古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

仁徳天皇陵(允恭天皇陵・島の山古墳)-磐之媛命陵-伝飛鳥板蓋宮跡

2011年02月18日 10時55分10秒 | Weblog
磐之媛命陵が変更された理由 2011年02月03日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/77cdbe2e188e5ea810f40a1f95d6a40e
ここでは仁徳天皇陵・磐之媛命陵・箸墓をみました。
気がついてみれば、前方後円墳といわれるものを結びつけたのは初めてでした。
今回は箸墓の替わりに伝飛鳥板蓋宮跡にしています。
前回も写真はのせていますが、仁徳天皇陵(允恭天皇陵・島の山古墳)-磐之媛命陵-伝飛鳥板蓋宮跡になります。

(ここまで形がいいと「伝飛鳥板蓋宮」って何か、となりますが、・・・)
二等辺三角形が幾つも顕れます。
底辺を磐之媛命陵-伝飛鳥板蓋宮跡にして、頂点が仁徳天皇陵・允恭天皇陵・島の山古墳の二等辺三角形が三つできます。
そしておまけに、島の山古墳から磐之媛命陵、允恭陵、伝飛鳥板蓋宮跡までの距離はほぼ同じです。
ですから、島の山古墳-允恭天皇陵-(磐之媛命陵、伝飛鳥板蓋宮跡)も同じ二等辺三角形です。
その他に仁徳天皇陵-島の山古墳の直線は仁徳天皇陵の角度を二等分しているというか、磐之媛命陵-伝飛鳥板蓋宮跡の底辺に垂線となります。
ですから、二等辺三角形にはなりませんが、合同の三角形も出ています。
《仁徳天皇陵-允恭天皇陵-(磐之媛命陵・伝飛鳥板蓋宮跡)》
そこで、これらは意識されていた形だ、と考えます。
それは、例えば、仁徳天皇陵の形からもいえるのではないでしょうか。

後円墳の先の部分とか、後円墳の中央辺りとか、前方部と後円墳のくびれあたりを頂点として、二等辺三角形をつくると、前方部といわれるものの底辺の角度は、(書いてあったものを見たことはありましたが見当たらないので)写真で測ります。
およそ、75度、67.5度、60度となるのではないかと、考えられます。
そのときの頂点の角度は30度、45度、60度となります。
(空想が空想を呼びますがまとまりません)

仁徳天皇陵-磐之媛命陵-伝飛鳥板蓋宮跡
とりあえず簡便に
仁徳天皇陵→伝飛鳥板蓋宮跡
 ①108.125度 ②288.314度 ③32.18705km
伝飛鳥板蓋宮跡→磐之媛命陵
 ①356.227度 ②176.217度 ③25.46153km
仁徳天皇陵→磐之媛命陵
 ①61.9102度 ②242.089度 ③32.68022km

仁徳天皇陵での角度
 108.125-61.9102=46.2148度
伝飛鳥板蓋宮跡での角度
 356.227-288.314=67.913度
磐之媛命陵での角度
 242.089-176.217=65.872度

例の大和三山(畝傍・耳成・天香具山)の二等辺三角形ですよねぇ。
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