古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

吉備池廃寺跡を交点とする二直線 Ⅱ

2014年09月21日 14時56分02秒 | Weblog
箸墓-吉備池廃寺跡-山田寺跡-石舞台古墳-高市山
箸墓と高市山を結んだ線上に吉備池廃寺跡、山田寺跡、石舞台古墳がのっています。
箸墓-吉備池廃寺跡-山田寺跡-石舞台古墳-高市山はほぼ一直線上です。
箸墓を通常の位置でやった方が右側の線です。
箸墓のくびれの辺りを位置とした時の箸墓-高市山の線は左側です。
この二つの線の間に吉備池廃寺跡、山田寺跡、石舞台古墳は入っています。
要するに
B《箸墓-吉備池廃寺跡-山田寺跡-石舞台古墳-高市山》は一直線上にあります。
一応の計算はやっています。 今回は省略。








ところで
A 《元伊勢内宮-阿武山古墳-法起寺-吉備池廃寺跡-談山神社》
の直線とBの直線では際立った違いがあります
Bの直線は箸墓を除いて、すべて消えているものです。
吉備池廃寺は両方に共通するものですから別としましても、山田寺も跡ですし、石舞台古墳も、少なくとも元の形ではありません。
《元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出する。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。》ウィキペディア。

石舞台古墳の被葬者の遺体は天武天皇で改葬のために他の場所(天武・持統陵)に移された、と以前考えました。しかし、石舞台古墳は破壊された、と考えるべきではないでしょうか。
天武天皇は鸕野讃良(うののさらら・持統)との合葬を望んではいなかったのではないでしょうか。
高市山も名前だけになっていて、何もないのでしょうが、何か施設が創られようとしていたはずです。

ともあれ、吉備池にあった寺も山田寺も無くなっていますし、石舞台古墳も原型をとどめていません。

馬子崩626→+60→天武崩686
《稲目崩569→+100・669年中臣鎌足(藤原鎌足)崩》
《馬子崩626(推古34)→藤原不比等崩720(持統34)》

ところで、この直線は以前やっていました。
これに藤の木古墳と石上神宮を加えていました。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/b672831a142278b2d55312824fa0c20c
藤ノ木古墳-石上神宮-箸墓、石舞台古墳、高市山  2011年05月20日

石上神宮-高市山の線上に箸墓、石舞台がのっていることはみていました。
ただ吉備池廃寺跡には気づいていなかったようです。
この時は、なぜ箸墓を通るのかが疑問でした。
しかし、箸墓-高市山の直線が創られた後で、石上神宮はその直線を抑えるために創られたのではないでしょうか。
(石上神宮-高市山の直線も箸墓のくびれあたりを通っていました)

また⊿藤ノ木古墳-石上神宮-箸墓、石舞台古墳、高市山は直角三角形になります。
当然、吉備池廃寺跡、山田寺跡もそうなります。

しかし、石上神宮だけで藤の木古墳(文武・長屋王)と箸墓-高市山の直線を抑えるには足りない気がします。
どこかなにかあるだろうと伊勢神宮・内宮をみましたが、伊勢神宮・外宮のほうが良さそうです。
またBの直線は伊勢神宮・外宮-石上神宮とも直角になるようです。
藤の木古墳-石上神宮-伊勢神宮・外宮もほぼ一直線。
藤の木古墳-伊勢神宮・外宮の線は石上神宮のやや南、といっても石上神宮の敷地内だと思えます。
法隆寺・金堂、五重塔と伊勢神宮・外宮を結ぶと石上神宮の少し北側を通ります。









伊勢神宮・外宮は豊受大神宮で豊受大御神(とようけのおおみかみ)祀っています。卑弥呼・臺与(とよ)を思い起こさせます。
箸墓は卑弥呼・臺与(とよ)の墓ですし、天武天皇のおそらく皇后だった太田皇女は墓に葬られた後で、誕生のことが書かれています。(天智天皇が創られたことからそうなっています)
墓に葬られた後で13歳の臺与(とよ)が誕生したことになった「魏志倭人伝」と似たようなことが起きています。
(石舞台古墳が合葬だったらいいのですが、そうもいきませんか)

蘇我馬子と天武天皇は崩年から結び付けられています。
《馬子崩626→+60→天武崩686》
(しつこいですが、馬子には不比等も投影されています)
すると石舞台古墳の被葬者は天武天皇の可能性もあることになります。
現在、天武天皇は持統天皇と合葬されていることになっています。
しかし、天武天皇崩御の時に合葬が考えられるとすると、その時《鸕野讃良(うののさらら・持統)》は存命ですから、合葬も何もありませんが、合葬されるなら太田皇女が考えられたはずです。
天武天皇崩御時には次期天皇は大田皇女の子の大津皇子が考えられていたはずです。(太田皇女は。)

《六年春二月壬辰朔戊午、合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。》
天智6年(667)2月27日斉明天皇と間人皇女(天智・天武の妹で孝徳天皇皇后)合葬、この日大田皇女(天智皇女・大海人皇子(天武)の妃)を陵の前に葬った

大田皇女はいつ亡くなったのでしょうか。
斉明天皇は661年7月九州で崩御。
間人皇女は《天智天皇4年2月25日(665年3月16日)に薨去し、斉明天皇陵である越智岡上陵に合葬された。》ウィキペディア

大田皇女の亡くなったのが667年の2月ごろとされているようですが、奇妙に思えます。
斉明天皇と間人皇女が667年の2月に合葬された、と記述されているのですから、お二人はどこからか改葬され、墓がわざわざ新しく造られたようです。
大田皇女はその前の位置に墓が造られた、ことになっています。
しかし、本当に改葬されたのは大田皇女のほうではないでしょうか。
思い込みなんですが、大田皇女が改葬されたように思えます。

結局、吉備池廃寺跡にあった寺院が百済大寺かどうかはわかりません。
あんまり根拠のない想像ですが、後から百済大寺があったところとされたかもしれませんが、もともとは天武系のものだったのではないでしょうか。









ストリートビューで石舞台古墳のそばまで行けてビックリです。






順番が前後しています。






高校の修学旅行で石舞台古墳に行ったことは覚えています。
担任のA先生がこの巨石の先頭に登ってしまいました。











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