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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

翻訳不可能性、小説『日の名残り』の「品格」と「美しさのもつ落ち着き」

2022-03-29 00:05:24 | 思想

カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(中公文庫)を読んでいて、土屋政雄の翻訳があまりにも見事で、本当にカズオ・イシグロの小説“The Remains of the Day”を読んでいるのか、気になりだした。

最初にひっかかったのは、土屋が「品格」と訳しているものはイシグロのなんであるかだ。横浜市の図書館には幸いに外国語の蔵書が多少ある。早速、“The Remains of the Day”を借りて読みだした。

土屋が「品格」と訳しているものは、イシグロの“quality”と“dignity”だった。

イシグロは、最初、イギリスの田園風景の美しさに言及する。他国の風景が持ちえない“quality”をもっているという。土屋はこれを「品格」と訳す。

イシグロはイギリスの風景の美しさをつぎのように書く。

What is pertinent is the calmness of that beauty, its sense of restraint.

これを土屋は「問題は、美しさのもつ落ち着きであり、慎ましさでありますまいか」と訳す。

イシグロは、執事のミスター・スティーヴンスに、このイギリスの風景の美しさから、もう1つのイギリス的なもの「執事」を連想させる。ここでも、はじめは“quality”という語を使い、秀でる同業者を讃える。土屋はこれも「品格」と訳す。執事のこころ中でのしゃべりが高まると“quality”ではなく、“dignity”をイシグロは使わす。しかし、土屋は相変わらず、「品格」と訳す。

イシグロの小説の後半で、上等のスーツを着て立派なフォードのクラシックカーに乗っている執事のミスター・スティーヴンスを村人は名士と間違える。村人は彼がどこか違うと騒ぎ立てるが、執事はついそれは “dignity”だと答える。これも土屋は「品格」と訳している。村人のばか騒ぎは執事のこの一言でさらに大きくなる。イシグロは、宿の女主人に「ああいう人は、偉そうにふるまうことをdignityと勘違いしているから困るわねえ」と言わす。政治談議の好きな村人ミスター・スミスにも「dignityってのは、紳士だけのもんじゃないと思いますよ」と言わす。

翌日、村のただ一人の教養人、村医者にあなたは本当は執事だろうと言われる。ここで、執事は自分が村人の前で“a comic figure”であったのではと思う。土屋はこれを「道化」と訳している。村医者と執事の会話も“dignity”を使っている。土屋はここでも「品格」と訳している。

日本語と英語とは翻訳不可能である。日本とイギリスとは文化が違う。だいたい、“Mr”を「様」と訳したり、「ミスター」と訳したり、土屋はずいぶん苦労している。また、英語にない敬語、とくに謙譲語を執事に使わせたりしている。英語では身分の差が発音や文法の精確さに現れるが、翻訳では、村人に江戸弁を使わすことで、教養の差を表現している。私の父は江戸弁を話すので、こういうふうに江戸弁が使われるのは不快だ。

土屋の訳では、イシグロが、小説を通して、執事のミスター・スティーヴンスにこれからアメリカ的ジョークを学んで使おうと言わせているのがなぜかわからなかったが、イシグロの原作を読んでわかった。執事をとおして描かれるイギリス的なもの、これは、軽いジョーク、お笑いにすぎないということなんだ。可哀そうかもしれないが、壊れるべきして壊れるものにしがみついて、過ちをおかしてきたのだ。

いっぽう、私は、イギリスの田園風景のもつ”the calmness of that beauty”は、民主主義の世になっても残る気がする。calmness、quality、dignityは日本語に訳せない。


