日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





【昔の観察日記01】へ)


 まさに隔世の感。時代を感じさせるタイトルに涙腺を刺激されそうです(笑)。配偶者の従妹で、

「私は香港に住んでいる中国人」
「文革?何それ?」

 と平然と言ってのける現在型香港人のアオイちゃん(旧称ミドリちゃん)がまだ4歳だったころの、まさに昔話。

「私は香港人」

 と言い切る世代(私の仕事仲間たちや配偶者)が成人しつつあることがまだ新鮮に感じられた時代です。……でもそれが20年近く経つと、

「香港に住む中国人」

 が台頭してくるのですから、実のところ「香港人」の寿命は意外に短かった?ことになります。

 以下は当時の観察日記の冒頭あたりのものです。日付からすると香港に渡ってひと息入れるなりすぐ書き始めた模様(笑)。



 ●中国、民主派圧勝の選挙結果に不快感(1991年9月20日)


 香港の株式市場は、先週1週間でハンセン指数にして63.78ポイントの下落と低迷している。20日付の親中紙『香港文匯報』はこれについて、原因が先の立法評議会直接選挙における民主派大勝にあるという証券筋の談話を掲載した。

 中国の国営通信社・新華社が事実上統括している同紙がこのような記事を掲載したことは、選挙結果に対する中国政府の間接的な不快感表明として注目される。

 同紙によると証券筋は、

「住宅市場の鎮静、ジャーディングループ上場廃止の動き、米国経済の伸び悩みなど市場冷え込みの要因はいくつかあるが、いずれも現在の株価の動きに直接結びつくものではなく、むしろ過激な政策を掲げ、中国政府に正面から対抗する政治姿勢をみせる民主派、特に香港民主同盟(港同盟)が議席の大半を獲得したことで香港の安定が損なわれるのではとの懸念が株価に反映した」

 と分析。さらに、

「李柱銘・港同盟主席の最近の発言が投資家の不安をさらに高めている。民主派は今後、『民主化促進』などという実のないスローガンを叫ぶだけでなく、現実的な政策で香港に貢献してほしいものだ」

 と注文をつけた。




 すぐ書き始めない訳がありません。あのときは本当に嬉しかったですから。

 9月初旬に夜の便で香港入りしてホテルで一泊。翌朝街を歩いてみたら、何と大学図書館や「内山書店」(神田神保町)あたりでしか目にすることのできなかった『争鳴』や『九十年代』があちこちの新聞スタンドで、しかも信じられないような廉価で売られているではありませんか(日本での値段が高すぎ)。そりゃもう嬉々としてその種の雑誌を買い集めたことを思い出します。

 それで早速中国観察の真似事を始めたようです。

「中国の国営通信社・新華社が事実上統括している同紙がこのような記事を掲載したことは、選挙結果に対する中国政府の間接的な不快感表明として注目される」

 なんてくだりは明らかに毒されています(笑)。こういうことを自分で書いてみたかったのでしょう。『香港文匯報』とか『大公報』とか『星島日報』とか、日本の新聞で特派員が引用していた新聞をリアルタイムに買うことができることにも言いようのない幸福感を覚えました。

 日本にいたころの環境に比べれば、中国情報つかみ取り大会のようなものです。香港は何と素晴らしいところだろう、と心から思いました。ああ初々しかったあのころ(笑)。

 ――――

 香港に渡ってから最初の1週間がホテル住まいで、その間に仕事のカケラを教えられつつ住まい探しをしました。当時はまだ英国の植民地だった香港が、民主化として立法評議会の議席の一部に直接選挙枠を導入し、その最初の選挙(たぶん)が実施される直前、要するに選挙運動中の時期がちょうどそのころだったようです。

 香港の部屋探しは基本的に日本と同じです。地元不動産屋の紹介で色々な物件を見て回りつつ、選挙ポスターが貼られているのに気付きました。あれ?こいつどこかで見た顔だ。……と思ったら「りちゅうめい」こと李柱銘(マーティン・リー)。

