古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

なぜ入鹿魚が譽田別命(後の応神天皇)に贈られたのか

2005年04月12日 22時17分35秒 | Weblog
 そういえば、古事記に載せられている動物は、私の考えでは、特定の人物を象徴するものでした。
 稲羽の素兎は(宇佐・木〔神〕)で卑弥呼トヨ、八俣の大蛇は(大和の大蛇)でやはり卑弥呼トヨでした。猪も石を表わしていて磐之姫(明石の君)でした。蛇・猪で少し違って見えるものもありますが、彼女たちを念頭には置いているはずです。
 ならばやはり‘入鹿魚’も蘇我入鹿を表わしていると見たほうがいいはずです。

≪建内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)が、太子(ひつぎのみこ・譽田別命、後の応神天皇)を連れて、角鹿(敦賀)に禊に行きます。
伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)が、夜の夢に現われて、
「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」(自分の名前と御子の名前を変えたい)とおっしゃいました。御子はその命を受けます。
さらに、「明日の旦、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)献らむ」。
(明日の朝、浜に行ってみなさい。名を変えた印の贈り物を差し上げます)
翌朝、太子が浜へ行かれると、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集っていた。
これを見て太子は、「我に御食(みけ)の魚(な)を給ひき」、(神が私に食べものの魚を下さった)とおっしゃった。
そして、その神の名を称えて、御食津大神(みけつおおかみ)と名づけた。
それが今に気比大神(けひのおおかみ)といいます。
鼻の傷ついたイルカによって、浦が血で臭かったので、その浦を「血浦」と呼び、角鹿(つぬが)となった。≫
 
日本書紀では
「大神は去来紗別神(いざさわけのかみ)になり、太子は誉田別尊(ほむたわけのみこと)となった。そうすると大神の元の名は誉田別神で、太子は去来紗別尊になる。しかしそういう記録はないそうで、明らかではない」となっています。

要点は三つです。
①場所は敦賀
②大神と太子の名前を交換する。伊奢沙和気(去来紗別)と誉田別。 しかし、その記録はない。
③大神からの贈り物は鼻がつぶれて、血で染まったイルカだった。 日本書紀には、このことは記されていない。

 禊の場所が敦賀であったことは重要でした。前にも説明したように、敦賀は福井と平城京の直線上に存在するからです。そしてその線は伊勢神宮―平城京―出雲大社の直線と直角に交わっていました。これは、応神天皇が天孫であることを示すと共に、天孫が出雲から大和に復活したことを表現していました。
 ですから、天孫・卑弥呼の子孫にとって敦賀は、地理上の位置が重要なのだと考えました。これは間違いないはずです。

 しかし、どうもそれだけではなかったように感じられます。
名前を交換するのは、卑弥呼の子孫と前王朝の神のようですから、たぶん、敦賀は前王朝にとっても、実際上、重要だったのではないかと思えてきたのです。
 私には、航路ぐらいしか思い浮かびませんが、他にも何かあるのかもしれません。海産物もあるか。
 しかも、名前の交換をしたことは、はっきりしないと、わざわざことわっています。
すなわち、前王朝の重要な地を、呪力のインターネットの線上に置くことによって、前王朝との継続化、もっといえば、同一化を図ったのではないでしょうか。万世一系につなげるためにです。
 しかし、名前の交換をしていたなら、本当はつながっていなかったということになりかねません。だから書紀では‘わからない’ということにしたんだと思います。
   ふらふらしながら続けます。

≪「記・紀」は、「魏志倭人伝」のせいとはいえ、あまりに大胆に歴史を改変しています。その大胆さを理解しえても、その苦悩に思いを馳せても、これでは誰にも日本の歴史は解明できないのかもしれません。≫



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