本人にも悲惨な結果をもたらす。しかし、自分たちの息子が戦争で死ぬことも、自分たちの村が空襲で焼かれることも、日本が占領されあちこちに米軍の基地ができることも、この「純朴そうな村の年寄りたち」は、想像できず、「ひともうけ」ができるのではとか、「負けたって、アメリカの属国になれば、今より楽になるかも」と話す。

1945年、日本はアメリカに負けて属国となった。

日本の戦後の憲法は、「戦争はしない」「軍事力はもたない」を選択したのに、1950年 朝鮮戦争がはじまり、警察予備隊が総理府の機関として作成された。自衛隊のはじまりである。日本は、アメリカの属国として、アメリカの軍事戦略の一翼を担うようになった。

朝鮮戦争では、軍需物資を日本がアメリカ軍に補給することで、「ひともうけ」する人が続出した。そのかげでは、機雷を海から掃除することや、軍需物資を戦地に送り届けること、看護婦として従軍することなどがあった。日本人も死んだわけである。

日米安保条約は、1952年の日本の独立、すなわち、日本に勝った連合国との平和条約の締結に合わせ、日本の米軍基地の恒久化のために、結ばれたものである。日米安保条約は1960年に改定され、その後は自動継続され、現在に至る。

1973年にアメリカの撤退で終わる、アメリカとベトナムとの戦争においても、日本の米軍基地は、戦争の後方基地であった。

日本は、第2次世界大戦後、アメリカの属国で、日本の戦後憲法のタテマエ「戦争はしない」「軍事力はもたない」に守られて、一部の人たちの犠牲をのぞけば、戦争の最前線にたつことなく、日本人の多くが「ひともうけ」をしてきたのである。

1980年代にはいって、日本のアメリカ属国の位置に変化が起きる。日本がアメリカにとって経済的脅威になったのだ。日本は安い労働力で、アメリカ社会を脅かしているというものだ。歴代日本政府は、経済摩擦を避けるために、アメリカ属国ですという態度をつよめ、なんとか、許してもらおうとした。

これが、国際協力との名目で自衛隊を派遣したり、米軍基地の経費を日本政府が肩代わりしたり、アメリカの高価だが時代遅れの兵器を買ったりした理由だ。これも、日本の輸出産業が「ひともうけ」を続けるためである。

2010年代にはいって、その前提が、崩れている。日本が、安い労働力によった競争力が衰えてきている。韓国、中国が1980年代の日本にとって代わっている。アメリカから見える直接の経済的脅威が中国、韓国になっている。韓国はアメリカの属国ですという態度にでているが、中国はアメリカに逆らっている。

そして、アメリカはかってのような経済大国でもない。国内には、社会不安の要素をいっぱい抱えている。

そのようななかで、安倍晋三は、トランプに脅されて、兵器の高い買い物をすることになった。すでに、イージス艦を8隻買った。さらに、買うために、陸地にイージスシステムを作ることを決めた。一部の日本人が「ひともうけ」をするために、役に立たない兵器を買い続けることに不満をもつものが、自衛隊内部にでてくるのはあたりまえだ。

こんど、河野太郎防衛大臣が、イージス・アショア計画の撤回を決めたのは正しい決断である。

しかし、日本がアメリカの属国として、国際協力との名目で自衛隊を派遣したり、米軍基地の経費を日本政府が肩代わりしたり、アメリカの高価だが時代遅れの兵器を買ったりした政策を政府が転換するのか。転換して、日本はどこにいくのだろうか。

戦後の75年間、日本政府は「金もうけ」と「アメリカの属国」以外、基本政策をもたなかった。

日本の戦後の憲法、「戦争はしない」「軍事力はもたない」という選択は、まだ、有効であると私は思う。


悪魔の兵器「原爆」の誕生は科学者の心に責任がある?

