ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

障がい者のサッカー通じて 初めて向き合えたハンディキャップ

2016年03月15日 01時50分58秒 | 障害者の自立

障害者だと考えたこともなかった僕が、日本代表に選ばれて、初めて日の丸背負ったユニフォームを着て『君が代』を聞いたときは、自分は本当に日本代表なんだと鳥肌が立ちました。日本代表というのは特別なものですからね。でも、ゴールキーパーのイスは一つ。代表に選ばれただけでは喜べません。あくまでも『君が代』はセレモニーの話で、ワールドカップでは出場できずに悔しい思いのほうが勝っています。次回のワールドカップでは必ず……」

 アンプティサッカー日本代表のゴールキーパー平賀智行には、嬉しさと苦さの入り混じった日本代表初選出の思い出があった。

―アンプティサッカー(切断者のサッカー)とは、事故や病気などによって上肢、下肢の切断障害を持った人たちによって行われるサッカーであり、フィールドプレーヤーは足に障害(主に欠損)を持つ人たちがクラッチ(杖)を軸足としてパスやシュートを放ち、ゴールキーパーは手に障害(主に欠損)を持つ人が、欠損した側の腕以外の全身を使ってゴールを守る競技である。―

簡易ルール説明

 

rules

■ 基本的なルールは通常のサッカールールに準じるが、一部ルールを変更している。

・アンプティサッカーは7人制競技である。フィールドプレーヤー6名とゴールキーパーの計7名。
・フィールドプレーヤーは基本的には下肢切断者、ゴールキーパーは上肢切断者が担当する。
・切断側の四肢を使用する事は禁止。
・フィールドプレーヤーは移動のためにクラッチを使用するが、このクラッチをボール操作に使用することはできない。
(故意に触れた場合はハンドとなる)
・ゴールキーパーはペナルティエリアから出ることができない。
・タッチラインをボールが割った場合は、スローインではなくキックインでゲームが再開される。
・フィールドプレーヤーは転倒した状態でボールを蹴ることはできない。
・オフサイドルールは適用しない。
・選手交代は何回でも可能。
・国際大会での試合時間は前後半25分の、計50分間で行われ、その間に10分間のハーフタイムがある

「不自由はない!」工夫すればなんでもできる

 平賀智行 1984年 埼玉県生まれ。

 平賀は生まれながらにして、右手に障害を持っていた。指と手がくっついた状態で生まれたのだ。幼い頃に何度か手と指を切り離す手術を行い、指の骨がなかったところは腰の骨を移植したと平賀は両親から聞いている。しかし、物心がつく前なので手術をしたという曖昧な記憶があるだけだ。

 「僕が生まれたとき、医師からは『長くは生きられないだろう』と告げられたと聞いています。生まれたときに泣かなかったそうですから、それだけ弱かったということです」

 しかし、その後はすくすくと成長し、幼い頃から外で遊ぶことが大好きで、小学生になると放課後、いったんランドセルを家に置きに帰るとすぐに学校に戻って、友達と遊んでいた。

 「小学校に上がる前、給食で使う食器を学校から借りてきて、『小学校ではこれを使って食べるから、使えるようになろう』と練習したことがあったのですが、両親の心配をよそに僕はただ食べるだけなんだから簡単だよと言って、実際使えないこともありませんでした。当時から右手でも物が掴めていましたので、生活する上では何も不自由はなかったのです」

 ジャングルジムやドッジボール、鉄棒、跳び箱など、平賀にできないことは何もなかった。先天性のため、それが自分にとってのごく自然な姿だったのである。たとえ最初はできなくても、工夫すればなんでもできることを幼い頃から理解していた。それが平賀の人間形成の基礎を作った。

人生のターニングポイント

 1993年にJリーグが設立され、国内に空前のサッカーブームが巻き起こった。遊び好きだった小学3年生の人生にも大きな影響を及ぼした。これが1つ目のターニングポイントである。

 平賀は周囲の仲間たちと地域の少年団に入ってサッカーにのめり込んでいった。平日は毎朝6~7時まで授業の前に練習が行われ、放課後はサッカー好きの仲間が集まり毎日ボールを蹴っているような生活だった。時折寝坊することもあったが、それは小学生らしいご愛嬌で、とにかくサッカーが大好きで辛いと思ったことはなかった。