 大学図書館にあった『争鳴』『九十年代』や『香港経済導報』に写真が出ていたのを何度か目にしたことがあります。香港政治には全く興味がなかったのですが、民主派の旗頭的存在なのでたぶん雑誌での登場頻度が高く、私も名前と顔を記憶していたのでしょう。

 昨年の区議会議員選挙における親中派の大躍進立法会議員補選での「陳太」の辛勝を思えばウソのような話ですが、この当時は選挙をやれば民主派圧勝はお約束でした。

 ……いや、つい数年前までの香港ではそういう状況でした。北京から袖にされるなど民主派の力の限界が目立つようになったこともありますが、何よりここ数年で中国による有無を言わせぬ「植民地化」が急速に進んだのです。

 中国から押しつけられた香港型愛国主義教育を受けて育ったアオイちゃんたち「現在型香港人」や、中国本土からの新規流入組が有権者の列に加わりつつあることも見逃せないポイントです。

 ――――

 しかし当時は違います。何といっても流血の武力弾圧が行われた天安門事件(1989年6月4日)のわずか2年後。

 この天安門事件で終息した中国の民主化運動を香港人は当初から強く支持し、香港においても連日大規模デモが行われていました。北京市に戒厳令が敷かれ,趙紫陽・総書記(当時)の失脚が決定的となった5月中旬あたりになると、教師が生徒を引き連れて学校単位でデモ隊を組織したりもしたそうです(配偶者談)。

 それほど燃えていた香港ですから、人民解放軍が学生や市民を無差別に射殺していく事件の映像は形容しようのない一大衝撃となりました。激しく動揺した香港人たちはカナダや米国、オーストラリアなどの移民権獲得へと走り(中流以上の世帯限定ではありますが)、このために香港の地価も暴落。

「1997年に中国へ返還されたら香港はおしまいだ」

 と、一種のパニック状態です。香港人からみた中国共産党のイメージが「魔王」とか「悪の権化」といった存在に激変したのですから、選挙をやればそりゃもちろん追い風吹きまくりで民主派圧勝。どこかの財閥(失念)が暴落した不動産を底値で買い集めて大儲けすることになります。

 残念ながら、私が部屋探しをしていた時期はその財閥がすでに鮮やかに売り抜けた直後。中国の政情が保守派主導でそれなりに安定し、香港人の脈拍数も落ち着いてきたころ、中国返還のシンボル的存在とされていた香港新空港(現在の香港空港)の建設について中英両国が合意に至りました。

 それによって地価が劇的に回復した数カ月後に私が香港へ渡ることとなるのです。物件めぐりをし始めたら事前の説明で聞いていた賃貸マンションの相場より2~3割くらい高くなっていたので、嚢中乏しかった私は「話が違うじゃないか」と動揺した覚えがあります(笑)。

 ――――

 ともあれ、当時の観察日記には他にも色々なことをこの時期に書いているのですが、ヲチらしい内容のものはこれが最初の1本。

 そのころの中国はといえば、経済的(1988年のスーパーインフレ~天安門事件による西側諸国の経済制裁)にも政治的(民主化運動~趙紫陽失脚~天安門事件)にも見事なまでのハードランディングを行って半壊してしまった機体をあちこち継ぎはぎして応急修理し、飛べないまでも地上滑走くらいなら何とかできそうなところまで持ち直してきた時期でした。

 もちろん政治・経済両面では保守派主導による厳しい引き締め政策が敷かれたままです。このまま改革開放政策がしぼんで終止符を打たれるのではないかという危惧と、趙紫陽の後任に総書記へと大抜擢した江沢民が実はあまり使えないキャラ(意外に開明的でない上に期待していたほどの果断さもない)であることが明らかになりつつあったことで、トウ小平は静かに苛立ちを深めていたことと思います。

 経済の現状については、

「地上滑走どころか、大胆にやればジャンプ飛行くらいはできるだろう。ジャンプ飛行ができるのなら、思い切って離陸することも出来ない話ではない筈だ」

 とトウ小平は考えていた、といったところではないでしょうか。

 そして、そのための策動にすでに着手していた時期だったのではないかと思います。


【昔の観察日記03】へ)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )