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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

原発の汚染水を「福島の処理水」という朝日新聞社説に怒る

2019-12-27 13:50:36 | 原発を考える

けさの朝日新聞の社説『福島の処理水 地元との対話を重ねよ』には、多いに不満である。

福島第1原発の汚染水の処分方法をめぐって、政府の小委員会で海洋放出と大気放出に絞ったことに対する社説なら、それが妥当なのか、妥当でないのかの意見をはっきり述べるべきである。判断ができないのなら、どんな情報が判断のために必要なのか、そして、その情報の公開を求めるべきである。それがジャーナリストしての責任であると思って、私は、お金を払って朝日新聞を購読しているのだ。

記事のタイトル「福島の処理水」が、まず腰がひけている。「福島第1原発の汚染水」であろう。汚染されているから、これまで、タンクのなかに処理水を閉じ込めて保管していたわけだ。下水の処理水とは異なる。

また、「地元との対話を重ねよ」がおかしい。人類の共有財産である、海洋や大気に、放射性物質をすてるとは、地球の環境破壊である。「地元との対話」に朝日新聞は何を期待しているのか。朝日新聞は、全人類的な問題を、地元の問題だと地元に押しつけ、孤立させ、苦しませているだけではないか。

政府や大企業は資金がたっぷりあるから、黒を白と思わせるために、大宣伝を打てる。じっさい、そのために、広告会社の電通や芸能界の吉本興業、ジャニーズ、AKBやオリンピックさえを利用してきた。それに対抗して、真相を読者につげ、政府や大企業の不正をただすのが、ジャーナリズムのあるべき姿ではないか。

政府の小委員会は、「大気放出や海洋放出は過去の事例にもとづいて」というが、だいたい、福島第1原発の事故は過去に類をみない大事故なのである。比較的近いのはチェルノブイリの事故であるが、私はチェルノブイリ事故を上まわるものと考えている。スリーマイル島事故より桁違いに大きい事故で、スリーマイル島事故で、トリチウム(三重水素)を蒸発処理したというのは、前例にはならない。

福島第1原発のメルトダウンした原子炉1号基、2号基、3号基には計256トンの核燃料があった。核燃料はとけて原子炉から落ち、原子炉建屋の底にデブリを作った。ウランもプルトニウムも重金属だから、固まって金属状の塊を作る。それがデブリだ。

現在、原子炉建屋の最上階の保管プールにある使用済みの核燃料を2028年までに撤去するとしている。しかし、デブリの撤去は予定を立てることができないほど危険なのだ。

核燃料は、1㎝ほどの小粒の塊(ペレット)に焼き固められ、ジルコン合金の筒(燃料棒)に詰められ、間をおいて64本ぐらい集めて燃料集合体となり、原子炉に入れられる。ウランやプルトニウムはたがいに近づくと自然に核分裂連鎖反応を起こす。これを人為的に止めているのが制御棒で、核分裂反応で出てくる中性子を吸って、連鎖反応を抑えている。

メルトダウンとは、原子炉のなかの核燃料が高温で溶け、原子炉から外に落ち、制御棒が役に立たない状態になったことである。

いまだにトリチウムがデブリから出てくるというのはおかしい。原子炉中の水は、メルトダウン前にすべて蒸発したはずである。すると、溶け落ちて固まったデブリのなかで、核燃料が核分裂連鎖反応をつづけ、発生した中性子が、冷却水の水分子の水素にあたり、中性子を吸って三重水素に転化していると推論できる。

すなわち、デブリのなかで核燃料がまだ燃え続け、中性子などの放射線をだし、核のゴミをまだ生産し続けている。

放射性物質は人為的に放射線をださない物質に変えることができない。放射性物質は、どこかに、隔離するしかない。これを海洋や大気に放出するとは、核のゴミは海や空に捨てればよいという、トンデモない前例を日本が作ることになる。

地球環境を破壊しないためには、海や空を汚さないために、東京電力と日本政府の責任で、コストがかかっても、安全な場所に放射性物質を隔離しないといけない。方法はいくらでもあり、東京電力と通産省は、単にコストの面から、議論しているだけだ。

