西村早苗さん=西宮市=の夫、信一さん(71)が脳卒中で倒れたのが92年1月。信一さんは半年間入院し、入浴時間をはさんで午前9時から午後3時半まで連日、リハビリを続けた。
最初の1カ月半は病室が個室だったため、西村さんも病院に泊まり込み、大部屋に移ってからは通院してリハビリに付き添った。
信一さんは会話ができ、当時は付き添いがいれば、杖を使って歩くこともできた。退院後もリハビリのため週2回通院し、「病院で一緒にリハビリをしていたから、立ち上がる時などに体を支える方法が分かっていたので」と、自宅でも西村さんが付き添って近所を歩いた。
信一さんは30代で独立して、旅行代理店を設立。43歳と44歳の時にも脳卒中で40日ずつ入院したことがあり、今回が3回目だったが、それまで、ほとんど休むことなく働いてきた。2人の息子の運動会や授業参観日とも無縁だった。
西村さんは「仕事人間で、病院でリハビリの最中も、仕事先から見舞い客が来るのを心待ちにしていました」と話す。退院後も、車椅子で西村さんと会社に行き、会社の新年会や社員旅行にも2人で参加した。
そして95年1月17日、阪神大震災が起きた。家族にけがはなかったが、自宅は半壊。一緒に暮らすことができなくなった。
信一さんは宝塚市にある障害者が暮らす施設に3カ月入り、その後、神戸市内の病院に移った。西村さんは尼崎市内でアパートを借りた。西村さんは平日、震災で混乱している会社へ手伝いに行き、週末に病院まで車で通った。被災地の交通事情が悪かったため、市街地を避けて中国道経由だった。
自宅のローンが残っており、家再建のために西村さん名義で新たなローンを組まなければならなかった。そして、震災から1年がたとうとしていた96年1月15日、病院から一時帰宅した信一さんが4回目の脳内出血を起こした。【香取泰行】=つづく
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◇まるちゃんからひと言
「以前は家族も病院でリハビリを学ぶ余裕がありました」(つどい場さくらちゃん理事長)
〔阪神版〕毎日新聞 2011年7月26日 地方版
最初の1カ月半は病室が個室だったため、西村さんも病院に泊まり込み、大部屋に移ってからは通院してリハビリに付き添った。
信一さんは会話ができ、当時は付き添いがいれば、杖を使って歩くこともできた。退院後もリハビリのため週2回通院し、「病院で一緒にリハビリをしていたから、立ち上がる時などに体を支える方法が分かっていたので」と、自宅でも西村さんが付き添って近所を歩いた。
信一さんは30代で独立して、旅行代理店を設立。43歳と44歳の時にも脳卒中で40日ずつ入院したことがあり、今回が3回目だったが、それまで、ほとんど休むことなく働いてきた。2人の息子の運動会や授業参観日とも無縁だった。
西村さんは「仕事人間で、病院でリハビリの最中も、仕事先から見舞い客が来るのを心待ちにしていました」と話す。退院後も、車椅子で西村さんと会社に行き、会社の新年会や社員旅行にも2人で参加した。
そして95年1月17日、阪神大震災が起きた。家族にけがはなかったが、自宅は半壊。一緒に暮らすことができなくなった。
信一さんは宝塚市にある障害者が暮らす施設に3カ月入り、その後、神戸市内の病院に移った。西村さんは尼崎市内でアパートを借りた。西村さんは平日、震災で混乱している会社へ手伝いに行き、週末に病院まで車で通った。被災地の交通事情が悪かったため、市街地を避けて中国道経由だった。
自宅のローンが残っており、家再建のために西村さん名義で新たなローンを組まなければならなかった。そして、震災から1年がたとうとしていた96年1月15日、病院から一時帰宅した信一さんが4回目の脳内出血を起こした。【香取泰行】=つづく
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◇まるちゃんからひと言
「以前は家族も病院でリハビリを学ぶ余裕がありました」(つどい場さくらちゃん理事長)
〔阪神版〕毎日新聞 2011年7月26日 地方版