小さな自然、その他いろいろ

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昭和天皇陛下を偲ぶ

2012年01月08日 16時24分34秒 | 無題

美しい国からの転載です。

この記事は1月6日に書かれたもので、もう7日は過ぎてしまいましたが、掲載させて頂きました。

昭和天皇は、大東亜戦争に最後まで反対されておりましたが、当時の憲法下では、天皇は議会の決定には反対する権限が無かったのであり、立憲君主制でしたから、議会の決定に従い、開戦の詔を出されました。

戦争前も戦争中も、ほんとに国の平安を願われて、ずいぶん心配され、夜も眠れぬほどに悩まれたようです。

終戦の御聖断と言われているものは、本来天皇が議会に口をだすことはありえないこととされていましたが、究極の時であり、議長であった鈴木総理が、自分の一票を投じる代わりに、天皇にご決断を仰いだので、初めて天皇は発言する機会を得られました。

そして、自分の身はどうなっても良いから、日本国民になるべく多く生き残ってもらって国家を再建してもらうために、今ここで戦争を止めたいとおっしゃられました。

終戦後、昭和天皇は、皇室財産目録をもって、マッカーサーに会いに行かれました。そして、マッカーサーに対し、私は戦争に関して日本が行った政治的軍事的なあらゆる行動の全責任を負うものであり、絞首刑も辞さないと言われたそうです。そして、天皇の名で戦ったすべての国民を罪にせず、許して欲しいと言われたのです。

また皇室財産の全部を目録として差し出し、これで国民に食料を配給して欲しいとおっしゃられました。

世界の敗戦国の王が、戦勝国の司令官に会いに来る理由は、命乞いと、財産を守るためと相場が決まっていたので、そのような話だと思い込んでいたマッカーサーは、この昭和天皇の言葉に感激して、以来昭和天皇の安全を守るために力をつくすようになりました。またアメリカ政府に働きかけて、食糧援助をするように決定させました。

さらに戦後の長期に渡る日本全国の御巡幸は、非常な体力の消耗を覚悟しなくてはできないものですが、国民を励ましたいという思いで、無私の純粋な気持ちで無防備でずっと国中を回られました。

これによって、日本人は立ち上がる気力を奮い起こした人が多かったと聞きます。そして、亡くなられる最後まで、沖縄訪問が出来なかったことを残念に思われていたといいます。

まさに国民のために生きられた昭和天皇でした。

終戦時の御製四首

 爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

 身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて

 国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

 外国(とつくに)と離れ小島にのこる民のうえやすかれとただいのるなり


 


昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影





天皇陛下崩御



明日一月七日は昭和天皇祭です。
先帝陛下が崩御あそばされてから二十三年になります。
先帝陛下の御遺徳を偲び、皇室の彌榮を祈念します。




やすらけき世を祈りしもいまだならず
  
      くやしくもあるか きざしみゆれど
  
  
  
昭和六十三年に、「全國戦没者追悼式八月十五日」と題されて詠ませられた畏くも、昭和天皇陛下の御製です。
陛下最晩年の御製であり、公に発表された御製でこの後に詠まれた御歌は二首のみです。
畏くも、昭和天皇陛下のお嘆きの深さを痛感致します。
ご病状も進み、那須の御用邸でご療養中であられたにもかかはらず、八月十五日の『全國戦没者追悼式』にヘリコプターで移動あそばされ、御親覧あそばされたのであります。
畏くも、昭和天皇陛下はそれほどまでに戦没者に対する慰霊と感謝の思いをお持ちになっておられたのであります。有難き限りであります。
 
畏くも、昭和天皇陛下はこの2年前に、
 
この年のこの日にもまた靖國の
  
       みやしろのことにうれひはふかし
 
と詠まれあそばされ、必死の力をふりしぼり全國戦没者追悼式の壇上にのぼられたのであられました。
六十三年間もご在位になり、この全く異例の恐れ多い最後の國事に対しての御製になったことは臣下として全く申しわけなく思います。
出雲井晶さんは、「『やすらけき…』を拝誦しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。…國民みなが思し召しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状況は次第に消えましょう。
わが國の本当の姿である『明き清き誠の心』がみなにあらわれ、わが國は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵いただける日のくることを祈らずにはおられません。」(『昭和天皇』)と書かれています。
 
 
國父の大御心、臣民知らず、最も恥ずべきことであります。
國家のことに一身に背負われるのは、行政の長、内閣総理大臣でも、政治家でもありません。肇國以来、天皇陛下ただお一人なのです。
 
 
先帝陛下の御製、
やすらけき世を祈りしもいまだならず
  
      くやしくもあるか きざしみゆれど
  
 

心ある臣民の皆様には、今一度熟考いただきたい。

昭和のカラー映像 15 of 15
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
尊 彌榮 彌榮 彌榮
  
  
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
 

天皇陛下、皇后陛下 万歳! 万歳! 万歳!