廃炉作業の用地確保に支障が出るというのも、ウソで、原子炉建屋の前には十分な作業用地がある。廃炉作業が進まないのは、デブリがまだ核分裂連鎖反応がつづいているからで、あと何年したらすべて燃え尽きてしまうか、まだ検討がついていないからだ。

忘れてはいけないのは、福島第1原発の事故は過去に類をみない大事故なのである。そして、政府事故調の畑村洋太郎も国会事故調の石橋哲も事故の解明ができていないと言っているのである。

事故の解明もできていないなかで、日本政府が原発を再稼働させているのを、どうしてジャーナリズムが容認するのか。
歴史にまれな腐敗の塊である安倍政権に、ジャーナリズムは怖気づいているのではないか。
腐敗を見過ごすことは、腐敗をさらに進めることになる。

朝日新聞の『「失敗」を直視せよ』は ピント外れ、原発事故調査

2019-10-18 23:33:26 | 原発を考える


今日(10月18日)の朝日新聞《オピニオン&フォーラム》、『「失敗」を直視せよ 原発事故の真相が解明されないまま「安全神話」は続く』は、突っ込みが弱い。インタビュー記者の大牟田徹が悪いのか、元政府事故調委員長・東京大学名誉教授の畑村洋太郎が逃げているのかわからない。しかし、一般論から言うと、人は自分に都合が悪い事実をごまかしがちで、ジャーナリストはそれに切り込むべきである。

2011年の福島第一原発事故の後、高校の同窓会の連絡で、原発廃止を書き込んだら、日立に務めた同窓生から、文句がとんできた。技術には失敗がつきもので、失敗から学んで問題を克服すればよいのであって、原発廃止とはけしからんと、いうものだ。

畑村洋太郎は、「失敗を直視せよ」で何の失敗を解明し、何をしたかったのだろうか。なぜ、彼は、「再現実験」にこだわったり、「自分が原子力の門外漢である」ことに悔いたりするのか。失敗は、技術の進歩のためのコストだという考えにとらわれていたのではないか。

原子力発電は日本の技術ではない。単にアメリカから買ってきた技術である。それに原子力発電も大した技術ではない。畑村洋太郎は「自分が原子力の門外漢」と言うが、原子力発電は色々な技術の寄せ集めであって、原子核分裂連鎖反応の知識だけでできているのではない。

原子力発電とは、要は、大規模プロジェクトを組み、いろいろな技術の専門家を集めて、発電装置を設計し、製造し、運用するというものである。ジェット旅客機の設計、製造、運用をちょっと複雑化したものだが、日本政府や国際機関の安全に対する監視・規制が、原発は旅客機ほど機能しなかったということである。

だから、政府事故調の目標が、原発事故の技術的解明よりも、事故の実態を記録し、保存し、公開することを第1の目標に置くべきで、「失敗学」が技術革新に有効であることを立証するためではない。

事故関係者は、自分にとって不都合な事実を隠蔽しようするから、その意味では、関係者に率直に打ち明けてもらうことで再発防止の鍵を探る「失敗学」も有効そうに見える。しかし、じっさいには、嘘がつけないように、傍証を固めていく手法が必要だったのではないか。司法取引のようなことで、会社に忠実な職員や役員から本当のことが聞けると思えない。

たとえば、原発を知る私の友人たちは、福島第1原発の所長、吉田昌郎が原発に無知で、事故処理に落ち度があったため、重大事故に発展した、と疑っている。しかし、いまや彼は死人で、会社の秘密をもって墓場に行ってしまった。

原発事故は、ジェット旅客機の事故より、影響の空間的時間的範囲が大きい。それにもかかわらず、原発を推進してきた経済産業省が、原発の認可、監視を担当している。経済産業省は原発の推進を行うということ自体が誤りで、特定の産業育成に政府が加担していることなる。推進は原子力メーカに任せるべきである。経済産業省は、認可・監視業務だけでなく、原発事故調査を常設し、小さな事故でも、普段から自分の力で調査すべきである。

原発を推進するというような誤りを経済産業省が起こすのは、日本が原子爆弾の保有国になる潜在的技術力を確保しようという たわけたことを自民党が思っているからだ。原発事故直後に、原発維持の理由として、じっさい、ある自民党議員がテレビでそう語っていた。