2020-02-24 00:11:32 | 戦争を考える


きのうの深夜、NHKで、2018年のBS1スペシャル『“悪魔の兵器”はこうして誕生した~原爆 科学者たちの心の闇』の再放送があった。思わず、99分見いってしまった。

NHKが制作したドキュメントである。しかし、語りが誰か、声は誰かの名前(クレジット)があるが、誰が取材して、誰が制作して、誰がシナリオを書いたかが、番組紹介に出てこない。ドキュメントを信頼するか否かは、語り手や声優の迫真性ではなく、取材者や製作者やシナリオライターへの信頼性である。決して、NHKという組織を信頼してではない。

[訂正]You Tubeにこの番組の録画あがっていたので確認すると、最後の数秒に画面最下部にクレジットが出ていた。ディレクターが鈴木冬悠人、製作が内田俊一、古庄拓自、取材が山田功次郎、宇佐美悠紀、リサーチャーが中里雅子とあった。大作ありがとう。

ネットで探してみると、鈴木冬悠人が、取材の動機を書いていた。

《取材のきっかけは、去年制作した戦争番組だった。
第二次世界大戦中に、日本を徹底的に焼い弾空爆したアメリカの空軍幹部たちが、口をそろえてこう証言していた。
「日本に対する原爆投下は、軍事的には全く必要のない作戦だった」。それを聞き、大きな疑問を抱いた。
じゃあ、いったい誰が、何のために原爆を製造し、日本への投下を推し進めたのか。》

その答えは科学者である、というのが、このドキュメントである。「軍や政治家でなく、科学者自身が原爆開発を提案し、積極的に推進し、投下も主張した」。すなわち、科学者の心に闇があるのだという。

ルーズベルトの科学技術アドバイザーのヴァニーヴァー・ ブッシュとロスアモス研究所所長のロバート・オッペンハイマーが極悪2人組だという。
    ☆
私はヴァニーヴァー・ ブッシュの名前を聞いたことがないので、ウィキペデイアを見てみると、1917年、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学から工学博士号を受けている。

彼は、第1次世界大戦時に、潜水艦を発見するための技術を開発した。1932~38年には、MIT副学長と工学部学部長を務めた。1939年、研究資金の潤沢なワシントン・カーネギー研究機構の総長職となった。非公式な政府の科学顧問としても助言をする立場となり、ブッシュはアメリカ国内の研究のを軍事的な方向に舵を取った。1940年、アメリカ国防研究委員会(NDRC)の議長となった。

すなわち、ブッシュは「物理学」と無縁のひとであり、軍事研究をてこに権力に近づき、行政管理畑の道を歩いた人である。私にとって、ブッシュがまったく知らない人であって、あたりまえである。

番組では、ブッシュは物理学の研究資金と物理学者の職をふやすために、軍事研究を推進したとしている。

《科学は病気をなくし生活水準を向上させているのに、物理科学への資金援助は大幅にカットされ完全にうち捨てられた。》
《戦争が始まる前の1930年代、アメリカを覆った世界大恐慌。博士課程を修了しても科学者の多くは仕事に就けませんでした。この戦争に貢献し、科学者の地位をあげるとブッシュは強い決意でのぞんだ。
この戦争は科学技術が左右する。もっと強力な爆弾を造りあげて他人の頭上に落とすのも悪いことではない。》

回想では、自己を正当化するために何とでも書く。

アメリカが第2次世界大戦に参戦するのは、1941年12月である。そのまえに、ブッシュはアメリカ国内の研究を軍事的な方向に舵を取っている。単に、アメリカ国内の好戦的な上流階級の人々に合わせて、自分の野心を成し遂げようとしたのではないか。
    ☆
もう一人の重要人物は、ロバート・オッペンハイマーである。彼については、多少の知識をもっている。分子科学でボルン=オッペンハイマー近似というものがある。彼の功績はこれだけである。彼は大学で化学を専攻した。イギリスのキャヴェンディッシュ研究所に留学し、化学を学んだ。オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論物理学の世界へとはいった。

ドキュメントでは、オッペンハイマーは名誉欲が強く自己中心的で、能力が認められず、ふてくされていたとか、性格が悪いとか、中傷のオンパレードであった。とにかく、その彼が、39歳の1943年、ロスアラモス国立研究所の初代所長に採用され、原爆製造研究チームを主導した。

一般に、科学者は権威を尊重せず、集団行動が嫌いだから、組織の管理者に向いてない。お金が好きで役職が好きで権力者の意志を気にするものが管理者に向いている、と上の人間は考える。私が会社に勤めているときも、上はそうだった。

これは あくまで一般論だ。ドキュメントでは、オッペンハイマーはロスアモス研究所で起きた開発の疑念・反対にたいして話し合いで解決しようとしている。その点で非常に良識的な市民としての一面を見せており、極悪人とは言えないかもしれない。