佐伯啓思の『(異論のススメ)「資本主義」の臨界点』を批判

2021-12-18 21:30:30 | 思想

これまで、佐伯啓思と意見が一致したことなんて、なかったが、けさの朝日新聞『(異論のススメ・スペシャル)「資本主義」の臨界点』では一致点があった。

佐伯は、「資本主義」と「市場経済」主義とは意味が違うといっている。私もそう思ってきた。貨幣とか市場とかがあるから「資本主義」というわけではない。

佐伯は、《「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて自らを増殖させる運動ということ》と書く。

私は、「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて、人と人の間に雇用関係を生むことと思う。

佐伯の定義は、カール・マルクスの受け売りだと思う。多くのマルクス主義者は、人間が生み出した資本の自己増殖運動に、逆に、人間が支配されると言う。私は、この受けとめ方は、資本家や経営者に優しすぎると思う。資本による「疎外」の問題ではなく、資本家個人や経営者個人の強欲のせいだと私は思っている。

佐伯も人間の強欲性に「資本主義」の問題を帰着している。佐伯は、《われわれに突きつけられた問題は、資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望のほうにある》と、その寄稿を結論する。

また、この結論の前に、佐伯は《「分配」と「成長」を実現する「新しい資本主義」も実現困難といわざるを得ない》とも言う。これも一致する。

しかし、根本において、私と佐伯は異なるとも思える。私にとっての「自由」は、人に命令されたくないということである。自分で物事を判断し行動したいと私は思う。そして、他人に自分の意見を押しつけたくないし、命令したくないと思う。

資本家が資本の自己増殖にどう悩もうか、私は気にしない。

産業革命が起きるまで、社会における最大の商品市場は農産物であり、その生産手段は土地であった。土地の所有を媒介にして、人間の上下関係ができた。

産業革命後は、工業製品の市場が中心になった。土地でなく、機械、工場が主な生産手段になった。資本投下は機械、工場に行われ、その所有によって、人間の上下関係ができた。

近代の人間の上下関係は、生産手段の個人所有を中心にできているのである。IMFのデータをみると、ほとんどの国で、被雇用者が人口の50%を越えている。すなわち、独立自営の人は少なく、多くの人は誰かの指示で働いていることになる。

20世紀の終わりには、ITの出現によって、事態が変わるかと思えたが、そんなことがなく、ますます、被雇用者は増え、個人経営の「ひとりIT企業」もめっきり減り、組織で動く人が増えている。設備だけでなく、資本を人に投下して、人を組織化するのである。

「資本主義」体制の打破は、雇用関係を通じた人間の上下関係を拒否することにあり、貨幣経済や市場経済を壊すことではない。


誤っているのは「新自由主義」だけでない、リベラルから疑え

2021-12-14 22:33:04 | 思想

けさの朝日新聞(耕論)は『新自由主義 どこに行く』であった。これは岸田文雄が「新自由主義」から決別し、「新しい資本主義」をと、自民党総裁選や衆院選で唱えたことによる。しかし、「新しい資本主義」とは何かは不鮮明のままだし、「新自由主義」とは何かも人によって異なる。

少なくとも、歴代の総理大臣の誰も、自分が「新自由主義者」だ、なんて言っていない。小泉純一郎は「規制緩和」と「郵政省の業務の民営化」を唱えただけである。安倍晋三は「自分がドリルになって固い(規制の)岩盤を打ち破る」と騒いただけである。

だから、朝日新聞編集部は、「新自由主義 どこに行く」という変なタイトルで、あえて、「日本における新自由主義とは何なのか」という問いを出したのだと思う。

ところが、3人の論者は「新自由主義」の投げかけた問題提起を避けて、自分の思いこんでいる「新自由主義」にもとづいて、話しているように見える。

ここでは、田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)にもとづき、「新自由主義」とは何かを考えたい。

田中は「新自由主義」のさきがけとして、経済学者ミルトン・フリードマンと社会哲学者フリードリヒ・ハイエクを挙げる。

《 フリードマンは、人々の福利を向上させるために国家の役割を拡大させようとする当時の思想を「集産主義」と呼んで批判した。それは個人の自由を保障するどころか、抑圧するものにほかならない。》

《 自由な市場競争を維持するためには、一部企業による独占を禁止し、通貨を安定させ、最低限の生活保障を提供するなど、国家が一定の役割を果たさなければならない。》

《 ハイエクによれば、1940年代には個人に平等な機会を保障することを「新しい自由」だとする考え方が唱えられ、国家による再分配や経済の計画化が広い支持を集めるようになっていた。》