日本が原発を買ってきただけで、設計にかかわっていないことは、原発の位置からしてわかる。海面から高い位置に原発を設置すれば、防潮堤を作らなくても、津波の被害から免れる。一本のポンプで水を引き上げられる高さは限界があるが、途中に貯水池を置けば、いくらでも引き上げられる。日本全国の原発は、わざわざ、岩盤を削って、一本のポンプで水が引き上げられる位置にしている。また、配電盤など水に弱い設備の防水が甘い。設置場所の比較的自由なディーゼル非常電源を高台に置かない。

日本は原発の設計にかかわらなかったが、製造では部分的に下請けしている。その意味で、本当に設計基準を満たしていたか、を調査しなければならない。事故では、冷却水を失っていた原子炉から放射性物質を含むガスがぷかぷか吹き出ていた。これは、設計が容認していた範囲なのか、製造技術の問題なのか、わかっていない。

畑村は、「福島第一原発の事故では1号機の非常用復水器が作動しなかったことが悲劇を招きました」と言う。じつは、事故直後に、私の友人も同じこと言っていた。原発技術者には常識のことらしい。作動しなかったことは、無知のゆえなのか、それとも、別の事情があってできなかったのか、をも解明する必要がある。原子炉の鋼鉄は、古くなるともろくなる。それに、非常用復水器を作動させ、急冷させたとき、原子炉の鋼鉄にひびがはいることはなかったのだろうか。

現在、福島第1原発の原子炉は、放射線レベルが高くて、近づいて詳しい調査ができない。それでも、同じタイプの原子炉は日本のいろいろな場所にある。ジェット旅客機の重大事故があると、いっせいに、同じタイプの旅客機が検査される。日本の原発では、これがない。日本政府は電力会社の自己申告書を受け取るだけである。日本政府は、安全を点検せず、世界で一番厳しい安全規制を行っていると平気でウソを言う。

「安全神話」とかいう問題ではない。単に自分利益のために他の人の不幸に無関心であるだけである。原発の安全性も必要性も疑わしい。

そして、関西電力の原子力本部長が地元の助役や調達企業からお金をもらっていて、平然としている。

日本政府と電力会社と原子力メーカが一体となって腐りきっている。技術以前の問題から解決しないとだめだろう。

朝日新聞の『「失敗」を直視せよ』は、「18日からNHKで始まるドラマ『ミス・ジコチョー』」の宣伝にすぎないように思えてくる。

小泉進次郎バッシングは汚染水海洋放出、原発推進を強要する経産省の陰謀

2019-09-25 23:10:34 | 原発を考える


いま、ネットやテレビで環境大臣の小泉進次郎がバッシングされているが、経済産業省がらみの人脈が行っているようである。維新代表の松井一郎の、大阪湾に福島第1原発の汚染水海洋放出の発言に、最初驚いたが、この動きの一環である。

わかりやすく言えば、安倍晋三一派が、小泉進次郎を脅かして、原発推進の汚れ役をやらそうとしているだけである。父親の小泉純一郎がどのように息子をかばえるか、小泉進次郎が腹を決めて安倍晋三と闘うか、原発を廃止できるかが、これからそれが問われるだろう。

小泉進次郎バッシングの中身を読んでみると、二酸化炭素削減のため原発を動かせ、福島第1原発の汚染水の海洋放出は安全と言え、と強要している。経済産業省の政策支持の太鼓たたきになれと言っている。

私は自民党の支持者でないので、小泉進次郎をかばう義理はない。どう腹を決めるか見物しているだけである。父は口先で自民党をぶっ潰すといったが、自民党は極右になっただけで、つぶれていない。リベラルでもない、デモクラティックでもない自民党、国家主義で財界の味方の自民党は消滅した方が、日本のためになる。小泉進次郎も正論を言って自民党を潰した方が良い。

福島第1原発の汚染水は安全基準を超えている。安全でないのである。安全基準を満たすために薄めて海洋に放出するというのは、まともな話ではない。経済性を最優先する経済産業省に、安全でないと異議をとなえるのが環境省の仕事である。(このブログの『大阪湾に放射能汚染水を放出、松井一郎市長は正気?』で3つの視点から福島第1原発の汚染水を論じたので、参照してほしい。)