物理学者レオ・シラードがルーズベルト大統領に原爆開発の手紙を送ったのは1939年である。このとき、ブッシュはルーズベルトに軍事技術の助言をしていた。ルーズベルトが正式に核兵器開発を認可したのは1942年10月で、ブッシュと副大統領のヘンリー・A・ウォレスが立ち会っている。プロジェクトの管轄を陸軍にした。また、ルーズベルトは10月11日にはイギリスの首相ウィンストン・チャーチルに書簡を送り、協力を要請した。

原爆開発プロジェクトの暗号名はマンハッタン計画である。

チャーチルに書簡を送ったのは、イギリスでも原爆の研究が進められていたからだ。ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられていた。その報告が1941年10月、ルーズベルト大統領に伝えられている。

じっさいには、それ以前から、ウラン鉱石の採掘、ウラン235の濃縮が研究されており、1942年12月22日に、エンリコ・フェルミやレオ・シラードらが世界ではじめて核分裂連鎖反応を人工的に引き起こした。これによって、いろいろな物理定数を測定できた。

当時、日本もドイツも核兵器研究にとりかかっていたが、核分裂連鎖反応を引き起こすことができず、臨界半径などの重要な設計に必要な定数を求めることができなかった。

すなわち、ブッシュには大統領と副大統領とともに核兵器開発プロジェクトへの資金投入を決定できるほどの権力があった。

オッペンハイマーは雇われた駒である。2016年のBS1スペシャル『原爆投下 知られざる作戦を追う』では、陸軍将校につねにプロジェクトの進行を報告する立場、中間管理職であった。今回のドキュメントは、オッペンハイマーはどうしてこの機密プロジェクトを知り得たのか、どうしてブッシュは彼を雇ったのか、いつ雇ったのかを、明らかにしていない。

ブッシュから見れば、オッペンハイマーに物理学的才能がないから、核兵器開発の技術的管理に最適とみえたのではないか。それは、ロスアモス研究所の目標は、すでに科学的研究ではなく、兵器として設計し、製造することであったからである。

今回のドキュメントで私が得た新しい知識は、ハリー・S・トルーマンが大統領になるまで、核兵器開発プロジェクトを知らなかったことである。民主党内で、トルーマンはルーズベルトと対立する立場にあり、1941年には、軍事費の不正使用を追求していた人である。1944年にルーズベルトが大統領に4選されるため、トルーマンを副大統領にした。その彼が、大がかりにすでに進展していた核兵器開発プロジェクトを、1945年4月12日にルーズベルトが急死するまで、知らなかったのだ。

これには、びっくりした。ブッシュとルーズベルトは完全機密として原爆の開発を進めることができたのだ。そうできたのは、愛国心のマジックとともに、情報流出に厳しい罰則が規定されていたからであろう。英国の科学者が、ソビエト連邦に原爆製造の機密を漏らしたことで、戦後、死刑になっている。

ルーズベルトが急死したことで、ブッシュやオッペンハイマーはプロジェクトを戦争終結の前に完成させ、使用しないといけないとの思いに追い込まれた、とドキュメントは描く。
特に、ブッシュはなぜ200億(150億?)ドルものお金を投資したか、とアメリカ国民に責められないように、原爆のおかげでアメリカが戦争に勝利したという、演出をせざるをえない立場になった。

ドキュメントでは、核兵器の開発を知ったトルーマンは、開発された原爆をどこで使うかの委員会を発足させた、という。それに、ブッシュとオッペンハイマーとが参加しており、必要がないのに広島、長崎に原爆を落としたのは、科学者ブッシュとオッペンハイマーのせいであるとする。すなわち、科学者は悪魔の心をもっているとする。

委員会は5人でできているから、「ブッシュ、オッペンハイマー=科学者=悪魔」の論理は、ちょっと、無理だと思う。

それに、BS1スペシャル『原爆投下 知られざる作戦を追う』では、1945年8月6日の広島原発投下はトルーマン大統領の承認をとっておらず、オッペンハイマーの上司の、プロジェクト責任者のレズリー・リチャード・グローヴス陸軍少将が命令したという。子どもや女をターゲットに原爆を使うなという大統領の指示を無視し、実行されたものであるという。

