古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

△武寧王陵ー竹島ー天智天皇陵・京都御所

2020年01月08日 19時12分41秒 | Weblog
今までに、武寧王陵と平城宮の関連は見つけていました。
《武寧王陵ー出雲大社ー平城宮・平城京(朱雀門)ー皇大神宮(伊勢神宮・内宮)》
は一直線でした。
また、
武寧王陵(ー彌久賀神社ー生田神社ー住吉大社ー多神社)ー三輪山ー瀧原宮
これは、藤原宮のそばを通ります。
ですが、以前、武寧王陵ー高千穂峰の直線で、高千穂峰が直角となる地を探したことがありました。
△武寧王陵ー高千穂峰―藤原宮は高千穂峰で直角となっていました。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/6445e1aabea6e2ca7681847a24981975
武寧王陵-高千穂峰-藤原宮跡辺り 2015年05月04日

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/5523d605de73a55ce9cefb836a6ff54e
⊿武寧王陵-高千穂峰-石上神宮・熱田神宮 2015年05月08日

また、
武寧王陵ー皇大神社(元伊勢・内宮)ー熱田神宮ー焼津神社も一直線でした。

しかし、肝心の平安京・京都御所と武寧王陵との関連が見つけられませんでした。







ところで、竹島を中心として円を描いた場合、竹島から武寧王陵、竹島から気多大社はほぼ同じ距離にあることはすぐわかります。
また、それに付随して、竹島から武寧王陵・気多大社とほぼ同じ距離ある地点もわかります。
大胆にいえば天智天皇陵・明治天皇陵・桓武天皇陵もほぼ同一距離あるといっていいでしょう。
その他、難波宮跡・大阪城も入ります。(おおまけにして、住吉大社・四天王寺も)
また、国東半島・杵築や太宰府・高祖山も入れられそうです。











さてそこで、まず、最も意味を持ちそうな天智天皇陵を見ます。
しつこく主張を繰り返します。。
私の空想の中では天智天皇は存在しません。
そこにいるのは百済王・豊璋です。
白村江の敗戦後、天武天皇は日本が唐に戦いを挑んだのはその663年の時点において、日本は百済に政権を奪われていたから、ということにしたはずです。
本国百済奪還のために、日本の百済政権は白村江の戦いに突入しました。
では、どこの時点で、日本は百済に変わっていたかというと、645年大化の改新でそれまでの正統な政権を滅ぼして百済王・豊璋が王位についたことにしました。
正統な蘇我政権でした。「蘇我」という名前を使用していたかどうかわかりませんが、「よみがえる我」で「卑弥呼・臺与(とよ)」の子孫を意味していたかもしれません。
そして、672年壬申の乱で正統な天武政権に戻したことにしました。
唐に攻め込まれないために、残っていた百済を滅ぼしたことにしたはずです。
そして、672年時点では反唐政権ではなく、もとの親唐政権に戻っていたことをアピールします。

さて、そこで、天智天皇陵の被葬者は、私の想像では百済王・豊璋になります。
百済つながりになります。




△武寧王陵ー竹島ー天智天皇陵
竹島→武寧王陵
 ①259°55′02.04″ ②77°03′52.06″ ③432,716.070(m)
竹島→天智天皇陵
 ①123°53′43.70″ ②306°13′04.76″ ③433,128.927(m)
武寧王陵→天智天皇陵
 ①99°06′38.20″ ②284°11′38.10″ ③802,772.361(m)

竹島での角度
 259°55′02.04″ー123°53′43.70″=136°01′18.34″≒136.0218度
武寧王陵での角度
 99°06′38.20″ー77°03′52.06″=22°02′46.14″≒22.0462度
天智天皇陵での角度
 306°13′04.76″ー284°11′38.10″=22°01′26.66″≒22.0241度

頂角135度、底角22.5度の二等辺三角形になるのでしょう。

この項、あと少しですが、続けます。
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