二酸化炭素の排出量を減らすために原発を推進するという話も経済産業省がつくった嘘である。このウソを科学的に否定するのも環境省の仕事である。

火力発電の排出する二酸化炭素と、原発で排出される放射性廃棄物と、どちらが危険か、と言えば、放射性廃棄物のほうがずっと危険である。二酸化炭素は人体に直接危害を加えないが、放射性廃棄物が直接人体に危害を加える。原子力発電すれば必ず放射性廃棄物がふえ、それを無害化する方法はない。

二酸化炭素は大気中にたまると温暖化効果があるが、じつは、昔の地球上の大気には、いまより、桁違いの二酸化炭素があった。これを植物が吸収し、現在の二酸化炭素の濃度になったのである。日本の植物の量を増やす緑化運動で、二酸化炭素を減らせるのである。緑化運動は、水の豊かな日本でなすべき第1の環境政策である。

また、リサイクル可能なエネルギー資源、水、風、太陽光を発電に活かしていかないといけない。

じつは、日本の火力発電量、石炭発電量が減っている。この理由は、日本の電力需要が毎年減っているからで、水、風、太陽光の発電が増えたわけではない。

日本の電力会社は、電力網の管理技術能力が低い。したがって、時間的変動のある風、太陽光による電力を取り入れようとしない。実際の発電量は、他国が10%、20%に達しようというのに、日本では1%にも満たない。また、水力発電の発電能力は火力発電能力の30%であるが、実際の発電量では、水力発電は火力発電の10%である。水力発電を配電という立場からうまく使えていないのである。

これは、日本の電力会社は、経済産業省の役人を接待して、電力の地域独占を守っていればよく、自分たちの電力網管理技術を高めてこなかったからである。

私自身は、電力網管理の基礎理論は確立しているから、実際の日本の電力網管理を精査し、試行錯誤すれば、ヨーロッパの技術に追いつけると思う。そうすれば、水、風、太陽光の発電が増え、石炭による火力発電を減らし、しかも、発電コストを下げる。

小泉進次郎が環境省に予算をつけ、自然環境を守る立場から、人間の安全を守る立場から、経済産業省の電力政策の非合理性、非科学性を暴くことを期待する。

永渕健一裁判長の東電無罪判決は安全性より経済性・国策を優先

2019-09-22 19:58:01 | 原発を考える


福島第1原発事故をめぐり、「業務上過失致死傷罪」で強制起訴された東京電力旧経営陣3人を、9月19日、東京地裁は無罪とした。

刑法第211条(業務上過失致死傷等)
「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。」

今回、検察官役の指定弁護士はその中の最高の刑罰「5年間の禁錮」を求刑した。

じつは、この「業務過失致死傷罪」というのは、もともと、刑法のなかでも、非常に軽い罪状である。これまで、業務用トラックの人身事故やバスや鉄道の事故などで適用される罪状であり、運転手やその雇用者への罰則がゆるいと、交通事故には、もっと重い罰則の法律が制定された。

そんな軽い罪でも、旧経営陣の元会長、勝俣恒久(79)、元副社長の武黒一郎(73)、武藤栄(69)の3被告を無罪にした、東京地裁の裁判長の永渕健一の判決はおかしいと思わざるを得ない。

刑法211条は、「業務上必要な注意を怠り」人を死傷にいたらした罪を規定しており、不注意が人の死傷を招いたことが要件になる。ところが、判決文の冒頭で、永渕は、業務過失致死傷罪で
「結果回避義務を課す前提として、予見可能性があったと認められることが必要である」
と言う。

すなわち、不注意があったか否か、原発事故を回避できたか否か、ではなく、「予見可能性」という理由で無罪にしたかのような書き出しである。

判決文を読むと、旧経営陣の3人は、部下から、14メートルの津波が来る、最大で15.7メートルの津波がくると報告を受け、対策を求められている。ここで、経済性を優先させ、対策を必要なしとした、旧経営陣は、あきらかに、「業務上必要な注意を怠った」のである。津波による原発の危険性を知ることは、原発を所有する企業の経営者に「業務上必要な注意」そのものである。