このように、BS1スペシャル『“悪魔の兵器”はこうして誕生した~原爆 科学者たちの心の闇』はツッコミどころが満載である。たしかに、核兵器は個人的な野心によって開発されたと言えるが、「科学者たちの心の闇」は言い過ぎで、ブッシュの野心と陸軍上層部の野望とが合致して起きたことと考えた方が良さそうに思える。

愛国心は野心と容易に合体しやすいのである。

P3C哨戒機は米軍基地から飛ぶのか、日本の海外基地からか

2020-01-13 15:58:53 | 戦争を考える


今回の自衛隊中東派遣は 言っていることと やっていることとの 乖離が はなはだしい。

「自衛隊派遣のきっかけは、トランプ米大統領が、ペルシャ湾やホルムズ海峡などを監視する有志連合の結成を提唱し、各国に参加を求めたことだ」という記事を読み、当然、ペルシャ湾やホルムズ海峡などを監視するのだと思っていた。

ところが、イエメン沖が今回の派遣したP3C哨戒機の活動範囲になる。このP3C哨戒機の拠点は、イエメンの対岸のジブチ共和国にある。しかも、米軍の基地の隣にあるという。

私はうかつだった。自衛隊は、海外に軍事基地をもっていたのだ。

イエメンでは内戦が起きていて、サウジアラビアは毎日イエメンを空爆している。そのサウジアラビアに、自衛隊派遣とともに、安倍首相は外遊している。これはなんだ。

ジプチの日本の軍事基地は2011年6月に開かれたという。400人の自衛隊員が常駐しているという。2011年は民主党政権の時代である。沖縄に新たな基地をつくらせないと言っていたとき、イエメンの対岸に、米軍の隣にイヌ小屋のような小さな基地をつくった。

日本の国会はどうして、自衛隊の海外軍事基地を承認したのだろう。

これまでの任務は、「海賊対処」だという。海賊がいたら、どうしていたのだろう。

こんどの60人派遣は、これまでの「海賊対処」活動と どうちがうのだろう。「日本関係船舶の安全確保を目的とする情報取集」とは、何かがまったくわからなくなる。

確実に言えることは、米軍の補完勢力として、日本が中東に軍事力を行使するための既成事実をつくっていることだ。日本人は、もう一度立ち止まって、自衛隊の中東派遣を考え直す必要がある。

きょうは日米開戦、真珠湾奇襲攻撃の日から78年

2019-12-08 22:38:55 | 戦争を考える


きょう、12月8日は、78年前に、日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日である。日米戦争(太平洋戦争)が開始された日である。

あすは朝日新聞の休刊日というのに、今日の朝日新聞で、78年前の真珠湾攻撃に言及しているのは、『天声人語』だけである。つぶやきとして言及するのではなく、ちゃんと論説すべきではないか。

1年前のきょう、朝日新聞は種々湾攻撃について、次のように記している。

「1941年12月8日、旧日本海軍の空母6隻、航空機約350機などからなる機動部隊がハワイ・真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃。米軍艦6隻が沈没し、米兵約2400人が亡くなった。日本側の被害は未帰還の航空機29、帰死者64人など。宣戦布告が遅れ、米国では「だまし討ち」との批判がある。」

作家など知識人は、日米開戦にどう思ったのだろうか。きょうの『天声人語』によれば、大正デモクラシー期の著名な作家の武者小路実篤は開戦直後につぎのように書いているという。

「真剣になれるのはいい気持ちだ。僕は米英と戦争が始まった日は、何となく昂然とした気持ちで往来を歩いた」

武者小路だけではない。ドナルド・キーンの『日本人の戦争―作家の日記を読む』によれば、多くの日本の作家たちや文芸評論家たちが、1941年12月8日の真珠湾攻撃に感激し、「黄色の肌の大和民族が白人を打ち破る時がきた」と、日記に書きつづった。

戦後「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳で人気を集めた英文学者伊藤整は12月9日の日記につぎのように書いた。

「私などは(そして日本の大部分の知識階級人は)13歳から英語を学び、それを手段にして世界と触れ合ってきた。それは勿論、英語による民族が、地球上のもっともすぐれた文化と力と富とを保有しているためであった。(中略)この認識が私たちの中にあるあいだ、大和民族が地上の優秀者だという確信はさまたげられずにいるわけには行かなかった。(中略)私たちは彼等のいわゆる「黄色民族」である。この区別された民族の優秀性を決定するために戦うのだ。」

