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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

我々は自由人なのか、しもべなのか、奴隷なのか

2019-07-02 21:54:04 | 自由を考える

私が子供のとき、奴隷は、首に かせがあり、足に 鎖があるもの、と思っていた。子供のとき見た映画『ベン・ハー』では、チャールトン・ヘストンがガレー船に鎖でつながれ、オールでこいでいた。

しかし、大人になって気づいたのは、働くには、首かせや足かせは邪魔なのである。寝るときも邪魔である。だから、奴隷は、普段は、首かせ足かせをしていない。首かせや足かせは、逃亡の恐れがあるときのみに、つけられたようである。

新約聖書を読んでいると、「奴隷」と「しもべ」の区別がつきにくい。もともと、ギリシア語の名詞δοῦλος(ドゥウロス)は「奴隷」を意味するが、日本語聖書では「しもべ」と訳し、動詞δουλεύωは「仕える」と訳している。イエスの時代は、奴隷も、しもべも、自分の意志で主人を選べるか否かを除き、生活の実態は大差がなかったのだろう。

旧約聖書を読んでいると、エジプトの奴隷の生活から脱出して、荒れ野をさまよう40年間に、神がモーセに、イスラエル人か否かで使用奴隷を差別するように指示している。荒れ野をさまよう逃亡奴隷に、使用する奴隷がいたとは考えにくい。モーセの五書は後の時代に祭司によって書かれたからだろう。

さらに、昔にさかのぼると、古代メソポタミアの社会では、借金が返せないと奴隷にされ、誰かが所有者にお金を払うと奴隷から解放された。穀物のタネを借り受け、収穫のとき、返すという制度であったから、天候不順がつづくと、借金が返せなくなる。だから、誰でも奴隷になる可能性があったわけである。

岩田靖夫の『ギリシア哲学入門』(ちくま新書)によると、古代ギリシアでは、プラトンが「自己支配力、自己統制力の欠如した人間」を奴隷とみなしていた。奴隷の反対は「市民」、「自由人」となる。アリストテレスは「判決と支配に関与する」者を「市民」と考えていた。古代メソポタミアでも古代ギリシアでも、「市民」には兵役の義務があったが、アリストテレスが「市民」の条件に「防衛に関与」をあげていないのが興味深い。軍人を職業とし、「市民」か否かと無関係のものとしたのだろう。

振り返って、現代の日本人を考えるとき、彼らは自由意志を持っているのだろうか。政治に参加しているのだろうか。彼らは「自由人」なのか、「しもべ」なのか、「奴隷なの」か。首かせ、足かせがなくとも、奴隷だと思っていなくとも、自由意志をもたず、政治に参加せず、自己決定をしなければ、現代の「奴隷」にすぎない。

「自由と責任」や「権利と義務」は国家主義の痕跡

2019-05-21 11:15:17 | 自由を考える

もし、「自由と責任」や「権利と義務」などの対立する言葉の対に違和感を覚えないなら、あなたは、政府主導の学校教育に洗脳されたままだ。
この「責任」は「自由」の行使を抑えこむために、この「義務」は「権利」意識を抑え込むために、つけ加えられたものだ。

戦前、日本は他国を侵略するだけでなく、国内でも、人間の自由や人権を否定する国であった。ドイツやイタリアのファシズムと異なり、日本では、戦前、下からの大衆の反乱はなく、上からのファシズム、すなわち、集団主義、精神主義、権威主義の圧政があった。

敗戦でそれらが一層されたわけでなく、天皇制が維持されたように、いたるところに、憲法や社会制度に、国家主義の痕跡が残っている。これらの「対立する言葉の対」は国家主義の痕跡の一例なのだ。そして、それらが正しい考えかのように、学校教育やネット世論に、いま、勢いを取り戻している。

いまこそ、学校は、「人間は自由なんだ、みんなと同じく、自分も楽しく生きる権利がある」ということを、教えないといけない。

日本国憲法に、「第3章 国民の権利及び義務」の見出しがある。これは、まずい。
国家が、国民にこれこれの「権利」を与えるから、これこれを「義務」として強要するという誤解を生む。
これでは、主権が国民にないという、書き方である。主権が天皇にあって、あたかも、天皇と契約したという形にも読める。実際、太平洋戦争に敗戦するまでの、大日本帝国憲法に、「第2章 臣民権利義務」とあったものを、戦後の日本国憲法では、「臣民」を「国民」に置き換えたものにすぎない。