また、判決文を読むと、
「検察官役の指定弁護士は今回の結果を回避するために必要な措置として、(1)津波が敷地に上がるのを未然に防ぐ対策 (2)津波が上がっても建屋内への浸水を防ぐ対策 (3)建屋内に津波が浸入しても、重要な機器がある部屋への浸入を防ぐ対策 (4)原子炉への注水や冷却のための代替機器を浸水の恐れがない高台に準備する対策――をあらかじめ取れば事故は避けられたと主張し、全てを講じるまでは運転を停止するよう主張した」
とある。

(1)から(4)のいずれかが とられていれば、原発事故が回避できたのである。じっさい、同じ津波を受けた宮城県の女川原発、福島県の福島第2原発では事故が防げたのである。

ところが、判決文で、永渕は
「10メートルを上回る高さの津波が来る可能性に関する情報に3人が接するのは、いずれも早くて、武藤が2008年6月10日、武黒が、武藤から報告を受けた同年8月上旬、勝俣が2009年2月11日だった。仮にこの時期に(1)~(4)の全てに着手していたとしても、事故前までに完了できたか、証拠上明らかではない。指定弁護士も、この時期に(1)~(4)に着手すれば、措置を完了でき、事故は回避できたとは主張していない。
 そうすると、結局、事故を回避するには、原発の運転を停止するほかなかったということになる」
と言う。

これは、詭弁である。

通常は、「注意を怠った」のではなく「努力したが間に合わなかった」と、無罪を主張する。
ところが、判決文では、間に合わないから「原発の運転を停止するほかなかった」と永渕は言い切る。

じっさいには、(2)から(4)は短期間に低コストでできたはずである。せめて非常電源のディーゼル発電機を高台に置けば良かったのである。

永渕の悪質なところは、検察官役の指定弁護士が(1)から(4)の「全てを講じるまでは運転を停止するよう主張した」ことを逆手にとって「間に合わない」と言っていることだ。そして、彼はさらに言う。

「しかし、東電は電気事業法により電力の供給義務を負っている。現代社会における電力は、社会生活や経済活動を支えるライフラインの一つで、福島第一原発はその一部を構成し、その運転には小さくない社会的な有用性が認められる。
 その運転を停止することは、ライフライン、ひいては地域社会にも一定の影響を与えることも考慮すべきだ。運転停止がどのような負担を伴うものかも考慮されるべきだ。」

これでは、原発が危険でも、国家が必要としているから、止めてはいけない、となる。

じっさいには、2014年に日本中の原発を全部止めたが、何の問題も生じなかった。また、原発を止める以外の回避行動もとれたのである。

永渕は、さらに、予見可能性を否定するために、津波そのものが予見できなかったとする。第1原発の防波堤は10メートルの高さなので、永渕は10メートル以上の津波が予見できたかを基準にとる。その上で、最高15.7メートル、14メートルの津波の計算値の下になった、日本政府の長期地震予想「三陸沖から房総沖まで津波地震が起きる可能性」、「今後30年間にマグニチュード8.2の地震の可能性20パーセント」を信頼できないと永渕が言う。じっさいにマグニチュード9.0の大地震が起きた。

これには、9月21日のTBS報道特集で、元原子力規制委員会委員長代理で東京大学地震研究所教授の島﨑邦彦が怒っていた。根拠がないものを、地震予知連絡会が日本政府の長期地震予想として発表することはない。東電の武藤が勝手に信頼できないとして、東電と親密な土木学会に再評価を求めるとは、真実を求めているのではなく、自分の都合の良い「真実」を捏造する行為である。

永渕は、予見可能性について、
「3人に10メートルを超える津波の予見可能性がおよそなかったとは言いがたい。しかし、武藤と武黒は長期評価の見解それ自体に信頼性がないと認識しており、勝俣は長期評価の内容も認識していなかった」
と言う。これは予見可能性というより、3人の心理状態への言及であり、まさに「業務上必要な注意を怠った」と言える。