すなわち、真珠湾攻撃によって、いままでの英米に対する劣等感が振り払われ、スッカとした(昂然とした)と大部分の知識階級人が言っているのだ。

智恵子抄を書いた純情詩人の高村光太郎も、真珠湾攻撃の一報を聞き、智恵子との官能的愛を歌い上げるのをやめ、「天皇あやふし」「私の耳は祖先の声でみたされる」と言い、「個としての存在」から「共同体精神の卓越した表現人」として、戦争を鼓舞する詩を書いた。

ところが、『拝謁記』によれば、昭和天皇は、戦後、つぎのように語ったという。

「「五五三の海軍比率が海軍を刺戟して 平和的の海軍が兎に角くあゝいふ風ニ 仕舞ひニ 戦争ニ賛成し 又比率関係上 堂々と戦へずパールハーバーになつた」

この発言は、真珠湾攻撃が奇襲攻撃であると認めている。しかも、1921年のワシントン海軍軍縮条約が、1941年の日本の真珠湾奇襲攻撃の遠因になったとまで言っている。

昭和天皇は、日米開戦の理由もはっきり認識していて、つぎのように言う。

「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか 或いは 適当ニ 妥協して あとの事ハ 絶対駄目と出てくれゝば よかつたと思ふ」

日米の衝突は、日本が、満州事変を機に、中国東北部を植民地化したことにあると、昭和天皇は認識している。

4年前の8月の「戦後80年談話」では、安倍晋三は、その点をあいまいにしている。

「その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。」

あたかも、日本こそ被害者のような表現となっている。そして、3年前の12月27日に真珠湾の慰霊碑に訪れ、つぎのようにスピーチした。

「耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江」

と、その感傷の言葉が最後まで続き、その途中に、「The brave respect the brave. 勇者は、勇者を敬う」を引用し、お互いによく戦ったではないか、と戦士をほめたたえる挿話をいれた。

そう、安倍晋三は軽いのである。日本の過去のあやまちを顧みないのである。

評論家の保阪正康は、2日後の朝日新聞のインタビュー記事で次のように言う。

「真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、アジア太平洋地域で1千万単位の人々の命が失われた。私たちの国はどんな教訓を学んだのか。首相のスピーチの眼目はそこにあったが、真珠湾という「点」からしか語られず、深みはなかった。」
「首相のスピーチは戦争の一部だけを切り取り、ポエムのように語っている感じだった。」

真珠湾攻撃は奇襲ではない、アメリカの陰謀だと言う人がいるが、日本のサムライの伝統的戦術は奇襲である。まともに戦えば、戦争は消耗戦になる。源義経は、背後から突然平家を襲い手柄を立てた。また、いまでも、鎌倉の地中から、不意討ちの夜襲で死んだ人の人骨が大量にでてくる。鎌倉政権内部で互いに奇襲で殺し合っていたのだ。

たぶん、戦争にルールがないのは日本だけではないだろう。真珠湾攻撃に関連して、秦郁彦は、軍人は戦争をしたがるもので、武士道では、夜襲をしても、枕を蹴っ飛ばして殺せば、起こしたのだから、それでいいのだとコメントしていた。戦争に正義はない。戦争はしてはいけないのだ。

日本政府は、真珠湾攻撃の30分前に米政府に「宣戦布告」の文書を渡すように、米駐在大使に指示したという。そしては、実際には、その文書が米政府に渡されたのは真珠湾攻撃の1時間後であった。

米国政府に渡すように米国の日本大使館に打電した文書は14部からなる大量のものであり、それまでの交渉経過を長々とかいてあり、最後の3行に日米交渉の打ち切りの旨が書かれていた。宣戦布告とは書かれていない。

したがって、これを傍受し、暗号解読ができても、すぐには宣戦布告と米国政府は理解できないだろう。日本的あいまいな意思伝達手段を用いたのである。

最後になるが、きょうのNHKテレビは、真珠湾攻撃の犠牲者の追悼式典の報道をつぎで終えている。

「真珠湾攻撃から78年がたち、当時の体験を語ることができる人が少なくなる中で、アメリカでは当時の記憶を若い世代にどのように伝えていくかが課題となっています。」

だいじなのは、「どのように」ではなく、「なにを」伝えるかで、「当時の記憶を」では、その答えになっていない。「真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、アジア太平洋地域で1千万単位の人々の命が失われたことからの教訓」こそ重要なのである。