猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

能力のありなしにかかわらず人は生きる権利がある

2021-12-03 23:02:22 | 思想

きょうの朝日新聞『(耕論)生きるための能力?』は変なタイトルではないか。

続く前書きに《 先行きが不透明な現代社会。生き残れるかどうかは能力次第と語られますが、人間の能力は学力だけで測れません。これからを生きるために必要な能力とは何なのか、を考えます》とある。

3人の論者がこの変な問題提起に真面目に答えているが、鳥羽和久と会田弘継は、「能力」という考え方そのものが、差別を生み、良くないとしている。廣津留すみれ のみが、この提起をそのまま真にうけ、アメリカ社会の通説をなにか正しいことのように言う。

「生き残れるかどうかは能力次第」という設定自体がオカシイ。これでは、「能力がない」と生きていけないということにならないか。知的に障害がある子どもたち、精神的に不安定な子どもたちの生きる場を求めてNPOで働いている私にはとても不愉快である。

私が、30代半ば近くで、カナダの大学での研究生活から日本に戻り、外資系会社に務めたとき、1年早く会社に務めた先輩から、私に仕事をしないでくれと頼まれた。私が仕事をすると、自分の居場所がなくなる、と懇願するのだ。そういう彼がどうするか見ていると、上司にゴマすって、コミュニケーション能力があるとされ、どんどん出世していった。

私の勤めたところは企業の研究部門であるから、仕事はなんであるかは はっきりしているのに、ゴマをするのがコミュニケーション能力となり、会社の研究方針を批判する気難しい私のような男を使いこなすのが、管理能力となる。オカシイではないか。

人生は「生き残る」というゲームではなく、生きればそれで良いのである。「生き残る」という問題設定自体がオカシイ。社会の抱える病理をそのままにして、社会的成功を求めることになる。

それでは、廣津留の言い分を追ってみよう。

《 〔自分がハーバード大学に進学する際に〕学力のほかに重視されたのは、課外活動の履歴、性格など人としての力です。》

「性格など人としての力」なんて、思想的立場によって評価が違ってくるものではないか。結局、大学の入学審査委員のもつ偏見が個人の入学を左右することになる。

《 大学生活は いつもプレゼン合戦でした。選考や課外活動などなにかを決めると、友人との会話でその理由を問われます。そこで、自分の思いを話せないと会話が続きません。》

ここで注意したいのは、「プレゼン」と「自分の意見がある」とは無関係の問題である。「プレゼン」はトップが下から「アイデアを盗む」ための仕組みである。通常、トップが広く下からアイデアを求める。ひとり3分としても、下が100人いれば、5時間かかる。「何をすれば儲かるのか」「なぜ儲かるのか」を短時間で提案するのがアメリカ社会のプレゼンである。そして、トップが納得すれば、即座に投資が行われる。

プレゼンでは人と同じことを言えば、その時点で聞かれることはない。人と異なることをするからお金が儲かるのだ。それだけのことである。

10年前、マイケル・サンデルが『ハーバード白熱教室』で誰を入学させたら良いかを、学生たちに問うていた。私は、自分の能力を向上させたいと思う「能力のない者」を入学させたら良い、と思う。頭の良い者は大学に入学しなくても、自分で自分の能力を伸ばせる。能力を発揮できる場所さえ与えれば良い。そうはできないが自分の能力を伸ばしたい者を入学させて、能力の向上を助けるのが大学の役目だと思う。能力のないものから順に入学させれば良い。

まとめよう。

能力のありなしにかかわらず、人間に生きる権利がある、と私は思う。自分に能力がないのではないか、という不安に落ち込んでいる人びとを助けるために、「学びの場」がある。そして、他人が自分を認めるかどうかにかかわらず、自分の可能性を信じてほしい、と私は思う。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