《 もし国家が共通の目的を定め、「自由」の名のもとにそれを個人に強制するなら、その目的を受け入れない個人は抑圧され、排除されてしまう。たとえば、国家が一定の生活水準を定め、それを保障するために富裕層に税を課すなら、富裕層の自由は脅かされてしまう。共通の目的に人びとが合意することは不可能だから、国家権力の肥大化に歯止めがかからず、やがては国家がすべてをコントロールする「全体主義」支配へと至ってしまう。》

一般論として、国家が強くなれば、個人の自由が脅かされるというのは、もっともな心配である。「大きな政府権力」「小さい政府権力」という問題なら、「小さな政府権力」に一理ある。

しかし、「富裕層の自由」が脅かされるというハイエクの「自由」は「富裕層の貪欲」のことではないか。

日本語の「新自由主義」の「新」はネオ (Neo)であって、英語では「再生」あるいは「復活」の意味をもつ。フリードマンやハイエクは、もともとのリベラルの考えに立ち戻ったのである。「社会保障」や「福祉」を唱える1930年代1940年代の新しいリベラルを否定したものである。だから本当は「新新自由主義」というべきかもしれない。

歴代自民党政権は、規制緩和が正しいことのように、言ってきた。日本には2種類の規制がある。

第1の規制は、自由な市場を守るため、また、貪欲な金融業がバブルを引き起こし、その破綻で長期にわたる不況を招かないためのもの。

第2の規制は、被雇用者が雇用者のために過酷な労働条件で働かされないためのもの。

明らかに、これらの規制を緩和することが、良いとは言えない。

歴代の自民党政権は、財政出動のかたちで、政府の借金を大きくしてきた。もともと、マクロ経済での財政政策とは、増税をして市場のお金を吸い上げて、インフレを抑えるものだった。ところが、お金をばらまいて、景気を刺激し、政権党に有利な選挙を行うというのが、日本の財政政策になっている。

すなわち、歴代自民党政権は「新自由主義」でもなんでもなく、単に強欲に奔走しているだけである。2009年―2012年の民主党政権が初めて、財政出動が本当に日本の経済に意味あったかを問題視した。それが「コンクリートから人に投資」というキャッチフレーズである。

現在、岸田文雄が「新しい資本主義」との名でバラマキをやっていることは、歴代自民党政権の路線を踏襲している。

朝日新聞(耕論)に戻ろう。

藤井達夫は、新自由主義社会は過酷な競争社会であるという。

《新自由主義の社会では、誰もが企業家のようにならなければなりません。自己を磨いてリスクを管理し、競争し、投資し、打ち勝っていく。しかも、自己責任のもとで。》

私も競争は不要であると思う。新自由主義にかぎらず、リベラルも含めて、競争の肯定に陥りやすい。競争と能力主義は表裏一体で、格差肯定に行き着く。

小林リんは、アメリカの中間層と接触が長いためか、「小さな政府か大きい政府か」の枠組から抜け出ていない。政府が大きな権力を持たないようにすることは、民主主義にとって大事なことである。その意味では、安倍晋三は国家権力を強めるような法改正を続けてきて、まさに、民主主義の敵と言ってよいと思う。ハイエクの言う「全体主義」の道を歩んでいる。現状では、岸田の「聞く力」のほうがましである。

橋本勉は、安倍晋三が新自由主義者でない、と主張している。その通りであると思う。しかし、つぎの主張には同意できない。

《 新自由主義の要素を取り込みつつ、社会的投資を重視する「公益資本主義」といった大きなビジョンを出していくべきです。》

まず、なぜ、「資本主義」であるべきかが、私にはわからない。たぶん、「自由市場主義」を「資本主義」と言うのだろう。べつに「資本主義」でなくても、「共産主義」であろうと「社会主義」であると、個人の判断と多様性が認められている。もし、みんなが同じものを欲しがったら奪い合いになるだろう。ひとびとが多様だから、平等が実現できる。