転載元 転載元: 美しい国

 

 


広島原爆碑、碑文へのスプレーに思う

2012年01月08日 14時55分52秒 | 現代日本

 
イメージ 1
  
4 日午前0時50分ごろ、広島市中区の平和記念公園にある原爆慰霊碑に金色の塗料が吹き付けられているのを警備員が見つけ、広島中央署に通報した。同署が器 物損壊容疑で捜査している。署によると、慰霊碑正面の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた文字のうち、「過ちは繰返しませぬか ら」の部分に吹き付けられていた。公園に設置された警報装置が作動したため、警備員が駆けつけて発見した。 警備員によると、監視カメラの映像に、手提げ袋からスプレー缶を取り出し、袋のようなものをかぶって塗料を吹き付ける白髪の男が映っていたという。(2012.1.4 朝日新聞) 
・・・・・ 
 
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。 
この広島の慰霊碑の碑文によって過去には多くの論争や碑文に傷をつけることが起きていました。 
左翼作家の大江健三郎は「原爆投下は日本の戦争に究極の責任があり、日本人が人類に対する罪を犯した報いだ」と言い、「中国などにとっては原爆は救世主だった」とも言いました。 
原爆を投下したアメリカの罪を日本になすりつけてチャイナを擁護するとは、さすが現地にも行かずに『沖縄ノート』を書いたデタラメ男であります。 
 
昭和27年、この碑文は被爆者でもある広島大の雑賀忠義(さいかただよし)氏が浜井信三広島市長の依頼で作ったものです。 しかし、この主語はアメリカだ、という意見が出ると「碑文はすべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である」と説明文をつくったのです。
 
さらにインドのパール博士(東京裁判の判事)が広島の慰霊碑を訪れて、この刻まれた文字を見た時こう言いました。「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手はまだ清められていない」。
すると雑賀は「誰それが悪いという次元の考えで、これからの人類が一体となって恒久平和の実現ができようか」と言ったのです。雑賀は「アメリカが悪い」という意見に、どうしても「日本も悪い」と言って譲らなかったといいます。
 
しかし左翼がいくら「過ち」の主語を「全ての人」「人類」と誤魔化して言っても絵空事でしかないのです。
まず、「過ち」とは何か?です。
これは説明文ではいつの間にか「戦争」にすり替えられていますが、この碑文が広島原爆慰霊碑にあるということはこの「過ち」は「原爆を落とした」ことであるのは明らかです。
この「原爆を落とした」のはアメリカであり、「原爆犠牲者」は多くの日本人であります。
 
しかし、左翼は戦争をしていた日本も悪いのだから「原爆犠牲者」となった、つまり日本が悪いから日本人が犠牲になったということです。そして、「過ちを繰り返さない」というのは「過ち」イコール「原爆」を落とすようなことは繰り返さない、つまり核兵器廃絶、反戦を言っているのです。
 
西村眞悟氏の時事通信「原爆の投下と広島の石にある「文句」 No.360」平成2085日には、
「原爆投下の直後、広島に入った部隊があった。その部隊の兵士は、おびただしい被災者の死骸と生きているが道ばたにうずくまっている人々の群れをみる。そのうずくまっている人々は、彼にこう言った。「兵隊さん、敵(かたき)をとってください、敵をとってください」 敵をとって欲しい、これは被爆者の自然の願いであった。この事実に目をつぶって追悼はない」とあります。
原爆直後の被爆者の気持ちは「敵をとって欲しい」であったのです。これは敵国アメリカと戦っていたのですから当然でありましょう。戦っている最中に敵国の爆弾にやられて「日本が悪かった」と言いながら亡くなっていった人はほとんどいないでしょう。
それがいつの間にか原爆「被害者」が日本の戦争の「犠牲者」にされてしまったのです。
これでは原爆で亡くなられた方々は浮かばれない。しかも左翼に利用された平和式典の「核廃絶」などにはお怒りなのではないか。
 
しかも現実の世界はそんなに甘くないのはご存じのとおりです。
核廃絶を訴えても年々核保有国が増え続けており、一旦核を持ってしまえばどこの国も核を手放しません。核を持てば核を撃ち込まれる危険が減るからです。
 
広島というと広島県民全員が核廃絶を訴えているイメージを植え付けられていますが、これも沖縄と同じトリックなのです。広島の被爆者二世の方々には「被爆国だからこそ核を持つべき」という考えも増えており、
同胞よ、厳しい現実から目をそらすなかれ。夢の言葉は今は要らない。祖国の平和と、自由と繁栄のために何をなすべきかを深く思考せよ。三度目の核の惨禍を防ぐ手段を備えよ」と訴えています。
 これではテレビ等でやっている広島とは違うではないか、と思いますが、毎年行われている広島の平和式典も実際には全国から日教組の家族などの左翼が集まって来て、地元の被爆者はほとんどいない、と86日に広島に行った田母神さんが言っておりました(過去記事1過去記事2過去記事3)。
 
