猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

不登校の自由と憲法

2019-05-20 11:02:15 | 自由を考える

最近、また、不登校の話題が新聞に載るようになった。
原則は、学校に登校するかどうかは、本人の自由である、とすることだ。

問題は、子どもがなぜ学校に行きたくないのか、また、多くの親がなぜ子供が学校に行くことを望むかである。

これについて論じる前に、日本国憲法第26条の「教育の権利と義務」の誤解をとく必要がある。

憲法第26条 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

日本国憲法のどこにも、「学校に行け」、とは書いていないのである。学校に行くか否かは、本人の自由である。憲法に書いてあるのは「教育を受ける」権利である。
誤解を生むのは、第26条の2項に「義務を負ふ」と書いてあるからだ。

第2項の「義務を負ふ」の主語は、「その保護する子女に普通教育を受けさせる」とあるから、「親」である。子どもには、教育を受ける義務はない。

もっとも、私は憲法に「義務」という語を用いることには反対の立場である。だから、第2項は、次のように書けば、良かった、と思っている。
「教育を受ける権利をなにびとも妨害してはならないし、国は、その権利の享受を助けなければならない。」

憲法第26条は、戦前の富国強兵の国策の観点が色濃く残っており、教育を人権の視点から書き直す必要がある。

さて、子どもが学校に行きたくないのは、子どもが学校に行くことに、なんらかの苦痛があるからだ。それは、なんなのか、まず、理解しないといけない。

現在の学校は、競争社会の「ふるい」の役割をしており、また、他国と戦う「戦士」を育てる役割をしている。

「ふるい」とは、学校が、たえず、テストを行い、成績をつけ、それで、進学先がきまるという暗黙の了解である。何のために、勉学するのか、親の立場になれば、楽な生活をしてほしいからである。なぜ、楽な生活ができるか、人から富を奪うことが許される社会だからである。

そして、「愛国」「貿易立国」という幻想のもとに、製品に競争力をつけ、輸出せよ、国は、子どもの思想教育を行って、働け働けと教えている。

この結果、何が生じるのか。いじめや恐喝や暴力が学校で頻発している。暴力をふるえない子どもは、負け組として劣等感に苦しむ。そのうちの何割か、うつになるか、不安症になるか、パニック症になるか、家庭内で暴力をふるようになる。

親は、子どもが、社会の既定路線をはずれることに不安を覚え、子ども以上に暴力的になるか、うつを発症し病院通いになるか、である。

いずれにせよ、国が悪い。ついで、親も悪い。

学校に登校するかどうかは、本人の自由である、という原則に戻るしかない。また、どの学校に行くか、の選択を行う手立てもある。

本来、民主主義社会では、教育を国に任すのではなく、親が教育のあり方を決めるのでなければならない。そのために、各自治体に「教育委員会」がある。「教育委員会」は国の出先機関ではない。

「競争」を排除する学校がよい学校である。テストは、ひとりひとりが、自分の学習度を確認するためであって、学校が順位をつけるためのものではない。

知識は人間の成長に役に立つが、知識を得る手段は学校教育だけでない。
学校の良さは、同年齢の子どもがいて、友達を作ることができることだ。しかし、競争をしいられると、たがいに意地悪をする関係になる。徒党を組んで、ひとの嫌がることをすることだけを、覚える。

選ぶ良い学校もなく、「教育委員会」を動かすこともできないなら、自分たちの学校(フリースクール)をつくるしかない。

とにかく、子どもが不登校になったら、まず、子どもがなぜ学校に行きたくないか、理解することである。


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