「権利と義務」という概念を欧米の憲法のサイトで調べてみたが、「権利」と「義務」を取引事項にするところはない。

岩波の国語辞典には「義務」を「法律上または道徳上、人や団体がしなくてはならない、また、してはならないこと」とある。ここの「団体」は「政府」や「法人」を指すのだろう。

「義務」が強要である以上、誰が誰によって何をどんな理由で強要されるのか、はっきりさせないといけない。本当に、憲法に、国民の「義務」と書く必要があるのだろうか。

憲法第26条の「義務教育」の「義務」は、「子どもに教育を受けさせる親の義務」である。
子どもが勉強したいというのに、家が貧しいから学校に行かず働けと親は言ってはならないという意味である。
私が子どものとき、あちらこちらの家で、この問題が起きた。中学を卒業したら働いて親の家計を助けろ、高校に進学してはならない、と親たちがいったのである。
日本政府は、中学までが「義務教育」だから、高校に行きたいという子どもの夢を親が踏みにじっても、良いとした。

しかし、「義務」というのは、なにか、おかしい。子どもの「教育を受ける権利」をじゃましてはいけないのであって、「教育を受けさせる義務」は言い過ぎである。子どもをムチうって、教育を受けさせることは、子どもの自由を否定している。

さらに、現在、政府は、教育の内容に干渉して、教科書の検定を行っている。そして、授業時間にも干渉している。これは、教育の自由の全面否定である。

憲法第27条に「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」の「勤労の義務」も国家主義の名残りである。

勤労が義務であれば、国民は国家の奴隷であると言っているのにひとしい。
そして、個々人のなかには、「勤労」ができない 体や心の やまいの人もいる。また、贅沢するより、できるだけ、働きたくないという人もいる。
「義務」は「多様性」を否定するものである。個々人の事情を容認しないなら、マイノリティに死ねというのに等しい。

「勤労の権利」とは、あくまで、雇用者の都合で、職場を解雇されないことを言っているのだ。

憲法第30条に「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」とあるのも、不思議である。これは、大日本帝国憲法第21条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス」をそのまま残したものである。

国民に主権があるなら、税は、行政サービスを維持するための経費であり、「義務」として憲法に書くべきものなのか。これは、日本国憲法第7章「財政」に「国の財政は、国民の総意によってまかなわれる」と書くだけで充分である。

ちなみに、大日本帝国憲法第20条は「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」である。

憲法は、「人間の自由」の宣言であるべきで、「義務」について書くべきではない。

不登校の自由と憲法

2019-05-20 11:02:15 | 自由を考える

最近、また、不登校の話題が新聞に載るようになった。
原則は、学校に登校するかどうかは、本人の自由である、とすることだ。

問題は、子どもがなぜ学校に行きたくないのか、また、多くの親がなぜ子供が学校に行くことを望むかである。

これについて論じる前に、日本国憲法第26条の「教育の権利と義務」の誤解をとく必要がある。

憲法第26条 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

日本国憲法のどこにも、「学校に行け」、とは書いていないのである。学校に行くか否かは、本人の自由である。憲法に書いてあるのは「教育を受ける」権利である。
誤解を生むのは、第26条の2項に「義務を負ふ」と書いてあるからだ。

第2項の「義務を負ふ」の主語は、「その保護する子女に普通教育を受けさせる」とあるから、「親」である。子どもには、教育を受ける義務はない。

もっとも、私は憲法に「義務」という語を用いることには反対の立場である。だから、第2項は、次のように書けば、良かった、と思っている。
「教育を受ける権利をなにびとも妨害してはならないし、国は、その権利の享受を助けなければならない。」

憲法第26条は、戦前の富国強兵の国策の観点が色濃く残っており、教育を人権の視点から書き直す必要がある。

さて、子どもが学校に行きたくないのは、子どもが学校に行くことに、なんらかの苦痛があるからだ。それは、なんなのか、まず、理解しないといけない。

現在の学校は、競争社会の「ふるい」の役割をしており、また、他国と戦う「戦士」を育てる役割をしている。

「ふるい」とは、学校が、たえず、テストを行い、成績をつけ、それで、進学先がきまるという暗黙の了解である。何のために、勉学するのか、親の立場になれば、楽な生活をしてほしいからである。なぜ、楽な生活ができるか、人から富を奪うことが許される社会だからである。

そして、「愛国」「貿易立国」という幻想のもとに、製品に競争力をつけ、輸出せよ、国は、子どもの思想教育を行って、働け働けと教えている。

この結果、何が生じるのか。いじめや恐喝や暴力が学校で頻発している。暴力をふるえない子どもは、負け組として劣等感に苦しむ。そのうちの何割か、うつになるか、不安症になるか、パニック症になるか、家庭内で暴力をふるようになる。

親は、子どもが、社会の既定路線をはずれることに不安を覚え、子ども以上に暴力的になるか、うつを発症し病院通いになるか、である。

いずれにせよ、国が悪い。ついで、親も悪い。

学校に登校するかどうかは、本人の自由である、という原則に戻るしかない。また、どの学校に行くか、の選択を行う手立てもある。

本来、民主主義社会では、教育を国に任すのではなく、親が教育のあり方を決めるのでなければならない。そのために、各自治体に「教育委員会」がある。「教育委員会」は国の出先機関ではない。

「競争」を排除する学校がよい学校である。テストは、ひとりひとりが、自分の学習度を確認するためであって、学校が順位をつけるためのものではない。

知識は人間の成長に役に立つが、知識を得る手段は学校教育だけでない。
学校の良さは、同年齢の子どもがいて、友達を作ることができることだ。しかし、競争をしいられると、たがいに意地悪をする関係になる。徒党を組んで、ひとの嫌がることをすることだけを、覚える。

選ぶ良い学校もなく、「教育委員会」を動かすこともできないなら、自分たちの学校(フリースクール)をつくるしかない。

とにかく、子どもが不登校になったら、まず、子どもがなぜ学校に行きたくないか、理解することである。

深井智明の懲戒処分は言論・出版の自由の侵害

2019-05-11 11:24:24 | 自由を考える

深井智朗氏の著書『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(岩波書店)に、「引用した論文とその著者の捏造がある」と認定し、東洋英和女学院が著者を懲戒解雇処分とし、岩波書店が著書の出荷を停止した。

私は、この懲戒解雇処分・出荷停止を言論の自由、出版の自由への侵害だ、と思う。『ヴァイマールの聖なる政治的精神』が図書館で読めなくなることを恐れる。

本に誤りがあったって、いいじゃないか。そんなものは珍しくない。

物理学の有名な教科書でも、ミスプリントでない間違いがある。たとえば、論理に誤りがあり、重要な現象の起きうることを見落としているとか、あるいは、他人の論文を読んでいて結論はあっていても、著者の証明には誤りがあるとか。私も、若いとき、ずいぶん、見つけたものだ。

本の誤りをみつけることは、新しい発見につながる。

だからと言って、誰も、その本を図書館から追放しようとは思わない。歴史的価値があるからだ。本の追放はあってはならない。

現代では、論文を書くことがビジネスになっているので、意図的な偽造もでてくる。ただし、意図的か、単なる誤りかの判断は難しい。物理学では、みんな新発見をして、職を得たいと思っているので、焦って、チェック不十分で論文を書く。

物理学界では、1960年代の重力波検出、1980年代の低温核融合発見は、意図的な偽造とはみなされていない。単なる検証不十分とされている。しかし、検証不十分は、追試できないことによる、結果論である。追試ができれば、これらの著者は先駆者になる。

最近出版された『生命科学クライシス―新薬開発の危ない現場』(白揚社)は、生命科学分野の論文が新薬開発と結びついていて、追試の成功しない論文が増えていると指摘している。「増えている」ということは非難に値するが、論文の著者を懲戒解雇処分すべきとは言えない。