 中学生になると、さらにサッカーの魅力に憑りつかれていった。「僕が育った地域はとてもスポーツが盛んで、中学生になってからは完全にサッカーが生活の中心になっていったのですが、自分の手のことをマイナスに思うこともないままに毎日が過ぎていきました。幸いといえば幸いなんでしょうね。周りの仲間や環境にも恵まれて、一度も面白くない思いをすることなく、サッカー生活を続けていました」

 そんな平賀は中学3年生になると海外のチームにも興味を持ち始めた。そこで積極的に海外からの情報を得たいと考え、語学力を高めるために英語科のある高校に進学し、サッカー部に入った。

 ポジションは中学時代の後半から、ボランチ(守備と攻撃を繋ぐバランサーとしての役割)を務め、年齢が上がるごとに攻めたい、点を取りたいと、前にいく意識が強くなっていった。

 練習を終えて家に帰り着くのは夜の9時という毎日だった。そんなサッカー漬けの生活は充実していたものの、高校生の平賀にとって、サッカーは楽しいだけの部活という範囲には納まらなくなり、「将来的に自分はどのようにサッカーと関わっていけばいいのだろう」と考えるようになったと平賀は振り返る。

留学がきっかけに

 そのキッカケとなったのはアメリカへの短期留学だった。異なる環境の中で自分自身と向き合う機会を得たことを契機に、物事に客観的な視点が加わり深く考えるようになっていったようだ。

 「1ヶ月間という短い留学だったのですが、とても強いインパクトをもたらしました。あの留学以降、いろいろな角度からサッカーの知識を得たいと考えるようになっていったのですが、いま思えば考え過ぎてしまったのかな、とも思っています」

 平賀は将来のことを考え抜いた結果、進学した大学ではサッカー部に籍を置かなかった。それはプレイヤーとしての視点ではなく、国内、海外を問わずサッカーに関するあらゆる知識を吸収したかったからだ。進学先は日本大学文理学部ドイツ語学科。理由は、ドイツを軸にサッカー界にコネクションを作ろうと考えたからである。以降、プレイヤーとしては趣味程度の関わりになっていった。

 「ヘタクソでもいいから、サッカー部に入るべきでした。大学のサッカー部はプレイヤーばかりではなく、いろいろな経験ができる役割がありますから、学ぶことは多かったはずなんです。ですが、当時はそこに気づけませんでした」

 しかし、平賀はこの大学時代に再び転機を迎えるのである。

 「それはドイツへの留学でした。高校時代のアメリカ留学よりもインパクトが大きくて、より深く自分の将来について考えるキッカケになりました。まさに人生の転機とも言うべきものです」

 日常とは異なる環境の中で見聞きした、様々な情報から刺激を受けることや、自分自身と向き合う時間を作ることの大切さを語っているのだろう。平賀は、「将来どのような職業に就いて、サッカーとどのように関わるか?」という自身への問い掛けに対し、高校時代よりも選択肢が具体的になっていた。

 「一時はスポーツライターにも憧れ、ドイツを軸に海外の動向を伝えるような記事が書きたいと思ったことがありました。そこで、観戦した試合のレポートを書く真似事をしたこともあったのですが、人生経験の少なさが文章に表れてしまうので、まずは広い知識と経験を得なければ、と考えました」

 サッカーとの関わりを模索していたあるとき、「こんなにサッカーが好きなのに、アルバイトをしたことがない!?」ことに気づき、さっそくサッカー関連でバイト先を探したところ、現在、平賀が役員を務めているアドリベラルに出合った。

 当時はユニフォームの梱包や単純な事務作業をするアルバイトだったが、勤務態度が見込まれ、正式な社員として勧誘された。卒業後はドイツのケルンに行こうと考えていた平賀だったが、「ショップを増やしたい」という社長の言葉に縁を感じ、卒業と同時に入社を決意。現在に至っている。