そして今、福島第一原発が爆発した時に「バンザイ」をした連中が、
福島を、沖縄、広島のような左翼集結の場所にしようと虎視眈々としているのではないか。
脱原発、核兵器廃絶、そして反戦のために広島原爆ドームのように福島原発の廃炉を利用し、福島の事故も「過ちを繰り返しません」とやるのだろうか・・・
 
・・・・・・
   
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 

この碑文を傷つける事件は過去に何回かありました。とくに印象に残っているのは、「過ちは決して繰り返しませんから」のあとに、トルーマンと書いた札を貼ったというものです。当時、このニュースに、心中密かによくやったと思った人はかなりいたのではないかと思います。

この碑文は明らかに日本が悪いと言っているのは明白です。日本人が亡くなった被害者に呼びかけているのですから、過ちは繰り返さないのは、日本人であり、従って過ちを犯したのは日本人だと言っているのです。

雑賀は人類だとか曖昧なことを言っていますが、人類が過ちを繰り返さないと決意するのは、そういう合意ができるわけもないから無理です。これは憲法9条を意識した上での日本人の決意を言っているのでしょう。

これは、言い換えれば、被害者も同じ日本人であり、被害者もまた悪かったから原爆を落とされたといっているのと同じです。

原爆を落としたアメリカではなく、なぜ日本人が原爆を落とされたことを自分の過ちといわねばならないのか。

あの戦争がルーズベルトによって巧みに仕掛けられたものであることは、今ではわかっています。そして日本は出来る限り日米戦争を避けようと努力したものの、最後はむしろ生き残りをかけて自衛のために戦ったと言えます。

さらに、戦うからには、白人のアジア侵略を目の当たりに見て、なんとかアジアを救いたいと思っていた気持ちを旗印に打ち出したのは、幕末から列強のやり方を見ていた日本人の憤りがあったからだと思います。

侵略者は欧米の方にこそ当てはまる言葉です。

東京裁判で、勝者が敗者を裁く復讐裁判をしたのは、一時的にせよ白人種を駆逐した有色人種の日本を生意気だと感じ、さらには将来への脅威を除いて、徹底的に潰しておこうと思ったからでしょう。

大江健三郎は原爆は中国にとって救世主だと言ったそうです。当時満州族が建国した清が革命で終わった後に、その後継として満洲民族を中心にして、日本は満洲国を建国しますが、満州族は漢民族ではありません。

満州族が満州に建国すること、それを日本が支援するのは、別に侵略ではなかったのです。満州帝国は中国大陸で唯一の近代国家として、経済的にも発展し、治安も良かったので、中国人も多く流入してくるほどでした。

今 でこそ、中国は中国人という一つの人種のようなイメージもありますが、当時は、軍閥が割拠して、横暴なことをしたりして、民衆はけっこう迷惑していたので す。まるで日本に対して一致団結して抵抗していたかのように言われますが、日本側につくものもいたりして、それぞれバラバラでした。ただソ連やアメリカの 工作が効いて、蒋介石も日本を敵とするようになり、泥沼化したのです。満州国は独立国として、普通の国でした。日本が支援したので、日本の保護国のような 関係でしたが、満州族にとっては、大切な祖国だったはずです。日本が敗戦したことで、崩壊し、満州族は共産中国では少数民族となりました。これはチベッ ト、ウイグル、と同じく、中国に飲み込まれて、国を失った悲劇だと思います。

東 京裁判でただ一人、日本の無罪を主張して、最後まで譲らなかったインドのパール判事は、1952年、ひとり広島を訪れ、原爆慰霊碑の前に立ちました。「安 らかにお眠りください。過ちは繰り返しませんから」と書かれた碑文の意味を教えられて、痛憤の思いを抑えることができませんでした。

「過ちを犯した者は、日本であったのか?自ら身を棄てて、アジアを救おうとした日本であったのか?」――

その夜、ホテルの部屋で、一人筆をとって、書いたいっぺんの短詩があります。彼はこの詩の中で、大東亜戦争の忘れ去られた真実の意義を明らかにし、日本の戦いに寄せるアジア諸民族の感謝と祈りとを歌おうとしたのです。

 激しく動き移ろう歴史の流れ、その中に
 ひとすじの道につらなるあまたの人々は
 万こくの思いを胸に死にゆけり。
 さりながら
 あめつち深く  うがたれし
 悲願は消えず。
 抑圧されしアジアを解き放たん
 その厳かなる訴えに
 命ささげし魂に幸あれ。
 あわれ  真理よ!
 汝は  わが心のうちにこそ在るものを。

 その啓示に従いて  われは進まん。