いわゆる「リベラル」の誤りは「私的所有」を無制限に認めることにある。このため、格差社会が生じ、「競争」や「能力」で「格差」を正当化する必要が生じる。それだけでない。「共産主義」国家や「社会主義」国家や「イスラム主義」国家と戦うために軍事力を強化しないといけない、というトンデモナイ結論をみちびく。

新自由主義だけでなく、どうも「リベラル」から疑ったほうがよい。


能力を伸ばすということがわからない、人に能力を要求してよいのか

2021-12-07 22:57:56 | 思想

私は独学の人である。60歳で会社を退職してから専門外の本、すなわち、文系の本をも読みだした。わからないことだらけだ。ギリシア哲学の解説本を読んでの謎の1つのは、プラントンやアリストテレスのいう「徳」だった。

ある日、突然気づいたのは、彼らの言う「徳」とは「能力のあること」だった。私は「徳」を「善」と結び付けていたから理解できなかったのだ。

別に、私が彼らのギリシア哲学に敬意を払う必要がないのだ。プラントンやアリストテレスが民主主義が嫌いで、エリートによる支配を望んでいたのだ。

「能力」を個々の人に要求する権利が他人にあるのだろうか。「能力」のある人を称賛することは健全なことだろうか。

リベラルにも分からないことがある。田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)によると、《現代のリベラルとは、「価値の多元性を前提として、すべての個人が生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治思想と立場」》だとそうである。

この「自由」がわからない。自分が何のために生きるかわからずに迷い続ける人もいる。やりたいことがわからないのだ。すべての人が、自分の望む「生き方」や目標をもっているのだろうか。きれいごとではないか。

NPOで、てんかんの持病をもつ子どもを、中3から、私は指導した。その子は、小さい子に親切に接するので、「保育の仕事に向いているのでは」と、高校のとき、口出したら、すごく怒りだした。「自分は大学を出て、働かなくてもお金を得られるサラリーマンになるのだ。保育の仕事をする男は社会からバカにされ、給料も安い」と返された。

多くの人の「生き方」や「目標」は社会の反映である。社会とは、学校であり、親である。学校教育を通して「たてまえ」を知り、親の愚痴を聞き「ほんね」を知る。

NPOで20歳過ぎの子どもに、中学の公民の教科書の1節を読んでもらい、「自由」とは何かを問うと、「勝手気ままにふるまうこと」と返事が返ってきた。そんなことは教科書のどこにも書いていない。どう言い返したらわからず、その場では、私は言葉に詰まった。しかし、考えると、その子のいうことが本当だと思える。「自由」自体には、価値観が含まれない。権力者だけが自由をもっていることが問題なのだ。権力者以外にとっては、自分にも「自由」をよこせということにすぎない。

「自由」より「平等」が優先する。

「積極的自由」も納得できないことの1つである。個々人の能力を自由に発展させることが「自由」だということがわからない。「能力を伸ばす」ということも何かわからない。

私は「一芸に秀でる」ことが良いことだと思えない。藤井聡太のように将棋が強いことが賞賛すべきことと思えない。新聞社が将棋連盟にお金をだせなくなったら、将棋はふつうの人びとの楽しみに戻るだろう。秀でることを社会がもてはやす必要はないように思える。「秀でる」ことを称賛することは、英雄崇拝と同じく、強いものに自分を投影して自己満足しているだけだ。

教育での「学力テスト」とか「競争」とかが間違っていることは確かだ。「テスト」とか「競争」とかは、ただ1つのゴールを設定するから、存在しえる。そして、ただ1つのゴールを示すことは、一人ひとりの能力を伸ばすことを邪魔している。

胆管の手術をした高2の子どもが退院して、先週からリーモート指導に出てくるようになった。覚えることが苦手の子で、テスト期間で暗かった。歴史のテストで漢字で答えを書かないといけないのが大変だと言う。数学や物理は理論がわかれば覚える必要がないのに、と言う。大学入試では、選択肢の問題ばかりだから、漢字を覚えなくても良いと私が言うと、急に顔が明るくなった。