アンプティサッカーとの出会い

 アドリベラルはタイの工場でユニフォームをオーダーメイドする会社としてスタートした。縫製ミスやプリントミスが出た場合は、現地のろう学校に寄付する活動を行っていた。そうした活動の中から、左手部欠損というハンディを持ちながらも、タイやバングラディシュでプロの選手として活躍する相原豊の存在を知った。

 「こんな選手が海外にいたことに驚きましたし、その相原さんがアンプティサッカーを始めたことを聞いて、この競技のことを知りました。そこで初めて障害者サッカーに興味を持ったのです。何か僕にも協力できることはないだろうか? と思っていたところへ、お店に面白い注文が入りました」

 それは『アンプティサッカー あきらめない』というプリントのビブスだった。注文主は日本アンプティサッカー協会 普及・教育事業担当 アンバサダーの阿部眞一氏である。

 平賀が「関係者の方ですか」と訊ねると、逆に「アンプティサッカーを知っているの?」と返ってきた。ビブスを引き渡す際に「ぜひお会いしたい」と告げると阿部は快く店を訪れた。

 ふたりはすぐに意気投合した。阿部は当初、選手としてスカウトしたかったが、平賀が身体障害者手帳の交付を受けていないことを知って、スタッフとして協力してほしいと伝えたところ、「それでもいい。ぜひ、やらせて下さい」と平賀の答えは早かった。

 「毎月1回程度ですが、ボール拾いなどをしながら練習に参加するようになると、『出られるんじゃないの?』と選手たちから声を掛けられ、僕自身も、もし出られるとしたら、また両親にサッカーをしているところを見せられますし、娘に父親の障害のことを伝えやすいと思うようになりました。アンプティサッカーと出合って、僕は生まれて初めて自分の障害と真剣に向き合うようになったのです」

ゴールキーパーとしての覚悟

 阿部に誘われてから、半年が経過していた。平賀は正式に『FCアウボラーダ川崎』のゴールキーパーとして選手登録をした。ただし、そこには越えなければならない壁があった。

 その壁というのは、「攻め」から「守り」のポジション変更によるストレスである。ましてやアンプティサッカーのゴールキーパーは欠損側の腕をまったく使うことができないために、平賀にとっては二重の苦しみに感じられた。

 「ルールを知った上で始めたとはいえ、僕はそれまで不自由を感じることなく過ごしてきたので、片手が使えないゴールキーパーというのは、何か大きな制約を受けているようで最初の半年間くらいは面白さがわからず、まったく楽しめませんでした。アンプティサッカーのゴールキーパーは、サッカーじゃないとまで感じていたので、それを乗り越えるにはかなりの『覚悟』を必要としました」

評価を受けるも出場できなかったW杯

 心の壁を乗り越えた平賀は、積極的にチームに関わりゴールキーパーとして大きな可能性を示した。アンバサダーの阿部は、「可動範囲を最大限に活用したリベロ的なゴールキーパー」と平賀を評している。

 ゴールキーパーの役割として後方から状況を見極め、攻守の両面において指示や情報等を伝えることが求められるが、平賀の場合はそうした「声」に留まらず、いったんボールを戻させ、そこから攻撃を再構築するシーンが多いと阿部は言う。その意図を平賀はこう話す。

 「アンプティサッカーは少し気を抜くとスピード感がなくなってしまう競技です。国内のレベルをあげるためには、もっと緩急をつけなければなりません。それには両足が使えるキーパーを戦術のひとつとして活用することにあると思っています。そこにこの競技のスピードアップの要素があると考えていますので、キーパーからフィード(前方へパスを送ること)して攻撃に結びつけるようなチーム作りを目指しているのです」

 平賀のような攻撃的な性格の選手は、ゴールキーパーにおいても積極的に「攻める」役割を考えるようだ。こうした考えを持った平賀の活躍が認められ、2014年ワールドカップメキシコ大会では日本代表に選出された。それも副キャプテンを任されたのである。

 しかし、公式戦での出場機会はなく、平賀が出場できたのは公式戦後の親善試合のみだった。それが本稿冒頭の「悔しい思いのほうが勝っていました」に繋がっていく。

 「僕は副キャプテンでありながら、大会期間中は自分の立場がとても難しく、練習中や試合前に選手にどう声を掛けたらいいのかわからなくて、逆に選手たちに支えてもらっていたような感覚でした」

