中途半端で、とても、投稿できるような代物ではありませんが、日にちがあきすぎるのもなんですので、・・。
藤原種継が長岡京で暗殺された事件の時に、大伴家持は既に亡くなっていたにもかかわらず、首謀者の一人とされていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81
《没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。大同3年(806年)に罪を赦され従三位に復された。》
(806年は延暦25年でした。現在は修正してあるようです。2019・11/15)
ですが、大伴家持といえば、確か、万葉集の編纂者とされていました。
私の持論では、「古事記」や「日本書紀」や「源氏物語」などは、『魏志倭人伝』の間違いどおりに書かれているはずです。
ただ、「万葉集」だけは、どうなんだろう、とずっと感じていましたし、手をつけかねていました。
(どこまで、政治が絡んでいるのだろうか、また、政治が絡むにしても、どういう立場なのでしょうか、見当がつきません。)
ところが、万葉集の最後の歌は、
大伴家持の天平宝字3年(759年)正月の
『新年之始乃波都波流能 家布敷流由伎能伊夜之家餘其謄』(卷二十-4516)
~新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事~
(あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと)
この歌は知ってはいましたが、最後の歌だったとは知りませんでした。
『なぜ「万葉集」は古代の真相を封印したのか』関裕二 p207 実業之日本社
大濱眞幸氏の説として
《天平宝字三年正月一日の「暦」からみた意味を調べてみると、ちょうど「立春」の日にあたっていたこと、暦日の始発としての元日と「豊年の雪」と「立春」を重ねていたことが分かる、とする。つまり、この日は「歳旦立春(元日で立春)」にあたり、並みの正月ではなく、十九年に一度のめでたい日だったこと、「いやしけ吉事」という言葉をさしはさんだ必然性も理解できるといい、次のように述べる
『この幾重にも重なるめでたさこそ、第一巻頭歌のめでたさとの照合性が従来にも増して読み取れるのではないか、このことこそが、まさしく「万葉集」の最終歌としての相応しさではないかと考えるようになったのです』
『万葉集を学ぶ人のために』中西進編 世界思想社》
最後の歌が新年の歌、最初の歌、しかも特別な「歳旦立春」の日とすると、めでたいのかどうかは別にして、やはり、「万葉集」も終わりのない繰り返しの構造にあり、この「万葉集」の最後の歌から、「万葉集」の最初の部分に戻ることになるのではないでしょうか。
断定的にいいますが、
『魏志倭人伝』では、247年に卑弥呼が殺されて箸墓が造られたことになっていますが、箸墓は、33年後の280年(ごろ)卑弥呼臺与(トヨ)の死で造られたものです。
要するに、何度も書きますが
『魏志倭人伝』は247年に殺された卑弥呼と280年に殺された卑弥呼臺与(トヨ)を同一人物と間違ったために、時の流れが逆転し、終わりのない繰り返しの記述になってしまったのです。(位置も東西変化します。その他、直角の間違いもあります)
ただし、日本の史書が『魏志倭人伝』の間違い通りに書くということは、『魏志倭人伝』が卑弥呼の復活を預言してしまったからです。
ですから、卑弥呼の子孫でないであろう大伴氏が『魏志倭人伝』の間違い通りに「万葉集」を編纂する必要はないと思えます。
最後の歌から最初の歌に戻り、繰り返しがあるとすると、「万葉集」を編纂したのは大伴家持、他の大伴氏の誰かでも、ないかもしれません。
大伴氏の慰霊のためかも・・・。
藤原種継が長岡京で暗殺された事件の時に、大伴家持は既に亡くなっていたにもかかわらず、首謀者の一人とされていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81
《没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。大同3年(806年)に罪を赦され従三位に復された。》
(806年は延暦25年でした。現在は修正してあるようです。2019・11/15)
ですが、大伴家持といえば、確か、万葉集の編纂者とされていました。
私の持論では、「古事記」や「日本書紀」や「源氏物語」などは、『魏志倭人伝』の間違いどおりに書かれているはずです。
ただ、「万葉集」だけは、どうなんだろう、とずっと感じていましたし、手をつけかねていました。
(どこまで、政治が絡んでいるのだろうか、また、政治が絡むにしても、どういう立場なのでしょうか、見当がつきません。)
ところが、万葉集の最後の歌は、
大伴家持の天平宝字3年(759年)正月の
『新年之始乃波都波流能 家布敷流由伎能伊夜之家餘其謄』(卷二十-4516)
~新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事~
(あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと)
この歌は知ってはいましたが、最後の歌だったとは知りませんでした。
『なぜ「万葉集」は古代の真相を封印したのか』関裕二 p207 実業之日本社
大濱眞幸氏の説として
《天平宝字三年正月一日の「暦」からみた意味を調べてみると、ちょうど「立春」の日にあたっていたこと、暦日の始発としての元日と「豊年の雪」と「立春」を重ねていたことが分かる、とする。つまり、この日は「歳旦立春(元日で立春)」にあたり、並みの正月ではなく、十九年に一度のめでたい日だったこと、「いやしけ吉事」という言葉をさしはさんだ必然性も理解できるといい、次のように述べる
『この幾重にも重なるめでたさこそ、第一巻頭歌のめでたさとの照合性が従来にも増して読み取れるのではないか、このことこそが、まさしく「万葉集」の最終歌としての相応しさではないかと考えるようになったのです』
『万葉集を学ぶ人のために』中西進編 世界思想社》
最後の歌が新年の歌、最初の歌、しかも特別な「歳旦立春」の日とすると、めでたいのかどうかは別にして、やはり、「万葉集」も終わりのない繰り返しの構造にあり、この「万葉集」の最後の歌から、「万葉集」の最初の部分に戻ることになるのではないでしょうか。
断定的にいいますが、
『魏志倭人伝』では、247年に卑弥呼が殺されて箸墓が造られたことになっていますが、箸墓は、33年後の280年(ごろ)卑弥呼臺与(トヨ)の死で造られたものです。
要するに、何度も書きますが
『魏志倭人伝』は247年に殺された卑弥呼と280年に殺された卑弥呼臺与(トヨ)を同一人物と間違ったために、時の流れが逆転し、終わりのない繰り返しの記述になってしまったのです。(位置も東西変化します。その他、直角の間違いもあります)
ただし、日本の史書が『魏志倭人伝』の間違い通りに書くということは、『魏志倭人伝』が卑弥呼の復活を預言してしまったからです。
ですから、卑弥呼の子孫でないであろう大伴氏が『魏志倭人伝』の間違い通りに「万葉集」を編纂する必要はないと思えます。
最後の歌から最初の歌に戻り、繰り返しがあるとすると、「万葉集」を編纂したのは大伴家持、他の大伴氏の誰かでも、ないかもしれません。
大伴氏の慰霊のためかも・・・。