すなわち、追試ができない論文を指摘することや、本の誤りを指摘することは、真実を求める気持ちからくるもので、支持できる。

しかし、懲戒解雇処分や出版停止となると、私は反対せざるをえない。多様性に対する寛容なこころがない。

とくに、深井智明は、プロテスタンティズムを一歩引いて客観的に見ようとする、日本で数少ない、宗教学者である。ヨーロッパでは、ミル、ラッセルのように、カルヴァン主義(Calvinism)を批判する哲学者は少なくないが、日本では大塚学派のようにカルヴァン主義こそ正当なプロテスタンティズムとする者が多い。思想の多様性という観点から、深井智明は、必要不可欠の逸材である。

とくに、『ヴァイマールの聖なる政治的精神』は、私の興味あるテーマを扱っている。

ナチスが政権をとるまでの第1次世界大戦後のドイツの政治体制をヴァイマール体制と呼ぶ。

19世紀の終わりからドイツでは、ルター派のなかに自由主義神学が起きた。第1次世界大戦でドイツが敗北することで、自由主義神学は打撃をこうむった。第2次世界大戦で再びドイツが敗北することで、自由主義神学が壊滅した。それとともに、プロテスタント系の教会に信者が戻ってこなかった。

これが、なぜかである。

本というものは、1つの考え方を示すものであり、その一部に誤りがあるからといって、排除すべきではない。また、著者を懲戒解雇処分にすべきでない。思想の多様性は未来のために必要なのだ。

エピクロス学派とストア主義、自由意志と決定論

2019-04-08 14:20:14 | 自由を考える


エピクロス学派も初期のストア主義者も原子論者であった、とバートランド・ラッセルは『西洋哲学史』(みすず書房)で言う。

彼らは、現代の科学者と同じく、人間も含めて生き物を自律的に動く機械だと考えた。魂も、原子からできているとした。

このとき、「自由意志」と「決定論」の対立が起きる。未来が過去によって正確に規定されるなら、意志を持つことが無意味なように見えるからだ。

では、人間だけが特別なのか。

「自由意志」と「決定論(機械論)」の対立は、現代でも、なお、解決していない。

エピクロスは、「自由意志」を肯定するために、「絶対的決定論」を「確率的決定論」に修正した。
ストア主義の創始者ゼノンは、この対立に、深入りしなかった。彼は、形而上学をもともと嫌い、実用的なことに専念した。

近代になると、哲学者デカルトは、人間以外の生物を機械論的に捉えた。しかし、人間に関しては、「自由意志」の問題を解決するために、「われ思うゆえに、われあり」とし、脳の中の松果体に、「魂」があるとした。このため、デカルトは二元論者と言われる。しかし、この点を除けば、彼は、人間をも機械論的に捉えた。

現代科学では、「魂」も、神経細胞で構成される脳システムの機能である。神経細胞は、無機物と共通の元素の原子からつくられる、化学物質にすぎない。
この意味で、現代科学でも、「魂」は原子から成り立つ。

死によって脳システムは壊れるがゆえに、機能の「魂」は不滅ではない。

20世紀初頭に量子力学(quantum mechanics)が生まれたとき、因果律が決定論的でなく、確率的であると考える哲学者が出てきた。

しかし、ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルグのように因果律が確率的と解釈するのは、科学的には誤りであろう。
ボーアは電子が粒子だということに固執しため、確率的因果関係という概念を導入することになった。
例えば、ボーアは原子核の崩壊でエネルギー保存は確率的にしか成り立たないと考えた。実際には、ニュートリノが観測されていなかっただけで、エネルギー保存は正確に成り立っていると、現在は考えられている。

量子力学では、現在の量子状態を正確に知ることは、現実的に困難なので、実用的には、未来を確率的に予測するしかないというのが、真相に近い。

いっぽう、最近の脳科学では、神経細胞間の興奮伝達が確率的であることが、わかってきた。非常に面白い知見だと思う。

しかし、因果律が確率的だとしても、脳システムが確率的だとしても、未来の予測が確率的というだけで、「自由意志」の存在の説明にはならない。
自由意志は、しばらく、解決できない問題であろう。しかし、「自由意志」があると思うほうが、生きる元気が湧いてくる。