これからの目標を聞く

 「個人的には2016年開催のワールドカップに出場することを目標に置いています。また、日本代表としての目標は世界のベスト4です。そのためには日本代表の個人能力を高めることではなく、日本アンプティサッカーの底上げに尽きると思っています。全体のレベルを高めることで競争力をつけて、2010年の日本代表発足当時から出場している第1世代の選手たちを追い抜かなければ、日本のアンプティサッカーは強くならないでしょう。

 また、新しくこの競技に入ってくる選手たちをフォローする活動にも力を入れたいと思っています。後天的な欠損者に対しては、しっかり話を聞いてあげるような、その人に応じた受け入れ方をしなければ心を開いてはもらえないですからね」

 現在、国内には7チーム、約80名の選手が登録している。平賀は既存のチームや枠組みにこだわることなく、各チームに参加を呼びかけ合同練習を開催している。

 「いくつかチームが集まれば試合数をこなせます。そうすることによってレベルが上がるはずです。いろいろな調整や準備を重ねてから始めるよりも、まずは動いてみることです。しがらみのない第2世代だからこそできることがある。それが僕の思いです」

平賀智行の競技歴
◇サッカー
1994年 尾山台イレブンスポーツ少年団 入団
1997年 原市中学校サッカー部 入部
2000年 順天高校サッカー部 入部◇アンプティサッカー
2013年 FCアウボラーダ川崎 加入
2014年 日本代表選出

2016年03月13日  WEDGE Infinity


「障害児が日本に生まれてよかったと思う国にしたい」

2016年03月15日 01時23分37秒 | 障害者の自立

 夏の参院選に自民党比例代表候補として出馬するダンスボーカルグループ「SPEED」の今井絵理子氏(32)が産経新聞のインタビューに答え、耳に障害をもつ長男のことや、一部週刊誌が報じた交際男性のことなどに触れ、「今後を見つめ、支えていくのが、私の生き方」と強調し、目指す政治活動のテーマに「一緒」を掲げた。主なやりとりは以下の通り。

 --出馬の動機は

 「11歳からずっと歌の世界にいて、歌しか分からない生活でしたが、21歳で息子を産み、障害という壁にあたりました。そこでやっと社会を学ぶ経験を重ね、障害者に対する偏見や差別などを少しずつ改善していけたらと思いました。息子と同じような障害児が大人になったとき『日本に生まれてよかった』と思う国にしたい。そう思って決意しました」

 「今は大学に進む聴覚障害者が増えましたが、聴覚障害の大学生に手話通訳を付ける予算はありません。同じ学生のボランティアが隣に座り、ノートテークをして授業内容を説明しますが、ボランティアが授業を理解できる情報量にも限界があります。こうした『情報保障』を平等にすることにも取り組みたいと思っています」

 --どんなときに障害者への偏見を感じたか

 「私にも障害者への偏見はありました。なぜなら分からないから。小さい時に身近にいないので、大きくなったときにどう接したらいいか分からない。これが差別や偏見につながります。コミュニケーションの手段が分からないがために、壁を作ってしまう傾向があります」

 「ではどう改善するか。息子が3歳のとき、保育園に1年間だけ入所したのですが、3歳児は障害の有無に関係なく遊んでくれました。その保育園には聴覚障害児の専門的な先生がいて、子供たちにこう教えてくれました。『礼夢君は耳が聞こえないから、こうやって対応するんだよ。遠くから礼夢君と呼んでも聞こえないから、肩をトントンとするんだよ』と。3歳児は素直なので『分かった』とすぐコミュニケーションが生まれます。ドイツでは、小さな頃から障害を持っている子と健常児がなるべく同じ環境で一緒に勉強していて、世論調査では、9割の人たちが障害への偏見がないという統計もあるそうです。日本では、その割合が逆だと思うんですよね。それは触れているか、いないかの違いです」