漢字が書けなくて何が悪いのか。漢字を書くために、人は無駄に脳を使っている。

結局、「能力」を伸ばすということではなく、邪魔しないということで、「自由」「平等」「愛」ということに私は落ち着いている。


能力のありなしにかかわらず人は生きる権利がある

2021-12-03 23:02:22 | 思想

きょうの朝日新聞『(耕論)生きるための能力?』は変なタイトルではないか。

続く前書きに《 先行きが不透明な現代社会。生き残れるかどうかは能力次第と語られますが、人間の能力は学力だけで測れません。これからを生きるために必要な能力とは何なのか、を考えます》とある。

3人の論者がこの変な問題提起に真面目に答えているが、鳥羽和久と会田弘継は、「能力」という考え方そのものが、差別を生み、良くないとしている。廣津留すみれ のみが、この提起をそのまま真にうけ、アメリカ社会の通説をなにか正しいことのように言う。

「生き残れるかどうかは能力次第」という設定自体がオカシイ。これでは、「能力がない」と生きていけないということにならないか。知的に障害がある子どもたち、精神的に不安定な子どもたちの生きる場を求めてNPOで働いている私にはとても不愉快である。

私が、30代半ば近くで、カナダの大学での研究生活から日本に戻り、外資系会社に務めたとき、1年早く会社に務めた先輩から、私に仕事をしないでくれと頼まれた。私が仕事をすると、自分の居場所がなくなる、と懇願するのだ。そういう彼がどうするか見ていると、上司にゴマすって、コミュニケーション能力があるとされ、どんどん出世していった。

私の勤めたところは企業の研究部門であるから、仕事はなんであるかは はっきりしているのに、ゴマをするのがコミュニケーション能力となり、会社の研究方針を批判する気難しい私のような男を使いこなすのが、管理能力となる。オカシイではないか。

人生は「生き残る」というゲームではなく、生きればそれで良いのである。「生き残る」という問題設定自体がオカシイ。社会の抱える病理をそのままにして、社会的成功を求めることになる。

それでは、廣津留の言い分を追ってみよう。

《 〔自分がハーバード大学に進学する際に〕学力のほかに重視されたのは、課外活動の履歴、性格など人としての力です。》

「性格など人としての力」なんて、思想的立場によって評価が違ってくるものではないか。結局、大学の入学審査委員のもつ偏見が個人の入学を左右することになる。

《 大学生活は いつもプレゼン合戦でした。選考や課外活動などなにかを決めると、友人との会話でその理由を問われます。そこで、自分の思いを話せないと会話が続きません。》

ここで注意したいのは、「プレゼン」と「自分の意見がある」とは無関係の問題である。「プレゼン」はトップが下から「アイデアを盗む」ための仕組みである。通常、トップが広く下からアイデアを求める。ひとり3分としても、下が100人いれば、5時間かかる。「何をすれば儲かるのか」「なぜ儲かるのか」を短時間で提案するのがアメリカ社会のプレゼンである。そして、トップが納得すれば、即座に投資が行われる。

プレゼンでは人と同じことを言えば、その時点で聞かれることはない。人と異なることをするからお金が儲かるのだ。それだけのことである。

10年前、マイケル・サンデルが『ハーバード白熱教室』で誰を入学させたら良いかを、学生たちに問うていた。私は、自分の能力を向上させたいと思う「能力のない者」を入学させたら良い、と思う。頭の良い者は大学に入学しなくても、自分で自分の能力を伸ばせる。能力を発揮できる場所さえ与えれば良い。そうはできないが自分の能力を伸ばしたい者を入学させて、能力の向上を助けるのが大学の役目だと思う。能力のないものから順に入学させれば良い。

まとめよう。

能力のありなしにかかわらず、人間に生きる権利がある、と私は思う。自分に能力がないのではないか、という不安に落ち込んでいる人びとを助けるために、「学びの場」がある。そして、他人が自分を認めるかどうかにかかわらず、自分の可能性を信じてほしい、と私は思う。