ところが、判決の結論で、予見可能性も必要ではない、と永渕は言う。

「地震発生前までの時点では、法令上の規制や国の指針、審査基準のあり方は、絶対的安全性の確保までを前提とはしていなかった。3人は東電の取締役などの立場にあったが、予見可能性の有無にかかわらず当然に刑事責任を負うということにはならない」

として、東電の旧経営陣を無罪にした。

永渕は、単に無罪にしただけでなく、安全性よりも経済性を、安全性よりも国家の政策を優先させる悪しき判例を作った。これは非難に値する。「業務上過失致死傷罪」そのものの否定になる。

東電旧経営陣強制起訴は 量刑はともかく 有罪とすべきだ

2019-09-19 20:21:33 | 原発を考える


東電旧経営陣強制起訴で、9月19日、無罪判決が東京地裁で出た。

福島第1原発事故で、避難者らが起こした各地の民事訴訟では「大津波は予測でき、事故は防げた」とし、東電の過失を認める判決が相次いでいた。刑事責任に関する司法判断は今回が初めてであり、判断を注目していたので、判決結果はがっかりである。

業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電の元会長勝俣恒久(79)、元副社長の武黒一郎(73)、武藤栄(69)の3被告に対し、禁錮5年が求刑されていたが、東京地裁裁判長の永渕健一は無罪を言い渡した。

判決文の詳細の報道がないので、無罪の理由はわからないが、NHKの報道では、裁判長の永渕はつぎのように判決理由を言ったという。

「津波が来る可能性を指摘する意見があることは認識していて、予測できる可能性がまったくなかったとは言いがたい。しかし、原発の運転を停止する義務を課すほど巨大な津波が来ると予測できる可能性があったとは認められない。」
「原発事故の結果は重大で取り返しがつかないことは言うまでもなく、何よりも安全性を最優先し、事故発生の可能性がゼロか限りなくゼロに近くなるように必要な措置を直ちに取ることも社会の選択肢として考えられないわけではない。しかし、当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず、3人が東京電力の取締役という責任を伴う立場にあったからといって刑事責任を負うことにはならない」

東電部長が、旧経営陣、勝俣、武黒、武藤に15.7メートルの津波が来る可能性を報告し、対策を求めたのに対し、判決文は「津波が来る可能性を指摘する意見があることは認識していて、予測できる可能性がまったくなかったとは言いがたい」という責任をあいまいにするような表現になっている。

しかも、津波対策を求めているのに「原発の運転を停止する義務を課すほど巨大な津波」とは意味不明で見当違いである。

つづいて、「当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」の「絶対的な安全の確保」という表現は、公正性を欠いた表現である。

部下より安全性の危惧が伝えられたとき、「何よりも安全性を最優先し、事故発生の可能性がゼロか限りなくゼロに近くなるように必要な措置を直ちに取ることも社会の選択肢として考えられないわけではない」と判決理由でのべている。しかし、安全性より経済性を重視したため、「重大で取り返しがつかない」原発事故を起こした。であるから、業務上過失致死傷罪にあたるとしておかしくない。

したがって、裁判長の永渕は旧経営陣を有罪として、量刑で情状酌量を行う手があったのではないか。

経営陣が安全性と経済性の選択を迫られ、経済性を選択したため、重大な事故を起こしたとき、その過失責任をまったく問われないとなると、経営者のモラルを崩壊させてしまう。選択肢が明示されたとき、経営者は、その選択結果の責任を過失として問われるべきである。

とくに、今回の裁判で、旧経営陣のだれもが自分から津波対策を棄却したのでないと主張したのは、敗戦後の東京裁判で、誰もが太平洋戦争の開戦を決断せず雰囲気でそうなったと主張したのと同じ無責任の構図である。もし、今回の裁判が裁判員裁判であれば、有罪になったであろう、と私は思う。

「勝俣天皇」とか「御前会議」とか東電内で言われるほど、社内権力を誇っていた旧経営陣を無罪とし、「当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」と言い切る永渕の判決は、「会社の経済的利益のために、社外の個人の不幸を確率的に小さいと主観的に無視する」自由を経営陣に認めたことになる。この文言は、原発推進の政府からの司法の独立性を疑わせるものである。