 --小さな頃から、そうした教育環境を作ることが大切だと

 「今の日本の障害者対策は、どうしても『分ける』傾向が目立ちます。学校も普通学級、なかよし学級、ろう学校、特別支援学校と分けていますよね。障害児に専門的なことを教えられるメリットもありますが、大きくなったときどう社会に対応するのか、親に不安も残ります。逆に普通の学校の子たちは障害児を知らないまま育ち、そこで両者に壁ができる。こういうことを一つ一つ改善したいのです」

 「だから、私の掲げるテーマは『一緒』。障害児と健常児が一緒に学んだり、交流したりできる場所を作りたい。(健常児の)親御さんも一緒に考え、学び合う場所も作りたい。例えば、交流の場で目の不自由な子がいることを知り、点字も体験してもらう。そうすれば、『障害は個性』ということを知ってもらえると思うんですよね」

 --息子さんは出馬をどう受け止めたか

 「実は今(取材当日)、彼は選挙に臨んでいるんですよ。学校の児童会の選挙に『書記』候補として出馬しました。みんな手を挙げないようで、私の影響からか、立候補したと聞きました。今日は演説をやるのだそうです。息子は相変わらず、母として接してくれています。出馬にあたっては『手話を沢山の人に認めてもらいたい』と語ってくれました。手話を交えた私の出馬会見がテレビ放映され、息子の友達もすごく喜んでくれました。私の話をすぐ理解してもらえるのですから」

 --これまで政治家にはどんなイメージがあったか

 「いやあ、どうなんでしょうね。うーん…正直怖いというイメージがありました。ただ、政治家の皆さんのおかげで今の安全な国が作られているとも感じています。女性議員はもう少し増えてほしい。スウェーデンは全国会議員に占める割合が40%と聞きました。子育て政策の立案には『母性』の要素を考えることも大切です。女性議員がたくさん出てくることによって、そういった面もケアできるのではないか」

 「私は若い人たちと国の間をつなげる役割も担いたいと思います。政治は難しいとか、怖い人がたくさんいるという声を多く聞くので。若い人を国会の本会議や委員会質疑の傍聴席に招き、真剣に議論している様子にも触れてほしい。私たちの世代は、国会を傍聴できることすら知らない人が多いのではないでしょうか」

 --自民党の谷垣禎一幹事長は「SPEEDって何」と話していた

 「なので、CDを渡しました。谷垣幹事長は『聞いて勉強します』と答えてくださいました」

 --これまで政治家にはどんなイメージがあったか

 「いやあ、どうなんでしょうね。うーん…正直怖いというイメージがありました。ただ、政治家の皆さんのおかげで今の安全な国が作られているとも感じています。女性議員はもう少し増えてほしい。スウェーデンは全国会議員に占める割合が40%と聞きました。子育て政策の立案には『母性』の要素を考えることも大切です。女性議員がたくさん出てくることによって、そういった面もケアできるのではないか」

 「私は若い人たちと国の間をつなげる役割も担いたいと思います。政治は難しいとか、怖い人がたくさんいるという声を多く聞くので。若い人を国会の本会議や委員会質疑の傍聴席に招き、真剣に議論している様子にも触れてほしい。私たちの世代は、国会を傍聴できることすら知らない人が多いのではないでしょうか」

 --SPEEDの活動はこれからどうなるのか

 「今年デビュー20周年を迎えるので、ファンの皆様に何かしらやりたいと思ってます。ただ私は器用でありません。(政治家として)知らなければならないことがたくさんあるので、まずは政治第一。SPEEDの活動は、そうした合間をぬってできたら理想的です」

 --メンバーの反応は

 「『信じられない』って言っています。出馬会見の様子もチェックしてくれていて『緊張していた』とも言われました。やはり仲間には分かるものですね。メンバーも政治を知ろうとしてくれていて、そういう気持ちはすごくうれしいです」

 --出身地の沖縄への思いは

 「生まれ育った街で、幼いときから米軍基地が身近にありました。私の中では当たり前の光景です。やはり沖縄の皆さんの声を聞けば、基地負担は軽減させた方がいい。そういう取り組みにも参加していきます。自分で改めて現地を見て、声を聞きたいです。自分で見て体験しないと納得できない性格なので」

 --昨年成立した安全保障関連法に絡んだツイッターが話題になった

 「私は戦争に反対という意味であり、安保法に反対と言ったのではありません。私のおじぃ、おばぁも含め、ひめゆりの塔などに行くと、戦争の悲惨なことを涙ながらに伺います。戦争はやってはならない。ただ、戦争をしないために黙っていればいいというわけではありません。備えは必要です。それが戦争に直接つながるというのは違う」

-沖縄は経済問題が深刻だ

 「若者の貧困がすごく目立っていて、私の同級生も出稼ぎに愛知県に行っています。私は以前、沖縄の児童養護施設にも行きましたが、沖縄は子供の貧困も目立ちます。ネグレクトも多いんですよ。現場に足を運び、どう改善すればいいのか、いろいろ話を聞きたい」

 --週刊誌が、過去に逮捕歴のある男性との交際を報じた

 「あることないこと書かれていますが、私は彼の過去に関しては気にしていないですし、彼に関してはこれから先がとても大事だと思っています。彼も幼少期、ネグレクトを受けて育った1人です。過去に悪いこと…悪いことというか、人を傷つけたり、法に触れたりすることをした人が、ずっとそういうレッテルを貼られて生きていかなければいけないんでしょうか。更生してきちんと生きていってもいいんじゃないでしょうか。今後を見つめ、見守って支えていってあげるのが、私の生き方です」

 --男性を今後も支えていくのか

 「そうですね。私のテーマが『一緒』なので。一緒に歩んでいけたらいいと思います」

 --息子さんにとっては父親のような存在か

 「はい。彼は手話で意思疎通もできます。ちゃんと歩み寄ってくれています。日本では、一回そういう(悪い)ことがあると抜け出そうにもチャンスがない。社会全体が一度レッテルをはったら、ずっとそのまま生きていかざるを得ない傾向があり、誰も手を差し伸べない。私は手を差し伸べたい。それで『一緒に頑張ろう』と言いたいのです」

(聞き手 水内茂幸、豊田真由美)

自民党から参院選に出馬表明した、今井絵理子氏(歌手)インタビュー=7日、東京・永田町(古厩正樹撮影)

自民党から参院選に出馬表明した、今井絵理子氏(歌手)インタビュー

2016.3.14  産経ニュース


路線バス内で女性の首絞める 殺人未遂の現行犯で男を逮捕

2016年03月15日 01時11分16秒 | 障害者の自立

 路線バス内で乗客の女性(81)の首を絞めたとして、大阪府警八尾署は13日、殺人未遂の現行犯で、大阪府八尾市山本町北の作業員の男(50)を逮捕した。

 男と女性に面識はなく、「精神的に疲れていて、気持ちを落ち着かせたかった」と容疑を認めている。男は市内の知的障害者の作業所から1人で帰る途中だったとみられる。

 逮捕容疑は13日午前9時45分ごろ、同市山本町を走行中の路線バス内で、前の座席に座っていた無職女性(81)の首を後ろから手で絞めたとしている。女性は頸(けい)椎(つい)捻挫の軽傷。

 当時車内には7~8人の乗客がいて、犯行に気づいた他の乗客が男を取り押さえたという。

2016.3.13    産経ニュース


要約筆記

2016年03月15日 01時06分32秒 | 障害者の自立

 進路を考えた学生のころ、教師だけはなるまいと決めていた。父親は国語教師、母親は数学教師。五つ上の姉も英語教師になった。一家に一人くらい変わり者が欲しい気がした。家庭教師のバイトも避け続けた。

 なのになぜだか、この二月に教師役を務めた。県内の要約筆記ボランティアたちに速く、分かりやすく文章を書く技術を教えてほしいと頼まれたからだ。

 要約筆記は聴覚障害者のために講演会などの内容をすぐに文字に起こして、“同時通訳”する仕事だ。練習で、私の講演を二十分ほどで新聞記事にしてもらうと、いい文章ばかり。新聞記事らしからぬ叙情的な名文も。参加者が私になりきって書いた記事もあった。締めはこうだ。「私にとっても勉強の機会になった」。ついほほ笑み、深くうなずいた。

2016年3月13日   中日新聞